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ARCH 81

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇八年七月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




SURUGA’S詩葉メール便・編集贅言集16
              [第一五一号〜一五七号・二〇〇八年七月六日〜二十三日]


第一五一号 (二〇〇八年七月六日)
この編集贅言に記してきた文も、いつのまにか随筆集のようになっていた。トロワテ57号から71号までに、それを纏めた。多少の訂正を施したところもある。
 また、『メモとかんがえ』を急遽中止することにし、これまで配信してきた内容をトロワテ72号から78号までに纏めた。中止の理由は、無限に書け過ぎることがわかったためである。そういう形態の発明自体は慶賀すべきことだが、生活の他の面をすべて捨てて書き続けそうなのを思うと、空恐ろしくなった。興味も、考えたいことも、メモしたいことも多過ぎる。そういう興味の限りのなさに素直に付き合い過ぎるのも、現世の人間としては考えものというところだろう。

第一五二号(二〇〇八年七月七日)
「編集贅言」を編み直しながら、編集後記的な枠組みがいかに文と思考を損ないがちなものかに、再度気づかされる。雑誌の記事、新聞のコラムや随想欄、ブログやメールなどが、それらの枠組み自体によって、文ばかりか思考をあきらかに損なっているのはよく目にするが、編集後記的なものの危険については、人は案外、注意を怠りがちなものかもしれない。
 たいていの言葉は、あらかじめ想定された受け手の視線そのものの先取りされた影でしかない。受け手の視線がまだ出現しないうちに、言葉ははやくもその影になってしまっておこうと振舞うのだ。やや乱暴に言えば、人がなにかを書こうとする時、書き手によって想定された受け手の読む願望の外にあるものを書くことは殆ど起こりえない。たいていの書き手が、ほぼ全く書きたいことを書かずにものを書き終えるのである。世界に書き物が溢れているようでいながら、ほぼ何も書かれてはいないと言える根拠が此処にある。
 精神病院で記されたアルトーの厖大なノートなどの価値が、ここから生じてくる。あれらの言葉にしたところが、受け手の読む願望に身を売った言語には違いなかろうが、この場合の受け手にはあらかじめ、かなり困難な条件のクリアが義務付けられている。そもそもアルトーは、なにかを伝達するためではなく、架設足場として言語を使用している。そうした言語行為を捉え直すには、今現在までの文学批評や文学研究はほぼ役に立たない。アルトーに限らず、現代の詩歌言語をほぼ文学批評や研究はカバーできていない。
 批評や研究と呼ばれる説話形態自体の問題が実際には批評され研究されねばならない時が来て以来、おそらく、半世紀ほどが過ぎてしまっている。

第一五三号(二〇〇八年七月十日)
 昔から頭が悪かったのだから、今さらそれを問題にするまでもないはずなのに、それでも近ごろ、自分の頭の悪さにほとほとイヤになる時が多い。なにか勉強を始め直せば少しはマシになるのかと考えてみるが、いったい何を学べばよいのかわからないし、そもそも頭の悪さとは、統辞法や修辞法の凡庸さ、思考用の表象や象徴を作成する際の拙さなどにこそ根があるのだから、闇雲に「考える」身振りなど始めれば、いっそう深い頭の悪さにずぶずぶと陥っていってしまうことになるのが予想される。よく素粒子論の教科書や不完全性定理などの現代数学の教科書なども開くが、文芸ふう、ないしは社会科学ふうの言葉の配列ばかりに時間を浪費してきてしまった結果、それらを数式で無理なく理解するだけの数学力がすっかり溶解し去ってしまっていて、目の前に隠れもない数式思考が明々白々に展開されているというのに辿っていくことができない不甲斐なさに涙が出そうになる。ヴァレリーのように数学の復習から始めねばならないのだろうか、やはり…、と思いながら、いや、しかし、数学を復習することがそのまま頭の悪さから抜け出ることを意味するわけではなく、自分の頭の悪さはそんなことでは太刀打ちできないような遥かに広大無辺の頭の悪さなのだと思い直し、けっきょく、また一日、立ちすくんで終えていく。しかも、『国家の品格』とかいう本を書いた数学者などを思い出すと、数学ができたからといって頭の悪さが取り除かれるわけでもなさそうだとも思われてくる…
 そんなことをうんざりするほど繰り返しながら、ようやく近ごろ到った問いは、「わたくしはどのように頭が悪いか、わたくしの頭の悪さはいかなる風景を以て広がっており、その中に展開される偽りの思考は、どれほどまでに誤った無意味なものであるのか」といったものだった。こう定立してみてわかるのは、この問いへのもっとも端的な解答は、日々の生そのものではないか、ということなのだった。日々の生活が、そのまま、自分の頭の悪さの見事な反映とも証明ともなっている。つまり、あらかじめこのように解答も与えられてしまっている問いにたどり着くのにこれまでの人生を費やしてきたわけで、これはもちろん、頭の悪さも此処に極まれりといったものであるという他ないし、そればかりか、問いを定立するや否や、ただちにこのような解答を見出してしまう類の頭の悪さという壁にこのようにたえず立ちはだかられては、いかにも八方塞りという他なく、またまた為すすべもなく立ちすくむということになる。

