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ARCH 36

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年四月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ドンナことばモ、ソレナリニ抵抗ナンダト思ウ、
(ふらんすノモ、今ノにっぽんノモ、ぼくノモ)、 その4

          〔日本中世の女たちの自由、近代日本の民衆蜂起、五月革命について〕

          ――裏原宿THC(トーキョー・ヒップスターズ・クラブ)での講演
            二〇〇六年十二月二十日







 (承前)

 この時より3年後の1970年に、哲学者のジャン=ポール・サルトルが、「第三世界は(都市の)郊外に始まる」という文章を書いていて、フランスにおけるアフリカ系の移民労働者の状況を告発しています。アフリカ系労働者を、わざと不法入国させ、不法就労、不法滞在させて、法定賃金よりもかなり低い賃金で労働力を利用し、なにか問題が起これば、彼らが不法滞在だという理由ですぐに国外強制退去させられる国家と警察の仕組んだシステムを告発しているわけですが、サルトルはこんなふうに言います。

 というわけで、アフリカ人労働者は過剰搾取を受けているのだ。そして彼らが過剰搾取を受けているのは、まさしくフランス経済が、賃金以下の賃金、フランス人労働者の給料より劣った給料の人びとを使わぬかぎり、ヨーロッパにおける競争的な地位を維持できないからである。*

 アフリカ系労働者は国家のたくみなお目こぼしと誘導によって法の外におかれ、フランス人労働者よりもさらに搾取される状態に陥るわけで、サルトルも言うように過剰搾取の対象に意図的に置かれるわけです。戦後、植民地を失ったフランスは、かつては植民地を過剰搾取の場所としてのが、今度は国内に過剰搾取の可能性を作り上げることになり、その物質的な場所が、都市の郊外という、内なる新たな「第三世界」だというわけです。現代のフランスの思想家のエチエンヌ・バリバールは、資本主義体制においては、過剰搾取ということがなければ、そもそも搾取自体がなりたたない、とまで言っており、資本主義が本来的に要求してくる現象だと考えています。
 サルトルが指摘している問題は、もちろん昨年秋にフランス全土に広がった郊外のあの暴動に直接繋がっていく問題で、五月危機という言い方にちなんで、郊外危機(crise des banlieues)とも呼ばれ、五月革命どころではない深刻な時限爆弾のままの問題のかたちで、なおも現在のフランスの中にくすぶっていますが、いま五月革命を見ているぼくらとしては、革命やなんらかのラジカルな反乱の最初の動きは、往々にして、もっとも苦しんでいる階層から起こらずに、それよりももう少し上の、もう少し楽な階層から発生しがちであるという革命の法則を思い出しておけばいいかもしれません。
 過剰搾取という問題を出したついでに、ここでさらに包括的な問題の認識の実例にも触れて起きましょう。サルトルよりも10年後の1980年に、哲学者のジル・ドゥルーズとガタリが出した『千のプラトー』という、あまりの抽象性とあまりの射程の広さのゆえに徹底的に読みづらい本ながら、20世紀後期以後の資本主義社会での本当の革命理論書といえるような本の中の一節です。

 資本主義と呼ばれる世界規模の公理系は、オートメーション化やエレクトロニクス、情報処理、宇宙開発、軍備拡大などといったポスト産業主義的活動とを中心に確保しつつ、周辺に高度な産業や高度に産業化された農業を設置していくものである。しかし、そうすればするほど、資本主義の中心にも、低開発の周辺的な地帯や、内なる第三世界や、内なる「南」を設置することになる。下請けや臨時雇いや非合法労働などの不安定な雇用においやられた「大衆」が存在し、その生活は、公式には、国家の社会保障と不安定な給与によってのみ維持される。イタリアでの例を研究したアントニオ・ネグリのような思想家は、こういう状況下にあって、学生たちは資本主義社会の「周辺」にと同化されていきがちであるのを指摘しており、内なる周縁の理論を生み出している。**

 1980年に書かれたことではありますが、基本的には現代も同じ構図のなかで資本主義という装置は動いているようですし、これより前の1968年にもそのまま通用する見取り図になっているようです。


