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ARCH 56

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年六月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




にっぽん語の思い出のために



「駿河さんは短歌をやっているって言うけど、それだってたいしたことはない…」
 ほぼこのようなことを、ある人から言われたことがある。
 なんとも正しい言葉だ、と、その時、即座に思った。
 二十年以上も短歌を作り続けてきたのに、ぼくはいまだに、斉藤茂吉にも寺山修司にも塚本邦雄にも岡井隆にもなっていない。釈迢空にも前川佐美雄にも山中千恵子にも。短歌をやって、タイシタものになるというのは、せめて、彼らのようなビッグネームになることだと世間の人は思うだろう。だから、この言葉は非常に正しい。まさにその通りだ。即座にこう思ったのだった。
 こんな時、詩人や歌人なら憤るのではないか。文学者ならば怒るのではないか。そうも思った。お前になにがわかる。お前こそ、どれほどのものを書いたというのだ。そんなことを言って、胸倉を掴んだり、殴りかかったりする人々もいるのではないか。
 だが、そういう態度にまったく出ないぼくがいた。
 その人の批評眼を信頼してのことではない。
 しょせん、世間はそんなものだろうという圧倒的な思いが存在していたのだ。短歌に係わってしまったことで、ぼくが見聞きし、経験してきてしまったものを、ふつうの文芸趣味の人々はまったく知らない。知りようがない。いくら語ろうとしても、ぼくの愚痴にしか聞こえまい。そういう思いが、村落を襲った後の土石流の泥濘のようにぼくの舌を固めてしまうのだ。
 短歌を作るのなら、ひとりで出来る。桜の花を見たり、紅葉を見たりして、三十一文字でなにごとか表現してみたくなり、過去のだれかの作風を無意識に真似ながら、自分だって短歌のひとつやふたつぐらい作れる、そんな思いに浸るのにわけはない。
 しかし、短歌をやる、というのは、そういうことではない。結社と呼ばれる歌人集団に属するということを意味する。ニッポンの集団であるからには、そこには厳然とニッポンの集団の力学が存在する。しかも、お茶やお花の世界に通じる上下関係と丁稚奉公の論理の粋が、そこには厳然としてあるのだ。
 世間一般のニッポン人よりも、どうしても自由と正義という概念の方向へと心身が触れてしまう損なタチを持っているぼくには、短歌結社の力学は異様、かつ異常な世界としか映らなかった。連絡事務や歌会出席や催しへの出席などで結社に関わるたびに、自分の生活信条も理想も美意識も価値観も、すべてが否定される思いがした。にもかかわらず、短歌をやる。にもかかわらず、結社に属していた。なぜか。
 ぼくが個人的に作っている短歌紙葉『朱鳥』には、「アカミトリ。にっぽん語の思い出と、赫々たる道楽文芸のために。」という銘句を書き入れてある。まさに、これなのだ。「にっぽん語の思い出」のために。せっかく日本に生まれたのだから、日本語に、その精髄の部分で触れ、知覚し、味わい、捏ね繰りまわして、そうして死んで行きたいという欲望が、ぼくには強かった。この欲望は、ぼくを短歌作りや古文の継続的反復的な読書に向かわせた。すべては「にっぽん語の思い出」のために。つまり、短歌とのぼくの付き合いは、はじめから思い出づくりの相の下になされたのだ。すでに死去し、日本人を終えてしまった地点(死者はもう、どこの国の人間でもない。たとえば、靖国の精霊には、もはやひとりの日本人もいないのだ)に立っている自分を想定して、生前に親しんだ言語としての「にっぽん語」を回顧するために。ただそれだけのために、二十代のはじめ、ぼくは短歌に関わり始めた。ただそれだけのために、ぼくはなおも短歌を続けているのだ。
