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ARCH 32

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年三月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




本居宣長とトマス・グレイ
       ――詩歌をつくる人にとって縁のない問題




 いったいこの男は、どんな手だてを尽くして、全一者でありたいという欲望を鎮めているのだろう。犠牲的精神か、順応主義か、ぺてんか、詩趣か、倫理か、粋人気取りか、ヒロイズムか、宗教か、反抗、虚栄、または金銭? 以上いくつかの組み合わせか、それとも全部いっしょくたにか? 悪意が、愁いに陰った微笑が、疲労の渋面が、束の間に輝き過(よ)ぎる人間のまばたき――自分が全一者でないということの驚き、それどころか、狭苦しい限界を持つということの驚きから私たちの味わうひそやかな苦痛が、そのまばたきのなかに露呈する。かくも公言をはばかる苦痛というものは、やがては内心の偽善へ、遠大にして仰々しい諸要求へと私たちを引きたててゆくのである。
                        ジョルジュ・バタイユ『内的体験』(出口裕弘訳、平凡社ライブラリー、一九九八)




 書く、書かない、なんのために書く、書いてなにになる。
 ――もうふたつ付け加えよう。
 だれが読む、はたして読まれるのか。

 詩歌をつくる人には、もちろん、どれも縁のない問題である。
 書きたければ書けばいいので、「なんのために」などという問いは、書きたいという思いの中で、すでに解決を見ている。書きたいから書くまでのことなのに、「書いてなにになる」と問うのは、なんだか意地汚い。かっこわるい。余得を求めすぎている。もともと自分が書きたくて始めたはずのものに、「だれが読む、はたして読まれるのか」などと、いちゃもんをつけるのもどうかしている。行為そのもののうちに最大の価値があるのを、人間というのはいつも、忘れがちになる。
 これらの問いは、いわば言いがかりというやつで、まじめに考えるには値しない。書くことの外部に価値や意義を求めたいというのなら、まず、そうした価値や意義にぴったりと目標を定めて、そこにちゃんと当たるようなものを書けばよい。他人に読まれたいならば、読まれるようなものはなにか、しっかりとマーケティングをして、そういうものを書けばいい。いずれも、詩歌には直接はかかわりのないことである。
 詩歌を書くというのは、書きたいことを好き勝手に書くということで、それ以外のなにごとかではない。人生にかかわることを書いてもいいし、ナンセンスの迷宮をこしらえてもいい、言葉あそびをしてもいい。眉間に皺をよせてキリキリと憂国警世するのも、なんだか白けてつかみどころのないような感情をたらたら描くのも、自由詩のかたちで言葉を並べる上では、みな同等である。
 外的ななにかに擦り寄ったり、従ったりということをしたら、もう詩歌ではなくなってしまう。人間というのは、他人に見られたり、評価されたりしたくてたまらない生物だが、そんな感情自体が、すでに詩歌の外部のものである。他人の目や価値観を基準にしたら、詩歌という名の言語的絶対自由は崩れる。詩歌は、ただ言葉そのものが持つ性質や規制にのみ忠誠を尽くすもので、そういう意味ではきわめて貞節、それ以外の主はけっして持たない。


     むかし、本居宣長が『玉かつま』にこんなことを書いた。
「一七八なりしほどより、歌よままほしく思ふ心いできて、よみはじめけるを、それはた、師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき」
 扱われているのは作歌についてだが、詩歌全般に関わることとして読んでかまわない箇所だろう。詩歌をつくるとはどういうことか、どうあるべきか。その核心がこれほど平易に、しかし含蓄ぶかく語られるのも稀なことと思う。
 自らにおける作歌の発生をふり返りながら、宣長はここで、ひとつの姿勢を提示している。詩歌をつくる意義も効果もはじめから問わない、詩歌をつくりたいという思いの分析もしないという姿勢である。歌を詠みたいと思う心が出てくる、詠む。それだけでよいので、創作の意義など、まるごと「歌よままほしく思ふ心」に委ねておけばよい、というのである。
 宣長における「心」には、なかなか興味深いところがある。それは明らかに、いわゆる私なるものとイコールではない。そんな「心」が「いで」くる時には、いかなる検討過程も省略して、「よみはじめ」るということを発生させればよい。現代でいえば、欲望というのが近いのかもしれないが、欲望には多くの検討や規制が義務づけられる。「心」はちがう。それが向いているほうへ、「私(サブジェクト)」は忠実な臣下(サブジェクト)として、ただ向かっていけばいい。疑う必要はない。ブレーキもいらない。
 ふいに出現してくるこうした「心」について、宣長が、反省や分析を加えないたぐいの鈍感な自我を持っていたとは考えにくい。『紫文要領』などを読めば、宣長が繊細な分析家であったのはよくわかる。ある種の「心」の発生と、それが要求してくる実践のあいだに、あえて検討過程を差し挟まないという姿勢を意図的に採って方法としていたと考えるべきように思う。検討、反省、分析、再考。それらによって、たちまち瓦解し消滅してしまうたぐいの領域があり、それを感知するのに、おそらく、宣長は敏感だった。
「師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき」という文からも、おもしろい的確な助言が導けるだろう。
 詩歌にかぎらず、なにかものを書く場合、ことに、好き勝手に縦横無尽に書いていこうという場合、逆説的に聞こえるかもしれないが、言葉をならべたり組織していく現場では、基準・型・通念・常識といったものこそが重要になる。これらを身近な外部に持つことで、人はふつう、書くことを始めるのだし、書くことが可能にもなる。具体的には、ともに書く友人、批評者、さまざまなタイプの読者などからなる文芸環境に、それらは仮託されることが多い。
 宣長がここで述べているのは、それらを内在化せよということである。教えてくれる師を持たず、人に見せず、ひとりで好きなようにつくれ、などと言っているのではない。ふつうなら「師」に仮託されている機能、「人」に任されている機能、それらを自らの内部に設置せよ、と言っているのだ。文芸創造の原理に鋭い勘を持つ彼が、そうした機能なしにつくれ、などというわけがない。
 自らのうちに設置されるそれらの機能とは、「師」となるべき過去の古典(「師」とはつねに過去であり古典であって、したがって、けっして模倣も一致も許されない対象である)へのまなざしであり、また、「人」の目や価値判断の、自分の内部への常住である。
 どうして、これらを内在化させなければならないのか。歴史的時間的に自分が存在させられている現在において、詩歌の世界がまったく自分の「心」に適っていない場合があるからである。これは、現在の詩歌を否定するということとは違う。自分に「いでき」た「心」が、現在行われている詩歌の多くとは違うものをつくるよう要求してくることがあるのだ。この場合、基準・型・通念・常識となるものを、周囲に見出しうる「師」や「人」に求めるわけにはいかない。時代的に遠く離れた過去の作品群に「師」を求め、また、来るべき未来に「人」を求める必要が出てくる。こうした作業は、必然的にこれらの機能の内在化を書き手に促すのである。
「人に見することなどもせず、たゞひとり」という表現を、孤独に、ひとりで、などと受けとるのも間違っている。心のなかで「師」や「人」との激しい対話があり、やりとりが起こっている状態を、古来、日本の文芸では「たゞひとり」と呼んできた。読んだり書いたりする者に、空間的孤独はあっても、精神的孤独などあるわけがない。エネルギーの極まりに発生する均衡状態においては、人はかならず「たゞひとり」になるのだが、言葉でものをつくる人びとにとって、これはもちろん至福の瞬間である。「師にしたがひて、まなべるにもあらず、人に見することなどもせず、たゞひとり、よみ出るばかりなりき」とは、宣長による至福の瞬間の回想なのであり、この時、彼が内なる「師」と「人」の前で作歌していたのを思えば、この記述は、純粋詩の創造の瞬間をたくみに外面から掬いとったものともいえる。


