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ARCH 40

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年九月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




礼節を知れといふ声はして



 夏に入るというのに、その学生、いつもと違ってどこか気分の晴れ晴れしないようす。
「ひとのことって、信じる基準って、なんなんでしょう?」
 質問してきているというのではなくて、たぶん、つぶやきに近いものかな?話す相手は、きっと、ぼくでも、他のだれでもいい。今どきの学生って、そんなもの。まともに向きあえば、がっかりさせられる。

   ことしも、三度ほどそんなこと、あったしね。あれやこれについて、どんな本があるか、どんな資料があるか、知りたいのでちょっと教えてください。で、教えてあげた。いくら「ちょっと」と言われても、本や資料について教えるのだから不正確ではいけないし、たった一冊ってわけにもいかない。わかるかぎりの本の名前を書き出して、ものによっては、入手しやすいかどうかネットで確認までして、そうしてリストにして、メールで送ってあげた。
 でも、三人のうち、だれひとりお礼さえ言ってこなかった。ひとり宛のリストをつくるのに、三十分以上はかかったんだけどね。でも、たったのひとりも。たったの一行も… ま、学生たちだけがこんなふうだと言ったら、嘘になる。いつのまにか、そんなひとばかりになってしまったよ、東京は。ひとがちゃんと応答をするのは、責任を問われる仕事の中だけ。それだって、なんとか逃げようと立ちまわる。

  「ひとのことって、信じる基準って、なんなんでしょう?」
 まだ言ってる。
 きみなんかより、よっぽど辛い目を、なんども見てきたぼくだ。そうねえ、つぶやくように、答えるように、ぼくもぼく自身に言ってみようかな。

 まず、あれだね、目に見えるものだけで、ひとのことは判断するべきだ。人間はこころだろ、なんて、甘いポップスの歌詞みたいなのに惑わされちゃダメだよ。「人間を外見だけで判断しない者など、バカだ」とオスカー・ワイルドは言ったけれどね。そこまで言わなくても、とは思うが、まあ、時代ということもある。服装と人となりがもっと一致していた時代というものがあったわけで、そんな時代には、彼のようなことも言いたくなるわけだろう。
 ぼくが言いたいのは、いわゆる外見ではない。外見で判断しろ、ということじゃない。そのひとがなにをきみにしてくれるか、きみにどんな態度を実際にとるか、それで判断しろということだ。目に見えるものとは、そういうこと。相手がなにをきみにしてくれるか、なにをきみにくれるか、それで判断するわけ。
 ちょっと思い出してごらん、いくつかの人間関係を。信じられるひとというのは、かならずきみに、現物を提供してくれている。筋肉の動きや、時間や、場合によってはお金や、紙(手紙など)や、電力(メールなど)など、なにかしら物理的なモノを、かならずきみに向けて与えてくれている。細かい詮索や証明は省くけれど、ぼくなりの経験から言って、そういうふうに、なにかモノをきみによこしてくれるひとだけを信じなさい、と言いたいわけさ。ずいぶん現金だなぁ、と思うかい?意地汚いと思うかい?べつに、受け入れてくれなくってもいい。でも、けっきょく、信じられるひとかどうかは、ここだけにかかっている。きみに、そのひとはなにをしてくれたか、なにを与えてくれたか?ほんと、たったこれだけのこと。他の基準なんて、ありえないんだよ。そういう時代、そういう国になってしまった。ぼくらが今生きているのは、こういうところなんだ。

 いちばん簡単に見分ける方法?
 そうだな、きみがなにか連絡したり、書き送ったりしたとする。それに対して、手紙やハガキやメールをさっと返してくるひとと、けっして返してこないひととがあるでしょう?人間なんて、本当は、そこですべてわかると思う。忙しいとか、体調がどうのこうのとか、そんなのは理由にならないんだよね。上司や大事なひとや金づるになるひとからの連絡には、だれでも、さっと答えるはずなんだから、きみにすぐに返事をしてこないのは、きみを軽んじている証拠でしかない。少なくとも、はっきりと意識的に差別をして、人間を扱うひとなんだということぐらいは、しっかりと想像しておいたほうがいい。ははん、こう見られているわけか、こんな連中なんだと、きみは判断するべきなんだよ。若いと、ここで判断が鈍る。きっと忙しいんだろうとか、なんとか、要らぬ助け舟を出してしまう。本当は、そこでバチッと切ってしまうべきなのに。まったく、若さは称えられるべきかな、だよ。

