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ARCH 53

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年三月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




立て膝をする雪子 ――『細雪』の悦楽



あらゆる性的逸脱のなかで、おそらくもっとも特異なのは貞節であろう。
レミ・ド・グールモン


 市川崑の映画では『細雪』の三女雪子を吉永小百合が演じていて、あの人物の蔵している控えめな倣岸さというものがよく出ていた。が、もちろん、吉永小百合では雪子には不適格なので、蒔岡姉妹のうちで「一番細面の、なよなよとした痩形」だという雰囲気とはまったく違ってしまっている。
小説中の次のような描写を見ると、吉永小百合の雪子がいかにミスキャストであるかがはっきりする。立秋を過ぎたというのに暑さがぶり返した日、「熱気の籠もった、風通しの悪い室内」で貞乃助が、めずらしく着物でなしに「ジョウゼットのワンピース」を着ている雪子を見る場面である。

濃い紺色のジョウゼットの下に肩胛骨の透いている、傷々しいほど痩せた、骨細な肩や腕の、ぞうっと寒気を催させる肌の色の白さを見ると、俄に汗が引っ込むような心地もして、当人は知らぬことだけれども、端の者には確かに一種の清涼剤になる眺めだとも、思い思いした。
(…)雪子は黙って項垂れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らして、寝台の下にころがっていた悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬に素足を載せながら、時々足の蹠が熱くなると毬を廻して別な所を踏んでいた。

 こういうところをほぼ丸ごと無視して造形されたのが、市川崑の『細雪』における雪子である。これはたとえば、貞乃助の性格、というより人格を、小説とまったく違えた設定にしたところにも共通する、市川崑の趣味の表われかもしれない。石坂浩二演じる貞乃助は、色事好きの温厚な浮気者で、馴染みの女性美容師とも関係しており、雪子ともどうやら深い関係を持っているのでは、と匂わせていた。原作を深いところで破壊してしまっているともいえそうな改変だった。
戦中の執筆ということもあって、谷崎作品に一貫して流れていた耽美的エロティシズムの追求は、原作の『細雪』ではほとんど取り除かれたか、あるいは極限まで後退させられてしまった、といってよい。谷崎作品にとって重要なそういう部分をあえて甦らせ、強調もして、翻案というよりも、あるべき真の『細雪』の姿の再現をするというほどの意欲が、市川崑にはあったのかもしれない。そもそも『細雪』が、関西の上流家庭の堕落した性風俗を描く意図から『三寒四温』という題で構想されていたことや、谷崎における倒錯が、総じて時代の大勢となっている趣味への反抗の色合いを持っていたことを思えば、こうした真の『細雪』再現の意図というものがあっても、そう誤ったものともいえないところがある。
 とはいえ、当の谷崎本人が今あるようなかたちで『細雪』を完成し、残したのだとすれば、いかに他の作品群と異なっているように見えようとも、それを、小林秀雄や中村光夫のように、みだりに思想性が弱いなどと批判して済むものではないだろう。彼の小説美学の別のかたちのものがそこに追及され、展開されたのには違いなく、それは現在の完成形そのものの中に探っていく他にはない。実際、いろいろな部分に、穏やかな家庭小説ふうの雰囲気を破るような微妙な設定や描写があったりする。

                   ☆

 雪子が洋服姿になった場面を先に引用しておいたが、『細雪』においては、なんといってもこの雪子に、突出して奇異なところが集まっている。谷崎の他の正統な、――というのも妙な言い方かもしれないが、谷崎らしいエロティシズムを追求した他作品と、この『細雪』とを結ぶもっとも重要な役割は、明らかに雪子が担わされている。
 上巻の八章目に、次女幸子の娘の悦子が、学校の綴方の宿題に、飼っているアンゴラ兎と雪子のことを書く話が出てくる。学校の先生に提出する前に、雪子が読んで添削しておいてやるのだが、その中に、兎の片っ方の耳だけが立っているのに、もう片っ方が倒れてしまうので、雪子にそれを立ててくれるよう頼む場面が書かれている。

    私ハネエチヤンニ、「ネエチヤン、アノウサギノミミヲ立テテ下サイ」トイヒマシタノデ、ネエチヤンハ足デウサギノミミヲツマンデ、立テテオヤリニナリマシタ。シカシネエチヤンガ足ヲオハナシニナルト、ソツチノミミハマタパタリトタオレテシマヒマシタ。ネエチヤンハ「オカシナミミデスネ」トオツシヤツテ、オワラヒニナリマシタ。

