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窓一枚分の空の高さ
          
――ヴェンダース『東京画』をめぐって



 たぶん、ひとことで言えば、『東京画』(TOKYO-GA/1985年/監督ヴイム・ヴェンダース)は、小津安二郎監督へのオマージュということになるだろう。【1963年12月12日、60歳の誕生日に彼は死んだ】(以下【 】内は『東京画』台詞/松浦寿輝・石崎泉訳)。だがひとことで言うのは難しい。例えば「良かった」、「美味しかった」では、その対象に対して私が感じたことを誰かに伝えることはできない。『お早よう』(1958年/小津安二郎)という作品のなかで、あいさつは大事な無駄だと言っている。「良かった」とはちがうのだ。「おはよう」、「こんにちは」、「さようなら」たちには、背後ににじむもの、名付けえないものに寄せる敬意すら感じられることがある。ときにあたたかく、ときに孤独。「良かった」では、伝わるもの、あふれるものが見えはしない。せいぜいなぞったと報告するだけにすぎない。かといって、連ねるだけでは駄目なのだ。ディドロの原作を戯曲化するにあたり、脚色ではなく変奏曲を、とミラン・クンデラは言っていた(『ジャックとその主人』みすず書房)。たとえば私を混ぜること。
 なぜ今、『東京画』なのか。ここで映し出された東京は、さらに遡って1983年の街ですらある。この小感へのひとつの言い訳をこめて、はじめるにあたって、やはりひと言で。「これは探すことによって、距離を見つめる眼差しによって、現在にかぶさる物語なのだ」と。

       *

 現代ではなく現在、あるいは現実の。【小津の作品は、もっとも日本的だが、 国境をこえて理解される。私は彼の映画に世界中のすべての家族を見る。私の父 を、母を、弟を、私自身を見る】。これはヴェンダースだけのことばではない。 私が彼らと、今、現在、現実のなかで出会ってゆく。徐々に、しみこむように。
 83年の東京に、ヴェンダースはやってきた。【私の東京への旅は、巡礼ではなかった。ただ興味があった。何か見つかるだろうか。小津映画の風景や人間が、まだ残っているだろうか。それとも小津の死後、東京はすっかり変わりはて、何も見つからないだろうか】。画面から、小津を、小津映画を通して、ヴェンダースの映画がにじみだす。あるいはヴェンダースを通して小津映画が。変奏曲を、とクンデラは言った。ヴェンダースの撮った83年の東京、小津の東京(【小津の映画は常に最小限の方法をもって、同じような人々の同じ物語を、同じ街、東京を舞台に物語る】)、そして85年の公開までにはさまれた別の時間、小津とだけではない、ヴェンダースと映像とのぶれ。あまつさえ、当時カメラを回していたのは彼ではなく、同行のエド・ラッハマンだった。【自分で撮った映像が、今見ると幻のようだ。見た夢を書きとめ、書いた紙きれをずっと後に、ある朝発見するのと似ている。読み返して驚く。思い当たる事が何もなく、他人の夢みたいな気がする】。変奏曲を。すべての「映画」、彼の「現実」がすりぬけてゆく。あるいは彼の間を、なんども縫って。時にそうとは知らずに、気づくのが遅すぎて。
 85年から83年へ。だからこれは、ヴェンダース自身を探すための「物語」でもあるのだった。小津の眼をなぞるヴェンダースは、彼自身の目をも追っている。「他人の夢」に追いつくこと。いつしかヴェンダースの視線が、私の眼にかぶさってゆくことに気づく。とまどいをとおして触れてゆく、彼の見た、彼らの見た、そのとき映画は私たちだ。01年から85年へ。
 現在から現実へ。笠智衆(彼は殆どの小津作品に出演していた)を訪ねたあと、電車のなかで。【人は誰でも、現実を自分なりに知覚する。他者を、愛する人々を見る。(中略)死すべき人間、いつか壊れる物を、見て、生きる。(中略)人生を見る、見るのは自分だけだ。なのに、自分の経験と、映画でみる映像とが、こっけいなまでにずれる事を、だれでも知っている。このずれに慣れきって、映画と人生が違うのがもう当たり前なので、突然スクリーンに、何か本当のもの、何か現実のものを見ると、息をのみ身震いしてしまう。画面を横切って飛ぶ1羽の鳥、一瞬、影を落とす雲、画面の隅にいる子供の何気ないしぐさ…今の映画では、そんな真実の一瞬、人と物がそのままの姿で現れる、そんな瞬間は、ごくまれにしか訪れない。それがあるのが小津の特に晩年の作品のすごさだ。真実の一瞬の映画――いや、一瞬だけではない。最初から最後まで真実が途切れず、人生そのものについて語り続ける映画、そこでは人、物、街、風景が、そのままの姿で自らを啓示する】。夜のなかを電車が走る。【列車が出ない作品は、小津には1本もない】、ヴェンダースが現実を追っている、彼を讃えるためではなく、【少し距離をおいて失われたものを懐かしみ、悼みながら物語る】ことについて、映画と人生のずれについて、どうしようもなく混ぜ、混ざりながらあるものへ、自らの構築を込めて追っている。ヴェンダースが『ことの次第』(1981年)で、物語が入ると(映画に)生命が無くなる」と、主人公に語らせていたのは、そのずれのことだ。『東京画』に戻って、溯って。東京へ向かう飛行機の機内上映から眼をそむけて。【窓の外をみると気分がよくなる。こんな風に映画が撮れたら――ただ、眼を開くだけ。ただ、見つめるだけ。あかしなど何も求めずに…】と語る彼は、それができないことを知っている。ここには少しの距離もない、それは「良かった」ということに過ぎない。映画が人生に近づくために。『ことの次第』で、「物語は死の先触れだ」と言った男は、まさに死の前に佇んでいた。彼は現実として映画の中で死ぬ。命がけの構築物。『東京画』に戻って。レールのきしみつづける音。混雑を照らす、車窓の明るさが夜をよぎった。