   好対照なのが、どの世界であっても、そこそこ名をあげているひとたちや、それなりに認められているひとたち。年下からの連絡にも、あまり仕事に影響しそうもないひとたちからの連絡にも、さっと返してくる。あれはどういうんだろうね。ああいうところがきちんとしているからこそ、あれだけの位置を占めるようになったんだか、それとも、あれはあれで、しっかりと顧客対応みたいなものなんだか。
 それでも、こちらとしては、やはり気持ちいいものだよね。人間は、きちんと返事が返ってくることを、なによりも望んでいるのだし、そういうことをしてくれるひとだけを、けっきょく選んでいく。返事を返してくれるひとたちは、少なくとも、そういうことをよく知っているひとたちではあるわけで、長い間には、やっぱり、そういうひとたちとだけ関わることにしたほうが、やっぱり気持ちよく生きていけるものだろうね。
 ぼくも、そういうところはやっぱり学ばないと、って思う。きみのもそうだけど、いろいろなひとから手紙や作品が送られてくる。ぼく程度の能力の人間には、物理的にはけっこうな量だけど、いちいち返事はする。だって、人間って、そこにかかっているんだから。横柄な愚か者でないという証明、まともな人間かどうかの証、微妙な計算ずくの陰湿な差別はしないという歴然たる証拠、それは、たった一箇所、そこだけだから。

   返事といってもね、ほら、相手から手紙やメールをもらって、いちど返事をするよね。そうしたら、先に出してきた相手も、本当ならもう一度、実用的な意味はないのだけど、季節の趣を込めたような、しゃれた短い返事を送り返す… そんな心ばえを持ったひとって、本当に少なくなってしまったなぁ。
「色好みならざらむ男(をのこ)は、いとさうざうしく、玉の盃の底なき心ちぞすべき」
 兼好が『徒然草』にこんなことを書いているけど、ほんとに、こんなひとたちばっかり。それが、みんな、自分なりに美だの知性だのセンスだのを気取っているんだから。彼らをさんざん見てきたからだと思うよ、ぼくが、美は美ではなく、知性は愚性で、いわゆるセンスなんて、そこらの三文雑誌やテレビやビデオクリップをいい加減に眺めて得たような印象の、ごちゃ混ぜ、ごった煮にすぎないと思うようになったのは。
 まったく、玉の盃の底なき心ちぞすべき、さ。

   友だちがいるか、って?
 そういう質問をする前に、友だちになれる能力のあるひとが、どのくらい今いるのか、それについて、きみ自身、どう思っているかを聞きたいよね。
 どんな能力かって?
 第一に、返信能力。
 第二に、無駄を承知のプラスアルファの返信能力。 
 第三に、おせっかいに、用もないのに声をかけてくる能力。
 第四に、あらゆる話題に対応可能な、広範囲の反応能力。
 第五に、話題の上での寛大さ。とにかく、徹底的な寛大さ。
 第六を加えるとすれば、あらゆる事柄における遊び心かな。全方位の無限の冗談のセンス。

   友だちがいるかどうかなんて、ほんとはどうでもいい。
 大事なのは、こうした能力を持っているひとたちとだけ、付きあっていくってことさ。
 こんなひとたちは、出会った瞬間から友だち。
 こうでないひとたちは、会って何年経とうが何十年経とうが、友だちになんかなれない。次第にフェイドアウトしていくか、なにかのきっかけで、バチッと切れて、さようならもナシ、ってなことになるだけ。

   もちろん、こちらだって、友だち能力の維持を怠っていてはいけない。礼節ってものも、大事だしね。その感覚が弱まったりしてきてないかどうか、いつも考えてないとね。

     打ち寄せる波の白扇見てあれば礼節を知れといふ声はして(春日井建)

 好きな歌で、よく思い出すんだけどね。
 友だち、っていうことばかりではない。世の中に対する振舞い方のすべての秘訣が、ここに入っている。「礼節を知れといふ声はして」と、いつも思っているひとかどうか、自分も他のひとも、ここにかかっていると思うな、すべて。
 ほんと、すべて。

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