 これは言うまでもなく、『登美子の足』や『瘋癲老人日記』で全開になる足フェティシズムに繋がる描写で、谷崎好きにとっては垂涎の箇所というべきだろう。「日本人形」のような趣のある雪子の足先が、アンゴラ兎の耳を抓み、立ててやろうとする。想像の中で雪子の感覚に入り込んで、自ら雪子の体となり、あの足を持ち、足先を持って、兎の耳という触れぐあいの微妙な箇所を抓むのを想像するのは、なかなか激しいエロティシズムを発生させる遊戯といってよい。足フェティシズム文学においても、アンゴラ兎の、それも体毛の部分ではなく、あえて耳の部分を、三十歳を過ぎた華奢な女に抓ませるというのは稀少と思われる。谷崎潤一郎という作家は、たっぷりと乗って書いていく時には、たいてい登場人物の語りを演じながら書いていくタイプなので、この箇所でも、小学生の女の子である悦子の語りに入り込んでいく快楽をまず確保し、そうしてそこに、戦前の小学生の綴方であるがゆえのぎこちなさをまぶし込み(カタカナ書きというのも、戦前の学校の綴方では普通だったのかもしれないが、谷崎の読者にとっては、なによりも『瘋癲老人日記』や『鍵』の文体に繋がる嬉しい書法でもある)、そういう口調によって雪子の華奢な肉体をとらえ込み、彼女の足先の感覚の中に流れ込んでいって、アンゴラ兎の耳を抓んでみるという、なかなかに複雑な手順を踏んでの官能を実現してみせている。そういえば、冒頭に引用しておいた暑い日の洋服姿の雪子を描く部分でも、雪子は足で「ゴム毬」を弄んでいた。もう一度、引く。

   (…)雪子は黙って項垂れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らして、寝台の下にころがっていた悦子の玩具の、フートボール用の大きなゴム毬に素足を載せながら、時々足の蹠が熱くなると毬を廻して別な所を踏んでいた。

 雪子が素足で「フートボール用の大きなゴム毬」に触れている様を描きながら、谷崎の快楽がいかほどのものとなっていたか、それをこってりと想像してみるところに、じつは『細雪』を読む本当の悦びというものがある。谷崎は、雪子の素足にもなりかわって全霊で「ゴム毬」に自らを擦りつけてみていただろうが、他方、「大きなゴム毬」そのものともなって、雪子の素足でいじくられる悦びを味わっていただろう。雪子の蹠が熱くなるのを感じ、「ゴム毬」である自分がくるりとひっくり返されて、また別のところを触れられるというのは、これはまた、なんという悦びであることか。
 ここで雪子の素足が触れている「ゴム毬」が、やはり「悦子の玩具」であるのは、『卍』におけるレスビアニズムをもちろん容易に想起させるので、作者の喜びも読者の想像も、貞乃助が見たこの一場面に留まってしまうということがない。戦時下の谷崎が、彼としてはずいぶんと品行方正な書き方で『細雪』を書いていったようでいながら、彼の他の作品世界に容易に通じてしまう、こういう隠れ通路を方々に作っておいたということには、『細雪』の読者は気づいておかなければならない。こういう隠れ通路のすべてにではなくとも、たとえ、いくつかに気づくだけでも、『細雪』という作品全体は巨大な秘密めいた館となっていく。登場人物たちの誰もが、また、出てくる小道具や設定のどれもが、仄暗い裏側をぴったりと隠し持っているのが想像されてくるのである。
 雪子の足ということでは、ある夕方に勤めより帰宅した貞乃助が、奔放な四女の妙子に足の爪を切ってもらっている雪子を見る場面もある。

浴室の前の六畳の部屋の襖を開けると、雪子が縁側に立て膝をして、妙子に足の爪を剪って貰っていた。
「幸子は」
と云うと、
「中姉ちゃん桑山さん迄行かはりました。もう直ぐ帰らはりますやろ」
と、妙子が云う暇に、雪子はそっと足の甲を裾の中に入れて居ずまいを直した。貞乃助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、又襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。

