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ARCH 52

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




わがかつて生みしは木枯童子にて ――富小路禎子の非婚



妊娠・出産という事柄を、「造物主」は最大の役割として女性に与えた。逆にいえば、人類の滅亡を防ぐこと以外に、女が存在する必要は無かった、と言っていい。
吉行淳之介『夕暮まで』




 富小路禎子の歌の魅力は、言葉づかいの艶や才気から来るのではない。おそらくは宿命から、貧から、不如意から、また、石のように結晶していった末の厳しい自己限定から来ていた。諦め、欠如、放棄、絶望などにつねに接しているようで、しかし、それらに陥ってしまわないところに、一読して忘れがたいあれらの歌は鏤刻されていった。
 和歌の家である富小路家の祖については、高橋順子の『富小路禎子』(新潮社、二〇〇一年)に詳しい。この本に沿って略述すれば、『枕草子』に「富の小路の右大臣のお孫」の「宰相の君」として言及されている人がそれだという。藤原時平の次男顕忠の子である右馬頭重輔の娘で、清少納言の仕えた中宮定子の上臈女房だった。清少納言と並び称される才女で、『古今集』をよく諳んじていたという。
 こういう平安貴族の和歌の家系に生まれ、日本国憲法施行による貴族院廃止で、貴族院議員を失職した富小路隆直子爵のひとり娘であったところに、彼女の運命の輪郭が描かれたといってよい。母は信濃の心根逞しい女で、文学にも関心が強く、禎子にとっては心の通いあわせられる唯一の存在だったというが、終戦直前に癌で亡くなった。「戦後がらりと変わった生活の中で無一物になりながら、働くすべも意志もない老いた父と二人の貧しい生活」の中に、いきなり投げ込まれた女子学習院出の二十歳の乙女、これが富小路禎子の出発点だった。
 作歌ということを考える場合、すでにはじめから、失われた母、意思疎通の容易でない老父、二十歳の娘ひとりの肩にのしかかる家計、民主主義の時代のふいの到来を喜びつつも、それによって自分の家の生活を破壊されたという感情、こういったテーマの数々が、彼女の心の中に、強い磁場を持つ原石として散りばめられている。昭和三十一年の処女歌集『未明のしらべ』を読むかぎりでは、彼女はほぼ、これらの原石を磨き出すことで作歌を行っていったが、ここにさらに、カトリックへの入信、嫁がず生まずして、富小路家を自らを以て終焉させるという生活上の事実が、富小路禎子を特徴づける大きなテーマとして加わってくることになる。
 戦後のみならず、それまで平穏に維持されてきた家庭の崩壊に直面して辛苦の生を負わざるをえない人びとはつねにおり、文学者の場合には、これが当然大きな創作のモチーフになっていく。華族として八つほど部屋数のある屋敷に育ち、貴族院議員としての父の報酬で生きてきていた富小路禎子が、空襲で家を失い、先述のごとくに父の失職と失意に遭い、千葉白浜の旅館女中の仕事まで含む下働きを余儀なくされていく経緯を年譜で辿ると、カトリックへの入信ということも理解はしやすい(もっとも、十年を経ずに棄教している)。
しかし、嫁がず、生まず、血を残さずという、あの生活事実は、どうして、どこから、彼女に来たのか。女ひとりで生きていくさえ困難な時代に、働く意志を失った老父を抱えて、地味な労働を続けながら生きていく生活の現実から来た、とは言えそうだが、そういう現実は必ずしも、嫁がないという結果に直接結びつくとも言えないはずである。富小路家の名は絶えるとしても、むしろ、いかなる譲歩をしてでも嫁いで生活を拓くという考え方もあろうし、普通はそういう場合のほうが多い。ここのところに、富小路禎子の公然たる謎が存在している。彼女の作品と、他の同じような生活苦を経験した歌人たちの作品とを判然と分かつ境界が、ここに形成されていく。

