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ARCH 19

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇六年三月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




○○女史とポルノサイト
                          スゥイフト先生に捧げる



 知りあいというほどでさえないが、職場でたまに顔をあわせる中高年女性と、たまたま面と向かってソファに座ってしまう。そういうことは間々あるわけで、今回も、それ。事情は、わざわざ説明するほど大事なことではないから省略するが、仕方なしに、どうでもいいような話をするはめになったわけである。
「このあいだ、ネットで検索してて、うっかりしてポルノサイトに入っちゃったのよ」と○○女史。
「ほォ」と私。
 うっかりなのかどうか、そんな詮索もくだらないわけで、この点も詳述しない。人間は所詮、性欲と好奇心の上に他の欲という毛が生えた程度のものである。フロイト先生に言われるまでもない。先を急ごう。
「どうして、ああいうひどいのがあるのかしらねぇ。人間の醜いところが、もう、凝縮したようになって、チカチカして…」
 まったく、男っていうのは、といったステレオタイプの表現が、このセリフの前後に○○女史の口から飛び出したような気もするが、それに注目しても、行き着くところは決っていて面白くないので、ここでは取り上げない。
 もちろん、いま引いた○○女史のセリフが面白かったわけでもない。インターネット内に百花繚乱に咲き乱れるポルノサイトを「ああいうひどいの」と形容し、それでもまだ足りないかのごとくに「人間の醜いところが、もう、凝縮したようになって」と言い加える。「チカチカして…」と付け加えているところがご愛嬌で、それなりの臨場感を伝えようとしていて、女史≠ニでも呼んでおくほかない年齢と、凄味と、煮ても焼いても食えないような魅力の削ぎ落としの交ぜこぜになった御仁にしては、まァ、可愛らしいけなげな努力ともいえる。
 で、○○女史との情景は、ここで終わり。他にも多少の会話は交わされたが、日々、世界のいたるところで繰り返されているように、思い出すべきほどのことはない。はじけるようなシャレたセリフも飛び交わず、ふいに生と存在の深みに引き込まれるような啓示にも遠く、うまくもない紙コップの茶を啜り終わるまでの、ありふれた声帯の摩擦音のやりとり。
 ここから長々とレトリックに心を砕きながら本論に入っていくムダも、さっぱりと省きたい。そういう文章がお好みの向きには、書店の評論コーナーでご随意にどうぞ。文芸評論だの哲学だのは、ことのほか、お勧めである。デリダなんていう哲学者の文章はトンデモ本の最たるもので、なにひとつ本論に入らぬままに一定のページ数を消費して、しっかり原稿料に結びつける才能の燦然タルコト、まことに目も眩むばかり。まるで、ねちねちと前戯ばかりで果てさせるようで、なるほどフィロ(愛する)ソフィー(智≠ナはなくって、ソフィーという女の子の名として読み替えたっていい)とはよく言ったものだ。ベストセラーになった子供向けの哲学の本が、なぜ『ソフィーの世界』だったか、やっぱり、裏にはけっこうロリな事情があるわけなのである。
 さて、私の言いたいのは、こういうこと。○○女史がどんなポルノサイトを見たのか知らないが、ポルノサイトの側からすれば、「どうして、ああいうひどいのがあるのかしらねぇ。人間の醜いところが、もう、凝縮したようになって、チカチカして…」などと言われる筋合いは全くない、ということだ。
 もちろん、私がとりたててポルノサイトの側に立つ必要はない。そういう副業には就いておりませんですから、ハイ。でも、あんな○○女史に言われちゃってはねェ、と思うのだ。女史が使用した侮蔑表現としては、「ひどい」と「人間の醜いところ」ぐらいのもので、まあ、穏やかなものだとはいえるが、ともかくも、このふたつの表現を基準にして、たわむれに、ポルノサイトと○○女史の身体のありようとを比較してみると(私はいつも、誰を見ても、こういう頭の働かせ方を自ずとしてしまうタイプではある)、私としてはどうしても、「ひどい」と「人間の醜いところ」は○○女史のほうに、より多量に含有されていると結論せざるをえないように思う。ほんと、正直なところ。
