[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 28

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇六年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




電車のなかの子ども




 二十代後半ぐらいの男が、携帯ゲーム機に興じている。
 中年、と呼ぶにはまだ早いが、もう青年の雰囲気はない。若いオジサンといったところだろうか。青年が持つ輪郭のシャープさが顔に残る。しかし、腹には明らかな弛みが出はじめている。オタク、と呼んでしまっても、たぶん、立派に通用する。
 いまでは電車の中で、めずらしくもない光景だ。


 急に寒くなった十二月のはじめ、厚手のジャケットを着て、コートまで引っ掛けて出かけた。外気は思ったよりも冷え込んでいて、厚着をしてきてよかったと思った。
 しかし、地下鉄の車両内に入ると、いっぺんに様子が変わる。温室のような暖かさで、たちまち汗が噴き出してくる。
 まさに、東京の冬だ。
 外は寒く、オフィスや乗り物の中は暑すぎる。
 季節でいうと、いつ頃の暑さだろう。桜の時期などとうに終わって、牡丹の満開も過ぎる頃の、五月のとくに暖かい陽気だろうか。それとも、急に陽射しの強まった梅雨明けの頃?
 毎年こんなふうだから、東京の冬、電車やバスで移動する外出に、セーターは着られないし、タートルも着られない。喉元の開閉が自在な前開きのシャツ、その上に着脱容易なジャケット、さらに軽いコートといった服装に、どうしてもなってしまう。
 かわりばえのしない、そんな姿で出てきたことを、今日も成功だったと思う。コートを脱ぎ、ジャケットも脱ぐ。シャツだけになる。腕をまくり、喉元を少しつまんで、空気の通りをよくする。
 汗はすでに、上半身に噴き出している。タオルで額を、うなじを、首を拭く。
 冬の出先での汗、ことに、急いで乗った電車中での汗は不快だ。
 空いていた席に座り、ジャケットとコートを膝に乗せて、発汗がおさまるまで静かにしている。目のやり場に困るので、しかたなく、吊るし広告を見る。
 それも不快なことのひとつ。
 汗が出続けている不快さから、吊り広告など、本当は読む気にもなれない。だが、そんなふりでもしていないと、ちょっとしたことで不審がられる可能性のある、都会の電車内というものの不快さ。


 となりに、小学校の低学年らしい男の子が三人座っている。体より少し大きめの制服を着ている。私立小学校の生徒らしい。
 子供向きらしい携帯電話のなにかのベルをたえず鳴らして遊んでいる。三人でおたがいに掛けあって、ベルが鳴ると切る、また、かける。ベルが鳴ると、また切る。そんなことを繰り返しているらしい。ときどき、「圏外だ」などと難しい言葉を使っている。地下鉄の中なので、携帯電話の電波は、届いたり届かなかったりする。届いて、だれかの携帯が鳴ると喜び、届かないで圏外の表示が出たりすると、また楽しがる。そんなことを繰り返している。


 JRや他の地下鉄と接続する大きな駅についた。
 ドアが開いて、発射ベルが鳴るわずかのあいだに、いそがしく小突きあったり叩きあったりした後、二人の子が降車する。
 残ったひとりは、友だちが降りていった先を見ながら、笑ったり、舌を出したりしている。
 電車が動き出す。
 ホームを走って、窓ごしに舌を出したり、手を振ったりしあっていた仲間たちの姿が見えなくなる。
 電車も、暗いトンネルの中に入っていく。


 遊ぶ相手がいなくなると、小学生はしばらくあたりをキョロキョロと見まわしていたが、前の席に座って携帯ゲーム機で遊んでいる男をじっと見つめはじめた。口をぽかんと開けて、男のゲーム機を見つめている。
 急に立ち上がった。
 歩いていって、男の前に立った。
 音も立てずに、アッという間に動いたのだが、これがなかなかの大移動だった。さっき遊びに使っていた携帯電話を大事に握りしめているのはいいが、電話は伸縮するビニール紐で手提げバッグに繋がれている。少し大きめの布のバッグで、体育着でも入っているのだろう。電車の床に下ろしてあったが、小学生はそれを拾い上げようともしないで、携帯電話だけを握って男のほうに移ったので、バッグは紐で引き摺られて、床の中央にノタッと転がった。
 携帯電話に重さがかかるので、小学生はそれに気づいた。振り返って、自分のバッグを見る。けれども、手で引き寄せようとはせずに、携帯電話のビニール紐を引っ張った。バッグを自分の足もとに寄せ、逃げ出さないようにとでもいうのか、片方の足で踏みつけた。そうして、さらに引き寄せる。踏みつけたまま、自分の両足のあいだに入れる。
 ゲームをしている目の前の男のほうへ、突然立ち上がって向かっていった時の動作も人目を惹いたが、自分のバッグに対するこの悠然たる躾け方は、さらに人目を惹いた。周囲の大人たちの視線は、いつのまにか、小学生に集まっていた。
 小学生は、しばらくは前方からじっと、男のゲーム機をのぞき込んでいた。それから姿勢を変え、横からのぞき込んだり、逆の方向に移ってのぞき込んだりする。とうとう、少し腰を落として、ゲームをやっている男の顔をのぞき始めた。
 簡単にはやめない。
 ずっと見ている。
 ゲーム機に熱中し続ける男の顔を、口をぽかんと開いたまま、ずっと見続けている。
 やがて、耳を指さしながら、男になにか言う。男は耳にしていたイヤホンをとって、小学生の顔を見ながら、うなずいている。なにか聞こえるの、とでも聞いたのだろう。男はすぐにイヤホンをつけ直し、またゲーム機に集中する。
 小学生も、今度は男の顔ではなく、ゲーム機の画面をのぞき込んで、そちらに集中する。学帽をかぶっているので、ひさしの部分が男の視線の邪魔になっているはずだが、男はなにも言わない。帽子のひさしを避けるように、首を伸ばして姿勢をかえながら、ゲームを続けている。


