[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 35

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年四月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ドンナことばモ、ソレナリニ抵抗ナンダト思ウ、
(ふらんすノモ、今ノにっぽんノモ、ぼくノモ)、 その3

          〔日本中世の女たちの自由、近代日本の民衆蜂起、五月革命について〕

          ――裏原宿THC(トーキョー・ヒップスターズ・クラブ)での講演
            二〇〇六年十二月二十日







 (承前)

 民衆や学生の自主的な、自然発生的な抵抗運動と見られることの多い68年5月のフランスでの一連の出来事も、フランスの現代の歴史の本をあれこれ読んでいくと、当時、ド・ゴール大統領の側に勢力的に張り合っていた共産党や社会党が、裏で、いや、裏ばかりか、はっきりと表面でも、かなり積極的な活動を行った結果の成果であったことがわかります。
 五月革命というのは、短めの理想主義的な、あるいは人権主義的なパンフレットの文章によってこそ感動的にも奇跡的にも見えるところがあって、より細かくより細かくというふうに、中立的に描こうとしている歴史書の記述を読んでいくと、なんだか、現代の日本の政党の争いや、派閥同士の駆け引きばかりを読まされるような、長い長い、忍耐を要求される読書をいつのまにかしているのに気づかされます。

 じつは、今回、フランスの現代史の本を何冊か、五月革命について、時間をかけて、そんなふうに読んでみました。68年だけを読んでも、あのような事態に到った経緯はわかりませんから、第二次大戦終結の頃から68年まで、さらに、70年頃まで、それぞれの本を読んでいったのですが、結論から言えば、世間で目にしがちな五月革命の印象とは、また、だいぶ違った印象を受けたというのが実際のところです。
 世間で目にしがちな印象、というのは、民衆や若者の純粋な反乱といった神話化の施されたイメージですが、これの扱いというのが、非常に難しい。
 たとえば、ネットに「ウィキペディア」というフリー百科事典がありますね。あそこで、五月革命はどう扱われているだろうと思い、見てみたのですが、非常に偏よった視点からの解説と、明らかに誤った説明もある。こういう類のテーマで問題なのは、ネットなどで積極的に語ろうとする人々が、自分たちなりに理解した民衆の解放運動や人権運動やエコロジー運動、近年でいえばアメリカ流資本主義のグローバリズム化に反対する運動などのための道具として、過去の出来事を捻じ曲げて語ってしまいがちだということです。
 ウィキペディアでは、「五月革命(ごがつかくめい)とは、1968年5月21日にフランスのパリで行われたゼネストを主体とする民衆の反グローバリズム運動と、それに伴う政府の政策転換を指す」という大枠の説明が最初になされています。
 5月3日金曜日の午後に始まったこの一連の出来事を、1000万人規模の最大のデモが行われた21日を中心として語るのは、まあ、視点の問題に過ぎないとも言えますが、反グローバリズム運動として五月革命を簡単に規定するのはかなり問題がある。そもそも、反グローバリズムなるものが、現在、いろいろな意味づけをなされていて、多少なりとも面倒な定義づけをしないと使いづらい用語になっているという問題がありますが、そこを少し楽に考えて、仮に、第二次世界大戦での戦勝国である英米系による地球規模での経済支配体制に対する反対という意味で考えるなら、五月革命当時、フランスでもっとも果敢に反グローバリズム的行動を進めていたのは、学生や中低所得労働者が槍玉にあげたドゴール大統領その人なのです。
 巨大な階級制度を作っていこうとしているかのような意思の感じられる現在の世界状況に対抗するために、今から40年近く前に起こった五月革命に、なんらかの気のきいた呼び名をつけて自分たちの理想や運動の先駆けとして位置付けていこうとするならば、反グローバリズムといった言葉よりは、最近よく見られるようになったGlobal Justice Movement(グローバルな正義の運動)とか、Altermondialisme(アルテルモンディアリスム〜「もうひとつの世界への運動」とか「もうひとつの世界主義」)などのほうがよいように思えますね。