 いったい○○女史は、ポルノサイトのなにを「ひどい」と感じ、なにを「人間の醜いところ」と見なしたのか。率直に言って、ネット上という一応のヒトマエで、裸体ばかりか膣だの肛門だのを晒し、男性のペニスを挿入されているところを晒し、内部に射精された後の精液の流出風景を晒し、あるいは腹上射精後のねっとりした白濁の沼の数々を晒し、あるいはまたまた(とくに韻を踏んで楽しもうとしているわけではない)、ペニスを咥えて、こってりとフェラチオに励むさまを動画で晒し、一人ばかりか、二人、三人、四人のペニスを一括して請け負って、口も膣も肛門も手も同時に用いながら、見事、それなりにコトをこなしていくけなげさの果てに、最後には四本のペニスから噴出した精液をふんだんに顔面に浴びせかけられて呆然とするさまを晒すかと思えば、場合によってはスカトロ趣味の男たちの顔に自らの糞尿を惜しげもなく注いだり、という、たいていは若い女たちのあの姿、あれを「ひどい」と言い、「人間の醜いところ」と見なしたに過ぎないのではないか。
 あれらのどこがひどいのか、と私は思う。
 いぶかる。
 疑う。
 怪しむ。
 女たちだけが晒し者にされているではないか、だから「ひどい」、というのなら、理屈としてはわかる。しかし、男たちだって、お見事に丸裸で、尻の穴も睾丸袋も晒し切って、ユッサユッサとコトに励んでいたりする。だいたい、見ようによっては滑稽この上ない、あの彼らの勃起姿をとくと見てみたまえ。
 となると、なにが「ひどい」のか、「人間の醜いところ」なのか。
 性行為がか? 裸体、ことに膣やペニスの露呈がか? 体液の流れ出る瞬間がか? 社会的日常性を維持するための理性が、神経の震えのために途切れる瞬間の顔や肉体の露呈がか?
 いうまでもなく、これらのどれもが、いわゆる健全なる「家庭」での日常茶飯事を構成している要素である。「家庭」とはなにか。男女が一緒に住んで、はじめて構成される「家庭」とは、なんであるか。
 セックスの場所に過ぎないじゃないか。
 衣食住というが、この三つだけならば、どれを満たすにも、「家庭」は不要である。たんに、家が、部屋があればいい。
 あえて「家庭」と呼ぶ時、そこには必ずや繁殖行為がなければならない。いろいろな理由から繁殖を行わない♂個体と♀個体がある場合にも、そこには必ず性行為がある。性行為とはなにか。性器刺激によって、体液の滲出や放出を目的とする行為のことだ(もちろん、それ以外のさまざまな心身効果を無視するわけではない。念のため)。
 で、それらはいけないことなのか。
 私はどこまでも言い募りたい。
 それらはいけないことなのか。
 「ひどい」のか。
 「人間の醜いところ」なのか。
 (いいか、私は、けっこうクドイぞ)。
 ポルノサイトに苦い顔をした○○女史が、個人としては、自らの名誉ある処女を五十歳を越えてまで守り通し、一度も性器刺激を他人から(自らなさったかどうかまでは問わない)受けたことがなく、したがって、それに由来する体液滲出を経験したことがないのだとしても(仮の話である。人は見かけによらない)、○○女史が一個の生体として存在なさっている以上、○○女史の御尊父と御母堂は、まァ、それなりに励まれたというわけなのである。
 いいじゃないの。
 おふたりとも、しっかりと互いの性器の摺り合わせをなさり、御尊父はしっかりと御母堂の大いなる隠し処の洞穴に、ソノ、中出し≠ニかいうやつを、マァ、なさったわけである。
 めでたい。
 よかったねェ。
 で、○○女史のご降臨と相成ってくるわけだ。
 もちろん、「げにや安楽世界より。今この娑婆に示現して」(謡曲『田村』及び近松門左衛門『曽根崎心中』)という見方をすれば、この世に生まれてくるのは、観世音なみにご苦労サンということになり、おめでたいばかりでもないンヨ、という見方も成り立つが、まァ、いいでしょ。一般論として、生誕は寿ぐべきことと見なされているんだから。
 卑怯なようだが、私としては、もちろん、最初から結論は出ている。ポルノサイトが「ひどい」わけはなく、「人間の醜いところ」であるわけもない。むしろ、人間の至上の行為の目くるめく集大成の場所である、という結論だ。
