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ARCH 46

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年十月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




詩人なんて、ペソアひとりでたくさんだよ



 本を読むのはきらいじゃないし、なんとなく詩歌をいじくったりもしてみているうちに、詩人とか歌人とか文学をやっている人とかと知り合いになった。そんな一生だったなあ、と、けっこう毎日、思うのだ。
 ぼく自身は、詩人でも歌人でも文学をやっている人でもない。こういうのは、どうやら自己申告制らしいので、たった今からでも「ぼく、詩人です!」って主張すればいいんだろうけど、ぼくなんかは、そういうのって、バカらしいし、恥ずかしい感じがする。もちろん、バカらしいのも恥ずかしいのも、ぼくは大好きだけれども。


 ぼくの中には、そんじょそこらの世間一般の見方っていうのが、ど〜んと、すごく根強く居座っていて、詩人なんて、谷川俊太郎さんぐらいじゃん、って、どうしても思ってしまうのだ。もちろん、中也も朔太郎も藤村も賢治も光太郎も、みんな詩人なんだけど、みんな死んでしまっている。生きている人でいえば、あ、吉増剛造さんも、もちろん、詩人だな。でも、世間のふつうのふつうの人たちから見れば、いまやトンデモ本の制作者、って感じだよね。たしかに、吉増さんの朗読はヘンテコだし、そういう意味ではおもしろいんだけど、でも、内容的にあまりにわからな過ぎで、世間のたんなるふつうの人であるぼくには、ひょぇ〜、ってなぐあいなのだ。ヘンテコな人を詩人というのだ、と言ってしまえばコトは簡単だけど、でも、なんとなくジ〜ンとくるようなことを、短めのことばでキリッと書いてくれる人が詩人なんじゃないのだろうか、とも、ソンジョソコラのふつうの人であるぼくとしては、思っちゃったりするのだ。ふつうの人よりはちょっとヘンで、ちょっと行き過ぎるけど、でも、ヘン過ぎず、行き過ぎない、っていう微妙なところが、詩人には大事なんじゃないのかな。


 それに、ヘン過ぎたり、行き過ぎたりするっていったって、どうせ、アルトーとか、ランボーとか、近いところではギンズバーグとかバロウズとかには、ぜんぜん、かなわないんだしね。昭和とか平成のにっぽんで、スケールの小さい小市民的詩人たちが、奇人ぶりや天才ぶりやヘンテコぶりを披露しようとするのって、やっぱりさびしい感じがする。そういう点では、ぼくなんかは、ポルトガルのペソアの振舞い方や生き方って、好きだ。ぜんぜん目立たない、ただのぼんやりしたおっちゃんみたいだった人なのに、とっても魅力があって、いつも手元に置いて何度も読み返したい詩や文を書いていた。実際にはスパイだったのでは、という人物なのに、(というより、だからこそ、なのだろうけど)、完全にふつうのそこらの人って感じで通し、生前、すごく有名にもならなかったし、もてはやされもしなかった。そういうのを、ぼくなんかは、ほんとうにカッコイイ、って思う。一八八八年から一九三五年まで、フェルナンド・ペソアがこの世にいた、っていうことが、ぼくにはすごく大切な、うれしいことだ。無名の、このひとりのポルトガル人が、死んでみると、じつは幾つもの名前で、ひとつの個性や人格には還元できないような、多様な作風の文章を書いていたことが、それ以後の二〇世紀のヨーロッパ文学にしずかな衝撃を与え続けている。日本が強烈な影響をいまだに受けていないのも、よい翻訳が出ていないのも不思議だけど、(翻訳は、あるにはあっても、ペソアの魅力をみごとに削ぎ落としたような訳で、あれ、いやになっちゃうよね)、でも、英語やフランス語がちょっとでも読める人は、そういう言葉の翻訳で読むといいよ。べつに小難しい詩じゃないから、ちょっとの語学力でいいんだし。ほんと、詩人なんて、ペソアひとりでたくさんだよ、って、じつはこの十年ぐらい、ぼくは思ってきたんだ。
 ま、そんなわけで、ぼく的には詩人はペソアひとり、世間的には、詩人は谷川俊太郎さんひとり、というわけで、それで、べつにいいじゃない?、って思っている。


