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ARCH 55

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年五月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




モーパッサン和尚



 ひさしぶりにモーパッサンの短編集を読み、強い印象を受けた。直視するのを避けていた病状を、なにかの拍子に突きつけられでもしたような。
 中学時代に、彼の中短編は翻訳で読めるかぎり漁った。今回読み直したのはContes de la becasse〔1883〕(『ヤマシギ物語』とでも訳すべき総題である)で、うっすらと覚えているようでも、はっきり筋の展開や結末が心に残っていたものはひとつもない。熱中して読んだとはいえ、三十年以上も前の読書は、ほとんど前世のそれに等しい。高校に進んで生意気な文学青年になった頃、モーパッサンを馬鹿にするようになった。同じフランス文学でも、バルザックやフローベールなどに比べれば彼の創作法は安易過ぎるものと思えたし、ちょっとの閃きから短いものを纏める才に秀でていたに過ぎないと判定した。今から思えば、読んだものや馴染んだものを捨てて、自分のまだ知らぬものへとどんどん進みたくて、皮相で酷薄な断定を、あの作家この詩人へと下していたのだ。つい最近まで続いた、私の長い病である。他の人々はわからない、学生時代ばかりか、不惑をとうに過ぎてさえ、私は単なる馬鹿だった。昨日までの私の思いも感情も、ただの塵や芥に過ぎない。たった十七編からなる短編集を読み直して、モーパッサンの才能に衿を正さざるを得なくなった。三十年余りのつまらぬ自分の蓄積に愛想を尽かした。
 甘さの微塵もない透徹した人間観に打たれたのはもちろんだが、人生の意味のなさ、紙一重で数十年にわたる幸不幸の分かれる人間存在の現実というものを、あの短さの中に、あそこまで手加減せずに描き出す精神の強さに打たれた。ひさしぶりに師としたいような人に出会った気がする。この創作態度を、多くの評者はモーパッサンのペシミズムだとかシニシズムだのと言い習わしてきたものだが、たまたま、孤立無援の徹底的な生活苦や精神苦を回避して生きて来れた者たちが口にしがちな、浮わついた苦言のごときものに過ぎまい。
 特別の才のあるわけでもない普通の人間が、生活の中でふいにひとりになる。誰にも救いを求められないような状況で、絶体絶命に陥る。命の係っている時もあれば、心の係っている時もある。そのような人間の心理と行動に起こるであろうことの、現実的な手触りをモーパッサンは創ろうとするので、これはいわゆる写実主義とも自然主義とも違う。彼が用いるのは、あくまでお話なのであり、しばしば不自然なほどに展開は速く、描写は的確だがタッチの早い素描で、緩急は激しく、わざとらしい時さえあるが、それは、彼がまったく現実など描こうとしていないからだ。作家は現実など描くことはできない。現実を読者の心に惹き起こす者を作家というだけのことだ。
 モーパッサンの惹き起こす現実は酷く、救いがなく、我々の誰もが人生という名の殲滅収容所に入れられているに過ぎないのだと突きつけてくる。だが、それらを読みながら、日々の生活では味わいづらい充実を我々は確実に握り締める。
 物語の中に今まさしく崩壊していく人生、長い不幸の中へと沈みこんでいく人物、醜悪さと愚かしさを自覚せずに、汚れた家畜のように生き続けていく者たちを見ながら、少なくとも今、私は彼らではない、ほんのわずかの違いで、ほんのわずかの偶然や運命の差で――。そう読者は思う。思いはするものの、そうした違いや差が救いだなどと感じるのではない。そんな差や違いは、ちょっと何かが起これば明日にも容易に失われうるだろうことを、モーパッサンはいつも仄めかしている。とすれば、崩壊や不幸や醜悪の中でなおも生き延びていけるようにと精神の準備をしておかなければならないが… こう読者が考える時、彼はすでに、モーパッサンの思う壺に嵌まっている。
 ここまで来た読者に、モーパッサンはふたつのことを教えてくれる。
 ひとつ。どんな状況に陥ろうが、どうやら人間はなんとか生きていけるようではあるということ。もし世間体を捨て、幸福の概念を捨て、最後には心を捨て去れば。
 ふたつ。人間が、たとえば小説などを読んであれこれ考えたり、いろいろ心配したりしていられるような余裕のある現状、ふつうの社会人としての日常を生きている「今」とはなにか。それはおそらく、知らぬ間に巻き込まれた戦闘の中で、近くにいる其処此処の人々の頭を打ち抜いた銃弾が、今はまだ自分に当たっていない、たまたま当たっていないという、そういう状況に近いのだということ。たまたま当たっていないだけのことなのだから、明日にでも来週にでも、あるいは数年後にも、ひとたび命中すれば、あのように脳髄は飛び散り、血の海の中に自分の身体もだらしなく股を開いて、あるいは口を開けて、誰かが処理に来るまで横たわり続け、腐敗していく…
 これのどこがペシミズムでありシニシズムだろうか。モーパッサンを読むという心的体験は、広義の「現状」や「日常生活」なるものの壊れやすさ、移ろいやすさをバーチャルに学ぶというところに核心がある。いま見えているもの、目の前にあるものを礎と見なすことは、いかなる時代、場所、人においてもできない。すぐにも崩れゆく仮設足場程度にしか、それを用いることはできない。とかく忘れたがるやからの多いこの宿世の真理を、モーパッサンという聖者は親切にも、お得意のお話で懇切丁寧に教え続けてくれていたのだった。
 この宿世がモーパッサンの教える通りだとして、では、どうすればいいか。ここから後は、たとえば日本の沢庵和尚に飛んでしまったりしたほうが早道かもしれない。

     心を一所に置けば、偏に落ると云ふなり。偏とは一方に片付きたる事を云ふなり。正とは何処へも行き渡つたる事なり。

   あるいは、

      唯一所に止めぬ工夫、是れ皆修行なり。

   ともに『不動智神妙録』より。
 宮本武蔵ならば、同じことをもう少し哀愁の滲む言い方で表わした。死の一週間前に書かれた自戒の書『独行道』の、箇条書きの教えのひとつに曰く、

      いづれの道にも、わかれをかなしまず。

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