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ARCH 44

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年十月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




シンプルな生活



 イアン・フレミングが版権をぜんぶ出版社に売り渡した時、どんな気持ちか、と聞かれたそうだ。
 べつに、なにがかわるというわけでもない、と彼は答えた。
 豪華なレストランで特別な料理ばかりを食べたいというわけでもないし、高級な場所にばかり行きたいわけでもない。ちょっとした時に、ふつうのパブで一杯のビールやカクテルが飲める程度の融通がきけばいい。
 気分のいいふつうの生活っていうのは、そんな程度のもので、そういう点では、版権を売ろうが売るまいが、なんにも変わらない、というのだ。
 いい話だと思う。
 この話、いくらか間違って覚えているかもしれないし、それに、ぼくの解釈も正しいかどうか自信はないが、ようするに、日々、シンプルな、まあまあ快適な状態が保てていれば、それがなにより。
 そんなことを、印象的に思い出させてくれる話だ。

 シンプルな生活、ということでは、今のぼくは、けっこう、人後に落ちないと思っている。
 なるべくなら、もたれない、体にいいものを、とは思うものの、食べ物にはうるさくないし、もの一般についても、必要なものをそれなりに大事に扱うだけで、あまり執着がない。衣類も、やぼったく着たり、流行を追ったりするのはきらいだが、まあ、だいたいでいい。音楽は好きだが、演奏会には行かないし、ロードショーにもまず行かないし、美術を見るのも好きだが、やっぱりあまり美術館には行かない。遊園地は嫌いだし、酒は嫌いではないが、自分から進んで飲みたいと思うほどではない。煙草は吸わないし、特別なものを蒐集する趣味はない。旅行も、以前は大好きだったが、もう、すっかり飽きてしまった。
 唯一、ふつうの人より出費が多いと思うのは本だけれど、それも近年、目にみえて抑制されてきた。だいたい、買い溜めたものが、すでに五万冊以上あるわけで、本を読むのを今後も趣味にしていくにしても、もう、一生分は蓄えがある。それでも、うっかりすると、性懲りもなく買い続けがちになるのだが、この数年、意識的な努力をして、新しい本への好奇心を捨てるようにしてきたら、最近になって、かなり効果が出てきた。
 もともと、興味が広すぎる、というのが、これまでのぼくの不幸の元凶のひとつで、そのために気が散って、とうとう、なんの専門家にもなれないままに人生は過ぎ行かんとしているわけだし、あらゆるジャンルの本をまんべんなく買いもすることになるわけで、これまでの人生、そういう点では、出費も場所塞ぎもたいへんなものだった。
 だが、最近、これを逆手に取る方法を編み出した。何にでも興味があるのだから、読むとなれば、活字ならなんでもいい、というところがぼくにはあるのだが、それならば、ようするに、なにも新刊を買わずとも、古い本ばっかり読んでいてもぜんぜん気分は滅入らないわけじゃないか! 気づいてみれば、なんでもないことなのだが、なんと、今ごろになって、ようやく発見したという次第なのだ。
 しかも、いま住んでいるところからは、ほぼ一分のところにBOOK OFFがあるし、十分歩けば、もうひとつ、もっと大きなBOOK OFFもある。二十分から三十分歩くつもりになれば、数件の古本屋が射程に入るし、なによりも、うちから七分ほどのところにある駅から地下鉄に乗れば、神保町までは乗り換えなしで十五分なのだ。
 さらに大発見だったのは、ぼくが読みたいと思うような本は、BOOK OFFをはじめとするたいていの古本屋で、だいたい一〇〇円(BOOK OFFなら一〇五円)の棚にあるのである。どういう事情でこういうことになってしまっているのか、よくわからないのだが、ようするに、流行らない本や、すでに文庫になった本のハードカバーとかが好きだということらしい。村上春樹の『ダンス、ダンス、ダンス』の上下なんかは、きれいなのを二一〇円で手に入れて読んだし、馬鹿にして今まで読んでこなかった渡辺淳一の有名どころの作品は、どれも一〇五円で、二〇冊近くもまとめて買ってきてしまった(BOOK OFFの売り子には、唖然とした顔をされたけど)。最近、文庫では『女坂』ぐらいしか入手しづらくなった円地文子も、BOOK OFFとブックメイト(世田谷区役所前店)と由縁堂書店(池ノ上駅商店街)でずいぶん買い揃えられた(『小町変相』の初版本だけは、宮益坂の中村書店で一一〇〇円もしたのを仕方なく買ったが)。河野多恵子も、富岡多恵子も、とにかく安い。野上弥生子の『森』だって玉川通りのブックメートで見切り物で一〇〇円だったし、最近気に入っている舟橋聖一だって、立派な装丁の各種全集本がどこでも一〇〇円で、三〇〇円分も買えばだいたいの代表作は網羅できる。岩野泡鳴も一〇〇円、近松秋江も一〇〇円、案外、尾崎紅葉や田山花袋のきれいないい本が一〇〇円では見つからないのだが、これだって今後の探しようにかかっているのかもしれない。もちろん、詩集や歌集もこの中に入るわけで、二〇〇〇円も三〇〇〇円もするはずの高額ポエム商品を、申し訳ないような値段で、ずいぶん手に入れさせていただいたものだ。
 こんなふうにして、調子に乗って買っていると、またまた家には本が溜まることになるが、それでも、元値がバカ安いのだから、いざとなればポイと捨てられるし、人にもあげられると思うと、気分もずいぶん軽々としてくる。それに、人間というのは、ときどき、羽目をはずして多量の買い物をしたくなる時があるもので、そんな時に、両手が千切れそうなぐらい、近所のBOOK OFFで一〇五円ものばかりを買ってくると、その重量と嵩だけでも、なんだかスゴイ買い物をしたように錯覚して、本当に値の張る危険な出費を食い止められるような気がする。