 え? 詩集を出した人はみんな詩人だぞ、って? でも、それって、むなしい主張の時もある。だって、世間一般のふつうの人は、そこらの本屋に並んでいない詩集じゃ、納得しないから。
 そこらの本屋に並ぶような詩集っていうと、どうしてもお金をかけた詩集っていうことになる。百何十万とかかけると、流通をしっかりしてくれる出版社から出してもらえるそうだけど、でも、そうなると、けっきょく、資金があるかないかの問題になるわけで、貧乏だと詩人にもなれないということになる。地獄の沙汰ばかりか、詩の世界の沙汰も金次第。なかなかリアルでよろしい、という見方もありうるかもなあ。
 問題なのは、百何十万もかけて詩集を出しても、ちょっとでも小さめの本屋さんだと、貴重な商品棚に置くのに、やっぱり谷川さんの詩集を選んじゃう、ってことになる。世間における知名度と認知度ってのは、わずかの高さでも底知れぬ威力を持っている津波のようなもので、なかなか抗しうるものではない。それに、いつの時代でも、数名のわかりやすい便利な詩人がいれば、もうそれで社会には十分なわけで、谷川さんとか、他に、新聞の文芸欄にときどき引っ張り出される詩人たちとか、テレビでなにか解説してくれる詩人たちとか、そんな何人かがいれば、あとはもう、たくさんですね、ってなぐあいだ。
 世間のふつうのひとりであるぼくとしては、こういう状況下で、家に閉じこもって、性格を歪めまでして、わけのわからないことを必死に書き募ることに、どれだけの採算があるのかと思ってしまう。人生、他に、もっとすてきな時間の使い方というものがあるのではないか。いくら詩集を出したって、高等な詩を解さない世間一般の人に愛唱してもらえるような名作でもないかぎり、ぜったいに普及はしない。当然、売れない。売れないものを出版するのは、けなげでもなく、頑張っているのでもなく、悲壮なのでもなく、たんに経済的にアマちゃんなだけである。というのは、書いたり、なんとなく人に見せたりしているうちはともかく、いったん本にまとめて、値段をつける段になったら(値段をつけずに、書いたものをまとめて、知りあいに配ります、っていう詩集の場合はちがうけど)、それは商品の製作という段階に入っているわけで、そうなったら、どうしたって、売れるほうがいいに決まっているのだ。


 売れるほうがいいに決まっているものを作るとなれば、すでに、なにを書いてもいいわけではない。売れるものを書かねばならないのだ。そうなると、家に閉じこもって性格を歪めて書いているようでは、いけない。世間の人は、神経衰弱の人や精神病の人や、勝手な妄想を育てている人のわけのわからない書きなぐりにつき合っている暇はない。みんな、日々の仕事やいろいろな心労で疲れているのだ。どうせ読むなら、それを癒してくれるような詩がほしい。詩人の個性とか、自我とか、個人的な問題とか、好みとか、そんなのとは付き合いたくなくて、ふつうの人として生きているこちらを、少しでもいい気分にしてくれるものを読みたいのだ。商品なんだから、消費者の欲求をちゃんと見て、それにあったものを拵えてもらいたい。それでこそ、本屋さんに並べられる値打ちもあるというものなのだ。


 こんなふうに考えているから、ぼくは、詩人でもなんでもないと思わざるを得ないし、文学全般とも、読者として、つまり消費者として、なんとなく、つき合っていくしかないんだよなあ、と思うわけだ。
 これって、べつに、軟弱な考えでもないし、詩人に成りたくて成りたくてしょうがない、アイデンティティー的に不安定な人たちに、ことさらに意地悪な態度を採っているわけでもない。世間は甘くないし、詩のオーラを捏造して商品を作り出すのは容易じゃないし、言葉だけで儲けて喰っていこうというのは並大抵のことじゃないと、重々承知のうえで、好き勝手に、たわいもないことを、少しでも多く書き散らして生きていくにはどうしたらいいかな、って、真剣に考えてる、ってことさ。
                                       (2005.3.23)



*この文も、『シンプルな生活』同様、いろいろなペンネームで書いていた頃の文体練習のひとつ。現在はもう、同じことを考えているわけではない。
よく、現代における詩歌創作のむなしさを言ってくる人がいるが、話を聞いていると、こちらがとうの昔に考え尽くしてきた世俗的「むなしさ」の域を出ていない。詩歌制作は、書きたくもないのに金のために書かれるエンタティメント小説やステイタスのための紀要論文とは違う。書かれた時点で100パーセント以上の充溢感に満たされる淫靡な快楽手段なのだが、詩歌創作をむなしく思う人たちは、その点がわかっていない。たぶん、経験したことがないのだろう。
いっぽう、詩歌の世界にずいぶん世俗的な価値観が蔓延っているのも事実だ。もともと世間のビジネスや商売の中で揉まれてきていない人が多いので、逆にシンプルな優越意識を心に生きのびさせたまま、井の中の蛙さながら、一時的な小さな評判のよさに過剰反応したり、お仲間で気勢を上げて偉くなったように思っている人たちがいる。そういう詩人たちが、つい最近書き始めたような詩人を馬鹿にすることほど噴飯物はないのだが、現実にはこういう光景はいっぱいある。
商品価値でみれば、百万かけて五〇〇部刷られた自費出版物と、ワープロで制作した五十部のホチキス止め詩集は等しく無価値である。どちらも売れない。だが、どちらも内容価値では同じ権利がある。詩人ならそう考えるべきなのだが、現実には、百万かけて作った人が優越感に浸っていたり、売れ行きの悪さを文化レベルの低下で説明していたりする。なんだ、けっきょくは金と名声じゃないか… この光景は、詩歌の世界で見せつけられる時ほど苦いことはない。

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