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ARCH 29

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




居酒屋チェーン店の安いワイン




 若い学生さんたち、それも比較的素直な、おっとり型の人たちと飲む機会があった。一次会が終わってもほとんど人数が減らず、大人数のままだった。チェーン店の居酒屋に空きが見つかった。
 お決まりのビールの後、どんな飲み物をとろうかという時、メニューをざっと見て、ワインをボトルでもらおうかな、何人かで分ければいい、と提案した。なんとかサワーを飲みたい人たちは、それはそれで個々に頼んだらいいし。それでOKということになって、注文は済み、ひとしきり、席が静まった。
 となりにいた幹事役の女の子が、おずおずと、
「でも、こんなんでいいんですか。このワインとか、あまりおいしくないんじゃないですか?」
 頼んだボトルは、ディスカウント店でなら二〇〇円台で買える。スーパーでなら、四〇〇円程度。もとより、うまさなど期待するも愚かなワイン。それをこの店では、一五〇〇円+消費税で出している。
「でも、それでいいじゃない? 上質のワインを飲もうと思って入ってきた店じゃないんだし、みんなで話を続けましょうというのが主旨だし。ここにある中から選んで飲む。酒の肴というけれど、酒こそが肴で、主役じゃないんだから」
 彼女の言うには、ゼミの指導教授がこういう時にうるさい人で、メニューを見ながら、よく、こんな酒しか置いてない店じゃダメだ、まったくひどい酒ばかりだ、などと言うのだとか。この店でも、そういう一幕があったそうな。そんなこと、まじめに受け取る必要はないんだよ、と言ってはおいたが、その先生への妙な批判を植えつけるわけにもいかず、その話はそこでよしておいた。
 酒へのこだわりは人それぞれで、こうあるべしなどというほうが愚か。その先生はその先生、こちらはこちら。きっとうまい酒の好きな方なのだろう。飲み会とはいえ、学生たちと居酒屋に入るのは、先生たちにはそれなりの営業のようなものである。一次会の店でも、先生はそれとなく落胆を味わってきたかもしれない。せっかく入ってきた二次会の店でこのメニューを見れば、うんざりするのもうなずける。
 しかし、チェーン店の居酒屋である。こんなところで酒の質をうんぬんするのも、どんなものか。料理にしても、見栄えはそこそこのようでも、お祭りの屋台に毛が生えたようなものばかり。こんな食べ物に、いい酒を合わせようというのはどうかしている。
 その先生、こんな店でどうしてそんなことをいうのだろう、とちょっと考えてしまった。どんなものを出す店か、どうつきあう店か、そんなことは暖簾をくぐればわかる。何人もの学生と飲むのに、高い酒を注文しようとするのも場違いだろう。ドリンクメニューを見る段になって、ダメな酒ばかりだと不平を言うほうがおかしい。そんなことを言えば、来る酒がまずくなる。酒は、どんなものであれ、できるだけうまく飲もうというところに妙味がある。そういうところに出てくる人間性というのもある。たぶん、文化の粋もそこに現われる。
 先生というのは、どう転ぼうと学生にとっては先生で、あまり無粋なことはしないほうがいい。教育というのは、教室でどんな要らぬ解説を縷々とするより、先生のあり方そのものにこそある。あの先生はあんな時、どうしたか、しなかったか、どう言ったか、黙ったか。そんな態度の一部始終が、次代の人間の行動枠をつくり、また、枠の超え方をつくる。
 ただ、粋と無粋の違いというのはむずかしい。先生が酒に乱れたとして、それが無粋かといえば、違う気がする。飲んでも、いつも涼しい顔をしていれば粋か。違う。少し乱れる、言い草が乱暴になるというのにだって色気がある。徹底して崩れないというのにも魅力がある。
 学生時代、ある政治学者の家に大人数で押しかけ、先生と深更まで飲み続けて、みな、ひどく酔っ払った。先生もべろべろである。ところが丑三つ時を過ぎて、
「きみらは続けてなさい。ぼくは明日までに仕上げないといけない論文がある。これから朝までに書くから、ちょっと失礼」
 そういって書斎に行って、執筆を始めた。書斎といっても、すぐ隣りの部屋で、こちらの議論や馬鹿話が響く。先生はそれを拒絶するのではなく、時々、それに応じる。まったくひどい執筆環境だが、朝方、おおかたの学生たちが雑魚寝して果ててしまった中で、先生は論文を書き上げ、朝食をとって出かけた。散歩がてら、その原稿を郵便局の本局へ投函しに行ったそうである。
「本当は、先生、郵便局でふらふらだったんじゃないのかな」と、学生たちはあとで失礼な想像をしたりもしたのだが、かりにそうであっても、あの先生が学生たちに見せた姿というのは事実で、あそこにはやはり、教育というものがあった。
 あの時、あの人にはあれだけのことができた、自分だって今、あのぐらいはできてもおかしくない―― 未来のある時点で、孤独の中でなにかをやらねばならなくなった時、そんなふうに人に思わせ、持ちこたえさせるものの伝授を教育という。教室で伝授される細々とした枝葉末節の知識にしても、それらの味気なさを、ともにあの先生たちと長い時間経験したのだというところに、はじめて命を持ってくる。歳の離れたひとりの人間が、わざわざ未熟者に物理的な時間をかけ、具体的な姿かたちでもって付きあってくれる。大切なのはそこのところで、ここだけしっかりしていれば、先生にいいも悪いもない。
 安居酒屋の酒に不満をいう先生は、あれはあれで、いいのかもしれない。まずいワインを意にも介さない私と、酒にうるさいその先生と。両者を、いやでも学生たちは比較するだろうが、どちらもありだと思うようなら、いちばんいい。どちらに進んでも、それなり。いや、どちらも重要ではなく、他にもっと大事なことがある、という方向に考えていくことだってできる。

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