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ARCH 33

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年四月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ドンナことばモ、ソレナリニ抵抗ナンダト思ウ、
(ふらんすノモ、今ノにっぽんノモ、ぼくノモ)、 その1

          〔日本中世の女たちの自由、近代日本の民衆蜂起、五月革命について〕

          ――裏原宿THC(トーキョー・ヒップスターズ・クラブ)での講演
            二〇〇六年十二月二十日









 ………今日の、今晩の、この場での発言、十二月二十日になにかやらないか、なにかしゃべってみないか、フランスの一九六八年の五月革命に関連して、……そう、なにか抵抗について、異議申し立てのようなことについて、……
 ……そう言われた頃、ちょうどまったく無関係に、日本の中世の時代の女たちについての本を読んでいまして、見も知らない、詳しくも知らない彼女たちが、頭の中を歩きまわっているようでした。


 具体的には、民俗学者の宮本常一の論文や、日本の中世の歴史家の網野善彦の論文や、そこに引用されて使われているルイス・フロイスの日本についての報告文などなのですが、ルイス・フロイスという人は、みなさん、高校までの日本史でおそらく名前をお聞きになったはずです。ポルトガル人の宣教師で、永禄五年、つまり一五六二年に日本に来て以来、慶長二年、一五九七年に死ぬまで、三十五年間も日本で生活した人です。
 江戸時代が始まってしまう前の日本の女たちが、どのように生きていたのか。
 網野氏も指摘していますが、とかくぼくらが思いがちなのは、彼女たちがとても不自由に、男尊女卑の厳しい制度の中で生きていたのではないかということだろうと思います。
 ところが、まったく違う。ルイス・フロイス自身による『ヨーロッパ文化と日本文化』の記録をいくつか引用してみると、こんなふうなのです。

・日本の女性は、処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚もできる。
・ヨーロッパでは財産は夫婦の間の共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付けたりする。
・ヨーロッパでは、妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって名誉を失わないし、その後、また結婚することもできる。
・ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格に行われる。しかし、日本では娘たちは両親にことわりもしないで、一日でも幾日でも、ひとりで好きなところへ出かける。
・ヨーロッパでは妻は夫の許可が無くては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせずに、好きなところへ行く自由を持っている。
・ヨーロッパでは女性は文字を書かないが、日本の高貴な女性は、文字を知らなければ価値が下がると考えている。

 これだけの記述を読んでみるだけでも、ずいぶんと印象が変わるのではないでしょうか。
 いわゆる遊女、くぐつ、白拍子、巫女などをはじめとして、日本の中世の時代は、魚介類の商いや、炭や薪の商い、精進物や綿・小袖の商いをする女性たちのかなり自由な往来が日本列島に展開されていたようです。律令国家が、成年男子に軍役を含む様々な公的な義務を押し付けた一方で、女性たちはそうした義務から外されていたため、商業や金融の世界で活発な活動をするようになったとともに、そもそも女性たちの存在自身に、世俗を超えた「無縁」の性質を与えられていた、というのが網野氏の説です。
 宮本常一の『忘れられた日本人』には、これは近代の女性の話ですが、山口県南東部の周防大島のおばあさんの話が出てきます。十八歳の時に、女友達三人で四国を旅してまわり、やはり他所から来て旅してまわっている女衆に出会い、しばらく一緒に旅をしている。そうしながら、善根宿というのに泊まり、仏教の詠歌を歌ったりしてもらいものをして旅を続けたというものです。こういうお参りの旅だけでなく、遠くの工場に働きに行ったり、元気のよい女性は、夏はやはり遠くに綿摘みに行ったり、秋は稲刈りに行ったりというふうだったし、人によっては下女奉公に出て、それなりの文化を身につけて田舎に帰ってくることもあったといいます。
 こちらは、日本が近代国家になってからの話ですから、ずいぶん自由の度合いは少なくなっているはずなのに、それでもこれだけの運動性を個人の女性が持っている。


