[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]


ARCH 80

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




政治ということ
―福田辞任・代議制民主主義・政治的身体・有権者・批評家・言説生産者]



この国小国にて人の心ばせ愚かなるによりて、もろもろの事を昔に違へじとするにてこそ侍れ。
                                      鴨長明『無名抄』


 福田康夫の突然とみえる総理辞任は、考えてみれば、タイミングの点でも理由の点でも理にかなっている。政権党や国会運営の長としては、それらの取りまとめが円滑にできない以上、辞任して、よりよい運営をなしうる後継に託すべきだと考えるのは、むしろ常識的でもあり責任ある判断といえる。辞任すべきだと判断した以上は、国会運営にもっとも支障を来さない時期に行うべきだという彼の決断もきわめて正しい。
 にもかかわらず、国会に直接参加していない有権者側から見て、「突然」にも「無責任」にも「情けなく」も「不安」にも思えるのは、権力執行権と政治的決定権を代議士に先ず委ね、そうした代議士の集合の場である国会に政治的決定権と権力執行権を委ねる代議制民主主義が、決定過程や執行過程において、細部に至るまで透明性を確保すべきだとの前提が裏切られていると見えるからである。近代民主主義において、有権者が自分の権力執行権や決定権を委ねるということは、政治過程における観察権と批評権を放棄したことを意味しない。権力執行権や決定権は、いかなる場合にも現実の政治運営の便宜のために、形式上、仮に委ねられているに過ぎず、むしろ、委ねられたからこそ、有権者側には、政治の場における権力執行権や決定権をくまなく見通す権利が補完的に発生すると考える必要がある。このあたりの議論は、代議制民主主義の運営上の根本問題でありながら、しかるべく検討されているとは言い難く、それが現代における代議制民主主義への懐疑を深め続けている。
 福田康夫が、辞任の必要性および意向について、辞任会見以前に発表するようにし、それを受けて与野党の議員たちが的確簡潔な議論をし、さらに有権者からの意見も汲み上げた上で、最終的な辞任へと舵を取るようにしたならば、今回の辞任劇への批判の大方はかわせたはずだろう。代議制民主主義の未来を考える上では、政治においては、こうした方法論の模索が続けられていくべきである。こうした方法論模索を理想論だとして冷笑するのは正しくない。政治の現実は理想ではないが、政治方法論は理想としてしか構想されえないからだ。
 もちろん、与野党の駆け引きという「現実」においては、福田康夫が辞任の意向をあらかじめ発表して他の議員たちや有権者たちに問うということは、実質的には考え難い。その考え難さにこそ、福田康夫辞任の問題の核心があり、代議制民主主義が抱える方法論上の、また、運営上の問題が露呈している。福田康夫辞任に、もし本質的な問題があるのだとすれば、じつはその一点にしかない。代議制民主主義のどの点をどのように修正するのか、どの点をさらに明確に設定していくか。最近の一連の重要な政治問題は、ほぼ、この一点をめぐって発生している。いわば、代議制民主主義のバージョンアップだけが問われ続けているのだ。
 国会に参入する権利さえ譲り渡してしまっている一般有権者たちとしては、このような事態において、内閣総理大臣の採った不透明な辞任決定を、正当に批判する権利を有する。そのような権利を有すると見なす方向に思考していく他に、代議制民主主義の未来はない、という意味で「有する」のである。また、政治的権力執行権と決定権を、その行使を専らの活動とする機関人格としての代議士という役者を設けて委ね、その円滑な機能のための資金を税金から給付することにしている以上、ひとたび、閣僚を含む代議士が不透明な政治決定を採った場合には、彼らに支給された活動資金の回収はもちろんのこと、透明性確保への背理という政治犯罪として、政治的権力執行権と決定権の一時的執行者たる代議士を処罰する義務を有する、と考えるべきである。未来への永遠の政治的運動体たる代議制民主主義自体が、いわば政治神としてこうした義務をも要求してくるのであって、この点においてラジカルでなければ、政治という、人類の恒久的かつ本質的な更新運動は、日常的な機能さえ失うに至るだろう。
 政治とはなにか、なにであるべきか、という点においては、現代の人間も、フランス革命当時の日々の政変の過程につねに立ち戻り続ける必要がある。現代の民主主義のすべてが、あれらの日々、泥を手でこね続けるようにフランスで試行錯誤され、それがそのまま未完成状態で現代にも持ち越されているのに、ともすれば政治はそれを忘れがちになる。民主主義も代議制も、すべてがいまだに実験段階にあり、千年後の世界に贈ることのできるような政治方法など確立されていない。いささか比喩的にいえば、つい先刻までの政治的権力執行権と決定権の一時的執行者たる代議士たちが、明日はギロチン台に上るというような事態こそが、政治において最も創造的な理想状態である。というのも、そういう状態のときにのみ、格差や階層の固定は崩れ、ある個人が他の個人の目の色を気にしないでよい状態が訪れうるからである。それがただの一瞬であれ、人間はその一瞬を生きうるかどうかで、政治的幸福か否かが決まる。受け入れたわけでなどない王権神授上位者が生まれる前から居座っていて、そこへ向けて無意味な税金投入が行われるような政治風土の中にいて、仮に長寿を保ったとしても、それは政治的身体としては生まれたとさえいえない。
