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ARCH 15

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇五年六月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




遠ざかった、と呼ぶべきことだろうか、これは



 久しぶりに聴いたポリーニのショパン。
 これが、よかった。
 グラモフォンの『4つのバラード、前奏曲25番、幻想曲』。録音は一九九九年四月、ミュンヘン。

 ショパンのバラードには、生死をかけた私個人の愛のドラマが纏わりついている。
 いかにも大げさに、滑稽に響くのを承知で、このようにあえて言う。
 一九九九年にはすべてが終っていた。
 私は静かな、なるべくなら温雅な死を遂げるべく、身辺整理を行っていた。

 マウリツィオ・ポリーニは、周知のように、ショパン演奏で世に出た。一九六〇年、第6回ショパンコンクールで優勝。その直後の協奏曲第1番、第2番の録音。研鑽期間の十年を経て、一九七二年、練習曲集作品10と25の録音でグラモフォンデビュー。七四年に有名な前奏曲作品28、七五年にポロネーズ集第1番から第7番の録音。
 これらによってショパン演奏史に画期的な展開をもたらした後、彼はしかし、ショパンの録音から遠ざかることになる。ピアノソナタ第2番と第3番録音の発表は八四年を待たねばならず、スケルツオ全曲他の録音は九十年。
 そして九九年、『4つのバラード、前奏曲25番、幻想曲』録音。
 だが、遠ざかった、と呼ぶべきことだろうか、これは。

 その愛の終焉の頃、とくに好んでいたのはベートーベンのピアノソナタ。
 ゲルバーのものはすべて買い揃えた。
 シュヌアーによる第28番、第29番「ハンマークラヴィーア」は絶品で、どこへ行くにもCDプレーヤーとヘッドホンを持って出て、こればかり聴いていた。
 ネイガウスのショパンも愛した。『スタニスラフ・ネイガウス・エディション@』に収められた、最後のリサイタルでのバラード第1番から第4番と、子守歌、舟歌。
 ネイガウスのショパンを聴いたことで、それまで好きだったツィンマーマンの、輪郭の太いショパン演奏から離れた。
 水際立った、というのか、水も滴るような、というのか。
 そう呼んで余りあるショパンを聴くのは、初めてだった。たぶん、これを超えるショパンは今後もない。
 ありえない。
 ポリーニの『4つのバラード、前奏曲25番、幻想曲』は、まだ出ていなかった。

 ともに激越な愛の崩壊を生きた相手は、ショパン弾きだった。ピアニストになろうとしていた。
 ついにソリストにはなり得ないという現実に直面していて、それが彼女のバランスを狂わせ始めていた。
 彼女の最後の演奏は、初台の東京オペラシティーで聴いた。
 数ヶ月かかってショパンの幻想曲演奏を完成させようとしていたが、うまくいかず、直前になってバラードの第1番に替えた。
 バラード第1番なら五年も前に通過していたはずだし、私にしても、その演奏を聴くことから、彼女の官能的なショパン演奏に付きあい始めたのだった。
 音楽環境と才能とに恵まれて一途に走ってきた彼女が、もう一度、初心に戻るつもりでのバラード第1番だった。
 冒頭のラルゴの序奏で、彼女は躓いた。
 指は止まり、始まったばかりの音楽は中断。
 思わず息を呑んだ。
 しかし、それからは、見事だった。
 何事もなかったように、というのではない。
 躓きをしっかりと受けとめて、一呼吸整え、はじめから弾き始めた。
 ひとたび躓いた者が為しうる、最良のかたちで。
 演奏はその後、躓くことなく進んだ。これまで彼女の指から生まれたことのない、バラード第1番の新しい解釈だった。

 これが、彼女の最後の演奏となる。

 演奏会の後の小さなパーティーで、私は婚約者として、彼女のピアノの師に紹介された。
 話は彼女の演奏に及んだ。ポリーニの親友である彼は、動じることなく彼女が再開したことを評価した。
 彼女の父とはじめて屈託なく話が出来たのもこの時なら、彼女の友人たちに紹介されたのもこの時だった。
 彼女とのあいだには、このシーンの記憶を以て終わるものがある。
 この後にも、いくつもの、終わり。
 おそらく、三年ちかく、終わりの波はくりかえし打ち寄せ続けた。

 五年も経った頃、かかってくる電話。
 三年ほどのあいだ憎み抜いて、相手の不幸を望んだことを、私は言わない。
 憎悪ばかりか、心というものがまるごと終わってしまっていたから。

 彼女はもう、弾かない。
 私は、まだ書いている。
 あの頃までの人生の内実だったもの、あの頃までの人生と文学の夢、みんな遠ざかってしまったというのに。

 だが、遠ざかった、と呼ぶべきことだろうか、これは。
 まだ、書いている。







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