爪切りを使っているのか、小さな鋏を使っているのか、そこを書き込んでいないのは、忘れたのか、それとも故意の言い落としなのか。どうしてそれに言及しないのだろうかと、考えさせられる。「キラキラ光る爪の屑」が散らばっているとあるが、爪を切っている金属の道具のほうが、よほど「キラキラ」しているはずだろうに、なぜか、切り落とされた「爪の屑」のほうを「キラキラ」と書き込んでいるのだ。もちろん、爪をすっかり切り終わった後の光景とも考えられるが、まだ「爪の屑」が散らばっている時なら、爪切りや鋏は当然そこに見られるはずであろう。
こんなことが無性に気になってしかたがなくなるのも、『細雪』にたくさんの細かなこだわりが組み込まれているからである。単に谷崎が描き落としただけかもしれないところまでが、意味ありげに響きを立てはじめる。文芸表現の至高のあり方というべきではないだろうか。『陰翳礼讃』に収載されていた『懶惰の説』に、「昔は地唄をうたう場合に余り大きな声を出して発音を明瞭にいうと、かえって下品だといって叱られた」という老検校の話を出しながら、「人に聞こえないほどの微かな鼻声で唄っていても、自分では技巧の妙を味わい尽すことが出来、三昧境に這入れる」と考えるに至る件があるが、文章表現の上での同様な「三昧境」のひとつが、こんなところに実現されているのかもしれない。
この爪切りの場面でも、雪子の足はやはり素足として描かれているのを見ると、谷崎にとって雪子の足というのは、どうしても素足でなければならないものであるのらしい。しかも、その素足を、蒔岡家の四姉妹の中ではいちばん奔放で、好き勝手放題に恋愛沙汰を起こしたり、人形つくりや洋裁の仕事に精を出したりしている妙子の手にとらせ、かしずくようにして爪を切らせているというのは、なんとも印象的な場面といわねばならない。たしかに雪子は三女で姉ではあるし、家族の日常の中ではごく普通にありそうな光景ではあるけれども、それでもこの箇所は、この作品の中では異質な雰囲気を湛えている。無言の支配力を雪子が発揮しているような光景には、雪子という存在に対し、思わず谷崎が取ってしまう態度が表わされていまいか。
立秋過ぎの暑い日など、「黙って項垂れたまま、裸体にされた日本人形のように両腕をだらりと側面に沿うて垂らし」た格好をしてしまうところのある雪子を、人形つくりを趣味とも仕事ともしている妙子が世話してやっているのも、あまりに穿ちすぎの感はあるものの、忘れてならない関係性といえる。
それよりなにより、「立て膝」の最もふさわしくない雪子に、あえてそれをさせているところが、なんといってもこの場面の最も悦ばしいところだろう。貞乃助が、「浴室の前の六畳の部屋の襖を開ける」と、「雪子が縁側に立て膝をして」いる。慎みのない書き方をさせてもらえば、立て膝をすれば、女の隠しどころの唇は、左右ずれ気味になり、閉じ切ってはいないが開いてもいないという、曖昧な有様とならざるを得ない仕儀であって、谷崎が明らかにそこに焦点を定め、間接的に描いていっているのは疑いようもない。あからさまな語を用いて露わに描写したりせず、間接的に間接的にと、遠巻きに責め囲んでいくような描写で、読者を、いや、なによりも書いている自らをむちむちと悶えさせていくところ、谷崎潤一郎の真骨頂というべきものがある。
「スカートの膝をつきながら」、切った爪を「一つ一つ掌の中に拾い集めている」妙子の姿態を想像すると、両足をあわせて股を閉じて動作していると考えるのが自然だろう。雪子の隠しどころを思い描いてしまった読者は、ここで当然、妙子の隠しどころがぴっちりと締められているのを思い描かずにはおれない。物語の中では、他の姉妹にくらべて大胆で奔放なのが目立つように描かれている妙子に、じつは誰よりも慎み深い控えめな本質があるのではないかと思わされ、人物たちの性格設定が一瞬にひっくり返るような倒錯の感覚に読者は陥る。しかも、ここで貞乃助が、こんな「有様をちらと見ただけで、又襖を締め」るのだ。雪子の「立て膝」の姿の間近には「襖を開ける」描写を置き、両足をあわせて股を閉じているであろう妙子の姿の近くには「襖を締め」る描写を置くという、この周到さ。一枚の衣服も剥ぎ取っていないというのに、谷崎はここで、雪子と妙子をすっかり裸にしてしまっている。

                   ☆

 こういったところに敏感になってくると、『細雪』の細部細部は相互に連関しあって暴走を始めるようになり、読解は指摘するにも暇のない熱気に包まれていくことになる。後はひとりひとりの読者が際限もない愉しみの中にまよい込んでいけばいいわけだが、冒頭の引用箇所に見られたような雪子の華奢な姿態が、じつは『陰翳礼讃』に称揚されていた日本特有のエロスを湛えた女の体の、作中における具現化のひとつだったということなどには、やはり気づいておいたほうが愉しい。しかも、この女体の体型は、谷崎文学のテーマのひとつである「母」とも密接に結びついている。