 もちろん、若干の批判は受け入れよう。いわく、金が絡んでいるのはよくない。ごもっとも。せっかくの楽しみであるセックスを、金がらみにするな(月額何千円で見放題、とかいうアレである)。反論の余地ない正論である。セックスの純粋さを守れ、貫け、ということになるか。
 また、いわく、人間の活動がアレだけに限られては困る、云々。これまた、ごもっとも。しかし、人間としての活動を、読書だとか、蓄財だとか、監視だとか、権力欲の満足だとか、そういうことに限定している連中にだって、同じ批判は向けなければなるまい。偏らないで、いろいろなことに目を向けるんですヨ、世界は驚異に満ちているんですから、ということにでもなろうか。なんだか、小学校の先生が言いそうなことだが。
 なかにはこんな批判もあるかもしれない。ここでは、人間の羞恥心への考察がなされていない。羞恥心というものを甘く見てはならない。他人の陰部や性行為を見たくない、という意味での羞恥心を、しっかりと受け止めるべきである、と。
 私個人は、他人の陰部や性行為を見るのは大好きで、(むろん、「好き」と「実行」の間には深い谷間があるので、警察関係の方々は、私に関しては、あまり活躍の機会到来を期待なさらないほうがよろしい。せいぜい温泉の男湯の中で、湯船に入ってくる他人のタマタマの揺れをしげしげと見やる程度のことである。アレが、まァ、じつに愉快な光景なのサ)、こういう批判の存在自体がよくわからないのだが、仮にこういう意味での羞恥心があったとした場合、見てしまった者が受ける衝撃、不快感や嫌悪感が、本当はどのようなものであるのか、これは非常に興味深いテーマであるとは思う。
 もちろん、私は、そうした羞恥心の存続を是とする側には立っていない。完膚なきまでにこれを破壊して、人類をさらに即物的な動物に解放していこうという強烈な衝動に私は突き動かされてきたし、それは今後も激化するばかりだと感じる。人間観において、わが価値観とまったく相容れないようなケチくさい時代と場所にしかたなく私は生きているのであり、サドだの、パゾリーニだの、フェリーニだの、バタイユだの、稲垣足穂先生だのといった若干の同志(といっても、けっこう多いかも…)を除いては、心を通わせる存在は皆無、と言っていいぐらいなのだが、まァ、せいぜい頑張って、取り澄ました虚飾家どもと戦いを続けていきますですヨ。
 とにかくも、○○女史よ、「ひどい」上に「人間の醜いところが、もう、凝縮したようになって」いるのは、他ならぬあなたのほうですゾ。
 言っておくが、女にだって加齢臭がある。それに加えて、乾きかけの鰯のような肌、否応なく歯周病の進行していく歯茎と、ものが沁みるばかりの歯のあいだに食べカスなんぞをいっぱい詰まらせて、顔の毛穴はところどころ大きく広がり、黒く脂肪の貯まっているところも増えて、そうして、そろそろショボついてきた眼、パサパサの髪の毛、……
 いやいや、老いていく肉体を私は批判したいわけではないのだ。○○女史よ、あなたの態度とモノの見方、それがかえってあなたをわびしく、醜くする、と言いたいだけ。からだの器官を楽しむ者たちを祝福しておきなさいナ。というのも、からだは否応もなく衰えていく定めなのだから。ポルノサイトでいま、激しく腰を動かして喘いでいる肉体たちの、あの輝きも、肌の張りも、三十年もすればひとつも残ってはいまいから。たった一体の例外もないのだ。全員が全員、みごとに時期を過ぎた干し肉のようになっていくばかりなのだから。それだから、○○女史よ、いま、輝くあれらの肌、美しく濡れる膣、隆々とそそり立つペニスたちを祝福なさいナ。生き生きとしたからだのあるうちに、からだを愉しめ、と励ましてやろうではないですか。そうして、おお、愛すべき膣たちよ、一本ではなく、何本ものペニスを知るように!
 おお、ペニスたちよ、無数の膣たちを知るために勇敢に旅に出よ! 浪費される精液に祝福あれ! 注ぎ込まれ、逆流して漏れ出てくる精液に祝福を! 美とは、これらのこと。善とは、これらのこと。神も、これを祝福してやまない。その証拠に、見よ!、子どもはなにから生まれるかを。あのふんだんな精液の浪費からしか、子どもは生まれないのだ! 実質的な人類の未来は、性の饗宴にしか、けっして宿りはしない!
 ね、○○女史よ?
 ねえ、みなさん?







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