 ちょうど、日本の女性たちのこんなイメージをボーッと思い描いていたのですが、これが、なんだかとってもいい気持ちで、いつまでもアタマの中に、自由に歩き回らせておきたいようなのでした。そんな時に、なにか、五月革命についてとか、抵抗についてとか、話してみないか、あるいは、そういったことに関連するような詩を朗読しないか、と言われたんですね。
 それはそれで面白いだろうとは思ったけれども、ぼくがすぐに感じたのは、五月革命の時にフランスの学生たちや労働者たちや知識人たちが夢見たものの先にあったもの、ありえたかもしれないもののうちの最高のものは、結局は、日本の中世に実在した、こうした女たちのあり方なのではないか、ということでした。
 ユートピアとか、共産主義とかのいろいろなプランは過去にあったし、自由と平等と平和と情愛とにあふれた様々な理想の社会を、いまでも人類はあちこちで思い描いていますが、なにを思い描き、なにを計画し、企画しようと、結局のところ、有限の肉体と扱いづらいところのある心でできた「自分」という、この何ものかの上に、自由の感覚や快適さが実現されないことには、話にならない。ぼくが思ったのは、…というより、直観したように思ったのは、六十八年の五月革命で起こったことや起こりそうになったことよりも、中世の日本の女たちのふつうのあり方のほうが、人類における自由の現実的な達成としてははるかに優越している、ということでした。現代の日本の東京に住むぼくらが五月革命を考えたり、生きることの充実や自由につながっていくなんらかの秘密をそこから汲み出そうとするよりも、五月革命当時のフランス人や、当時よりもはるかに状況の悪化している現代のフランスの人々のほうこそが、むしろ、日本中世の女性研究をするべきではないか。なにか、決定的な達成が、とうの昔に、すでになされてしまっていて、それも、選ばれた一部のエリートだけがというのでなく、一般の庶民が、場合によっては、最下層とも見なされうる人々こそが、自らの体と心で、飄々と自由を体現してしまっていたという、基本的なもののとらえ方の、こんな転換をしてしまってから、五月革命といった類のテーマを仕切り直したほうがいいのではないかと、どうもぼくには、そんなふうに強く思えてならないのです。
 中世の女たちの、あの自由な回遊性、運動性を、個人としての自分の行動様式の中に、徹底的に浸透させること。たったひとりで、この地上の山や野や海辺をさまよって生きのびねばならない時に、社会が押し付けてきがちな規制や制度の枠を淡々と踏み越えて、徹底的なまでの、しかしむだな波風など全く立てないウルトラ自己中心主義で日々を過していけるような意識を、まず鍛えること。
 いちばん最初に、最大の優先事項としてこれをやっておかないと、社会や集団行動などといったものを考えても、心もとないばかりなように思えますし、そこから展開されていく議論とか、討議とか、研究とか、社会計画とか、政治とかといった人間のもろもろの社会的な行為は、とにかくもひとりで生き延びていかないといけない一個人にとっては、本質的にはあまり意味を成さないように感じられてくるようなのです。


