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駿河 昌樹 文葉 二〇〇五年十一月
トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。
ここがどこかになっていく
谷川俊太郎『女に』について
詩集『女に』では、男女がなんらかの曖昧さの経験の共有へと到る場合がなんども描かれていて、それがいわば、至上の愛として考えられている。
次の作品の二行目などには、もっとも顕著に見てとれよう。
迷子
私が迷子になったらあなたが手をひいてくれる
あなたが迷子になったら私も地図を捨てる
私が気取ったらあなたが笑いとばしてくれる
あなたが老眼鏡を忘れたら私のを貸してあげる
そして私は目をつむり頭をあなたの膝にあずける
(『女に』、マガジンハウス、一九九一年)
あなたが迷子になったら私が導いてあげる、となら、だれでも言える。だが、自分の地図を捨てていっしょに迷子になる、とまでは、なかなか言えないことだ。相手の状態に入っていき、それをともに生きようというわけで、このためには、いわゆる処世上の成功も便利さも、自分に備わっている知や能力も犠牲にする。一般に「純愛」という言葉で想像されがちな様々な定義や振る舞いを、たった一行で、谷川俊太郎は軽々と超えてしまっているのだ。
これは実は、高度成長期の日本で詩人になっていった彼の基本姿勢でもあった。ほぼ半世紀を通じて、現代日本で最も親しまれる詩人であり続けてきた彼は、自分の「地図」をかたくなに保ちながら日本のポエジーを導いてきたわけではない。自分の「地図を捨て」て、ともに迷子になるのに徹したところに、現代詩の最前線に位置しつつポピュラーでもあり続けるという奇跡が可能になったのである。
曖昧さの経験は谷川俊太郎においては称揚されるべき価値であり、そうしたものへの方向性は、彼の詩作や活動をつねづね特徴あるものにしてきた。それは、
私の脳細胞は恍惚として目覚めるだろう
知性の遠く及ばぬものに
(『恍惚』)
のようにはっきりと表明される場合もあれば、
誰も名づけることは出来ない
あなたの名はあなた
(『名』)
何ももたずに私はあなたとぼんやりしにいく
(『川』)
などのように、どこかに、知的な認識を外れるポイントを組み込むことによってなされる場合もある。
この世界の外ならどこへでも
(『パリの憂鬱』)
というボードレールのテーゼへの、二十世紀的応答ともいえる『ここ』という詩などでは、
どっかに行こうと私が言う
どこ行こうかとあなたが言う
ここもいいなと私が言う
ここでもいいねとあなたが言う
言ってるうちに日が暮れて
ここがどこかになっていく
と書かれることによって、「ここ」を「どこか」にしてしまうという魔術を実現してみせた。
散文詩におけるボードレールの展開をボードレール革命と呼ぶならば(バーバラ・ジョンソン)、谷川俊太郎の『ここ』が革命でないはずがない。「ここもいいな」とは言えなかったボードレール的な詩法は、谷川のこの肩肘張らぬ詩法の前に完全瓦解を遂げているのである。
純愛はもともと、満足して「ここ」に留まることに終始する。たいていの場合、「ここ」にあるのは知り尽くされた現実なのだが、「ここがどこかになっていく」時、居ながらにして未知の曖昧境が広がる。軽々と披露される谷川俊太郎の「純愛」革命には、まったく気負いがない。何気なく、ポンとそこにある。
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