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ARCH 20

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇六年三月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




春の袖



 いまでもお正月のことを「新春」などと呼びますが、陰暦を用いていた江戸時代の終わりまでは、年が明けると、それがそのまま、春を迎えるということでした。ずいぶん気のはやいことを、などと思わされますが、現在の一月の終わり頃が、だいたいは、陰暦の元日にあたっています。寒さの底に、たしかに、春の清冽さが感じられてくる頃で、春の走り≠フ、いちばん新鮮なところといえるかもしれません。
 天保三年の正月、まさに、そうした新春のめでたさと、新鮮な浮き立った雰囲気を当て込んで売り出されたのが、為永(ためなが)春(しゅん)水(すい)の『春色梅兒與(しゅんしょくうめごよ)美(み)(梅暦)』でした。読みはじめた読者たちは、すぐにヒロインの、こんな着物姿に出会うことになったはずです。
「上田(うえだ)太織(ふとり)の鼠の棒(ぼう)縞(じま)、黒の小柳に紫の、やままゆじまの縮緬(ちりめん)を鯨帯(くじらおび)とし、下着はお納戸(なんど)の中型(ちゅうがた)縮(ちり)めん、おこそ頭巾(ずきん)を手に持(もち)て、みだれし鬢(びん)の嶋(しま)田(だ)髷(わげ)、素顔自慢か寝起きの儘(まま)か、つくろはねども美しき、花の笑顔に愁(うれい)の目元、(……)」(日本古典文学大系64、岩波書店刊)
 当時の流行の装いをした芸者の米八が、かつて馴染んだ主人公、色男の代名詞とまでいわれた丹次郎のもとを訪ねる名場面です。江戸の読者ならずとも、思わず引き込まれてしまうような周到な書き込みで、このまま着付けてみれば、たちまち米八の風姿を再現できそう。作中の季節はといえば、じつは初冬なのですが、天保三年の恋愛物語好きの読者たちは、まさにこの年、米八のこの着物姿とともに新春を迎えたのでした。米八が鯨帯に用いた「やままゆじまの縮緬(ちりめん)」の紫は、年明けの初めての花のように、早春の江戸の読者たちの心に、印象つよく咲き出たのではないでしょうか。
 衣類の色あざやかな紫、ということでは、日本の古典のなかに他にも例があります。平安時代、百人一首でも有名な赤染衛門が、春の訪れを告げる、こんな紫の歌を作っています。

    紫の袖をつらねて来たるかな春立つことはこれぞうれしき   (赤(あか)染(ぞめ)衛門(えもん))

 陰暦正月のはじめ、摂関家での饗宴に、紫色の袖をつらねて大臣以下の公卿たちが集まってきている光景です。春になってうれしいのは、ほんとうにこれね、一堂に会した貴顕の方々の紫の袖が、なんとまあ、春にふさわしく華やいで。赤染衛門の、こんな浮き立つような心持ちが、そのまま伝わってくるようではありませんか。
 この時代には、上達部(かんだちめ)と呼ばれていた大臣や大納言、中納言、参議、その他の三位以上の公卿たちは、、盛儀の際、紫色の袍(ほう)を着用することになっていました。この歌は、藤原道長の妻倫子(りんし)に仕えていた赤染衛門が、倫子七十の賀の屏風に描かれた饗宴図を見て詠んだもので、現実の光景を目のあたりにして作られたわけではありません。けれども、年が明けてのはじめての寿ぎの饗宴に、紫色の袍の彩りがずらっと居並ぶさまは、梅もまだ咲きそろわぬ時期、まことに年初の花ともいうべき光景だったのでしょう。いつの季節にも、その季節ごとの華やぎをつよく求めた平安の人々には、新春をひらく花として共有されていたイメージだったはずです。
 春を告げる袖、しかも、心の澄んだ喜びを率直に伝えてきてくれるような歌といえば、やはり思い出されるのが、『古今集』の春歌のふたつ目を飾る、紀貫之(きのつらゆき)の歌。

    袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ   (紀貫之(きのつらゆき))

 袖を濡らすのもいとわず、夏、手で掬って、冷たさを楽しんだ山の清水。冬に入って凍ってしまっていたそれを、立春の今日、風が解かしていることだろうよ、といった歌意ですが、藤原(ふじわらの)俊(しゅん)成(ぜい)が『古来風躰抄(こらいふうていしょう)』で「心も詞(ことば)もめでたく聞(きこ)ゆる歌なり」と評したのを思い出すまでもなく、まことに優艶にして流麗、奇跡的なまでの名歌です。
 夏から冬、そして新しい春を迎えるまでの季節の一巡のさまが、水が凍って、ふたたび解けるまでの一連のイメージで、みごとに切れ目なしに表現されています。「袖」、つまり、着物に関わりのある掛詞(「掬び」と「結び」、「春」と「張る」、「立つ」と「裁つ」)や、縁語(「結ぶ」、「張る」、「裁つ」、「解く」)を駆使することで、しっかりと歌の生地が織り上げられているのにも、感嘆させられるばかりです。
 ひとたび立春を迎えてしまえば、春の進みははやくなるばかり。「水の辺に梅の花咲けるを詠める」という詞書のある伊勢(いせ)の歌の時期も、もう間近です。

    春ごとに流るる川を花と見て折られぬ水に袖や濡れなん      (伊勢(いせ))

 川に映る梅の花枝を折りとろうとして濡らす袖の彩りも、つぶさに思い描こうとしてみれば、やはり、ただならぬ繊細な美しさを湛えて、いまに蘇ってくるようです。




*この文章は、『美しいキモノ』二〇〇六年春号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの【短歌編】」として掲載された。

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