 こんな日本の中世の女たちが与えてくれるのに近い、根源的な自由のイメージを見せてくれるものとして、ぼくはよく、ヨーロッパ中世の学生のことも思い描きます。
 ワンダリング・スチューデントwandering student、つまり放浪学生というのですが、こう呼ばれた彼らは、あってなきがごとくの国境をひょいひょいと越えて、あっちの大学、こっちの大学というふうに大がかりにまわって学び続けます。どこそこの大学で、なんとかいう先生が最近おもしろいことを言っているとなると、そっちへ飛ぶ。他がおもしろいとなると、またそっちへ飛ぶ。いまでは学校を意味するようになったスクールとか、スカラーとかの語源になったスコラが、もともと余暇や暇という意味のラテン語で、ようするに、手持ち無沙汰で暇にしている連中が、小人閑居して不善をなすということのないように、三々五々集まってきて、先生の話を聞いたり、へんてこな議論をしたりする。そうしながら、特別に秀でた先生の他は、みんな、なにかを書き残すというわけでもないし、なにか歴史に名を残すご大層なことをやらかすわけでもない。そもそも、どこでどんなふうに生まれ育ったかもわからないような連中が、人生のほとんどを放浪学生としてヨーロッパ中を右往左往して、やがてまた、どこか歴史の闇へと消えていく。途中で病気で死んでしまうということもあっただろうし、つまらないことから決闘で殺されたり、山賊に襲われたり、自分自身が山賊になったり、あるいは、ひょんなことから関わりをもった女に子どもができたりして、そこらのおとっちゃんになっていったりしたかもしれない。
 こういう、ヨーロッパ中を股にかけて歩きまわっていたような連中が、そこらのおとっちゃんになってしまうといった姿には、あれあれ、落ちぶれたねえ、という反応も出てくるでしょうが、これがじつは、けっこう豊かとみなすべきものなのではないか。これは、個人的な趣味の問題みたいなものかもしれませんが、あれ、妊娠しちゃったの?、あれ、生まれちゃったの?、みたいな反応を人生の全般に対してするというのは、とっても楽でいいように思います。
 むかし、日本の私小説作家で、ひどい貧乏人だった葛西善蔵という人がいましたが、子どもだけはどんどん生まれるんですね。そして、もっと貧乏になるものだから、もっと生活費のかからない田舎に、なにか、きわめて生物学的な法則に則っているかのように、じわじわと引っ越していく。友達たちが、見るに見かねて、見送りに着た駅で別れる時に、コンドームの箱をプレゼントしたことがあったそうです。すると、葛西善蔵は、
「そうはいっても、子どもというのは増えるからのう」
 と言ったそうな。
 子育て貧乏というのは、いまの日本でそれなりに深刻の度合いを増しており、ここにいる皆さんでも、いつだれがかかるかわからない病気≠ンたいなものでもあるし、だいたい、生活をともにしていない人や婚姻届を出していない人といっしょに罹っちゃったりすることも多い類の病気≠ネので、それなりに注意しないといけませんけれど、なんというんでしょう、よく、大変な病気にかかっている人たちが、病気を退治するのではなく、病気とともに生きていくなんてことをいいますが、あれですかね、ああいった気持ちをしっかりと持つっていうことのほうが、ヘタに革命とかなんとか騒ぐよりよっぽど強いんだぞ、って思えるわけなんです。
 そういえば、いまの葛西善蔵の話で思い出しましたが、うちの母方のおばあさんの話を、ひとつ。
 ぼくは、あんまり家族だれかれを尊敬したりしないタイプの人間ですが、そのおばあさんについては、一度、襟を正したというか、うちの親なんかを通り越して根本的に過激だと、つい、うっかり敬意を持ってしまったことがありました。
 大正生まれの人で、福島の田舎から出てきて東京で見合い結婚した人でしたが、この人の晩年のある日、もう体もちゃんと動かなくなった頃、なにかの用事で訪ねていって、そうしていっしょにテレビを見ていたことがありました。テレビでは、いつの時代にもあるような、最近の若者の性風俗が乱れていて、これではタイヘンだ、といったワイドショーかなにかをやっていました。かたわらで母とか叔母さんとかが、まったくもう、ねえ、ひどいものよねえ、とかいいながらお煎餅を食べたりしていて、ぼくはぼくで、性風俗の乱れなんて聞くと、なんだかうきうきしてきちゃうタイプなので、多少は家庭内政治的に黙っていたりしたわけですが、このとき、ひとこと、おばあさんが、