 地球規模での富の分散や搾取の撤廃や正義の実現を目指して、2001年1月にブラジルのポルト・アレグレで始めて開催された「世界社会フォーラム」という草の根レベルの国際的な集会において、「もう一つの世界は可能だ」というスローガンが掲げられていますが、これは英語ではAnother world is possible、フランス語ではUn autre monde est possibleとなっています。
 アルテルモンディアリスムという用語は、ここから出てきたもので、現在、フランスのメディアなどで多く使われるようになってきたものです。
 ちなみに、このフォーラムの日本連絡会は、もうひとつ別のスローガンも掲げていて、Another Japan is necessary!というものです。昨今のこの国の進み方を見ていると、じつにふさわしいスローガンだと思えます。
「ドゴール大統領は、軍隊を出動させて鎮圧に動」いたと書いてあるところも、ウィキペディアで問題なところです。ぼくが読んだ範囲では、軍隊が鎮圧に出動したという記述には出会いませんでした。もちろん、治安維持のためにforce de l'ordreは出動している。これは、治安部隊と訳されますが、警察と憲兵隊とからなる機動隊のことです。
 ぼくの友だちで、20代の頃に当時のパリに住んでいたフランス人女性がいます。その人に、この軍隊の出動云々の問題を質問してみたのですが、彼女の言うには、確かに軍隊は動いていた。しかし、ゼネストで交通機関がフランス全土でマヒしていたので、どうしても必要な人員や物資の輸送を行うために動いていた、ということでした。
 彼女がどうしてこんなことを知っているかというと、彼女の当時のフィアンセが若い医者で、パリとボルドーの病院を往復しながら仕事をしていた。交通機関が全面的にストップしているため、ボルドーへは行けない。しかし、医者の移動というのは国家的見地から見ても必要不可欠なので、空軍の軍用機でなんどかパリとボルドーを往復させてもらった、というのです。しかし、民衆の鎮圧のために軍隊が動いていたという話はまったく聞いておらず、あの時の軍隊の動きは国民のためになる適切なものだったように思えるが、と言っていました。
 小さな、たったひとつの例を今お話したのですが、五月革命のような事件においては、ようするに、こういったひとつひとつの証言の収集と積み重ねがどうしても大切になってくるのです。問題なのは、これらの小さなことを見ていく過程で、出来事全体の印象がきわめて大きな変質を遂げもするということです。とりわけ、共産党のだれが、どのようにどこで動いたか、そこへのソヴィエトの指示があったかなかったか、あったならば、どのようなものだったか、フランス全土で発生したストライキなどを支えた組織網はどのように、どの時点で作られたのか、かなり前から準備されていた共産党や社会党系の組織網がそこには使用されたのか、…こういった事柄の細部のひとつひとつは、まさに、五月革命の本質を決定するものだと思われます。
 いくら、今夜のテーマが68年5月というものだからといって、そういった細部までお話するのはふさわしくはないでしょう。そう思って、ここまでお話してきたようなヘンテコなものに今日は変えたわけで、本当のことをいうと、かなり詳細な、1944年から始まって、しだいに五月革命に至っていく歴史をお話しようと、準備していました。
 そういう細かいことに、ぼく自身はますます興味を持つようになりましたから、ここで、だらだらと、出来事の流れを語り続けるというのも楽しそうだなァとぼく自身は思うのですが、お聞きになっている側にとってはとんでもないことになりますから、ここで、ぼくの視点から見ての、五月革命のエッセンスを凝縮して、簡単にお話しておくということにしましょう。といっても、ぼくの思うには、五月革命のエッセンスは、むしろ、1968年以前にこそ撒き散らされているのです。