第一五四号(二〇〇八年七月十二日)
 現在、地球上のCO2は0.03%しかなく、希少な資源にあたるという。地球史上、今はもっともCO2の少ない時代で、植物はこの少量のCO2で細々と光合成をしている状態だという。CO2量の上昇は、むしろ植物の生育を助ける上でメリットが大きい。こういう観点から、渡辺正東京大学教授(生産技術研究所副所長)などは、政府の地球温暖化対策を正面から批判する。
 温暖化の事実の受け入れ方にも、学者によって、正反対の見解が発生しうる。現在、氷で覆われているグリーンランドは、ヨーロッパ中世の温暖期までは牧草地として相応しい広大な緑原だったが、その後の地球寒冷化によって氷の島になった。中世期までに遥かに温度の高い地球環境を生きていた人類が、2〜3度温度が上昇した程度の今後の地球環境を生きられないはずがないと考えるのは、至極まっとうな考え方のうちに入るように思うが、こういった事実に言及することさえ倫理に悖るとして激怒するような、熱血地球救世十字軍たちもたくさんいるらしい。
 『環境問題をあおってはいけない』や『クール・イット』の著者であるビョルン・ロンボルグ(コペンハーゲンビジネススクール講師・政治学者)によれば、環境問題における事実やデータの一般での取り上げ方は、ひどく偏っている。たとえば、2100年に30センチ海面が上昇すると予想され騒がれているが、過去150年間にすでに海面が30センチ上昇してしまっている事実や、それを人類が克服してきたことについては取り沙汰されていない。温暖化で、熱波による死者が2000人増えると騒がれるわりには、一方、寒波による死者は2万人減るだろうという点は取り上げられもしない。こうした小さな情報や見解における偏きが積み重ねられて、たとえばバイオ燃料生産という不条理が正義であるかのように推進される。わずか一台のSUV車を満タンにする燃料を作るのに使用される穀物は、アフリカに住む人間ひとりの1年間分の食料にあたっている。
 京都議定書を宗教のように護持する環境問題熱血漢も多いが、たいていの宗教的な色合いの運動の内幕がそうであるように、京都議定書の内実も不条理と愚行に満ちている。『週刊東洋経済』7/12号はこの点をよく伝えている。温室効果ガス削減方針の採択にあたっては環境庁+外務省に通産省が抵抗してなかなか進まなかったようだが、橋本龍太郎首相が無理に調整に乗り出した結果、正確なCO2量削減コストの計算をまったく抜きで、最終場面では、きわめて「政治的に」、手早く纏めてしまった。そのため、日本にとっては稀に見る「不平等条約」となり、政治的敗北の証しとなったのだが、このことは、環境問題の領域では、奇妙にも声低くしか語られない。欧米諸国の政府は、交渉以前に研究機関と連繋して打ち合わせを続け、未来の国家財政に負担をかけないぎりぎりの線を妥協なしに打ち出してきた。これに対し日本政府は、なんと京都会議の済んだ後になってコスト分析を行い、1トンあたりのCO2削減コストにおいて、日本が400ドル、EUが300ドル、アメリカが200ドルとなってしまっていることを知ることになる。国際的にエエカッコをして大見得を切った代償は、21世紀の日本国民の負担となって、ほぼ永遠に圧し掛かり続けていくことになった。
 いずれにせよ、内容的にナンセンスな京都議定書の目標をかりに達成できたとしても、今世紀末までに温暖化の進行をたった7日間遅くできるだけだという。神がもう一度地球を作り直すには十分な時間といえるのかもしれないが、この貴重な一週間を実現しようとするために、年間1800億ドルが延々と費やされていくことになる。