 男と小学生のとなりに、なにかの楽器ケースらしいものを膝の間に挟んでいる男性が座っているが、しばらく前からふたりの様子を横目に見て、笑いをこらえている。
 近くに立っているビジネスマンも、ときどきふたりに目をやっては、頬のあたりに皺を寄せたり、口もとに力を入れたりしている。


 次の駅に着いて、楽器ケースらしきものを持っていた男性が降りた。小学生は、空いた席にスルッと腰を下ろし、あいかわらず、男のゲーム画面を見続ける。二十センチほどまで近づいているので、学帽が男の視野の邪魔になっているはずだが、彼はやはり、なにも言わない。


 手提げバッグを足もとの床に落としたまま、小学生は体を男の肩や腕にゆだねて、首をのばし、口をポカンと開けたまま、ゲーム機の画面を見つめている。かぶっている学帽が男の顔にときどき接しそうになるが、男は自分の首を伸ばしたり曲げたりしてそれを避け、ゲームを続けている。


 まるで日本人カメラマンが、アジアやアフリカに行って撮ってくる子どもたちの写真の、ある種の構図そのものだ、と、見続けながら思った。
 接触に気をつかうあまり、他人に関心を惹かれても殆ど寄っていかない大人たちと違い、興味の赴くままに近よっていき、ずっと見つめ続ける子どもたち。傍若無人でもあるその行動が、がんじがらめに自縛された心の大人たちに、一瞬の自由の幻想を抱かせる。子どもだから、あんなことしちゃって…、と思いつつ、その子どもの姿を、わずかの間、見ているこちら側の自分の身体以上の自分自身としながら、さあ、この先は?、これから?、と、子どものいっそうの冒険に期待する…


 カバンの中に小さなデジタルカメラを持っていたので、この楽しい光景を撮影しておこうかと考えた。指先でフレームを作って覗いてみる。どんな写真になるか、想像してみた。


 結局、撮らなかった。


 乗客の少なくない電車中での撮影には問題があろうし、肖像権のこともあろうし、目の前のふたりに許可を取れば、それだけで、この素適な構図は崩れてしまうだろうし…
 もちろん、理由はそんなことではない。この小学生と違って、自分はまたもや、踏み出すということをしなかったのだ。それこそが理由。
 大人だから?
 社会人だから?
 礼儀や常識?
 ふさわしい行動というものへの配慮?


 もちろん、理由は、そんなことだけではない。
 地下鉄での、予期もしない光景から切り取られた人間味あふれる構図、無邪気な子どもの行動がかもし出すユーモア溢れる情景…、こんなキャプションを付しながら、一枚のデジカメ写真を自分のどこかに経験として収納しようとする、ありうべき心の近未来が見える。
 ちょっとしゃれた経験の、巧みな蒐集家。
 温かみのあるユーモアに敏感な、軽い心の物腰。
 そうして、いつも生活と時代を楽しんでいると、自他に仄めかして微笑んでいるような。
 これでは、まるでブンカジンたちのようではないか。
 資本主義社会の中で、必死に上品な才気を捏造してはさりげなく見せびらかし、そうして結局のところ、他人よりも割りのいい収入と地位を確保しようと、餓鬼さながらのひそやかな苦闘を続けているブンカジン、心の虚飾家たち。


 だが、そうしたブンカジンたちとの類似を拒絶しようとする心もまた、なんらかの超越を希求してやまない別のたぐいの偽善に似る。


 文化における病であり罪である、差別化と超越欲求…


 小学生が、とうとう飽きたらしい。
 自分の席の背もたれにランドセルを押しつけ、両手をのばして、大きな欠伸をした。
 ちょうどそこへ電話がかかってくる。
 母親かららしい。
 鼻にかかったような声で受け応えしながら、もうゲーム機のほうは見ずに、周囲に目を泳がす。
 そうして、どうしたことだろう、ふいにこちらに目を向け、私の目を見つめる。私の目から視線を逸らそうともせずに、電話で話し続ける。


 目の前で展開された光景の主人公は、こんな瞳の子だったか。
 そう思いながら、私も彼の目を見つめる。
 私の目を見ながら、たぶん小学生は、私の目のなにも見てはいないだろう。電話での母親とのやりとりに夢中になっている。帽子をフックに引っかけるように、まなざしを、たまたまそこにあった私の目に引っかけて、見ることを保留にしている。
 おそらく。
 それとも、彼は見ているのだろうか。
 私の目のなにかを、見ているだろうか。


 私は彼の目を見ている。
 見える目以上のなにかを、そこに見ているわけではない。
 そこに彼の目が見えているのに、まなざしを保留にしたまま、こちらの内心のなにかを見ているというわけでもない。


 見ているという言葉を捨てる時か、と思う。
 見ているのではなく、四つの眼球の、外界に開け放たれている面が向かいあっている。
 見ることを超える。
 見ることを棄て、見ることに、もうこだわらない。


 いまがそんな時だと思ってしまえば、想念は陳腐な文学に堕してしまう。
 無知と不行動の極みにもかかわらず、傲岸不遜で、いつも虚妄である文学。


 見ているのではなく、四つの眼球の、外界に開け放たれている面が向かいあっている。
 そんな思いが浮かんだ時、とは言える。


 ふたつの眼球の開放面を、小学生の眼球の開放面に向かわせ続ける。
 小学生の眼球も、こちらに開放面を向け続けている。

[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]