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ARCH 39

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年九月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




渋柿色の着物にトレンチコートを重ねた窪田空穂



 偶然目にとまった万葉・古今・新古今の注釈本は、大部だが九百円ほどだった。はじめて入った古本屋にしては、他にも面白いものがいろいろあって、その注釈本のすぐ下にあったマルクス・エンゲルス・レーニン選集も綺麗な背表紙で、なかなかよさそうに見える。
 マルクスのほうは、ま、今日はいいだろう。万葉・古今・新古今の注釈本のほうを、買おうかどうしようかと、もう少し細かく眺めてみることにした。厚さは、どう見ても十センチ近くある。はじめ気づかなかったが、「世界現代文学」というシリーズ名が、背表紙の下のほうに記されていた。しかも、窪田空穂による注釈だ。彼の注釈が、どうして「世界現代文学」に入っているのだか不思議だったが、後ろのほうの全巻案内を覗いてみると、後の巻にバフチンやロラン・バルトなどが入っている。とんでもない編集の「世界現代文学」もあったものだ。
 肝腎の注釈のほうは、万葉からではなく、新古今から始まっている。第一歌、持統天皇の

   春過ぎて夏来にけらし白たへの衣干すてふ天の香具山

 大胆である。これは夏歌であって、これに先立つ春歌なんぞは一切無視されている。ヘルマン・シェルヘンがマーラー5番の最終楽章を大幅に省略して、一〇分程度で止めにしたライブがあるが、あれに匹敵する。
 注釈というか、鑑賞というか、これがまた、ぶっ飛ぶ。
「これは持統天皇が処女喪失した時のお歌である。『春過ぎて夏来にけらし』という表現が効いているではないの。春は過ぎたのである。夏が来たのである。どうだ、春過ぎて夏来にけらし、なのである。春を鬻ぐという言い方があるが、持統天皇がそうしたわけではない。そこまで行っては読み過ぎである。売春という美しい表現もある。ここではそれも関係ない。しかし、わたくしは思うのだが、『過春』なんぞという表現もいいと思うのである。処女喪失は過春なのである。そうして、夏が来たのである。どうだ、夏だぞ、夏。『夏女』なんぞという季語があったかな。処女喪失したばっかりの女は、みんな『夏女』である。夏女氷あづきを頼みけり、なんちゃって。喪失といってもそれはそれ、愉しかったりもするのだから、喪失感と愉楽との混ざりあいは微妙で、わたくしはそこが嬉しいね。やがては『秋女』や『冬女』になっていくのであるが、『夏女』の盛時の喪失感は詩語として勝るのである。ニーチェの正午と違って、ちょっと滅びの色がある。ニーチェ直結のカミュの真昼でもない。さすがに世界文学に冠たる持統天皇なのであると思う。『白たへの衣干すてふ天の香具山』は、素直に読み流してもいいだろう。『白たへの衣』を初夜の血が染めてしまったのは想像に難くない。それを『干すてふ天の香具山』としたところ、いちおう洗い流した後で、しかし初夜の血の精髄を、見えぬかたちの初穂のごときを神に捧げる様がありありと読者の脳裏に浮かぶように歌われていて、壮絶、超越である。…」
 全編こんなふうなのか?これを買わない手はない。窪田空穂というのは、トンデモ本作家であったのか?
 万葉集の注釈は窪田空穂によるものではないらしい。知らない人の名が書かれているが、ぱらぱらとめくってみて、これも驚く。なんと右開きでなく、本の後ろから、左開きになっていて、横書き。しかも、万葉集の歌なんぞまったく出て来ずに、数式ばかり出て来る。万葉集の数式的読解らしい。そんなものがありうるのかどうかわからないが、どういうのだろう、いちいちの表現を数や記号に置き換えて、そうして方程式をこしらえて操作し、効果や意味なども数や記号で出てくる。文学解釈の世界も、なんだかさっぱりしてきたものだ。だが、こんなのが戦前に行われていたのだから、三十年代までの日本文学界は、じつは世界に先駆する構造主義の時代を謳歌していたのかもしれない。
 詳しいことは家で見ることにし、ともかくも購入。店の外に出た。早稲田大学近くの店だったので、少し通りを行くと、早稲田の裏出入口のひとつが見えた。