 構築について。小津安二郎は、50ミリのカメラしか使わなかった。望遠気味のレンズ。そしてほとんどの作品で、特に後期にいたっては全て、パン(1か所に据えたまま、カメラを左右上下に動かす手法)することがなかった。また、特に部屋の中のシーンは、人の眼よりも低い位置にカメラを据えた、見上げるようなショットが多かった。私は何本か小津の映画を見たが(ヴェンダースに引きずられるようにしてだったと、ここで告白しておくが)、望遠気味の遠さが、実際よりも低い位置からの距離が、たとえば私とある対象との距離感を思わせた。パンしないことは、ともすると人の眼よりも不自由だ。不自由さのもたらす自由。あるいは現実をじっと見つめるカメラが眼に近づこうとすること。私たちは、彼らになることはできない。彼らを見つめる、私のその距離が画像からやってくる。テレビで起こった現実には稀薄さがつきまとう。窓を何枚も隔てた部屋から彼らを見つめているようだと、いつも思っていた。私はその向こうに行きたいのだろう。ごくたまに、映画が窓1枚分だけ隔ててやってくることもあった。こつこつと画像が部屋を叩くことがあった。そのとき、私はそっと窓を叩き返す。小津の映画では、たぶん徐々に、あるいは気づかないほど違和を持たずに窓を開いた。だが、やはり空は高い。見知らぬ人々が道を歩いている。あらためて距離を吸い込むこと。わき目を逸らした隙に、雲が形を変えている。