 詩歌をつくる人にとって縁のない問題で、もうひとつ、付け加えておくべきものがあった。
 すなわち、詩人になりたい、詩人と呼ばれたい、詩人である、うんぬん。
 宣長などは考える必要もなかったし、そもそも思いつくことのなかった問題ではないかと思うが、これについては、十八世紀のイギリス詩人トマス・グレイがみごとな模範を示してくれている。晩年はケンブリッジの近代史および近代語教授で、同時代のジョンソンの『詩人伝』で酷評されながら、十九世紀にはマシュー・アーノルドに激賞されて古典詩人としての文学史的な地位を確保することになった彼は、生前、詩人と呼ばれるのを嫌った。福原麟太郎の伝えるところでは、彼を知る同時代人のこんな証言がある。 「彼は、唯単に一文人として見られることに堪え得なかった。生れも低く、産も乏しく、地位に恵まれてもいなかったが、彼は一人の独立した紳士として扱ってほしい、学問は娯楽のためにするのだと思って貰いたいと願っていた」。(ジョンソンの弟子ボズウェル宛のテムプル師の手紙)
「紳士として扱ってほしい」という要求がべつの問題を発生させるには違いないとしても、詩人というステイタスに固執するような、あまり健康的でない心理状態を改善するのにこれが効果的であったのは確かなようだ。
 テムプル師のこの手紙は、グレイの学問も娯楽のためであったと伝えているが、ヨーロッパ随一の学者とさえ呼ばれたグレイの学問というのは、生半な娯楽ではなかった。テムプル師の同じ手紙には、このように紹介されている。
「史学博物学のあらゆる分科に深く、英仏伊の斯道の権威書に通じ、考古学者としてもすぐれていた。批評、哲学、倫理、政治学は彼の学問の主要部をなして居り、海陸のあらゆる旅行記を読むことは彼の愛好する娯楽であった上、絵画、版画、建築、園芸にも立派な趣味を持っていた」。
 こういう人が、「学問は娯楽のためにするのだと思って貰いたい」と願って生き、ロマン主義に大きな影響を与える詩業を続けながらも「一文人として見られることに堪え得」ず、あくまで「一人の独立した紳士として扱」われるのを望んだということには、まともな神経の持ち主ならば、たぶん、多くを考えさせられるはずだろう。詩作に打ち込むとか、詩歌だけが命だとか、どうも近代以降になると、視野狭窄が増えてきて、息苦しい。打ち込むのはいいとしても、君、世界は広いんだよ、というグレイの言葉が、いつも聞こえるぐらいの余裕は持っておきたいものではないか。
 グレイより前の時代、劇作家ウィリアム・コングリーヴも、自分は紳士であって文人ではないと表明し、フランスの文人思想家ヴォルテールを怒らせたという。「紳士とは家柄があり、資産があって社会的地位が上流にあり、生活のために働かないで暮しの立っている有閑人の意」だとすれば、ヴォルテールの怒りは、たんなる偏狭さと捉えられるべきではない。とはいえ、現代において詩歌に関わろうとする人間にとっては、グレイやコングリーヴが「紳士」という言葉で表明しようとしたあり方には、汲むべきものが少なくない。ひとりの人間が生き死んでいく人生と呼ばれる過程での、詩歌というもののあるべき位置を、それが指し示しているのに違いはない。



*トマス・グレイに関する引用は、『墓畔の哀歌』(グレイ作、福原麟太郎訳、岩波文庫、一九五八年)中の解説より。

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