   独身を遂ぐることも幾度か想ひつつ実りの秋をひそかに生きぬ

   女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季

   口の中に氷くづるる音をきくすでに君とあることもものうく

   ほのぼのと愛もつ時に驚きて別れきつ何も絆となるな

   処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす

   白々と野草乱れて種弾く秋ふけて吾に孵すものなき

   誤りて添ひたまひたる父母とまた思ふ子を吾はもつまじ

   夫あればかく詠はんと思ふ歌しばし惜しみてやがて忘れき

   三十女といふ語に清きひびきなくその齢にしも日々に近づく

   美しからぬ一人を写し古びたる姫鏡台を愛しみ清むる

   冷えわたる夜更の床に己が身のぬくみ静かにまもらんとすも

   おのづからぬくむ夜床に眠り落つ素朴に浄き夢をたのみて

   会場に失ひて来しハンカチはよごれゐたりと思へてならず

   独り来て店にもの食ふ些事なども重なりゆけばつのる淋しさ

   荒々しき生活そのまま身につきて女の舞を久しく舞はず

   女舞舞ふに艶なき己が身と年長けきつつ深きかなしみ

   亡き母より女の心聞かざりし一生淋しき娘の思ひなり

 独身ということ、嫁がないということに関連すると思われる歌を『未明のしらべ』掲載順に並べた。結婚せず、ひとりで生きていく決意が固まっていく様が見える、などと言ってしまいたくもなるが、そう単純ではないだろう。これらの歌のむこうに、決意、などいうものがあるだろうか。彼女の歌に対する評では、おりおり、非婚への決意を読みとるものがあったりするのだが、読解上、微妙な危ないところというべきだろう。小さな恋愛のさなかの思いつめ、行き違いなどを思わせる箇所もあれば、容赦なく過ぎていく歳月の中で年齢的な諦めを覚悟していくといった箇所も見うけられるものの、それらが、決意と呼べるほどの積極的な非婚の引き受けになっているかというと、断言は出来まい。
 経験した人ならわかるだろうが、貧しさの中では、人間関係を極力深くしないことで最低限の生き延び方をしていくという気持ちが、大きな位置を占めるようになる。他人の金にすがろうという人ならともかく、人に頼らず、潔く生きていこうという人なら、必ずこういう心持ちになる。愛情関係が出来かかっても、これ以上深まれば、生活上の共同ということが問題となってくる、と考える。生活費の分担はいいとしても、家の老父は相手には明らかな精神的負担となろう、と考える。ここで相手に頼ってしまえる心持ちの人間ならば、苦労はしないし、歌もよほど違うものになってくる。それはそれでいい歌になるかもしれない。しかし、富小路禎子が華族出であることが、おそらくこういうところに強く出てくる。頼ってはならぬ、という戒律は、たぶん生来のものとして魂に刻まれていたのだろう。斜陽族とも呼ばれた没落華族が、なにを愚かな自戒としているのか、と傍からは見えるかもしれない。だが、時代にも生活にも合わない無意味な自戒をどうしても取り去れず、無用の苦悩、矜持、さらには驕りさえ生み続けるところに、人間の心の悲劇と喜劇はある。富小路禎子は、そういうところにがんじがらめにされて生きざるを得なかった。いくら「美しからぬ一人」という自認があったとはいえ、「誤りて添ひたまひたる父母」に自分がなり兼ねない機会など、幾らかはあったに違いない。だが、彼女は「身に深く持つ浄き卵」を「熱く」保ったまま、「静かにまもらん」とするのだ。
 ここで注意すべきは、彼女が守ろうとする「身に深く持つ浄き卵」が、けっして、手放しに価値づけられたりしてはいない点である。次のような歌を見てから、「身に深く持つ浄き卵」は捉え直す必要がある。

