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ARCH 34

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年四月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ドンナことばモ、ソレナリニ抵抗ナンダト思ウ、
(ふらんすノモ、今ノにっぽんノモ、ぼくノモ)、 その2

          〔日本中世の女たちの自由、近代日本の民衆蜂起、五月革命について〕

          ――裏原宿THC(トーキョー・ヒップスターズ・クラブ)での講演
            二〇〇六年十二月二十日







 (承前)

 じつは今晩、なにか、「自由」へと向かう方向性のある抵抗の詩の朗読もやれ、と言われて来ました。ヨーロッパ中世の話も出たついで、といってはなんですが、あの時代の、詩人の中の詩人といった趣のあるフランソワ・ヴィヨンの詩をひとつ、ここで読んで、義務を果たしておこうと思います。さっき話したワンダリング・スチューデントの代表格みたいな人で、なんだかタイヘン無軌道なところのあった詩人のようです。人を殺して、逃げて、そうしてどこへ行ってしまったんだか、歴史から忽然と消えてしまった詩人。
 時代もそうですが、彼の場合は、詩というものが、まだちゃんと人生というものと切り結んでいますから、言葉は古くても、内容的にはよくわかる。現代の詩のように、わかるかなぁ〜、わかんねえだろうなぁ〜、といったところで勝負しようというセコイことを考えていない、いい詩になっています。だいたいのところ、ヴィヨンの詩というのは、われわれ人間という、この世で限りある命を強いられて、物理的にいろいろと生老病死の苦労を背負わされて生きていかねばならない存在のあり方への異議申し立てで、けっこう気宇壮大、文句をつける相手は神さまだといった按配ですが、ぼくの思うに、世界の詩人の中でも、史上最大の異議申し立て詩人、抵抗の詩人ではないか、と感じます。
 ということで、ヴィヨンの詩、ヴィヨンの墓碑銘と呼ばれているバラードを朗読します。
 今日は、フランス語のよくわかる人たちがちらほら見えており、むかし怠け学生としてフランス語を勉強したことのある程度のぼくが朗読するのは、とても恥ずかしいのですが、まあ、だいたいのところをお伝えできれば、と思います。はじめに、いろいろな邦訳を参考にしながら自分で訳し直してみた日本語のほうを読み、それから、フランス語の原詩のほうを読みたいと思います。




 「ヴィヨンの墓碑銘(首吊りのバラード)」朗読

 おれたちの後を生きるおまえさんがたよ、
 つめたい心でおれたちを見ないでくれ。だって、
 おれたちを哀れに思ってくれるなら、神は、
 おまえさんたちにもすぐに慈悲をたれてくれようというもの。
 おれたち、五人、六人と、ここにつるされて、
 これまでたくわえ過ぎてきた贅肉なぞ
 とっくにくずれ落ち、腐りきって、
 で、おれたち、死骸は、灰に、ほこりにとなっていくところ。
 だれひとり、おれたちの不幸を笑えるものはいまいよ、
 な、祈っとくれ、神に、おれたちみんなを、どうぞ許しください、と。

 おまえさんがたを、同朋よ、兄弟よと呼んでるんだからさ、
 恨みっこなしさ、裁かれておれたちが殺されたからって、な。
 人間、だれもがちゃんとした分別を持っているわけじゃないってのは
 な、重々、ごぞんじのはずじゃないかさ。
 まあ、許しとくれよ、すまないとは思うけどね、
 死んじまってて、もう、聖母さまの息子さんのとこだし、
 この方のお慈悲が枯れちゃあ、まいっちゃうし、
 地獄の稲妻からも守ってもらわにゃならんしね。
 ああ、死んじまって、怖いものなしのおれたちだけども、
 祈っとくれよ、神に、おれたちみんなを、どうぞお許しください、と。

 雨はおれたちを洗い、ぐちゃぐちゃにし、
 こんどは太陽を乾かして、まっくろにしやがる。
 カササギやカラスが目を突っつき、えぐり、
 ヒゲやまゆ毛までむしりとりやがる。
 休めるときなんぞ、ひとときもありゃしない。
 あっちの方へ、こっちの方へ、と吹きうごかされ、
 きまぐれな風のなぶりもの。
 小鳥たちにはちくちくと、指ぬき以上に突かれて。
 ま、おれたちの仲間には、お入りにはなるでない。が、
 祈っとくれ、神に、おれたちみんな、どうぞお許しください、と。

 万物を統べなさる帝王のイエスさまよ、
 地獄の旦那がおれたちのあるじになるってのは、やめさせておくんなさい。
 あの旦那にや、用がないし、ズルもきかねえし。
 おめえさんがた、人間たち、冗談ごとじゃあねえんだぜ、こりゃあ。
 祈っとくんなよ、しっかり神に、おれたちみんなを、どうぞお許しください、と。



   L’Epitaphe de Villon (en forme de ballade)
                           Francois Villon
        (書式の制約上、フランス語のアクサンは反映されていません)

 Freres humains qui apres nous vivez
 N’ayez les coeurs contre nous endurcis,
 Car, se pitie de nous pauvres avez,
 Dieu en aura plus tot de vous mercis,
 Vous nous voyez ci attaches, cinq, six:
 Quant de la chair que trop avons nourrie,
 Elle est pieca devoree et pourrie,
 Et nous, les os, devenons cendre et poudre,
 De notre mal personne ne s’en rie ;
 Mais priez Dieu que tous nous veuille absoudre !

