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ARCH 54

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年三月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




小説『細雪』、四季のめぐりへの讃歌



なかなか結婚しない娘が家にいたり、奔放な娘に一家が翻弄され続けたりすることの愉しさ、豊かさ。
『細雪』に触れるたび、これを思う。
大阪船場の没落商家、蒔岡家の四姉妹をあつかうこの小説では、蘆屋に住む次女の幸子と夫の貞之助が、家の体面を最優先する長女鶴子とその夫辰雄の〈本家〉の目をいつも気にしながら、三女の雪子と四女の妙子のことで、てんてこ舞いさせられ続ける。純日本ふうの美しい控えめな箱入り娘、といえば聞こえはいいものの、極端なまでに内気で優柔不断な雪子は、再三のお見合いにことごとく失敗し続けるし、妙子は妙子で、人形づくりや洋裁に積極的なのはいいとしても、駆け落ち事件以来いろいろと色恋沙汰が絶えず、旧家にはふさわしからぬ奔放さである。
背景となっている昭和はじめの時代感覚でいえば、こんな対照的な娘たちを一家にふたりながら抱え込むのは頭の痛い話にちがいないのだが、じつは幸子も貞之助も、他ならぬこんな妹たちのおかげで、昔からの日本の四季の愉しみにたっぷり繋がっていられる。
四季のすこやかなめぐりを愛でることが、ことのほか日本人にとって大切なのはいうまでもない。近代の西欧化の怒涛に呑み込まれ、文化的に自失しかけたこの国では、自らの本質に立ち返ろうとするときなど、なんといっても季節にすがるのがてっとり早い。四季のめぐりこそが、ひょっとしたら、日本の自我であり神だったか。王朝時代の和歌の伝統にしても、季語を大切にする近世以降の俳諧や俳句にしても、四季のめぐりへの讃歌という点で一貫している。
一見、ごたごたや悶着ばかりひき起こす雪子や妙子なのだが、じつは彼女たちこそ、季節のめぐりや、それにぴったり重なってできている日本の伝統に、蒔岡の家をつないでいく巫女役を担っている。巫女が結婚などしていいわけがない。なぜ雪子のお見合いがうまく行かないか、なぜ妙子の恋愛がすんなりとは結実に至らないか、問うまでもないのだ。
雪子や妙子という巫女を配して執り行われる行事として、『細雪』では、春の花見、夏の蛍狩り、秋の月見といった場面がたっぷりと描かれる。冬の雪見もほしいところだが、それは描かれない。ひと季節をあえて欠く趣向を試みたか。それとも、作品名の『細雪』で、また雪子の名で、作中、つねづね象徴的に言及される愉しみを選んだものか。
『細雪』は、営々と続けられてきた『潤一郎訳源氏物語』完成の数年後に執筆が始まっている。作中の四季の行事が、この大仕事の余韻のうちに描かれていったとみるのは自然なことだろう。『源氏物語』のさまざまな巻の物語が、小説のあれこれの場面に二重写しになって思い出されてくる。阪神地方を襲った昭和十三年の大水害の場面にさえ、『須磨』『明石』の巻々の大嵐が重なってみえる。
蒔岡家のこうした行事のなかでも、欠かすことなく毎年続けられる春の京都への花見は、作品中の圧巻として忘れがたい。

常例としては、土曜の午後から出かけて、南禅寺の瓢亭で早めに夜食をしたため、これも毎年欠かしたことのない都踊を見物してから帰りに祇園の夜桜を見、その晩は麩屋町の旅館に泊って、明くる日嵯峨から嵐山へ行き、中の島の掛茶屋あたりで持って来た弁当の折を開き、午後には市中に戻って来て、平安神宮の神苑の花を見る。(…)いつも平安神宮行きを最後の日に残して置くのは、この神苑の花が洛中に於ける最も美しい、最も見事な花であるからで、丸山公園の枝垂桜が既に年老い、年々に色褪せて行く今日では、まことに此処の花を措いて京洛の春を代表するものはないと云ってよい。されば、彼女たちは、毎年二日目の午後、嵯峨方面から戻って来て、まさに春の日の暮れかかろうとする、最も名残の惜しまれる黄昏の一時を選んで、半日の行楽にやや草臥れた足を曳きずりながら、この神苑の花の下をさまよう。そして、池の汀、橋の袂、路の曲り角、廻廊の軒先、等にある殆ど一つ一つの桜樹の前に立ち止まって歎息し、限りなき愛着の情を遣るのであるが、蘆屋の家に帰ってからも、又あくる年の春が来るまで、その一年じゅう、いつでも眼をつぶればそれらの木々の花の色、枝の姿を、眼瞼の裡に描き得るのであった。*

 お気に入りの着物でまわったら、これほど楽しい華やかな行楽もあるまい。事実、蒔岡家の姉妹たちが美しく装っているのはたしかなのだが、谷崎はこういう場面で、不思議なほど、着物について細かく描き込むということをしない。あたかもこの姉妹たちに、読者が思い思いのきものを着せて愉しめるようにと、あえて、空白のままにしてくれているかのようだ。
もっとも、巫女である雪子と妙子の着物については、そういう谷崎でさえ描き込んでしまうときがある。四姉妹のうちで最もきもの映えする雪子が、蛍狩りをかねて見合いに蒲郡まで出かける際の「こっくりした紫地に、思い切って大柄な籠目崩しのところどころに、萩と、撫子と、白抜きの波の模様のある」一枚や、妙子が「雪」を舞うときの「白地に天の橋立」の一と襲ね、また、「葡萄紫に雪持ちの梅と椿の模様のある小紋」など。ひょっとしたら、「一生あなた様に御仕へ申すことができましたらたとひそのために身を亡ぼしてもそれか私には無上の幸福でございます」**と彼が書き送って、そうして結ばれるに至った最愛の松子夫人の、殊に大事にしていた実際の着物を、フィクションのなかにもぐり込ませてみたものかもしれない。

(註)
*この部分を含めて、本文中の『細雪』の引用は新潮文庫版による。
**昭和七年九月二日付根津松子宛書簡より。

◆この文章は、若干の変更をくわえた上で、『美しいキモノ』二〇〇八年春号(アシェット婦人画報社)の「創刊55周年記念企画『細雪』の世界」にも掲載された。

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