 さて、政治の世界でも、67年は、ドゴールに対する逆風が突然強まります。財務大臣だったヴァレリー・ジスカールデスタン、ご存知の通り、これは後の大統領ですが、彼が打ち出した経済政策の評判が悪かったため、ドゴールはミシェル・ドゥブレに換える。これをジスカールデスタンは相当恨んだようで、ここで新しい政党をつくり、以後、ドゴールに対して無視できない抵抗勢力となっていきます。左翼は左翼で、ドゴール政権をワンマン権力として、さらに強く批判するようになり、政策上の公開討論が、首相のジョルジュ・ポンピドゥーと、マンデス・フランスやフランソワ・ミッテランのあいだで行われたりしています。ドゴール派は、大統領権力の勢いを駆って社会や経済の近代化と成長を推進し続けようとしますが、左翼系など、それに対抗する側は、ふたたび大統領から党へ権力を移す方策を考え始めています。この年に行われた国民議会選挙では、こうした状況を反映して、ドゴール支持派は勝利を収めはしたものの、487票分の244票という、なんと1票差のギリギリのところまで追いやられます。

 政治や経済がこのような状態に入っていく中で、この年の1月15日には、すでに、パリに近いナンテールの大学と、ノルマンディーのカン大学のキャンパスで、学生と治安部隊(force de l`ordre)との衝突が発生していました。治安部隊というのは、さきほどもお話したように、警察と憲兵隊とからなる機動隊です。
 この衝突は、教授たちが独占している大学運営に学生も参加させよという意味合いの1966年のストラスブール大学での事件に連なるものでした。
 2月11日、今度はボルドーで、軍需産業のダッソーの工場の労働者と学生がいっしょに示威行動を行います。24日、FGDS(民主社会主義左派連合)と共産党が行動計画を採択、26日には中等教育の教員たちがストを行うとともに、高校生たちの行動委員会の最初のミーティングが開かれます。
 3月22日にはナンテールで新たな衝突が発生します。ヴェトナム戦争反対のデモ参加者逮捕に抗議して、学生たちが建物を占拠したというもので、この時の先頭に立っていたのがDaniel Cohn-Bendit(ダニエル・コン=ベンディット)という人で、五月革命の中心人物のひとりです。現在は、欧州政府の一員として活動中ですが、これによってナンテール大学は閉鎖され、運動はここからパリのカルチェ・ラタンに移動することになります。
 こうして、68年5月の五月革命、立場が違う人々は5月危機などとも呼びますが、今夜の中心テーマである出来事が始まっていくわけです。


 この時点で注意しておくべきことは、ここまで見てきたように、出来事は5月に突然始まったわけでもなければ、集まった学生たちから自然発生的に生じた運動だけで構成されているわけではないということ、また、すでに政治の世界の党としてのFGDS(民主社会主義左派連合)と共産党が計画的に組織とアジテーションを進めているということなどでしょう。
 五月革命は、当時のフランス政治のいろいろな政党の運動の分析を、手続き上、どうしても必要とするテーマであり、この時のドゴール政権が明確にソヴィエトに対抗する路線を採っていた以上、ソヴィエト共産党からフランス国内に伝達されていたはずの極左の活動家たちへの指令や、それとのフランス共産党や社会党などとの関係の有無や深浅なども調べる必要が出てきます。
 ぼくが興味を持つのは、五月革命が学生や民衆の自発的な抵抗運動ではなかったという偶像破壊ではなくて、どの程度、どこまで、どのように自発的な抵抗運動は起こっていたのか、それらは、どのあたりで、どんなふうに、プロの革命先導集団によって損なわれたのか、あるいは、それらによって補われたか、ということです。


 68年5月に入ってからは、5月3日金曜日の午後に、いわゆる五月革命が本格的に始まります。ソルボンヌ大学に立てこもった極左の学生たちを逮捕するために警察が大学に入りますが、国家権力が犯すことのできないはずの大学への、この警察介入ということで、一気に乱闘が始まり、夜まで続きます。投石や火炎瓶での攻撃が警官隊にむけてなされ、警察のほうでも、催涙ガスをかなり使用したり、その結果、町中に催涙ガスがあふれて交通がマヒし、学生とは無関係な路上の通行者やカフェの客たちも警察の暴行を受けるという事態にまでなります。
 翌日からは、学生たちの運動は加速し、パリの全大学はストライキに突入、ジャック・ソヴァジョ率いるフランス全学連、ダニエル・コンベンディット率いる「3月22日運動」、高等教育組合の大半などが、毎晩大きなデモを行い、カルチェ・ラタンからの治安部隊の撤収とソルボンヌの再開、逮捕された学生たちの釈放を要求します。7日には、数十万の学生がパリをデモ行進し、凱旋門の無名戦士の墓の前で、やっぱり、というか、なんと、というべきか、共産党の歌である「インターナショナル」を合唱し、それからシャンゼリゼを登っていきます。
 10日には大群衆がソルボンヌを取り囲み、警視総監との会見を要求しますが、これは拒否されます。これを契機に、学生たちの路上バリケードづくりが開始されますが、夜じゅう続いた警官隊の襲撃でやぶられます。
 しかし、翌日11日、パリだけでなく、フランス全土が完全なマヒ状態に入ることになります。