    母は至ってせいが低く、五尺に足らぬほどであったが、母ばかりでなくあの頃の女はそのくらいが普通だったのであろう。いや、極端にいえば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだといっていい。私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体については記憶がない。それで想い起すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そういう胴の全体が顔や手足に比べると不釣合に痩せ細っていて、厚みがなく、肉体というよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああいう風ではなかったのであろうか。今日でもああいう恰好の胴体を持った女が、旧弊な家庭の老夫人とか、芸者などの中に時々いる。そして私はあれを見ると、人形の心棒を思い出すのである。事実、あの胴体は衣裳を着けるための棒であって、それ以外の何物でもない。胴体のスタッフを成しているものは、幾襲ねとなく巻き附いている衣と綿とであって、衣裳を剥げば人形と同じように不恰好な心棒が残る。が、昔はあれでよかったのだ。闇の中に住む彼女たちに取っては、ほのじろい顔一つあれば、胴体は必要なかったのだ。思うに明朗な近代女性の肉体美を謳歌する者には、そういう女の幽鬼じみた美しさを考えることは困難であろう。また或る者は、暗い光線で胡麻化した美しさは、真の美しさでないというであろう。けれども前にも述べたように、われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。
                      (『陰翳礼讃』)

谷崎はさらに、「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰影のあや、明暗にある」とも、「われわれの祖先は、女というものを蒔絵や螺鈿の器と同じく、闇とは切っても切れないものとして、出来るだけ全体を蔭へ沈めてしまうようにし、長い袂や長い裳裾で手足を隈の中に包み、或る一箇所、首だけを際立たせるようにした」とも言う。陰影、闇、曖昧なもの、どちらともつかぬものを愛惜する彼が、それらと「女」というものとを結びつけながら、日本文化の本質に踏み入っていこうとする重要な思索が続いていくのだが、こうした美的な理想を、昭和はじめの現実の時間の中に生かそうと試みたところに、『細雪』の雪子の人物造形はあった。
 このあたりは谷崎文学の核心で、ここからは、彼の様々な作品世界のあらゆるところへの道が通っている。『細雪』の雪子の肢体と『陰翳礼讃』のこういった思索をいったん結んでしまうと、無思想どころではない変幻極まりない魅力に彩られた珠のような小説として、『細雪』は受けとめざるを得なくなってくる。
 雪子の肢体を、つまり、彼の理想の日本の女の肢体を、自らの視線で無骨にじかに包んでしまうような趣のない描き方を、けっして谷崎はしない。引用してきた雪子の足に関わる部分が、二度にわたって貞乃助のまなざしで捉えられていたことなどでもそれはわかるが、この小説が、そもそものはじまりから、妹の雪子や妙子のためによかれと祈る、世話役の次女幸子の、愛情に満ちたまなざしで眺められて開始されていたことには、よくよく注意しておいたほうがよい。

「こいさん、頼むわ。―――」
鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、
「雪子ちゃん下で何してる」
と、幸子はきいた。

ひと続きに書かれたこの驚くべき文は、ことのほか傑出した書き出しの文として、なんとも忘れがたい。妙子に声をかけ、鏡を通してその姿をとらえる一方、三女の雪子のことを気にかけ、そうして同時に、自分の顔も鏡の中に「他人の顔のように見据え」る幸子の意識のあり方が、読者にいささかの苦労も強いることなく、さらりと表現されている。
こんな冒頭からはじまった『細雪』は、いちおうは三人称体で書かれながらも、妹ふたりに対する幸子の、さらにはその夫の貞之助の愛情に浸されて、この夫婦ふたりのまなざしを通すかたちで、あるいは彼らのまなざしに近接しながら、時に、わずかにずれる、というかたちで描かれていく。谷崎には、いつも作中人物の誰かの意識や、口調や、まなざしの中に入り込んで、彼らになり切って物語っていくのを愉しむ性格コスプレとでもいうべき癖があるが、『細雪』でもこれは一時も止まない。その結果として、開放型の、閉じられていない、あえて不完全さを保持した三人称体、とも呼びたくなるような書法が取られるに至ったように思う。語り手のではなく、作品全体の構造や趣向の統括者たる作者の、思えば、ずいぶん直接的な一人称体ともいうべき三人称体なるもの。その不可思議さと可能性は、文学研究の進んだ現代でもまだ十分に解明されてはいないように思うが、『細雪』が、そうした研究の際の第一級資料かつ対象であり続けていくのは、まず疑いのないところであろう。





*『細雪』は新潮文庫、『陰影礼讃』は岩波文庫『谷崎潤一郎随筆集』より引用。ただし、不要と思われるルビは、筆者の判断で大幅に減らした。

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