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ARCH 48

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇七年十二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




円地文子 ―女がひとりで着物を脱ぐとき



『朱(あけ)を奪うもの』の滋子は、赤坂離宮で催される観桜会に「一昨日三越から仕立て上って来たばかりの臙脂色に薔薇を染め出した派手な振袖」(*1)を着て列席します。

   こんなことがたのしいのかしらとひとり言して滋子は自分の着ている臙脂色の縮緬の重い袂をそっと片手につまんで眼に近くよせて見た。精巧な染色を見せた縮緬の皺(しぼ)は春の陽を吸って細かい艶を浮き上らせていた。胸を固く締めつけている糸(いと)錦(にしき)の重い丸帯には金地に白い孔雀と牡丹が見事に織り上げてある。頭の上には盛りの牡丹桜が鞠のように咲き集った花房をいくつとなく重ねていた。しかしこの咲き驕った花の下照る庭に立っている若い娘の眼には薄紅と緑に鮮明に縁どられた広い庭園のここかしこに散らばり、あるいはより集っている紳士淑女の群が色あせた風俗画のように無味乾燥にしか映らないのである。(…)現実の美とか調和とかは自分の身内に絶えず湧き流れ燃えふすぶっている混沌とした欲求や、無限の憧憬に較べて、何と白々しい興ざめな鈍さであろう。速さ、勁さ、烈しさ、きらきらしさ!すべての眩いもの、ひらめき過ぎるものからそれらの光景は遠く離れた凡庸さの中に無知に動き、笑い、満足しているように見える。すべてのものが清潔げに上品げに辛うじて一つの調和を保ちながらその保っているものの単なる惰力であるのをこの人々は知らないのだ。(*2)

「摂政の宮や皇后さま」(*3)、「華族さんやさぞお立派な方々が大勢お出ましになる」(*4)ばかりか、特別にプリンス・オブ・ウェールズも迎えての「いつもの時より一層晴れのお催し」(*5)だというのに、これほどの失望なのです。自分自身についても、せっかく美しいきものを着ていながら、「いつまでも少女じみて胸幅の狭く発達しない」(*6)ことに「負け目を感じ」(*7)、「貧弱な肉付きのくせに」(*8)大きな「砥粉色の強い弾力を持った乳房」(*9)が「椀を伏せたように狭い胸の左右に盛り上ってい」(*10)るのを嫌っています。
 円地文子の文学の基調が、比較的、見てとりやすいかたちで表われている箇所といえましょう。「速さ、勁さ、烈しさ、きらきらしさ!すべての眩いもの、ひらめき過ぎるもの」にむかって「自分の身内に絶えず湧き流れ燃えふすぶっている混沌とした欲求や、無限の憧憬」があるにもかかわらず、それに比してあまりに色褪せてみえる現実世界や自分自身への、いかんともしがたいズレ、埋めようもない懸隔。霊媒的、巫女的想像力のうねりの中に創りあげられていった円地文学のすべては、ほぼここから生い立っていったと見てもよさそうです。
 これを書いた時、円地文子は五十歳、多くの障害やまわり道を経た後の、やや遅まきの本格的な活動を開始したところでした。乳腺炎(三十三歳)や子宮癌(四十一歳)を患い、すでに「砥粉色の強い弾力を持った乳房」も子宮も喪って、女としての肉体的な終わりとも見なされかねない地点に到ったところで、逆に炸裂するように、女としての真の内的誕生が起こっていました。
 同じ頃に、「自分の身体は年とった猫みたいにぐなりとしているのに、心の働きが自由すぎて気味が悪いの」(*11)と『妖』に書きつけてもいますが、日本の文化の隅々から古典の端々までをも自家薬籠中のものとした戦後最高最深のこの女性作家は、いつも「祝詞をよむような低い不確かな声」(*12)に内面をせっつかれ、「行動力のない癖に内心の働きだけは恐ろしく自由活発になりまさって行く異様な生々しさ」(*13)を生きていかざるをえない女たちを、ほぼ一貫して描いていったといえそうです。「恐らく男たちには理解されないであろう、自分のうちに時しらずざわめき動き出す、曖昧な形のさだまらぬものについて」(*14)考え続け、老いようとも変わることのない「性と密着した女の自我」(*15)を追い、「当事者にも気味の悪い」(*16)ほどのその飛翔のさまを描きつくして、ついに八十一歳まで。死の前日まで口述筆記をしていたといいますが、老いて佳境に入っていくほどに、露骨とも、残酷とも、淫猥の極みともいえる筆致で、女の内面にいつまでも若々しく滾る性と自我のマグマの諸相を抉り出し続けました。九十九歳まで書き続けた野上弥生子についで、女性作家としては二人目の文化勲章が授与されましたが、現代社会の表向きの浅薄な倫理など一顧だにしない、底知れぬほど深い反社会性を秘めた作品世界を思えば、一種、爽快な授与だったともいえそうです。
 こういう円地文子の世界で、作を追うごとに、きものの扱いや意味あいが複雑にも重層的にもなっていったのは当然のことでしょう。先に引用した『朱を奪うもの』でも、きものはすでに単なる美や喜びであることを止めていましたが、ある時は職人の労苦や悲惨を生々しく伝達する媒体になるかと思えば(『女面』、『蛇の声』)、ある時はまた、女に表面的な「女」性を強いて、「曖昧な形のさだまらぬもの」であるべき内的な力動としての純正さを抑圧するものとも受けとめられる(『遊魂』)というふうで、融通無碍というべき扱いには息を呑みます。
 だからこそなのでしょうか、ときおり目につく脱衣の場面、疲れきり、時には酔って帰った女が、老いの中で、ひとりできものを脱ぐ際のこんな光景も、まさに円地文子ならではの冴えです。きものを脱ぐことさえ、これほど深い行為なのだったと、どれほどの作家が表現し得てきたでしょうか。

   帯を解かなければと、寝たまま帯上げの結い目をほどいていると、誰かの手が器用に働いて、ずるずると帯が解け、着物が肩から滑り落ちて行く……克子かしら、いやそうではない、たしかに男が寄り添って、自分の身体から着物を脱がして行くのだ、それが誰とも分からないのに、紗乃には快く、何の抵抗もなく、わが身をくねらせたり、撓(しな)わせたりしているのだった。ひどく重くて、その癖重量を感じさせない不思議な圧力がのしかかって来て、紗乃を押しつぶした。身体がその奇妙な重みの下敷きになって、逃げられない苦しさにいつまでも呻(うめ)いている。そんな時間がどれほどつづいたのか……深い眠りの底から紗乃が眼ざめたときには、カーテンの隙間から忍びこんだ光が仄(ほの)明るくしていた。
 (…)驚いてあたりを見まわすと、自分はちゃんと浴衣に着がえて、二人部屋の隣のベッドに昨夜の江戸小紋の着物が脱ぎ捨てられ、吉野広東(かんとん)の帯が縞をしどけなくベッドから滑り落して、長々と床にうねっていた。(*17)






◆この文章は、『美しいキモノ』二〇〇七年冬号(アシェット婦人画報社)にも、「日本文学に見るおしゃれ・女性作家ときもの【円地文子】」として掲載された。


[注]
*1 *2*3*4*5*6*7*8*9*10『朱(あけ)を奪うもの』(円地文子全集第十二巻所収、新潮社、一九七七)
*11『妖』(新潮社日本文学全集58、一九六〇)
*12*13*14『遊魂』(新潮現代文学19所収、一九七九)
*15*16竹西寛子『解説』(新潮現代文学19所収、一九七九)
*17『彩霧』(新潮社、一九七六)

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