 あとは急いで見ていくことにしましょう。


 ポンピドゥー首相がソルボンヌ再開の宣言を出したにもかかわらず、13日には、もろもろの労働組合が、一日中のゼネラルストを行い、警察の暴力に対する抗議を叫びます。80万人規模のデモ行進が東駅からダンフェール・ロシュロまで行われますが、この時点で、それまで学生の問題に限られていたスローガンの拡大と変質が行われます。マンデス・フランスやフランソワ・ミッテラン、ギイ・モレ、ヴァリデック・ロシェなど、左翼の大物政治家がデモ行進に加わり、ドゴールによる権力の独占への告発が、彼らによって大きな位置を与えられることになります。
 若い労働者たちは職場への復帰拒否を宣言、学生たちはソルボンヌを占拠、はじめはナント、次に各地のルノーの工場、それからRATP(パリ市交通公団)やSNCF(フランス国有鉄道)などと、国内の至るところで、工場や職場を占拠してのストライキが起こっていきます。この頃になると、ガソリンスタンドの大半も閉鎖されます。
 15日には、オデオン座支配人の演劇人ジャン=ルイ・バローが運動への参加を決めることで、知識人たちの参加が一気に始まります。
 20日にはORTFフランス・ラジオ・テレビ放送局のジャーナリストたちが報道の公平さを要求。
 21日には、CNPF、フランス経営者全国評議会さえも幹部の有志たちによって占拠され、この日の時点でのデモ参加者は1千万人に達します。
 22日には政府が、それまでの暴動での逮捕者を釈放するものの、事態の沈静化はまったく見られません。
 23日には、作家有志たちも、フランス作家協会を占拠。
 24日にはリヨンで治安部隊とデモ隊との大きな衝突が発生し、夕方にはパリに飛び火します。この時点でドゴール大統領は、ラジオで国民に、彼の政策へのparticipation、つまり、参加、責任の分担負担などを呼びかけ、それについての国民投票を行う旨の伝達を行います。しかし、リヨン駅でのデモはここで暴動に発展し、証券取引所への放火や各地の警察署への襲撃が続きます。


 ここでドゴールが言っているparticipationという言葉を、じつはこの間、女性として初の大統領候補になったセゴレーヌ・ロワイヤルが演説で言っていました。パリ十六区の流行に敏感な若い女性たち御用達のブランド《ポール・カ》、銀座にも出店していますが、あれに身をつつんだ彼女は、
「男女を問わず、わが国のあらゆるフランス人に向けて、私は今日呼びかけます。集まるのです。決起するのです。そして、国のために自分ができることはなにか、そう自らに問うてください。(…)フランスの(新しい)イメージを思い描くということ。国民の新たな使命として、私はみなさんにこれを提案したいと思います」。
 こんなふうに演説していましたが、フランスの政治演説の歴史の上では、あきらかにドゴールの口調の引用が多用され、さらに国際的な演説の歴史で見れば、一九六一年一月二十日のケネディのあの大統領就任演説、「国があなたに何をしてくれるかではなく、国のためにあなたは何ができるのか、それを考えよ」の内容的なパクリをやっています。