 短歌との関わり方のこうした画定が、結果として、先述の人がぼくに示したような軽侮を、文芸趣味を持つ少なからぬ知人の心に生んだことは否めないし、歌人としてのぼくの薄幸を決定したのも否めない。というのも、「にっぽん語」回顧を先取りする方策としてのぼくの作歌は、新奇な作風の開拓よりは、古典的な、どの日本人の心の澱の中にも遍く存在するような良き月並みさ(高浜虚子が確信犯的に称揚していたような月並みさである)の言語化に、意識的にぼくを向かわせるものだったため、そういった方向性を好まない短歌上のとりあえずの師の嗜好と、ついに決定的に対立するに至ったからだ。
 ぼくの意識的な月並み短歌創作は、『冥顕千首』というシリーズの制作の際に極まった。その頃のぼくは、あらゆる事象や心象を悲壮化・限定化・暗化してみせることで成り立つ現代短歌の詩法に飽き飽きし、それを嫌悪するに至っていて、高浜虚子や富安風生の句業のあの落ち着きや、非凡この上ない悠々たる平凡さ等の方向性を短歌の中に実現しようと企てていた。或る日、馬事公苑までの冬のひとりの散歩の後、暖を取るためにたまたま入った経堂の古書店で、新潮文庫の古い絶版の水原秋櫻子句集を手に取った。心のなにが、どう動いたかわからないが、それまではさほど影響も受けないできたはずの秋櫻子の澄明な句業を走り読みしながら、この時、悶々と活路を見出しかねていた内なる言語表現の行方に、鮮やかに瑞々しい稲妻が走ったようだった。この時ほど鮮烈な読書体験をしたことは、後にも先にもない。しばらく、秋櫻子句集は座右の書となり、経堂で買い求めた絶版文庫を繰り返し読む一方、他の版も買い求めて、この俳人の仕事を数ヶ月追うことになった。しばらく停止していた作歌が、これに平行して自然に湧き出るように復活し、日々、三十から五十に及ぶ歌を連続して作り続けた結果、『冥顕千首』と名付けることになる千首が、ほぼひと月で完成した。千首に達した以降も、歌の湧出は留まる様子を見せなかった。
 この『冥顕千首』は、現在製作中の『朱鳥』のような簡素なペーパーのかたちで印刷して小数の詩人たちにお送りした。吉増剛造氏や吉田文憲氏にお褒めを頂いたあれこれの歌があり、わざわざお手紙まで頂いたのは、当時のぼくには嬉しかった。自分の内的な欲求に非常に近いかたちで、表現上の実現を為しえたという感触があり、堅固なものをついに手にしたという喜びもあった。属している短歌結社誌にも、『冥顕千首』と題して発表を始めた。
 はじめのうち、これらの短歌は結社の歌会で好評だった。もっとも、奇妙な好評というべきもので、「駿河がこんなものを作るのはおかしい。悩みも、鬱屈もすっかり無くなってしまっていて、こんなのは変だ、こんなはずはない…」といった評が、師匠筋から提出された。いま、久しぶりに思い出してみても面白いのだが、彼らの主宰する結社で、ぼくが、人生に悩み、迷い、鬱屈した青年のイメージを担いながら創作するよう誘導され、強制されてきた、その圧力がどれほどのものだったかを、彼らからのこうした評はよく表わしている。
 こうした評の中にも、すでに疑義はあったというべきだが、数ヵ月後、『冥顕千首』の方向性は、師匠筋から歌会で全否定されるに至る。「俳諧みたいなこんな軽い作り方ばかりして楽しんでいたら、ダメになるんじゃないの? 駿河は終わりだね」。
 短歌結社に属して、長く係わった人以外にはわからないだろうと思われるのは、結社において師匠は、絶対の尊師≠ナあるということであり、むろん多少の融通は利くにせよ、その人物の判定は絶対であるということである。したがって、『冥顕千首』の方向性と短歌としての価値は、ここに完全に否定されたことになる。少なくとも、ぼくが属している結社においては、こういう短歌は認めないとの裁定がなされたというわけだ。吉増剛造氏や吉田文憲氏が認めてくれたのに、などというのは、短歌の世界では薬にもならない。自由詩の詩性や価値は、短歌の世界では無に等しいのである。
 歌会では、様々な評を受けた後で、作者の短い発言が求められる。この時ぼくが語ったのは、ほぼこういった内容だった。
「あえて月並みな短歌を作りたいと思いますし、それがとても楽しいのです。道楽の具として短歌を用いてはいけないのでしょうか。現代に生きる上での問題を表現するには、他の形式で書けばいいと思ってもいます。どうやら、ぼくはもうダメになってしまっており、もう終わってしまっているそうですが、しばらくはこのままやらせていただこうと思います」。