 話は、第二次大戦の終結からはじまります。
 ご存知のとおり、ドイツの占領下に置かれたフランスは、特にアメリカとイギリス、ソヴィエトの軍事力によってドイツから解放されて終戦を迎えますが、この時点で、フランスという国家を体現していたのが、亡命政府を率いていたドゴール将軍でした。
 彼を中心として、ドゴール派、共産党、社会党、キリスト教民主党などがいっしょになって44年から暫定政府が作られますが、46年、ドゴールは、憲法改正をめぐる意見の不一致から辞任し、フランスの政治はその後しばらく、共産党、社会党、キリスト教民主党による三頭政治になります。しかし、47年に、共産党の大臣たちが政府から追放され、残った社会党とキリスト教民主党での政府運営になりますが、ここで政府は、ドゴール派と共産党の双方を敵としながらやっていかねばならなくなります。
 これがけっこう大事なことで、この後のフランスの政治は、政府や国会という舞台をめぐっての、ドゴール派と共産党と、社会党、その他の中道派の、勝ったり負けたりの駆け引きのくり返しになります。47年頃の時点での、こんな党派の争いは、68年の五月革命には遠い話のようですが、そうではなく、20年間、それぞれの党のあいだの争いは過激さを増して、そのまま五月革命に流れ込むのです。ぼくがなんども仄めかした疑問、五月革命は、本当に若者や民衆の反乱だったのかという疑問は、第二次大戦後以降のフランス政治をたどってくると、どうしても第一に提起せざるをえない疑問です。
 こんな状態の中で、54年5月、かつてフランスの植民地であったヴェトナムのディエンビエンフーで、フランス軍がヴェトミン、つまり、ヴェトナム共産党と国民党の連合軍との戦いで全滅させられるという事態に到ります。
 かつてフランスの植民地であったヴェトナム、というふうにいま言ったのは、1945年9月2日にすでに、ホーチミンがヴェトナムの独立を宣言しているからです。1940年にヴェトナムをフランスから奪ったのは大日本帝国軍でしたが、45年8月の日本の敗戦の後、すぐに、ホーチミンは独立宣言をしたことになります。ヴェトナム側からみれば、日本軍が崩壊したところへフランスがふたたびやってきたわけで、フランス軍は当然、故なき侵略をしかけてきたと目されても仕方ないでしょう。
 死者1500人、3500人の重傷者、10000人の捕虜、しかもそのうち7000人は生きて帰れなかったというディエンビエンフーのフランス軍精鋭部隊陥落は、フランスにとっては大事件で、この時の大統領ルネ・コティは、理想主義的で活動的な社会主義者マンデス・フランスを首相に任命します。マンデス・フランスは非常な手際のよさでジュネーヴ条約に持ち込み、ヴェトナムとの問題を一気に解決に導きます。
 かつて24歳という年齢でフランス最年少の弁護士になり、ラジカル・ソシアリストとして活動を始めたマンデス・フランスは、14年後の五月革命の際、5月27日の重要な大きな学生集会に出席し、ラジカル・ソシアリストとしてのその存在によって、五月革命の学生たちを大いに鼓舞することになります。  同じ54年、ヴェトナム問題が終わったかと思うと、今度はすぐにアルジェリアで、国民解放戦線FLNが独立運動を開始します。アルジェリア問題はその後深刻の度合いを増し、FLNによるテロの激化、それに対するフランス軍の報復の繰り返しの過程で、収拾のつかない戦争状態に入ります。
 こうなると、当時のフランスでは、フランスというものの権化ともいうべきドゴールに登場してもらう他はないということになるわけで、58年5月、アルジェリアのフランス軍の将軍のひとりマスュが、権力の座へのドゴールの帰還を政府に要求し、6月1日にドゴールは首相になります。
 ドゴールは9月に新憲法を制定しますが、これは大統領の権力を非常につよくしたもので、大統領の任期を7年とし、首相の任命権と国民議会の解散権を持ち、重要な決定事項は直接に国民投票にかけることができるといった内容でした。戦後から始まったような、各政党の駆け引きで国家の運営に支障を来たす事態を軽減するための強力な大統領制を打ち立てたことになります。そうして、ドゴールは12月に大統領に就任し、同時に、フランス第5共和国が始まることになります。