 用もなかったが、自動販売機でお茶でも買って飲もうかと思い(大学構内の自販機で買うと、一〇円や二〇円ほど安かったりする)、裏口から入ると、「あれ?」と声をかけられた。
 見ると、高校時代に親しかった文学友だちである。彼は大学の日本文学科に進み、卒業とともに女子高校に就職、そのまま高校の国語教師を続けているはずである。むかしハゲかかっていたが、不思議なことにはハゲは進展していない。なにか工夫をしているな。しかし、口元にはちょっと皺が出ている。年齢は隠せないものだよね、お互いに。もう中年もいいところなのである。
 どうしてこんなところに?とは尋ねない。そういうたぐいの質問を、この頃、人にしなくなってきた。こういうのは歳のせいだろうか。いきなり本題に入るのだ。もっと前戯してぇ、と言われることもある。「どうしてこんなところに?」とか「きょうはなんでまた…?」とか「暑いねえ、この頃」なんていうのは会話の前戯である。そんなことせずに、いきなりイワン・カラマーゾフの夢の解釈論あたりに入るほうが楽なのだ。やっぱり歳のせいだろうか。
 しかし、ひさしぶりの会話そのものは、ちゃんと済ませなかった前戯をだらだらといつまでも続けるような格好になった。
「あれからどうしてたの?その後?」
「どうって、別に、まあ、ふつうの高校教師だよ」
「ふつうって… けっこうフツウじゃないこと、やってんじゃないの?あぶないこと、やっちゃってたりして…」
「そんなことないよ。ふつうだよ。ふつう。ぜんぜんあぶなくない」
「とかいってさ、あぶないんだぜ、こういう奴にかぎってさ」
「ほんと、あぶなくないって。ふつうもふつう。なんでオレはこんなにふつうなんだぁって叫びたくなるほどだよ」
(こんな調子で「ふつう」「あぶない」「あぶなくない」論議が延々と続いたが、さすがにバカらしいので、ちょっと省略する)
「へえぇぇぇぇぇ」
「ほんとだよ」
「そ〜かぁ〜?」
「そんなもんだよ」
「そ〜かなぁ〜?」
「だからさぁ…」
(こんなやりとりが数十行分は続いたが、これも省略)
「そういえばさ、高校の頃、おまえさ、大事なのはやっぱ家族だろうって言ってたよね。すぐ結婚したりしたの?」
「けっこうすぐだったかもね」
「卒業して翌年とか?」
「いや、数年後だけどさ」
「二十五歳ぐらいで?」
「二十六だったかな」
「早いじゃん?」
「オレらのあいだじゃ、早いかもね」
「早いぜ。ブルジョアだぜ、おまえ」
「ブルジョアかぁ?古い言葉、言うなよ」
「でも、なんかさぁ、やばいぜ。早すぎちゃって」
「そんなことないって。後はカアチャンとえんえんと日常が続くって感じだもんな」
「でさ、子供もすぐにできたの?」
「それがさ、できたんだけど…」
「できたんだけど…?」
「すぐ死んじゃってさ」
「え?それは、…残念だったなぁ」
「うん、で、次の子供は…」
「次の子は…?」
「死産でさ」
「…そうなんだぁ」
「そうなんだよ」
「で、次は?」
「また、死産」
「がっかりだったろうなあ。それで?」
「また、死産」
「…んんん。でも、がんばるね、おまえんとこ」
「うん、だけどなあ…」
「その後は?」
「途中で流れちゃってさ」
「またか?」
「そうなんだよ」
「へんだよなあ」
「そうだよなあ」
「でもさ、おまえさ、家族がいちばん大事だって言ってたろ?大家族が作りたいとかってさ?」
「ああ」
「そうはならなかったんだぁ?」
「ま、いまのところはな」
「まだがんばってんのか?」
「だって、あきらめる歳でもないだろ、まだ」
「そうだけど、奥さんもたいへんだろ?」
「たいへんって言えばたいへんだけど、妊娠自体はタダだからな」
「タダって…、へんなこと考えるね、おまえ」
「まぁ、病院の費用とか、けっこうかかるから、タダじゃないけれど、なんつうか、仕込むのはタダだからね」
「そうだけど、…死産したり流産したり、生まれてから死なせちゃったりっていうのは応えるだろ、奥さんには」
「でも、あいつも子供がほしいわけだし」
「まあ、そうだろう」
「そうなんだよ」
「あのさあ、…なんていうか、…へんなこというようだけどさ、お祓いとかしてもらったら?」
「してもらったさ」
「へえ?」
「したよ。あちこちで」
「どうだって?」
「どうって、べつになにかがわかるわけじゃないぜ」
