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ARCH 91

      駿河 昌樹 文葉 二〇〇九年二月
        トロワ・テ、Trois thes。仏語で「三杯の茶」。筆者居住の三軒茶屋は三茶と略称される。
        すなわち、トロワテ。ひたすら、益体もない文章のために。




ベストセラーときもの(1) 渡辺淳一『失楽園』




              そういえば『失楽園』の凛子、きものをすてきに着ている場面が何度かあった。ちょっと見直してみようかな、と久しぶりにハードカバーの上・下二冊をとり出した。上巻カバーには加山又造の『花』、下巻カバーにはやはり加山の『春宵』が華やかに火焔を上げている。手に持ってみるだけで、美への扉のノブに手をかけたような気持ちになる。本のカバーは、いわば、本のきもの。贅を凝らしたカバーが汚れるのは惜しい感じがするので、気を入れて読む際にはカバーを外す。まるで、きものを脱がすような…と、ときどき、思いはあらぬかたへ。だが、『失楽園』の場合にはピッタリの発想かもしれない。
 日本の二〇世紀の終わり頃、世間はけっこう長いこと『失楽園』の余韻に浸っていた。朝っぱらからサラリーマン諸氏を元気にさせるような愛の描写いっぱいの朝刊連載の後、一九九七年に単行本化、さらに映画化、テレビドラマ化と来て、五十五歳の久木祥一郎と三十八歳の松原凛子の不倫純愛ってどうなのよ?的議論妄論は、日本の津々浦々まで広まった。『失楽園』さえ話題に出せば、これをめぐって必ず意見百出、酒席は盛り上がるし、イケナイ恋を実らせたい人にも、この際きっぱり別れたいという人にも役に立つというぐあいで、思えば便利なコミュニケーションの具だった。ジェームズ・キャメロンの映画『タイタニック』の公開も一九九七年。恋愛論には打ってつけの、良き一時代なのではあった。
 凛子がきもの姿ではじめてお目見えするのは、書道の会の授賞式の場。「薄い紫地の付下げに、白い刺繍の帯を締め、髪は上にまとめ、真珠の髪飾りで留めている。近よると着物の模様は、胸元に小菊が描かれ、下に行くにつれて地色は濃くなり、裾に近く橘の花が咲き誇っている」。背後からは「二葉の扇面が描かれたお太鼓」が見えるという趣向。十月の最後の土曜日、赤坂のホテルでの、夕方からの式。奨励賞をもらう若手の女性書家としては、まずまずの選択なのでは?
 凛子はこのきもの姿のまま、箱根の仙石原まで久木と車を飛ばすことになる。「霞が関ランプから高速に乗って渋谷から用賀へ向かう。その先は東名高速につながっていて、御殿場まで一直線である」というあたり、なにも描かれていないながら、じつは、この小説中でも最高度に魅力的なきもの姿が浮かんでくるところ。きものは自動車、いや、カーによく似合う。スピードにも。ちょっとミスマッチなような、メタリックなものとの出会い。渡辺淳一はわかっているなぁ、と思う。さすがに、脱がすことだけ考えているわけではないのだ。とはいえ、もちろん、仙石原のホテルではしっかりと。「着物を肩に掛けたまま、前かがみで」脱いでいく、そんな心くばりに久木がうっとりさせられる場面は、ぜひ再読されたし。
 深い仲になって一年になろうとする正月には、凛子は「白地の着物に小豆色の帯を締め、手に毛皮のショールを持って」現われる。近づいてくるにつれ、「梅の花と枝がちりばめられている」のが見えるのも、熱海で昨年、梅を見た後ではじめて結ばれたことを思いださせ、心にくい。もちろん、このきものも脱がされるさだめ。「和服の女をあきらめさせるには、まず帯を崩すことだ」という貴重な指南とともに、『失楽園』の名場面のひとつが展開される。
 しかし、『失楽園』の極めつけの名場面といえば、なんといっても、父の通夜の夜の、喪服の凛子だろう。「黒羽二重の喪服に黒帯を締めて片手に道行きコートを持ち、髪はうしろに巻き上げ、それに続く細い首が純白の襟元で締められている」。横浜のみなとみらいにある高層ホテル、そこの六十四階で待つ久木の前にこんな姿で現われ、眼下にひろがる夜景の光の渦のなかで… ここではなんと、きものは脱がされないのである。「着付けを崩さず、二人が結ばれる」とか、「姿を崩さず愛を受け入れる」とか。こんな表現からいろいろとご想像願いたいところだが、凛子の肩口からかすかに立つ線香の香や、高層ホテルの六十四階や、黒羽二重の喪服や、…こう来ると、つくづく、やはり渡辺淳一はわかっているなぁ、なのである。




◆この文章は、「ベストセラーときもの・渡辺淳一作『失楽園』」として、「美しいキモノ」二〇〇九年春号にも掲載された。


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