 ここからは、いってみれば、五月革命に一直線の道が始まります。68年5月に若者や民衆が向かい合ったのは、ドゴールという顔を持つ、この第5共和制でした。
 62年にエヴィアン協定によってアルジェリア独立が決り、国民投票でも90パーセント以上の賛成でこれが認められます。
 しかし、こうしてアルジェリア問題が一段落しても、ピエ・ノワールといわれるアルジェリア在住フランス人の大量帰国や、アルジェリア人でありながらフランス側に加担したためにフランス本土に移住せざるを得なくなった人々などの問題、さらに、長いあいだの戦争で大きな痛手を蒙った財政面の建て直し問題などは継続し、これはそのまま、フランス国内の労働者の賃金を低い水準で維持する政策に反映し、五月革命での労働者たちの反乱を惹き起こす直接の引き金になっていきます。
 一方、この頃から学生の数もずいぶんと増え続け、58年から68年までの10年間に学生数は3倍になっていく。当然、大学卒業後の学生の就職先は甚だしく不足することになり、これが五月革命での学生の反乱の実質的な根拠となっていきます。
 アルジェリア問題が一応終わった後のドゴールは、財政の建て直しや、産業構造の変化への国家としての早急な対応に追われる一方、対外的には、なんといっても、戦後のままの勢いに乗って圧倒な力で世界支配に出ているアメリカとの勢力争いが最大の問題でした。アメリカと同一歩調をとって、ヨーロッパでの首位を取ろうとするイギリスとの競り合いもありますし、世界共産革命を推進しているソヴィエトとどう付き合うか、という問題もありました。
 こうした問題は、63年、ECへのイギリス加盟への反対という意思表示でかたちを取りはじめますが、これはアメリカと緊密な関係にあるイギリスを徹底してヨーロッパから排除し続けるというドゴールの政策の一環でした。
 この頃までに、アメリカはフランス国内に、アメリカの核ミサイル基地の建設を押し付けようとしており、それをドゴールが頑強に拒否したという経緯があります。そもそも、第二次大戦後の世界支配と分割を連合国だけで話し合ったあの1945年のヤルタ会談に、連合軍の指導者のひとりとして自分が、すなわちフランスが招かれなかったということ、そのことをドゴールは深く恨んでいたようで、戦後にすぐにはじまったアメリカとソヴィエトの冷戦もさることながら、ドゴールにとっては、アメリカとイギリスに対するフランスの徹底的な戦いが開始されたということなのでした。65年の大統領選挙に再選された時のドゴールのスローガンも、「フランスを世界の中での自らの位置に戻す」というものだったのです。この時の大統領選挙の対立候補は、のちの大統領フランソワ・ミッテランでした。
 ドゴールは、国際的な反米連合のようなものを作ろうとして、精力的に世界中を歴訪します。ドイツのアデナウアーと個人的に親友だったこともあって、63年時点で、かつての敵国ドイツと友好条約を結び、現在に至るフランス・ドイツの友好関係の基礎を築きます。やはり63年の5月には、すでに60年に開発してあった原子爆弾を配備して、アメリカの核兵器配備への参加に対して完全拒否を見せ付けます。ソヴィエト共産党に対して中国共産党が絶縁した64年には、アメリカとソヴィエトへの対抗措置として、中国を公式に承認し、毛沢東にむけて特使としてアンドレ・マルローを派遣。同時に、東南アジア中立化構想を発表。さらに、1966年には、NATO北大西洋条約機構を脱退して、アメリカに対して軍事的な共同関係を撤廃。同年8月、カンボジアのプノンペンで、ヴェトナムへのアメリカの侵略を厳しく批難し、インドシナの中立化を提案しています。
 こうして進んできたところで、1967年、フランスは大きな景気後退に見舞われますが、これが中低所得サラリーマンの生活にじかに響き、学生たちの将来にも暗雲を投げかけます。経済は低迷し、失業が増えて、ここに、五月革命の発生する実質的な素地が形成されます。


                                          (続く)


◆年月日等の数字データは、見やすくするため、アラビア数字で表記した。

[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]