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ARCH 24

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇六年八月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




幕府方武家の子孫にとっての靖国



   いくつかの新聞で、元明治大学学長で臨床政治学者だった岡野加穂留氏の訃報を読んだ。徳川家直参旗本の子孫にあたる人で、薩長土肥が江戸を破壊したことにこだわり続けていたという。官軍の戦没兵のみが合祀されて、賊軍とされた徳川方の戦没者が除外されている靖国神社は「勝ち組の歴史の象徴」(朝日新聞、7月3日夕刊)であり、デモクラシーの原則に反するものとして批判し続けていた。
 溜飲の下がる思いがあった。私も徳川家のために生きた武家の子孫にあたり、明治はじめを生きた先祖の艱難辛苦をつねづね聞かされて育った。いわゆる高度成長期に幼少年期が当たっていたにもかかわらず、武家の男児としての覚悟を持つよう諭された。時代錯誤も甚だしい教育だったわけだが、ながきに亘って一国の支配階級に属した家の人間というのは、程度の差はあれ、こんな意識を持つものかもしれない。たかが維新のひとつぐらいで、という心がどこかにある。武家の魂を持つのを強要されて育った身には、明治以降の日本の歴史も、さほどリアルなものではなかったかと感じられる瞬間がいくらもある。日本の近代はたんなる幕間であり、生きるに値しない空虚な時間が経過しただけのことか、と。
 武家の末裔として生きるというのは、日本における精神的な模範として生きようとするのを意味する。ましてや幕府方の子孫として、となれば、維新で江戸に大挙して上ってきた薩長土肥の下級武士や農民たちに、日本の中心としての地位を根本までは委ねまいという意志が加わる。幼少時に強く受けたこうした方向性を、私はもちろん鵜呑みにして育ってきたわけではない。しかし、いちど刷り込まれたこうした自己イメージは、心にふかく焼き付き、いまも人格の基盤のどこかに高次の自我のようになって目付け役をしている。
 なにかと問題になる靖国神社は、私にとっては先ず、敵である官軍戦没者を祀る場所であるため、これに対して単純な肯定の思いを持ちうるわけはない。薩長土肥の下級武士や農民の戦死者のみを「英霊」として祀る神社を認めれば、幕府側の武家としての私の家系の誇りは否定される。明治維新の戦乱は、少なくともこの程度の断絶を、未だに消し去りようもなく敗者側の子孫の意識に残したままである。靖国神社の存在そのものが、深層において、日本人をふたつに切り裂いたままでいる。もちろん、この現代にあって、今さら幕府側だの薩長土肥側だのという別もあるまいとは思うが、先方が無反省で通すとなれば、こちらも引き下がれないという心の問題が生じる。心の底では、幕府側の子孫たるもの、薩長土肥の下級武士の成り上がり者たちの延長線上にある大日本帝国軍人にはるかに優越するものと、当然、信じている。  靖国神社へのA級戦犯合祀の是非は、私たち幕府側の武家の心情をさんざんに蔑ろにした先に発生した後日談ふうの問題なので、ほとんど異国の話を聞くのにも近いが、傍らで聞くかぎり、合祀論者たちの意見は、いささか武士道の心得を欠き過ぎているのではないかと思われることがある。簡単なことだ。戦争を指導した者たちが、勝利をもたらすどころか、戦争遂行の基本もわきまえていないかのごとき無能さを、あらゆる戦略や戦術において露呈させ、結果的に惨憺たる敗北に到った。武士ならば、敗北の決した時点ですぐに自害して果てるべきところである。然るべく自害した人々もあったようだが、軍事国家たる大日本帝国政府の諸大臣や軍関係者の中には、おめおめと生き延びた者たちが多い。戦争能力における無能さというのは、武士においては弁解の余地のない決定的な瑕疵だが、はたして、武士を気取ることの少なくなかった帝国軍人や政府要人らにおいて、事情は異なっていたとでも言い張りたいのだろうか。軍人のレゾンデートルは秀でた戦争能力以外にはなく、肝心なこの点において無能であったならば、祀られるべき対象とは言われない。武士道の論理というのは、この程度には峻烈なものであるはずである。
 薩長土肥の延長線上にある官軍の、そのまた延長線上にある大日本帝国軍人たち。彼らにもし、幾許か武士道を理解するところがあったのだとすれば、彼らのいわゆる「英霊」たちは、むしろ、靖国神社に祀られるのを恥じ、居たたまれない思いでいるのではないかと思われる。武士も軍人も、戦の勝敗によってのみ評価される。他の人間的基準など潔く放棄してあるはずなのが、そもそも武士や軍人という存在である。武というのは、あらかじめ自らの人間的部分をそのように放棄し滅ぼしている者たちにして、はじめて運用を許される非情のものであり、非日常のものである。自分と自らの武との関係性に対するこうした認識をこそ武士道という。
 いったん戦場に出向いたならば、そこでの死は、軍事作戦上のいわゆる「無力化」対象となっただけのことで、それ以外の意味が介入してくる余地はない。戦の世界は徹底した物理的な力の相克の世界であるから、もとより、戦力として役立たずに消滅し去った戦士の死に、意義のあるわけもない。敵を「無力化」しつつ、作戦を物理的に遂行していくことのみを要求されている戦士にとって、みずからが「無力化」された瞬間というのは、敵を「無力化」する能力も作戦遂行能力も失った瞬間であり、戦士としての資格が剥奪された瞬間である。戦士としての無能が証明されれば、帰属集団に対する発言権も存在価値も失われる。もともと、普通の人間の思考感情と価値と可能性を放棄して戦士になったのでもあったから、戦士としての死とともに、容易に普通の人間に戻ることが許されるわけもないのは言うまでもない。
 武家ならば、誰もが当然のように教え込まれるはずのこうした身の処し方、生死にかかわる覚悟、これをわざわざ武士道などと呼ぶ必要はないにせよ、根本のところで心にこれを担っている私たち旧武家からすれば、日中戦争から太平洋戦争に到るいわゆる帝国軍人たちの、戦士たる者としての認識はあまりに甘すぎる。食い物屋や土産物屋が並び、いつもお祭りの雰囲気の漂う靖国神社を私は個人的には好きだし、赴くことも多いが、帝国軍人として奢りに奢った末、秋津島の沃土を荒廃させた諸君(むしろ、「貴様ら」とでも呼ぶべきだろうか)の言語道断のやり方を、われわれ幕府側の武家の末裔はしかと見届けたし、未来永劫けっして忘れまい、そう思いながら、社殿では手を合わせる。
 第二次大戦は終わったかもしれないが、私たち幕府方の武家の末裔にとっての戦いは、まだまだ終わってなどいない。時代錯誤の愚かしい迷妄、と言われるだろうか。小泉純一郎の口吻を借りて、心の問題である、とか、日本人もいろいろ、と応えてかわすこともできようが、「心の問題」も「いろいろ」も超え、浮薄なレトリックの応酬も超えて理性的な統合の可能性を模索するところに、近代政治というものは生まれてくる。旧武家の戦いというのは、おそらく、こうした意味での政治性へ、秋津島の国民全員が完全に移行し切るのでないかぎり、いつまでも終焉を迎えることのない性質のものと云うべきだろう。

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