第一五五号(二〇〇八年七月十四日)
 古武道で有名な著者による『身体から革命を起こす』(甲野善紀・田中聡著、新潮文庫)に、日本陸上競技界の信じがたいような話があった。
 1991年の東京世界陸上選手権大会開催の際、これに出場した世界トップアスリートたちの競技の様子が厖大な量のビデオに収録され、走法の分析がなされた。この時はじめて、それまで日本人が信じ込んできた「マック式」なる走法が間違いだったのがわかったという。
 腿を高くあげて前方に振り出し、地面を強く後ろへ蹴るのが「マック式」走法で、東京オリンピック後に招聘されたコーチ、ゲラルド・マックの説明が誤訳されて日本中の陸上競技界に広まり、学校の体育においてさえ「正しい走り方」として教え込まれてきたものだった。当のマック氏自身が日本での誤解の広まりに驚き、再来日して訂正に奔走したが、「常識」としての浸透はあまりに深く、なかなか修正されなかった。日本の陸上競技は、これによって30年は遅れをとったことになる。
 言わずもがなだが、どの業界でも、猛威を振るっているこうした「マック式」のひとつやふたつはあるだろう。普通の頭で素直に簡明に考えればわかるものが、かつての党綱領絶対主義となんら変わらぬつまらぬ理屈でごり押しされる結果、愚かしい結論が導き出されたり、権威やお偉いさんの理屈にもならない朦朧としたつぶやきが絶対の方針として貫かれたりする。自由と平等を自らの血で勝ち取っていないという過去がどんどんと腐敗を募らせて圧し掛かってくるとでもいうべきか、日本の場合は、こういう部分の枚挙にいとまがない。阿川弘之の『米内光政』『井上成美』『山本五十六』は愛読書のうちだが、戦争末期の日本といまの日本は、状況への理性的対応がつねに阻まれるという構造において、見事なまでに変わっていない。こういう不変の泥炭状況下に迷い込んだ一個人にできるのは、おそらく今も、外部からの黒船か、原爆投下を待つことぐらいなのだろう。それが自分の頭の上に落ちるのでなければ、幸いである。最終的な破滅を迎えてはじめて進路を変える国民性というのは、どうやら数百年や数千年では変質しないのかもしれない。それにしても、政治的正義の実現欲を人格のうちのかなり大きな部分に抱えて生れついた人間、しかも政治と文学とを完全に繋がりあったものとして自然に考えるタチの人間には、こういう日本社会は、ただそこに居るというだけで途方もない苦悶の場となる。
 愚劣な基準でひとしなみに計測・判定されるメタボ検診の現場にいて、成人病予防を専門に研究する医師に、勤め先の大学で出会う。その人によると、お腹まわり何センチ以内といった基準は、医学界のお偉いさんの一声で決定されたそうだ。まともな医学者ならば誰もがナンセンスだとわかっている。しかし、ボス猿の一声には誰ひとり異議を唱えられず、ただちに制度化され、お定まりの通りに業界が群がって検査治療構造を作り上げ、テコでも動かぬ利益システムが出来上がった。国民がひとりでもいれば、死ぬまでそこから利益を搾れる構造を見事に拵えてしまったわけだ。これも、「マック式」の一例。
 夏の暑い夜、大島渚や今村昌平の古い映画を、一種ホラー映画として数日見続けたが(いっそうのホラー映画である吉田喜重は去年に個人特集をして見続けた)、現在もまったく変わらない日本人像が克明に描き出されていて、ひどく新鮮に感じた。あまりに変わらないので、ある意味では不気味でもあり、穏やかな恐怖体験に近いものさえ感じられた。違うところといえば、彼らの映画の中の50年代60年代の日本人は、倦みもせず、ずいぶんと真摯に議論する点だろうか。『日本の夜と霧』など、全学連の演説の虚しい巧みさが印象的だが、それはそれで、今と比べれば羨ましいとさえ感じられる言論のフル活用ぶりではある。『豚と軍艦』のバイタリティーもやはり羨ましく、これから来るであろう大混乱時代に向けて、あそこに学び直すべきものはたくさんありそうに見える。それにしても、ゴダールなんかより今村昌平のほうがよっぽど凄かったのだと、素直に映像を見直して遅ればせに再確認したりしているのだ。