 さて、事態打開のためにポンピドゥー首相は、労働組合と経営者側組合の代表者たちと、ジャック・シラクやエドゥアール・バラドュールなどを含む政府側の担当者を集めて会議を開きます。27日の朝まで、30時間に及ぶこの会議で、SMIG最低賃金の35パーセント引き上げや労働時間短縮、団結権の確保などが決定されます。
 しかし、この同じ日に、シャルレティ・スタンドで大きな規模の新たな学生集会が開かれ、左翼の大立者マンデス・フランスや社会党のミシェル・ロカールなどが参加。ここでの発言の数々は、まさに革命前夜のそれに近づきます。
 翌日28日、フランソワ・ミッテランがプレスの記者会見で、もはや権力は空洞化している、マンデス・フランスを中心とする臨時政府をここに提案する、という、まさにクーデター宣言を行います。軍事衝突が伴えば、これはそのままクーデターであり国家叛逆になるわけですが、それがなかったので、見方を変えれば、社会党の大言壮語とも言えます。ある意味で、ミッテランは巧妙に、うまいギリギリの路線を狙ったといえます。
 ところがここですぐに共産党が声明を出し、社会党の反コミュニズムの姿勢を糾弾します。そして、こちらはこちらで、gouvernement populaire、人民政府の設立を呼びかけます。


 今日のTHCの厚紙のチラシのポスターにも、pouvoir populaireと書いてありますね。このpopulaireという用語を使うのは、共産党系である場合が多いので、こういうポスターを見る場合、どちらのセクトの側のものかの判断材料になります。
 学生と民衆の運動が最大限に盛り上がり、本当の革命前夜に到ったかのようなここの時点で、このように、左翼の内部での分解が突然発生します。これは、いまの現在の時点から見ているわれわれには、最高に面白いドラマとも言えそうですが、まさにこのクライマックスの地点で、ドゴール大統領がまたやってくれます。


 なにをやったか? 突然、パリから忽然と姿をくらましてしまうのです。
 後になってわかったのは、軍のヘリコプターでバーデンバーデンまで飛び、そこで、当時、ドイツ駐留フランス軍指令官だった、気心の知れたマシュ将軍と秘密の会見を行っていたということです。
 ドゴールに対するフランス軍の忠誠を確認しにいったのだとも、軍による大がかりな鎮圧を行って、逆の軍事クーデターを先にやってしまおうと計画したのではないかとも、いろいろ憶測が飛びましたが、ドゴールのこの時の行動の理由は、現在に到るまでナゾのままです。
 ただ、近年になって出版されたドゴールの息子による回想録によると、この時、ドゴールは家族をともなってバーデンバーデンに赴いており、息子の記憶では、そこで、ただ家族いっしょに温泉につかって短いバカンスをしていただけだ、と書かれています。
 ま、そんなことはないでしょうけれど、これが本当なら、ドゴールはやっぱり凄いかも、とうっかり思ってしまいそうです。やっぱり、第二次大戦中に、当時のフランス政府のペタン政権から死刑判決を受けながら、亡命先のロンドンでレジスタンス指令を出し、ヒトラーと戦うとともに、イギリスやアメリカやソヴィエトとの戦後の対決を計画していた人物は徹底的に違うのではないか、と思わされます。
 帰国したドゴールは、30日にラジオで、共産党による国家転覆の画策を糾弾し、国民議会の解散を告げるとともに、ポンピドゥを中心とする臨時政府設置を告げ、6月に総選挙を行う旨を告げます。ここで彼は、今後、自分の政策に従うのか、反対するのかを国民に直接問いかけようというわけです。


 ここが、68年5月の大きな転換点になります。ドゴールのラジオ声明のあった晩、作家で大臣のアンドレ・マルローやフランソワ・モーリャックなどを含む穏健派ドゴール主義者や沈黙の多数派と呼ばれる人々が、ラ・マルセイエーズを歌い、フランス国旗を翻しながら、100万人規模のデモ行進をシャンゼリゼで行います。ここをもって、いわゆる五月革命の潮は一気に引き、それまでの盛り上がりが嘘のように消滅していきます。名まえも、五月革命から、五月危機と呼ぶのにふさわしい雰囲気が生まれていきます。
 このポイントは、ぼくの思うに、68年5月の出来事で、なによりもいちばん面白い点です。左翼の分裂と、とくに共産党へのドゴールの糾弾が、これほどの沈静化の特効薬になったというのは、人々の心理や社会把握の根底にそれなりの背景がなければなりません。今日は、これを深める時間も用意もありませんが、ここのところをもっと掘り起こしてみたいものです。
 もちろん、左翼陣営や学生からの反抗はまだ出るのですが、6月18日頃になると、あれほど荒れたフランスは、全国で、ほぼ元通りに戻ります。
 しかも、6月終りに行われた総選挙では、ドゴール派は487議席のうちの293議席を確保して圧倒的な勝利となり、FGDS民主社会主義左派連合は議席を64も減らして34議席の確保、フランス共産党に到っては39議席を失って、34議席の確保という結果になりました。五月革命と呼ばれた左翼のひと月天下の結末が、この体たらくです。
 10月には、新しい教育大臣エドガー・フォールによる高等教育と中等教育の改革で、教授の権限の縮小と、学生の主体性を文部省が公的に承認し、アグレガシオン等の民主化、大学自治の確立などが行われ、当初の主役だった学生の要求もある程度実現しました。すでに、労働者の権利拡大も行われていたので、五月革命の運動がそれなりの制度的な成果をもたらしたのは事実です。