  鮭のはらみし卵盛りたる白き皿へ情するどくなりて吾は向く

   舌の上のイクラの粒をつらぬきてわが犬歯ある位置を意識す

   生るべき稚魚のいくつをかなしめば眼ふとつむりイクラを噛みき

   重々しき油となりて歯にまとふイクラ幾粒は稚魚の葬り

   動物質むさぼりし膳に白々しく口ぬぐひゐて吾が声やさし

   買ひ持てる卵は孵すすべなきに心羞しくいたはりてゆく

   殻うすき卵かかへてゆく巷秋晴なれば心うづけり

   人間になき行為にて白き白き卵を抱ける鶏を清しむ

   仰向きの卵の殻にたまる雨冷々として日本の秋

   雨風に晒されありし卵殻に触るれば脆し生命の器

   炉辺に来て魚の腹子を抜く見れば山国も女の業生臭し

 卵という言葉は、初期の富小路禎子にとって鍵となる言葉であり、薄い意味づけをして片付けてしまうことは避けたほうがよい。しかし、イクラの卵も鶏卵も、ともに孵ることのない卵として認識されており、そうした卵の「葬り」が、人間の生をじかに支えるものとして捉えられているのは無理なく見てとってかまわないところだろう。生物の命を奪うことで生きねばならぬ人間の条件へのまなざしは、戦後から高度成長期にかけて、他の女流歌人や詩人の作品にも少なからず見出される。短歌では、たとえば馬場あき子の以下のような作品がすぐに思い出される。

ヘラ鮒の子を持つ胸はうすらかに脂しみ来る生きのあはれさ

   死にたえぬ六寸鮒の瞳の青き澄みは哀しも命にしみて

つぎつぎと魚裂きゆけばかなしさの極まりて立つ血潮のにほひ

一尺の雷魚を裂きて冷冷と夜のくりやに水流すなり

鳥脳裂く一丁に砥ぎいだす夏空ぞしんかんたるしじま

 しかし、富小路禎子が他の歌人たちと異なるのは、こうした生物の命、生物の卵から、ひと続きに、自分の「身に深く持つ浄き卵」へとまなざしを向けていく点にある。
 自分の内なる「卵」は、いかに「身に深く持」とうとも、いかに「浄き卵」と表現しようとも、受精しないかぎりは、月経で毎月体外へ捨てられていく。イクラを犬歯でつらぬいて食べる時、「稚魚の葬り」をしていると思う作者自身の身体の健康なサイクル自体が、実際には「生るべき稚魚」を葬っていっているのであり、さらには、このサイクルの中に受精の機会を呼び込めないでいる作者自身もまた、「稚魚の葬り」の当事者となっている。肉体的、社会的、経済的な自己の生のために葬り続けられていく「卵」、「生るべき稚魚」たち。イクラや鶏卵を目の前にする時、富小路禎子は、まさに自分の非婚と不妊の只中に置かれるのである。
 こう見てくる時、「女にて生まざることも罪の如し」という表現には痛切なものがある。生むことをこそ第一の存在理由として突きつけてくるかのような、生物界の要請にひとりで逆らうかのごとき思いがあっただろう。しかも彼女の場合、生まないのが、平安時代以来の富小路家の血を継ぐ子なのであってみれば、先祖代々の無数の目に睨まれているかのようでもなかったか。いかにさばさばした考え方をする女性であれ、平安以来の貴族の家系の血を自分で終焉させるにあたっては、いささかなりとも責任じみたものを感じないわけにはいかないだろう。
 三十歳で刊行された『未明のしらべ』で、富小路禎子が、嫁がず、生まず、血を残さず、という決意を固めたとまでは思えない。今ならなんでもないようなことだが、高橋順子の前掲書によれば、当時は、「結婚適齢期ということから考えると、女の二十代後半は、はや秋であった」そうで、だからこそ、これらの歌の「秋」という季節選択が切実な意味を持つのだという。

 独身を遂ぐることも幾度か想ひつつ実りの秋をひそかに生きぬ

   女にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季

   処女にて身に深く持つ浄き卵秋の日吾の心熱くす

   白々と野草乱れて種弾く秋ふけて吾に孵すものなき

「ものの種乾く季」というのも、もちろん秋を意味するもの、ということになろう。
 嫁がず、生まず、血を残さず、という彼女の生活事実を、公然たる謎などと言ってみたが、すでに触れたように、乏しさの中で働かぬ失意の老父を抱え、勤めに明け暮れる生活を送らざるをえない女性が、二十代も後半になれば、すでに存在している自分と老父の命をとりあえず支えていくのを第一として、生活規模のそれ以上の拡張は考えまいとしていくというのも不思議ではない。