 映画のなかに現実がとぎれずにあるために。窓の外の雲の高さ。たとえば役者をも空っぽにして。笠智衆は【余計な事は考えずに小津の指示に一言一句従うことが演技の有無より大切だった】と言っている。セットの細部にわたり、1秒1秒を丹念に計り、【偶然に自分を任せることなく】小津を作り上げてゆくことができるのは、【自分の望む事を正確に、心得ている人にのみ許され】ているからだ。だがそこからそれたところ、あるいは組み立ててゆくからこそ意図しなかった現実が、偶然を廃したところから恣意でないものがやってくる。たとえば【画面を横切って飛ぶ1羽の鳥、一瞬影を落とす雲、画面の隅にいる子供の何気ないしぐさ】…。自覚的な無自覚。私はここでも、小津を語っているのか、ヴェンダース映画を語っているのかわからなくなる。多分ヴェンダース自身も。現実を恣意することはできない。高速を走る車、雨に濡れた道筋を、見えない影が照らしている。

 【ただ、眼を開くだけ、ただ、見つめるだけ、あかしなど何も求めずに…】、こんな風に映画を撮るには、繊細な配慮が必要なのだ。私はここに留まりすぎているかもしれない。出来上がる作品は、彼らの意図から離れたところで現実のなかへ食い込んでゆく。ただし意図しなければ何も生まれない。書く行為のように、書くにあたって、あらがう言葉を繊細にもぎとってくるように。できあがった作品が現実になるには、彼の構成からあふれた何かが必要だ。開いた窓。私は部屋の中にいる。風が『東京画』から吹きつけてくる。彼は飛行機から窓の外を、近しくも遠いものとして見つめていた。街のざわめきは空の下だ。機内上映は、森の小道を映していた。たぶん『黄昏』(1981年、マーク・ライデル監督)、明るさのない鮮やかさ。彼はテレビを嫌悪する。【テレビという代物はどこでも世界の中心の顔をする】、雲の下は、中心を持たないざわめきだ。

 留まりすぎて。ヴェンダースは、小津とともに失われた「東京」で、破片を拾っているようだ。小津を、ヴェンダースのいたかもしれない現実を。そうとは知らず、なかば気づいて。東京タワーの上、ヴェンダースの友人のヘルツォーク監督は、【地上に残っているイメージなんてほとんどない】と叫ぶばかりに重たかった。【純粋な映像への彼の希求はよく分かる。が私の画(イメージ)はこの地上に、街の喧騒の中にある】。おはよう、こんばんわ。かけらがわずかずつ、名付けられない光を放ってゆく。小津はいない。【求めていたのは、小津の映画のわんぱく小僧たちだ。だが私は、もはや存在しないものを、探しにきたのかもしれない】。笠智衆をテレビドラマでしか知らない人々のあいだを、ベルト・コンベアーのようなエスカレーターを、彼は探す。私たちはここにしかいないのだ。いいお天気で。私は探す。パチンコ店(『お茶漬けの味』(1952年)のなかで、パチンコの没頭には、群衆のなかでの、おそらく護られた孤独がある、と言っていた)を、ゴルフ練習場(【このゴルフ熱を、すでに小津は批判気味に】…)、あるいは小津からそれながら。【都心の公園。雨の中でもアメリカ気分の人々がいた】、もはや古びたタケノコ族、ローラー族を、執拗なまでに撮りつづけるヴェンダース、パンを忘れた映像に、私たちの眼が近づいてゆく。『コール・ミー』と、赤いラジカセが背後でわめく。85年から83年へ。彼の眼の、とまどう欲望がスクリーンからもれてくる。時に道を何度も間違うようにして、なかば気づいて。小津ばかりではない、彼らの夢が画面から、湿気のようにしみ出してくる。