 政治的身体としてある他には、人間というものの生きようはありえないはずであり、あらゆる芸術活動や文芸活動も政治活動以外のものではありえない。ヨーロッパ一九世紀後半の芸術家や文学者たちのうちには、政治的敗北を自意識において隠蔽するために、政治や社会から独立した芸術や文学を夢見た者たちがおり、それは、政治的敗北を喫した戦後日本の知識人たちや文学者たちにおいても引き継がれ、いわゆる現代詩などのかたちをとるに至ったが、政治に向ってそのような対応をした場合、後の時代の政治風土は徹底的な崩壊を来すことになる。主体性をつねに気取っていたい言説生産者たちが、いかに違った見方をしたくとも、政治的無言や政治的回避は現政権支持を意味することになってしまうというのが政治的身体の置かれた避けがたい環境の性質というものであり、象徴主義や高踏派や超現実主義を気取ったところで、つまりは最も抑圧的な与党に益することになるに過ぎない。いっぱしの通人気取りをしたい客たちを煽てあげていい気にさえさせておけば、バーはいくらでもあぶく銭を儲けられるものだが、現行政治権力というバーの側からすれば、時どき、文化的な勲章でもくれてやれば、どんな芸術家も文学者も知識人も手なずけておける。言説生産者たちというのは、自分がどんな時にも主体的であるという見栄を張ることに終始する生物である。しかも、あらゆる意味での酒場や勲章に、これほど弱い生物もいない。この点について明晰な認識を持ちつつ、実際に自分の政治的身体と言説生産者としての身体の並行運用を行い得たのは、シャトーブリアン、コンスタン、ラマルティーヌ、ユゴーといった、自ら政治家でもあった文学者たちしかいない。ヨーロッパのプレ・ロマン主義からロマン主義にかけての文学と政治の関係性を、幾度となく振り返らざるをえない理由がここにある。
 観察権と批判権を強大に有するからといって、有権者側が今のままのわがままな批評家であり続ければいいということにもならない。そもそも「批評家」は、どんな分野においても、ただ批評をしているかぎりにおいては、現行権力構造や現状の一ファクターをわざわざ買って出ているに過ぎない。自らが批評を行っている問題圏において、その当の批評は、批評家自身がやがて代替案実現への行動に出ないかぎり、現行権力への無償修正作業に過ぎないのであり、そのままでは彼自身にとって、批評は行動の意味を持ち得ないものなのだ。批評家が帰属している集団や構造がどれなのかを見定めるのは批評家批判の基礎であり、その批評家が現体制の工作員に過ぎないのか、それとも来るべき新体制のための革命家であるのか、つねに見極めようと努めなければいけない。
 有権者は、批評に走る時、他ならぬその事実によって、現行政治の外部に出ている。現行政治を批評せざるを得ないという事実によって、彼は来るべき新たな体制のための預言者であることを、じつは余儀なくされている。問題なのは、有権者がそうした政治神話を現に日々生きているということを忘れている点にあり、また、あえてそれが政治教育において隠蔽されている点だろう。政治とはいかなる場合にも、権力が多様な変化を見せつつ歴然たる姿で現れる神話世界でしかありえず、近代が一般市民に思い込ませようとしてきたような、現政権に向けて犬のようにお利口さんを発揮する役人的理性たちによる事務的な世界でなどない。自分が置かれている環境がじつはそのようなものだと正しく認識し直す時、有権者のあり方は劇的に変貌しうる。自分が現行政治を批判しているという事実、現行政治との距離や違和感を感じているという事実、主権を持っているとされながらも、国会議事堂にそのまま侵入していこうとすると権力によって阻止されてしまうという事実に、現行政治を超越した政治そのものが生動しており、すでにそこに不可避的に革命が進行しているのだということ、その時に有権者は政治神に選ばれてしまっているのだということが、学校ばかりか、あらゆる公共機関で正しく教育されねばならない。
 ひとりひとりの政治的主体は、ようやくここから発生しうるのであり、こうした前提さえもがいまだ奇矯に感じられる社会においては、まだ政治は幻影であるに過ぎないといえる。ということは、――すべてが許されるということであり、破壊も壊乱もなくただ創造だけがあるということであり、我々はいま、バスチーユ襲撃前夜どころか、壬申の乱の前夜にあり続けているということになる。あえて日本にいるのだから、根源的革命家の権化として我々を守護してくださる聖なる天武天皇を祀り、すべてを天武天皇の御意思と受けとめて政治行動を断行していってもよいだろう。
 自由や民主主義や代議制を、自らの手になる革命で勝ち取ったのでない国民の哀れさからか、現代の日本人は、積極的参加なしには政治は存在できないということさえ忘れて久しい。ノンポリの振りをして、所詮は愚者の日和見言説のごった煮にすぎない世論の毛を逆撫でするような言挙げをせずに、ぺこぺこ頭を下げていれば権利が守れるかのように国民に信仰させるのが、一九八〇年代以降の日本社会上層部のみごとな姦計だったが、それに従うことの利益ももはや得られない時代になった以上、有権者がそれに従順であるべき理由はない。

[ NEXT ][ BACK ][ TOP ][ INDEX ]