 Se freres vous clamons, pas n’en devez
 Avoir dedain, quoique fumes occis
 Par justice. Toutefois, vous savez
 Que tous hommes n’ont pas bon sens rassis.
 Excusez-nous, puisque sommes transis,
 Envers le fils de la Vierge Marie,
 Que sa grace ne soit pour nous tarie,
 Nous preservant de l’infernale foudre.
 Nous sommes morts, ame ne nous harie,
 Mais priez Dieu que tous nous veuille absoudre!

 La pluie nous a debues et laves,
 Et le soleil desseches et noircis;
 Pies, corbeaux nous ont les yeux caves,
 Et arrache la barbe et les sourcils.
 Jamais nul temps nous ne sommes assis :
 Puis ca, puis la, comme le vent varie,
 A son plaisir sans cesser nous charrie,
 Ne soyez donc de notre confrerie,
 Mais priez Dieu que tous nous veuille absoudre!

 Prince Jesus, qui sur tous a maitrie,
 Garde qu’Enfer n’ait de nous seigneurie :
 A lui n’ayons que faire ne que soudre.
 Hommes, ici n’a point de moquerie ;
 Mais priez Dieu que tous nous veuille absoudre !




 ここまで、中世の女たちに導かれるようにして、結局、なにを求めて話してきたんでしょう? どうも、組織立った集団行動から外れて、なにか事を起こすつもりもないのに、ひょうひょうとやってしまっている人たちのほうにこそ、ぼくらが五月革命に探してしまいがちななにかが見出されるのではないか、という、そんなたどり方だったように感じます。
 もし、五月革命なるものが、なんらの組織だった準備もなしに、ひとりひとりのわがまま勝手な行動が突然そこら中で始まって、あのような運動になっていったというのならば、ぼくにとっても、とても興味深いものです。本当に、そうだったのでしょうか。そういう側面が、五月革命にはあったのでしょうか。
 しかし、そうした自然発生的な集団行動のイメージを見せてくれるものとしては、なにもフランスまで行かなくても、やはり、日本にいくらも例があります。
 たとえば、1918年のいわゆる米騒動。
 日本古代史・中世史を専門とする歴史家の石母田正(いしもだしょう)という人が、子どもの頃のある日、日が暮れる頃、民衆が突然、電信柱を担いで町々を練り歩きはじめ、商店の丁稚たちが物を壊しはじめたのを見たという思い出を書いています。
 この米騒動は、富山県魚津市の漁民の女たちが海岸に集まったのを皮切りに、二週間後には京都、名古屋で大規模な騒動が発生し、さらに全国にひろがります。8月13日には、大阪、神戸で騒乱状態になって民衆と軍隊が衝突。呉や舞浜の海軍工廠では、労働者が蜂起して陸軍と市街戦を開始。福井市では、人工6万人のうちの一割が暴徒となって警察署を襲撃。8月17日以降は他の地方にも波及し、山口と北九州の炭鉱暴動では19名が軍隊に殺される。広範囲にひろがった暴動は、9月11日の三池炭鉱の暴動鎮圧によって、ようやく終わりますが、けっきょく、騒動は全国の4分の3の地域にひろがり、騒動に参加した人数は1100万人以上、暴動発生箇所は38の市、153の町にわたり、検挙者25000人以上、うち8000名は刑事処分、2名が死刑という規模に達しました。
 まあ、この頃の映像は残っていないでしょうから、五月革命の映像記録のようにDVDを売り出すというわけにもいかないでしょうが、なにかというとデモや騒動を組織する傾向のあるフランスと違って、わが奥ゆかしきニッポン人の、ふつうもふつうの労働者たちが、どう見ても緻密な計画があったとは思えない騒動を各地でこんなふうに起こしてしまう、起こしうる潜在能力と過激さを国家権力に対して深いところで持っているのだということのほうが、ぼくには途方もなく衝撃的だし、興味深いし、どこか、なんだか、元気になってくる、という感じなのです。
 いわゆる農民一揆などになれば、数は枚挙に暇がないほどになり、いちいちの細部を見ていく際に日本史研究の手続きを必要ともしますから、われわれシロウトにはちょっと面倒な話にもなりますが、近世から近代の農民一揆の構造を研究した安丸良夫という歴史学者の『日本の近代化と民衆思想』という本には、こうした一揆や民衆の蜂起、反乱を見ていく上で、学ぶべき基本的な問題意識が提示されています。この中の「民衆蜂起の意識過程」という章から、ちょっと引用します。