かつがつに親を養ひ嫁がぬを美しき日などと吾はおもはず

 こんな歌に素直に接すれば、作者の意識の中で「かつがつに親を養ひ」ということが「嫁がぬ」直接の理由となっていると読める。こんな生活状態の中で、自分がいま出会える範囲の男たちを夫として、そうして出産し、老父とともに家庭を作っていった場合、どうなっていくことかと、おそらく彼女は何度も想像してみただろう。想像の中に立ち上がるそうした家族は、必ずしも避けるべきかたちをしていたとも言えない。

   山国の蚕飼の家に流れ来し貧に屈せぬわが血を愛す

 こう歌うほどの彼女なのだから、支えていけないほどの生活などは、おそらくあり得なかった。すでに極貧には耐え抜き、楽でなくとも日東化学工業(現三菱レイヨン)に入社して勤めを続けてもいた。
 ひょっとしたら、俗に言うところの、出会いがない、縁がない、という程度のことだったのかもしれず、大げさに考えるほどの「嫁がぬ」理由などなかったのかもしれない、とさえ思う。だが、とにかくも、それをこの上なく重大な尋常ならざる運命のごとくに扱い、歌い上げていったところに、富小路禎子の稀な歌魂はあった。嫁がず、生まず、長い歴史のある家を自分を以て絶やす、ということを、昭和も戦後になって、魅力的な作歌の源としてしまったのである。
 嫁がず、生まなかったということは、翻って考えれば、しなかった恋愛を生き続けるということであり、持たなかった夫と添い遂げ、生まなかった子とともに老いてゆく、ということでもある。富小路禎子の独擅場ともいうべき、真に比類ない歌が、ここに生まれていくことになる。

                                                       亡母に似ると言はれし口をいろどるに又似る娘など持ちてもみたし
(『未明の調べ』昭和三十一年)

   未婚の吾の夫にあらずや海に向き白き墓碑ありて薄日あたれる
(『白暁』昭和四十五年)

   会はざりし夫の墓探しにゆきたしといつよりか一人の旅を思へる

   抱擁をしらざる胸の深碧ただ一連に雁わたる

(『柘榴の宿』昭和五十八年)

   吾の後生れしものなきこの家にまた紫陽花は喪の色に咲く
(『花をうつ雷』平成元年)

   初花の沙羅に満ちくる晨の光女を賭くる恋もせざりき

   戦火に雛焼かれし少女吾の嫁かざりし生もおほよそは過ぐ

   恋の舞果てし舞台の空白に顕てるわが生の愛みな淡し
(『吹雪の舞』平成五年)

  わがかつて生みしは木枯童子にて病み臥す窓を二夜さ敲く
(『不穏の華』平成八年)

 無が、不在が、滅びが、歌の中にしっかりと言葉の肉のかたちを取り、日本の文芸の新しい命となっていく様がここには見てとれるだろう。
 次のような歌を見れば、こうも思う。富小路禎子の夫は、じつは敗戦そのものだったのではないか。あの頃の焼跡だったのではないか。そうして、生まれた子は彼女自身だったのではないか、と。そのように生まれた彼女自身を、富小路禎子は一生かけて慈しみ、立派に育てあげたではなかったか、と。

   焼跡に杙のごと立つ少女吾敗戦の日の白黒写真
                            (『不穏の華』平成八年)

 そうだとすれば、死を前にした母が彼女に与えた忠告も、いかにも正しかったというべきだろう。禎子の内に、娘とともに生動しうる歌の舞台が広がっていくのを予見したであろう母の心を、この歌人は、いかにも律儀に守り抜いたのである。

   急ぎ嫁くなと臨終に吾に言ひましき如何にかなしき母なりしかも
(『未明のしらべ』昭和三十一年)

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