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ARCH 25

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇六年八月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ただ過ぎに過ぐるもの



 ただ普通に生活しているだけでも心が澄み、まわりのものの輪郭や彩りがくっきりと見えてくるのは、なんといっても、秋の喜びのひとつです。

      ちはやぶる神代(かみよ)も聞かず竜(たつ)田川(たがは)からくれなゐに水くくるとは (在原業平(ありわらのなりひら)朝(のあ)臣(そん))

   竜田川の流れに点々と散る紅葉を、真っ赤に施されたくくり染めに見立てたこの有名な歌も、そんな秋の澄明さがあってこそ。同じ趣向の歌は古今集に幾つかあり、なかでも、

      龍田河紅葉みだれて流るめりわたらば錦なかや絶えなむ     (読人しらず)

   などは、きものの文様として知られる竜田川文の元になった歌とも云われます。紅葉が乱れ流れる竜田川、もし渡ろうとして足を踏み入れたら、水面に織り出された美しい錦が断ち切られてしまうだろうという歌意で、ひとときのことながら、足の肌と、水面に織り出された紅葉の艶やかな錦との接触を想像させられ、爽やかにして高雅、官能的でさえあります。
 外界の風景にこうして満ちるばかりか、内面にまで容易に入り込んでくるのも秋の澄明さの特徴のようで、自我というものの煩わしさもいつのまにか減じ、自分の中のさっぱりした部分が広がっていくような気持ちのよさがあります。
 そんな秋の気分と着物との出会いを伝えるのは、文芸にあってはむしろ、俳句の独擅場とこそ言うべきかもしれません。あの十七音の形式にもともと備わっている爽やかさと潔さは、どうやら秋の空気にそのまま通じているようです。

      秋(あき)袷(あわせ)自分で出して着たりけり  (風間啓二)

   着物のことを、ふだんは家人に任せたままにしてある男性でしょうか。肌寒さを感じ、秋袷を出して着てみたというのですが、「自分で」としたところに、かえって、この男性のために日ごろ心を配っている家人の姿が浮かんできます。文芸に現われてくる着物というのは、いつも、近しい人びとの中でのその人物のありようを示すもので、たんに衣食住の衣に留まるものではありません。実生活でも同じことでしょうか。数ある選択肢の中から、あえて選んできて身に纏う衣服、それが内面を表わすのは当然のことでしょうが、衣服というものはそれにとどまらず、家族や近しい人びとからその人が受け取って来たものや、彼らとの今現在の関わりのあり方までをも、かなりはっきり映し出してしまうものかもしれません。そう思いつつ見直してみると、秋袷という同じ季語を用いた句のうちでも、

      秋袷距てし母へ妻を遣る    (軽部烏頭子)

      薄倖の秋の袷を身ぎれいに   (小坂順子)

      秋袷襟のさみしき餉につけり  (石原八束)

   などは、やはり、家族や家の雰囲気をよく表わした作品として見えてきますし、

      秋袷育ちがものをいひにけり  (久保田万太郎)

 ともなれば、着物ひとつ着るにも、自分ひとりの域を超えた代々の〈家〉の姿まで晒しながら着る覚悟が、やはり要るものなのかと、いささか恐ろしくなるぐらいです。
 さて、そうした恐ろしさというものが、喜びや心のときめき同様、着物には必ず伴うのだと知り尽していた人の代表格のひとりに、あの幸田文という作家がいます。彼女には、毎年、秋になると必ず出してきては手を通す、着なれた大事な着物がありました。戦後、文筆生活をするようになって、人に会うことが増え、着物を何枚か新調しなければならなくなった時、借金までして拵えた赤と白の小さな飛び絣の入ったお召。ある秋、招かれた席に着ていこうとして、これを着付けてみた時のことを、娘の青木玉が次のように書いています。

     秋の日が明るく部屋に差し込んで姿見の鏡の中を確かめるように母は目を凝らした。何を見咎めたか凝視したまま母は止ってしまった。私は着替えの手伝いをしていたが、どうしたのかと、こちらも動けなくなった。くるっと向き直り、机の前に膝をついて硯をひょいひょいと撫でた。色はしぼの立った部分が墨で消され目立たなくなった。
     あっけにとられ、きょとんとしている私に母はにやっと笑って、
    「うまいでしょ」
     と一ト言。
    「どうもお待たせしました」
     と迎えの人と連れ立って定刻ぴたりと家を出て行った。
                                (『幸田文の箪笥の引き出し』)

                           秋の日の着物の、ちょっといい光景ではないでしょうか。注意して大事に着たり、「帯や小物で少しずつ上手に補なっても、やはり限りがあるもの、消耗品なのだ」と重々承知した上での、着物との付きあい。一瞬の花のように咲き出る、とっさの機転。
 こういうふうに大事に着古されていった着物ならば、いずれ役目を終えて、本の栞などに転用された時など、たとえば清少納言のような人の心をつよく惹いてやまないに違いありません。『枕草子』には、こんな一節がありますから。

      過ぎにし方(かた)恋しきもの。枯れたる葵(あふひ)。雛(ひひな)遊びの調度(てうど)。二(ふた)藍(あゐ)、葡萄(えび)染(ぞめ)などのさいでの押しへされて、草子(さうし)の中などにありける、見つけたる…

      [過ぎ去った昔を恋しく思わせるもの。枯れた葵。人形遊びの道具。綴じ本の中に、二藍染や葡萄染の布の切れ端が押しつぶされてあるのを見つけた時…]

 時間ばかりか、あらゆるものの過ぎゆく早さに、おのずと思いが向かっていくのも、やはり、秋という季節ならでは。ならば、やはり『枕草子』にある、こんな一節も思い出しておきましょうか。
     ただ過ぎに過ぐるもの。帆かけたる舟。人の齢(よはひ)。春、夏、秋、冬。

           [ひたすら過ぎ去っていくもの。帆をかけて走る舟。人の歳月。そして、春、夏、秋、冬]








*この文章は、『美しいキモノ』二〇〇六年秋号(アシェット婦人画報社)にも、「典雅の心を歌に詠む 日本文学ときもの【短歌編】」として掲載された。

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