 『東京画』。前半ではパンが見られたが、途中からカメラはそれをしなくなる。小津と重なって、【初期作品には、まだ移動やパンが見られたが、しだいに排除され、最後には固定ショットだけ】。ただ、追いかけるような移動があった。小津の映画にあったかもしれない横道の飲み屋街。広角レンズで撮影したあと、50ミリで。そこには【別の画(イメージ)があった。私の、ではない画(イメージ)が】。街を走るカメラはヴェンダースだ、彼のとまどいが変奏曲を奏でてゆく。そう、またクンデラ、戯曲『ジャックとその主人』は、「あるいは私の「ディドロへの賛辞(オマージュ)」でもあ」り、「2人の作家の出会い」、「2つの世紀の出会い」、「小説と演劇の出会い」でもあると言っている。からみあった、ひとつの物語。とまどいにまきこまれながら、出会うこと。63年から83年、85年から01年、既視感のような再会へ。

『東京画』。たとえば代々木公園、パチンコ店、ゴルフ場のシーンは長い。彼自身のわからなさが刻まれながら、秒針をこちらに振りおろしてくるようだ。【私は彼の映画に…私自身を見る】、彼の墓には墓碑銘がない。テールランプを、セットではない雨がひたす、【室内シーンは一貫してスタジオで】。小津はいない。街の喧騒を、錆びたような色たちがとらえていた。カメラにはにかむようにしながら、野球をする子どもたち。子どもの手をひいた老婆が、おじぎをしながら画面を横切る。彼は映す、そうとは知らず、なかば気づき。時計は日々、同じ時間を刻んでゆく。たぶん多摩川べり、散歩する人々が小ささのあまり、たなびくように映し出される。かつてと同じ街で、別の広告塔が映し出される。小津の列車は汽車から路面電車、湘南電車に変わっていった。83年、だるま型の新幹線が日射しのなかを何度もわたる。ヴェンダースの訪れた北鎌倉は、小津映画(『晩春』1949年など)の、小津の眠る北鎌倉でもあった。【小津の墓には名前がない。ただ漢字が一字“無”】。誰でもなさが眠っている。ヴェンダースの訪れを、カメラだけが残してあった。83年、バラック小屋の上に線路、新幹線がありえないトンネルを潜ってゆく。なかば気づき、85年、彼は立ち止まる。時計はちがう秒針を連ねてゆく。

  街々で見かけた食品サンプルに興味を持ち、製造工房を訪ねるヴェンダース。パンはほとんど本物のサンドイッチの作り方だ。湯をくぐらせたパンを被せたあと、熱した包丁で切ってゆく。私は蛇足をはさんでいるのだろうか。食品サンプルは映画の喩だ。【ショーケースにメニューの見本が並んでいる。現実の忠実な再現である】。溶かした材料をはさんだサンドイッチ、海老を後から衣で包んだフライを、私たちは食べたことがない。だがこれらは撮影された現実の、暗黙の了解だ。引き出しから、レモンの輪切りやフライド・ポテトを、丁寧に取り出しては皿にのせる。小津は【小道具一つ一つの細部にこだわった】最後の仕上げに、サラダをバーナーであぶっている。
 【昼食時の撮影を断られたのは、残念だった。職人たちは、見本の間に座って食事をした。お昼の弁当は、ろうの見本と全く区別がつかない。間違えてろうのパンを噛まないか、余計な心配をする】。模倣へ、物語のほうへ。【映画の聖地は、想像の中にだけ存在する】。複雑な、複数かもしれない眼がパフェを捕らえる。固い苺が2つに割られた。彼は【少し距離をおいて】、冷静に「物語」ろうとしているようだ、【まず本物の食品の上にゼラチン状の液を流し、それを冷やして固める】、握るようにして削がれる寿司。場面が変わって、グロテスクなまでに無表情な、カーネル・サンダースが映し出される。その笑いは、テレビのように空虚な穴だ。食品サンプルに「いただきます」。だが彼に「おはよう」と言うことはない。