 本のことばかり書いてしまったが、ぼくのシンプル生活の目玉として、なによりも威張りたいのは、じつは月に二、三回程度の名画座通いだ。五分ぐらいのところに、三軒茶屋シネマと三軒茶屋中央劇場のふたつがある。じつは、長いこと、この二軒を利用しないで来たのだが、昨年に見に行ってから、味をしめるようになった。二本立てで一三〇〇円するから、月に二回や三回も行けば、二六〇〇円や三八〇〇円の出費になってバカにならないが、面白いもので、場末のわびしいこんな名画座で数回見るだけでも、ひと月の映画欲とでもいうものは、そこそこ満足する。そうなると、うちでビデオを見ようという気もなくなるし、テレビでドラマや映画を見ようという気も減る。ようするに、時間と労力の節約になるわけで、あえてこの二軒の名画座に毎月行くことで、日々のシンプルライフをいっそう易々と維持できるのに気づいたのだ。それに、夜の最後の回に一本だけ見れば、七〇〇円ぐらいに割引になるのだが、一度に二本見なくても、けっこう一本でも映画欲は満たされるのも、最近、わかった。

 シンプルついでに、映画の話まで書いてきて思い出すのは、田中小実昌の生前の一枚の写真だ。
 ごろ寝しているんだか、ちょっと休んでいるんだか、彼が畳の部屋に寝転んでいる写真。部屋にはまったくなにもなく、ただ、「ぴあ」のシネマガイドの洋画編と邦画編だけの二冊がある。
 あれを見て、いいなあ、と思ったのだった。
 当時、まだ、田中小実昌は生きていた。
 そして、当時、まだぼくには、いろいろなものを溜め込む性質がムンムンだった。
 なんだか、自分の醜さの歴然たるさまを見せつけられているような感じで、ものだの本だのでいっぱいだった自分の部屋を、ぼくは眺め直した。
 心底なさけない気持ちで、どうしようもなさでいっぱいになって、眺め続けた。
                                               (二〇〇五年三月二十三日)



*これは、たくさんのペンネームを使いわけて書いていたうちのひとつ。そろそろ、自分の散文集のなかに整理しておこうと思う。自分が属していない団塊の世代系+ミニコミ系の文体練習のひとつといえる。和田誠の挿絵なんかがつくと、ちょうどいいような。こういう文を書かないように、二〇〇五年頃までは意地を張ってきたし、注意してきた。けれど(というふうに「けれども」とも「しかし」とも「が」ともしないで「も」を抜くところが、こういう文体なんだナ)、使ってみると、これはこれで便利なので、その後、ときどき使うようになった。そういうのもいいんじゃないかと思う。もう「文は人なり」の時代ではない。文体なんて、コンビニでいくらでも売ってるのだ。

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