「そんなこと言ったって、人間はセックスするものよ」
 と言ったのです。ちょっとびっくりして、みんながおばあさんの顔を見ると、「人間は欲望がある。セックスしたいんだ。そんなのしょうがない。抑えたって、しょうがない。そんな当たり前のことを、乱れだとかなんとか言っていたって、しょうがない」
 というようなことを、さらに続けました。
 ただのおばあさんだと思っていた自分の祖母を、ぼくはこれで、俄然、尊敬しましてね。こういうラジカルな思想家がじつはわが家系にいたのかぁ、と、なにか、思想上の大転回を経験するような目まいを感じたものです。大正生まれのおばあさんが、こともなげにスルリと「セックス」なんていう言葉を言うのにも驚いたのですが、そんな程度の当然のことでがたがた考えてはいけない、それより、性病に注意したり、すぐに性病が治るような医学の発達を促進させて、みんなでどんどんやればいい、だって、やりたいのだから、欲望のほうが強いのだから、と云ったラジカルなプラグマティズムを、こんな身近なふつうの人が持っていたということ、それをしっかりと発言したということが、すごい、すごい、と思ったものでした。
 彼女の夫であった、ぼくの祖父にあたる人は、実業家として羽振りのいい人でしたが、ことセックスについては、たんなる思想家に留まらず、きわめて手広いアクティヴな活動家だったようで、おばあさんとしては、そうとうに苦労させられたようです。ですから、長いこと、ぼくが思っていたのは、セックスなるものに対する恨み節をかかえて、きっと彼女は年老いていったのだろうということでした。まあ、自分のおばあさんとお茶の間でセックス談義をするというのも、あんまり普通じゃないでしょうから、どうしても話の機会やきっかけがつくりづらかったがゆえの誤解ということなのかもしれませんが、身近にこんな人がいたというのに、青い鳥ではありませんが、外国にヘンリー・ミラーやバタイユやサドを見つけて喜んでみたり、日本にもいろいろいるゾなどとニタニタしてみたりという青年時代が、いま思うと、情けなく思われてきます。
 こんな、ぼくのおばあさんのような実体をともなった人間たちが、きっと、日本の中世にも、ヨーロッパの中世にも、ひとりひとり、ブラウン運動のようにというか、埃かなにかのようにわがままにというか、わーっと動きまわっていた様子を想像してみると、なにか無性にわくわくしてくる感じで、ぼく個人としては、この「わくわく」した気持ちの中で、もう、この世でいましばらく生きのびていく上でのいちばん大切なものが解決してしまっている、という感じになります。五月革命の時のように、わざわざ街にバリケードを作ったり、あとからあとからたえず集会を開いて議論して、そうしてお前は反動だ、とか、国家権力の手先かと言いあったりとか、世界中の学生運動の時のように、建物に立てこもって火炎瓶を投げつけたり、かき集めた拙いものを食べて飢えを凌いだり、何日もお風呂も入らず、きっとトイレもタイヘンな状態なはずだし、きれいな水だって飲めるかどうかあやしいのを必死我慢したりとか、そんなことをしなくても、なにか、解決してしまっている。
 ぼくは個人的には、一点豪華主義で、朝の紅茶は、ウイリアムスンかマリアージュのレベル以上のアールグレイしか飲まないのですが、あんな立て籠もりや闘争をやっていたら、そんなもの、飲めるわけがない。だいたい、世界中の学生運動や民衆運動を見ていて、甘いなあと思うのは、立てこもりをする場所の水や空気が、あきらかに権力側のお目こぼしで確保されていることで、あんなの、水道にノロ・ウイルスでも入れれば、一発で無血開城ではないか、それがなかったということは、国家権力側がやっぱり気をつかって、謙信と信玄の戦いのように、当面の敵にいろいろな意味で「塩」をおくってやっていたからではないか。
 ……ま、ちょっと話が逸れてきたような、乗ってきたような感じですが、ようするに、現実に、ぼくらより、もっとわがまま勝手に生きた人々のことを知っていくと、彼らのイメージがこれまた勝手にこちらの意識の中で動き出す。たくさんの人間を動員してコトを起こさなくったって、たったそれだけのことで得られるエネルギーや生きのびの秘密というのは、確かにあるぞ、ということなわけです。
                                        (続く)

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