第一五六号(二〇〇八年七月十九日)
 ながいあいだ気づかなかったが、中国語の練習をした後に英語の練習を持ってくると、英語の発音がとてもよくなる。つい最近、それに気づいた。xuesheng(学生)やZhongguo(中国)やdianying(電影)などの音を思い出した後の口腔内の筋肉は、日本語のシンプルな構造の発音に戻らずに英語の音にむかう時、威力を発揮する。Zhongguoren(中国人)やRibenren(日本人)などは、なかなかかっこよく発音できないのだが、それでも練習を重ねた後で英語にむかうと、それなりの成果はあったとわかる。中国政府の広報担当官は、日本政府側に立って聞くと内容的に尊大なことを言っているように聞こえる場合が多いが、彼らの中国語の発音は美しく堂々としていて、惚れ惚れすることが多い。中国語学習者にとっては、いい先生たちである。
 頭のしくみが向かない外国語というのは、やはりあるのかもしれない。朝鮮・韓国が大好きなのに、韓国語の勉強ではいつも引っかかって進まなくなりがち。じつは、韓国語学習にかなりの散財をしてきているのだが、ダメダメなのである。そんなダメ学生にとって、北朝鮮国営放送の報道官の凄いしゃべり方がいい勉強になるのは、中国語と同じ。
 韓国語のリエゾンは、フランス語どころではない。フランス語のセンセを細々とちょこっとやっているので、学生たちがリエゾンができないと「どうしてこんなのがわからないのか…」と思いがちだが、自分が韓国語をやっているおかげで、学生の苦労やわからなさがよく実感できる。新たに外国語を学び続けるのは、ろくに身につかずとも、こういう点でとても役立つ。初歩のひとの困難がわかるというのは、センセにはとても大事だ。そもそも、フランス語のリエゾンにしたって、本気でこだわるとなかなか難しい。たぶん、日本の多くのフランス語のセンセが、実際にはいい加減な知識で教えているはずである。それに、現地の発音はどんどん変化していて、リエゾンしない場面が多くなってもいる。
 イタリア語とスペイン語の平行学習は、ついに支障なく進められるようになった。長いあいだ苦労した結果、頭の中の引き出しがはっきりと分かれたらしい。
 ドイツ語は苦手のままだし(佳境に入ってくると、他の仕事に追われて続けられなくなる運命)、せっかく始めたインドネシア語も中断したまま。とんでもなく面白い言語だし、のんびりした現地ではいい人たちばかりに会ったのだが。
 こんなふうでも、ほぼ毎日、学ぶ身になって複数の言語に触れ続けると、日本や馴染みの一国ばかりを贔屓にして世界問題を見るということがガクッと減る。フランス語のセンセをやっていると、なにかというと「おフランス」な人間のように見なされてイヤだが、興味は世界中のあらゆる国々に向かっている。大学院の時に文化人類学ばかり学び、そちらの方面の院生ばかりと交流していたが、あのまま部をかえていればよかったかと思う時もある。
 ときどきひそかに、なけなしの金をはたいてパリに本を買いに行くが、去年はフランス移住したマリ人やスリランカ人、ポーランド人、シリア人、ヨルダン人と初めて知り合い、いろいろとおしゃべりや議論をし、戦争から逃げてきたセルビア人とも話し込んだ。イスラエルのユダヤ人とも初めて交流したが、国際的になにかと問題の多いイスラエルの人間も、個人的に会うと普通のいいヤツである。別れる時にはガツッと強い握手をしてきて、肩まで抱いてきた。そういう振舞いは日本人には情けないほど欠けている。外国人と会っていると、ときどき自分の内なる日本的閉じこもり性を恥じざるを得なくなる。
 集団の中の当面の役割を追った個ではなく、今ここにいる個人としてのオレとオマエの交流や理解だけが大切なのだということを、大陸の人々からは、いつもじかに教えられる。集団から与えられている役割に安住して、それをアイデンティティにしている人間は、状況が変われば捨てられ、権限を奪われる。オレとオマエ的な個人で結びついた関係だけが、状況や時代の変化を超え、政変を超える。