 民衆は、日常的にはなによりもまず生活者なのであって、意味についての専門家ではない。だから、民衆の日常意識は、その労働と生活の諸過程に対応した習慣や日常的な利害の打算や雑多な宗教的諸観念などの複合からなりたっており、この世界の全体性については、できあいの通念をあいまいに受容しているものであろう。社会体制や支配構造にかかわるような諸問題は、日常の生活者からはその意味を根源的に問いかえすことのむつかしい領域なのであって、こうした諸問題については、人々は、支配の神話をあいまいに受容するとともに、異端的な意味づけへの可能性を強力的に阻まれていることを、意識する以前にすでに知っているであろう。こうした事情のもとでは、たとえ民衆の現実生活にさまざまの災厄と苦痛とが存在しているとしても、人々は反抗へと恒常的に身がまえているのではない。生活者としての利害と、支配についての神話の受容と、異端者や反抗者となる道が強力的に阻まれている事実などが、反抗を不可能としており、生活者としての民衆は、不可能なことを首尾一貫して追及するようなことはしないのである。(平凡社ライブラリー版、三〇一〜三〇二ページ)

 ここで安丸良夫が言っているのは、民衆というのは知識人でもなく、専門的な革命家でもなくて、ふつうの生活者であるがゆえに、社会的問題の渦中にあって、問題そのものを自分が生きていながらも、問題を知的に把握することもできない場合が多いし、抵抗運動に役立つようなかたちで自分たちのポジションを認識することもままならない、ということです。
 しかし、歴史上の一揆や蜂起の歴史をあれこれ見ていくと、こういう民衆たちが、ある時突然のように、なんらかの対象を、「自分たちの不幸と災厄の根拠たる絶対悪」として認識するということが発生し、悪としての対象とそれに対して蜂起する自分たちという二元的対抗構造が出来上がるように見える、と彼は言います。そうして、悪にむかって、怒涛のような運動がたいへんなエネルギーを伴って発生する。もう一度、彼の言葉をそのまま借りましょう。

 日常的生活者であるほかない民衆が、あるかぎられた期間にしても、この世界の全体性を明白な善悪の二元的対抗へと構造化してとらえ、みずからがその一極をになって、“悪”を除去しなければならないし除去できるのだと確信すること、そのてんで権威と威力にみちた集団を構成するということは、もっとも驚くべき歴史の真実である。
 (…)民衆は、日常的には、反抗の不可能性ゆえに、断念や諦めや怨念の大部分を言葉にならないうちにのみこんで意識下の世界にかくし、不可能なことは追求しない協調や忍従をみずからの生き方としている。だが、災厄や不幸がつみかさなるとき、こうした協調や順応や忍従の表象の底に、まだ言葉にも行動にも直截な表現をえない欲求や憤激が鬱屈したあいまいななにものかとして蓄積され、それがやがて明白な善悪の二元的対抗構造のなかで、明快でいきいきとした意味をもつようになり、そこに、活動的な闘う集団が構成されるのではあるが、それはやはり、権力主義的抑圧的な社会のただ中に、日常的生活者として存在をひきずって、かろうじて実現されていったものであった。(平凡社ライブラリー版、三〇二〜三〇四ページ)

 こうしてこの歴史家は、日本の農民一揆においては、どういう条件がそろった時に民衆が一揆にむかってふいに構造化されたかについての研究に入っていくわけですが、ここに引用したところまでで、すでにぼくの関心にとって必要な見解は得られています。すなわち、抵抗や反抗や蜂起に、もっともふさわしくない状態におかれてなんとか生きている人々が、ふいに蜂起して立ち上がる瞬間というものが、たくさんの農民一揆の事例を見てきている歴史家の目から見ても存在するように思われるということです。民衆の自然発生的抵抗が本当に存在するかもしれないという可能性、と言いかえてもいいかもしれません。
 この、自然発生的な抵抗、ということに、ぼくはかなりこだわりたい気持ちがあります。というのも、現代においては、社会が複雑になったかのようでいながら、逆に非常に一元的な管理や操作が行われる度合いが増してきている感じがあり、一見、民衆の自然な抵抗と見えつつ、じつは相当に組織立った操作が、ある集団から、あるいはある特定の組織によってなされていたというケースも多いように見えるからです。
                                        (続く)



◆ヴィヨン詩の訳は拙訳だが、複数の現代フランス語訳と邦訳を参考にした。

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