「先祖の悪行がのし掛かっているとか、そういうのはないの?」
「そんなこと言われなかったけどね」
「そうかぁ?そうとう祟られてるんじゃないかなぁ?」
「オレ、悪いことしてないけどね」
「奥さんのほうかもしれないじゃないか」
「あいつの?」
「そうだよ。男を何人も捨ててきたとか、中絶しまくってきたとか、そういうの、ないか?」
「おまえも平然と言うよね。聞いてないけどねぇ、そういうの」
「女はこわいからなぁ。いろいろ隠してるんだぜ」
「男だってそうだろ。おまえみたいな奴とか」
「オレはちがうよ。あっけらかんとしたもんだ」
「あっけらかんと悪さをしてるってんだろ?」
「違うって。…まあ、さ、おまえみたいに家族主義者じゃないからね。人には悪く言われるのよ、なにかというと。ニッポンは、まだ、精神的には偏狭な農耕民族国家だからね。なにかというと、結婚だ、家族だ、上下関係だ、儀式だ、礼儀だ、だよ」
「まぁ、そこまでは言わんけどさ」
「まぁね。でもさ、おまえ、家族こそ大事だ、生きがいだって言ってたよね。子供がみんな死産じゃ、やばいよなあ。おまえの人生計画、大破綻だよなあ」
「だからさ、おまえも、そこまで言うなってば」
「ぜったい呪われてる、って」
「そうでもないと思うけどなぁ」
「そんなことないぜ。すごい悪霊が憑いているよ、きっと」
「ま、科学的に考える主義なんでね。そういうのは信じません」
「信じないっていう感情も、悪霊が操作して発生させるらしいよ。そうすれば、矛先が向かってこないだろ?科学しか信じないなんて意固地にいう奴、怪しいらしいぜ、いちばん。マジで取りつかれちゃってるんじゃないの?」
「おまえって、スピリチュアルっていうやつか」
「べつに」
「だって、悪霊とかいうじゃないか」
「だけどさ、そこまで死産とか重なるってのは、なんか、あるぜ」
「……」
「やばいよ、おまえ、たぶん」
「……」
「いや、ホントにさ」
「……」
「ひょっとして、お墓とか、ちゃんとお参りしてる?供養が足りないとか?」
「あんまり、ちゃんとは行ってないかな。でも、親類がやってくれてるから…」
「ほら、そういうところがだめなんだよ」
「でもさ、あんなの、あんまり関係ないだろ?」
「そうでもないみたいだぜ。先祖供養、大事だっていうぞ」
「また、スピリチュアルだ」
「こっちがどう思っても、霊には霊の思い込みがあるからな。あいつ、なんで供養に来てくれないんだろう、墓の草取りにも来てくれないなぁ、なんて思ってるんだぜ」
「だからさぁ…」
「だって、へんだろ、そんなに死産ばっかりなんて」
「それはそうだけど」
 こんな話がどこで終わることになったか、それははっきりしている。立ち話をしていたところから、少し離れて校舎の入口のひとつが見えたが、そこからなんと、写真で見るような老いた窪田空穂が出てきたのだ。渋柿色の着物に真っ白いトレンチコートを引っ掛けている。着物にそんなコートというのは、なんだか不似合いでぞんざいだが、その合わなさが格好いいとも言える。ちょいと明治な感じである。
 窪田空穂は誰かと連れ添って、どんどんこちらに向かって歩いてきた。コートのポケットの中で小銭をちゃりちゃりさせて、「あそこのおにぎりはいまひとつだからねえ。どうしようかなあ」などと言っている。時あたかも正午にならんとしていて、窪田空穂先生はどうやら昼食を買いに出られるらしいのである。
 さっき購入した注釈本の持統天皇についての記述を思い出し、目の前の友に、大変な人がいま歩いていくのだと告げたいのだが、とっさに出てくる言葉は「あ、あ、あ、」なのであった。せっかくの窪田空穂接近だというのに、出てくる言葉は「あ、あ、あ、」なのである。注釈本を友に示し、いままさに通過していく窪田空穂をその本で指し示し、「あ、あ、あ、」していると、
「おまえねぇ」と友はいう。
「あ、あ、あ、」
「おまえねえ」
「あ、あ、あ、」
「どうしたの?」
「あ、あ、あ、」
 そうしている間に、渋柿色の着物にトレンチコートを重ねた窪田空穂は永遠に昼食のおにぎり(とはいえまだ未定なのであって、ひょっとしたら、今日はのり弁あたりになるかもしれない)を買いに校外へと過ぎ去っていってしまった。

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