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ARCH 37

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年五月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




崩壊地、詩歌…


 秋山久美子さんという森林インストラクターの『都会の草花図鑑』(八坂書房)が気に入っている。三〇〇種程度の収録で、図鑑としては少なめの項目揃えだが、草花の撮影も写真選びも適切で、過不足ない説明には、さっぱりとした詩味さえ感じられる。開くたびにふしぎなほど充実した気持ちになる。
 植物図鑑好きなので、書店に行くたびに図鑑の棚を覗く。項目数が多くても撮影センスのよくないもの、説明の文章がどこかピントはずれのもの、本として使う喜びを与えてくれない体裁のもの等が多く、高価でなくても、購入しようかどうかとなると足踏みしてしまうことが多い。よい図鑑でも、広辞苑ほどある重さと嵩のものではつらい。そういうものは数冊持っているが、庭近い板敷きに置いてページを繰るのがせいぜいで、戸外に持ち出した試しはない。けっきょく戸外へは、小学生の頃に買って愛用してきた『新訂学生版・牧野日本植物図鑑』(北隆館、一九六七)を持って出ることになる。植物好きなら、牧野富太郎のモノクロの自筆写生による図鑑類の素晴らしさは、誰でも知っている。開いたが最後、時間も忘れて延々と見入ってしまう。
 とはいえ、いまの時代では、しっかりとピントの合ったカラー写真のものをほしく思うのも自然なこととして許されていいだろう。野外に持ち出すとなれば、できるかぎり軽く、検索も便利な図鑑であってほしい。こんなわけで、たびたび書店の図鑑の棚の前に立つことにもなり、毎度の逡巡の末、ある日、秋山久美子さんの『都会の草花図鑑』に出会うことにもなったわけである。

 図鑑というのとは違うが、植物の本で絶品というべき快楽を保証してくれるものに、一月に出た岩波文庫『百花譜百選』がある。植物好きには稀な好著というべきだろう。木下杢太郎の『百花譜』は有名だが、そこから百の植物画を選び、文庫版に編み直してある。絵の見事さと、戦中に記された短い日録の数々は、見る者の心に静寂を呼び覚ましてくれる。  木下杢太郎については、よい読者であったことはなかった。が、わずかながら、関わりと思い出はある。学生時代によく伊東に遊んだのだが、その地にある木下杢太郎記念館を何度か訪れたことがあった。
 記念館は彼の生家で、そこを訪れるたび、杢太郎の親族のおじいさんと話した。息子さんか、甥に当たる人だったと思う。共産党員で、日本人は贅沢していてはいかん、と説教された。お説ごもっともと思ったが、どうして杢太郎の生家に来てこんなことを言われなければならないのだろう、と訝った。だが、日本がバブルの上り坂を駆け上がろうとする頃で、いま思えば、適切な教示だったと言えなくもない。私が行く時には、きまって、他には誰も拝観者がなく、夏の午後の油のような暑さの中で、お茶をもらって、縁側で長々と話を聞いていた。

 伊東の街に夕方になって戻ってくると、一軒だけある貧相なストリップ劇場の前で、油っけの抜けた親爺が掃き掃除をしていたりする。たしか、ショーは夜の八時頃に毎晩一回だけあるはずだった。淋しいストリップが行われるのだろうと思い、無性に入ってみたかった。だが、ナニモ、伊東デすとりっぷニ入ル必要モアルマイ、と思い、とうとう入らなかった。
 しかたなく、近所の射的の店で、他の客が下手な鉄砲を撃つのを冷やかしたりする。自分では、それさえやらなかった。
「やらなかった」ことの、こうした些細な数々。
 今になると、これらが、けっこう大事なものの喪失を点描しているような気がする。

 宿に帰り、夕食をとってから温泉に体を沈めていると、その夜も見なかった淋しいストリップが、心の中に、ほのかに光を浴びる菫かなにかのよう揺れる。
 侘しいストリップ小屋に入らなかったのは、あきらかによい選択だったが、淋しく、侘しいものへの傾斜は心にいっそう深く沈み、いっそうの牽引力を得て、若かった私の未来を、なにか形のはっきりしない不幸なもののほうへ引き摺っていくようだった。

 文芸との、その後の、私なりの付きあいは、このあたりからやってきたような気もする。
 流行らない、侘しい、淋しいものがますます好きになり、爾来、私の人生は二十年以上の空白を経ることになった。

 バブルが膨らみ、はじけ、長い経済的な停滞が来て、今また新たなバブルが来ようとしていると説く人々もいるが、そんな日当たりのいい表通りには縁もなく、陰性植物の胞子の流れのような密やかな生が、いわば私だった。
 なぜだか理由はわからないが、縁あって、詩歌を読むのを好んだり、同好の人びとに接することにもなったが、いうまでもなく、華やかな現代社会の変転や喧しい産業界の浮沈に比べれば、存在しないも同じようなのが詩歌の世界というものである。詩歌というものの侘しさは、けっきょく、時代の変化からたいした影響を被ることもなしに、ほとんど変わっていないように思える。

 植物図鑑などでは、草花が生育する土地の説明の中で、おりおり「崩壊地」などという表現に出会う。まさに、この「崩壊地」こそ、詩歌というものの常なる性質ではないか、とよく思う。

 傍目には侘しさ、淋しさ、空しさと映るものが、過重なまでの未来的なポテンシャルを包含していたりする…
 そんなふうに思いたい時もあるが、もちろん、無理にこんな考え方をしないことこそ、詩歌にはふさわしいのだろう。なにより、空元気や虚栄のポジティヴぶりを斥けることこそが、詩歌というものの倫理だったはずである。

 崩壊地、詩歌…
 私のようなものには、やはり、楽園だったりするのかもしれない。

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