第一五七号(二〇〇八年七月二十三日)
 ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』を読んでいなかったので、新潮社のガルシア・マルケス全小説叢書の版で読んでいる(木村栄一訳)。暑い時にはいい読み物だ。あちらの風土の暑さといったら、日本どころではない。
 マルケスの素晴らしく快いところは、ある人物の帯びる意味あいがひとつに固定されず、他の人物たちから多様にレッテル付けされる対象として描かれるところだ。フベナル・ウルビーノ博士なる人物など、こう描かれる。
 「彼は自分を、祖国の繁栄のために自由主義者と保守主義者が最終的に和解することを願っている、生まれついての平和主義者だとみなしていた。彼の公的活動は何ものにも縛られていなかったので、どの党派の人間も彼を仲間と考えていなかった。自由主義者たちは、彼を洞窟に住む野蛮なゴート人と見なしていたし、保守派の連中はフリーメーソンではないかと疑っていた。一方、フリーメーソンのメンバーは、彼は実は法王庁に仕える僧侶なのだが、俗人になりすましているだけだといって毛嫌いしていた。そこまで厳しいことを言わない批評者たちも、いつ終わるとも知れない内戦が続き、国民が血を流しているというのに、彼は創作詩のコンクールにうつつを抜かしている貴族趣味の人間でしかないと考えていた」。
 レッテルというのはひとつやふたつだと人物の自由を奪う働きをするが、方々からたくさん貼られるようになると、逆にその人物を解放し、彼の周囲を活気ある魔法的な場に変えてしまう。本来、レッテルというのは簡便な意味づけ(意味づけとはつねに征服行為であり、抑圧そのものである)として貼られるのだが、量が増えるとなると(すなわち、multitudeマルティチュード化すると)、その人物のあり方は多義的な表象のそれに変わっていく。多義化された表象は魔力を持つ。もう少し現代風にいえば、意味と表象の空間において、かなり融通無碍な働きをしうる権力を持つようになる。広義の「詩人」がつねに社会の中で最高度に権力的な存在であるのは、「詩人」の活動がまさにこの点のみに狙いを定めるものだからだ。「詩人」がどれほど容易に当該政治権力を覆せるかを、彼は本能的に知っている。
 凡庸な小説家というのは、登場人物にひとつのレッテルを貼って済ましがちだし、性格や気性や思想の設定を単純な一通りのものにして、物語を推進させるための駒としてしまう。しかし、マルケスのような小説家の作品においては、登場人物たちはそう単純に駒にはなってくれない。こうも見える、ああも見える、本当はどうだかわからない、といった提示のされ方をしていて、この人物はこういう性格だから事件Aが起これば行動Bをとるだろう、などというほど簡単には進まない。どういう性格なんだか、考え方だかわからないが、行動Bをとってしまった、さぁ、周囲はどうするか、というふうに物語は進んでいく。『予告された殺人の記録』など、この典型的なケースだろう。
 小説はつねに、心理学や精神分析学を嘲笑うものでなければならない。心理のエキスパートを自認する学者たちや医師たちに、「こんなのはナンセンスだ!人間がこんな行動をとるはずがない!」と言われるような言動をとる登場人物たちが集う場でなければ、新たに書かれるべき価値は小説にはない。もちろん、いわゆる「文学研究者」たちが目を剥くような非文学性と訳のわからなさで貫徹されていなければならないし、できれば禁書になるほどの、21世紀日本的プチブル秩序を逸脱した描写や記述で溢れているに越したことはない(まったく、時代はまさにフローベールやボードレールの頃のように、極端なまでに抑圧的になってしまったではないか…)。
 どうしてお父さんを刺したのかと聞かれて、川口の父殺しの女子中学生は、「そこにお父さんがいたから」とか「そこにお父さんが見えたから」とかと、まるで「太陽が眩しかったから」という『異邦人』のムルソーみたいなことを言っているらしいが、いまの日本のたいていの小説がこの女子中学生によって乗り越えられてしまっている。なんの躊躇もなく、まったく訳のわからない事件や行動を起こし、いっそう訳のわからない議論をしたり夢を見たりする登場人物たちで数百ページが埋めつくされるような小説が、これでもかというほど多量に出てほしいものだ。ついでに、そういう事件でいっぱいの現実にもなってほしい。
 まだまだ、平安末期の荒廃した京の闇には至れそうもないが。ああいうところにこそ、想念にとってのユートピアはある。
 それにしても、読者という立場の、なんとお気楽なことか!

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