 師たちを捨てる、権威をはっきりと否定する、そうして背水の陣を敷く、ということを本当に実行したのは、この時がはじめてだったと思う。心の中でなら、誰でも、遺棄も反抗も批判も容易にやる。しかし、はっきりとそれを言動に出すのは、まったく別のことだ。相手からの反応も来るが、なにより、自分自身の言動の反作用がつよく返ってきて、自分の身を打つ。目に見えないこの衝撃は運不運のかたちで襲い来たり、人によっては何年も心身から痕跡の消えないほど強烈なものとなる。断絶すること、断層を生じさせること、すなわち、生れること。たしかに暴力的と呼ぶべき事態がここにはあり、たぶん、これを経ないでは出生も自立も出発も精神には起こらない。血が流れずにひとつの世界がはじまることなど、絶対にないのだ。
 あれから八年が経っている。凱歌はなく、ぼくはいまや、鮮かに滅びの色に染まった谷を急降下しはじめている。やってきたことは全て徒労だったという風情でもある。時間と燃料の残量表示も、大きくゼロにむけて傾き出している。からだはいつまで保つだろうか。もっとも、今さら、なんのためにからだの維持を気にすることがあろうか…
 しかし、始まったものは確かにあり、それは、短歌態度における自分の画定さえも、いつの間にか破壊し去っていたようだった。ぼくは、師たちも、自分を育んだ場も捨てたが、始まりにあたって存在していた自分なるものも、どうやら、いつの間にか捨て去ってしまったらしかった。振り返ると、なにもない。歌謡曲などでは、振り返ると風ぐらいは吹いていたりするものだが、風さえ吹いていない。なるほど、過去というものがあるにはあるのだろうが、現在の自分の精神の動きにはあまり関わりのないものとして、およそ深い意味のないものとして、黄色くよじれた古新聞のように転がっているばかりだ。
 にっぽん語の思い出のために、などと、なんと下らないことを思っていたのか。この奇妙な精神の死のまねびは、どこから来たものだったか。しかし、詮索はもういい。時間切れが近いのだ。とりあえずは、まだ言葉に関わっていくのか。まだ書くのか。まだ読むのか。それとも、時間を生きることを選ぶべきか。時間、場、身体を?
 小学校の時、特攻隊に配属されて出撃しなかった先生がいて、時々、自身が果たせなかった出撃の話をしてくれた。戦争はよくないという話をちゃんと教育的にし終えてから、「だけど…」と言うのだった。
「だけど、人生なんて、本当はみんな特攻隊みたいなもんだ。いいか、出撃する人たちは、『行って来ます』なんて言わないんだぞ。だって、飛び立ったが最後、帰っては『来』ないんだからな。で、みんな、『行きます』って言うんだ。ふつうの人生だって、まったく同じじゃないか。時間がもうちょっとのんびり流れているようだから、よく見えないだけだ。本当はみんな、『行きます』なんだ。生れて、生きはじめる、成長する、大人になっていく、…いいか、子供時代へと生きて帰って来る人なんて、だれもいないんだ。ただただ、一直線に進んでいく。そうしてある日、ボン! 突っ込むんだ。いなくなる。人生っていうのはこういうもんだぞ。『行きます』なんだ」
 さあ、どうだろう。ひょっとしたら、まったく違うのかもしれない、人生について、時間について、持ち時間について、まったく考えを改めなければいけないのかもしれない、ともぼくは思っている。しかし、「行きます」的臨場感が増していくのだけは、なるほど確かだ。臨場感、というより、臨界点への接近感覚とでもいうべきか。
 臨界点への無限接近こそが生だとは、言えそうに思う。やはり、死ぬためにこそ生れた、ということだったろうか。春日井建がきっぱりと歌ったように。

   死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ

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