 話には後日談というものがあるもので、翌年の69年4月、ドゴール大統領は、地方分権の推進や上院議会の改革を国民投票で問うた際に、53.2パーセントのNONを突きつけられるという予想外の事態に直面します。これは、五月革命の焦点となった問題を扱った国民投票ではなかったのですが、彼は翌日の朝すぐに大統領を辞任する旨のコミュニケを発表し、昼には大統領職を放棄し、以後、完全に政治の世界から退いて、1970年になくなります。




 さてと、……、いやぁ、長かったですね。これで、ごくごくかいつまんだかたちで、68年5月の、いわゆる五月革命、五月危機をざっと見てきたことになります。ぼくとしては、この出来事を追いながら、けっきょく、シャルル・ドゴールという人物の底知れない魅力とナゾをふたたび確認させられたという思いがあります。
 まあ、五月革命当時などはまだまだいいほうで、今は、白人でないフランス人たち、郊外の若者たちの問題などがもっと深刻になっています。今晩の集まりでは、詩の朗読もプランのうちでしたが、彼らの気持ちを表わしたラップ・ミュージックの翻訳を、朗読というより、ちょっと読んで、紹介しておきます。


 まず、ザィール移民の2世で、パリ郊外育ちのムッシューRの歌。

   フランスはあばずれ
   クタクタになるまで犯してやれ
   売女同然に扱え
   ナポレオンにもドゴールにも小便かけてやるぜ
   フランスはヒデえ母親
   道端に自分の息子たちを捨てて、知らん顔  (Monsieur R, 《FranSSe》, 2005)***


 次にもうひとつ、ドヴィルパン首相から訴追されたスナイパーの曲から。

   世の中不公平
   カネがすべて
   オレの顔には書いてある
   カネには縁がないってね
   世の中逃れられないルールがある
   階級、スタイル
   すべてお前のツラ、人種別に決ってる

   貧困から抜け出し
   犬でなく市民として認められるため
   皆どん底の問題の前で結束する
   フランスは俺らをこんなに苦しめたい
   話を聞いてもらう唯一の方法は車に火をつけることらしい
   憎むべきクソシステム、でも燃やしても結局先に進まない
   フランスはあばずれ、俺たち裏切られた
   システムが俺たちに奴らを憎ませる
   憎しみが俺たちの言葉を下品にする
   ポピュラーミュージックのメロディでフランスを犯してやる
   皆、いいか、弾圧なんて気にするな
   共和国も、表現の自由もクソ食らえ
   法を変えてやれ、そうすりゃエリゼ宮で
   アラブ人と黒人が権力を握るさ     (Sniper, 《La France》, 2004)****



 いかがでしょう、五月革命は、終わったどころではない、と考えておくべきではないでしょうか。これから、未来の爆発に向けてどんどんと密度が増している雰囲気があります。
 しかしながら、こういう詩や歌が露骨に出てくるフランスと比べて、日本のポップスの世界や詩の世界はどうか。
 そう思ってふり返ってみると、じつは、この国でのほうが、遥かに恐ろしい事態が進行中なような気もしてくるのですが、考え過ぎというものなのでしょうか。

                                      (終わり)


*サルトル『第三世界は郊外に始まる』は、鈴木道彦訳。『植民地の問題』(鈴木道彦他訳、人文書院、二〇〇〇年)所収。
**ドゥルーズ+ガタリ『千のプラトー』の訳は、河出書房新社版を参考にした拙訳。
***森千香子『炎に浮かぶ言葉 ―郊外の若者とラップに表れる「暴力」をめぐって』(『現代思想』2006年2月臨時増刊
総特集フランス暴動¥且)の訳を使用。
****同じく森千香子の前掲書より。

◆年月日等の数字データは、見やすくするため、アラビア数字で表記した。

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