  映画の冒頭と、ラストは小津の映画『東京物語』(1953年)だ。サンドイッチ。冒頭はこれから東京に旅立つ夫婦。変奏曲を。私たちはこれから東京をたずねるのだ。ラストは一人だ。妻を亡くした男(笠智衆)が、うんざりするほどまぶしい日差しのなかで、畳に座って団扇を仰ぐ。この明るさは、もしかすると撮影監督の厚田雄春氏の意見であったのかもしれない。彼は『父ありき』(1943年)の中での、父が病室で死ぬシーンについて語っている。病院の窓から、強いライトを照らす。【“私は暗く死なせたくはなかった。明るい中でパッと死なせたかったんです”そうしたら彼(小津)は“そこだよ”と褒めてくれた】。厚田の意見であって欲しかった。考えうるかぎりの最善の関係。彼は撮影助手から始まって、最後まで小津とともに在りつづけた。【私の最上のものを、彼が引き出し、それを私は彼にささげた。ほかの監督とでは駄目でした】と、声がつまる。映すカメラもまた、私たちとともにゆれている。ラストは一人だ。構築の崩壊にたちあうこと、『東京物語』。残された夫は、現実のなかで団扇をあおぎつづける。私たちは一人だった。喪なわれた詩のようなものへの痛みが、厚田のゆれから伝わってくる。亡き次男の嫁(原節子)だけが、老夫妻に親身だった。彼らは一人であることによって優しい。葬儀のあと、列車に乗って東京へ戻ってゆく。『東京画』に引き寄せて(【列車が出ない作品は、小津には1本もない】)、小津映画の中へ、ヴェンダースが、私たちが求めるもののなかへ、現実と映画が重なるかもしれないほうへ、現実と一人一人の生が触れ合う瞬間のなかへ。

       *

 『東京画』へ。触れるために離れてゆく。あるいはそれることで追うために。私は誰に宛てて書いているのだろうか。賛辞が解体され、私のなかへも向けられる。私は私を尊敬するべきなのかもしれない、とふと思う。【人生を見る、見るのは自分だけ】、窓が叩かれる。開けるのは私だった。窓1枚分隔たった空。外気のなかで、風船がたとえば高く吸い込まれてゆく(『麦秋』1951年)。『東京画』のなかで、高架下のバラックは、夕暮れのように賑やかな壁を持っていた。私の眼は、日の丸は中心をもたない穴のようだと感じている、あのヴェンダースを見つめている。彼はテレビを嫌悪した。『お早う』のなかで、テレビは馬鹿になると、父親役の笠智衆は言っていた。私は私を混ぜることができるだろうか。外気が冷たい。窓から雨が降り込んでくる。他人の夢。私は概ね私にむけて、最後に以下の文を綴ってみる。

  画面を横切る鳥を生きること。小津監督は座布団の位置にまで、細心の注意を払っていた。ことばを繊細にあつかうということ。欅だったろう、私は大木をぼうっと眺めていた、【こんな風に映画が撮れたら】…、私はこの木に触れたいと思った。鳥のいない空、街はすぐそこで、幹のむこうで静かだった。そのとき、私には、ことばしかないと思った。大木に手をそえること。一度決まったら、小津以外には動かせないカメラだった。空が瞬間かげってゆく。
 窓の外から、見上げる雲もまた遠い。横切る鳥を生きること。ふっと眼をひらく、【あかしなど何も求めずに】、ただ在った場所から、私たちはとうに放たれてしまったのだ。眼をつぶらないために。雨は私とは関係なく降り続く、窓の下を行きすぎる彼らの声が聞こえてくる。私たちはそれでも、カメラ―言語(はからずも【映画言語】とヴェンダースは言っていた)を使ってしか、「ありのまま」の空を伝えること、追うことはできないだろう。それですら。画面の礫に、転んだ記憶を確かめる。この喧騒はそれでも親しい。ヴェンダース、『ヴィエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ』(2000年)。街は色で満ちていた。ざわめきの歌、尽きせぬ「おはよう」。祝祭が、彼らという彼らからにじみだす。いいお天気ですね、ごきげんよう。『東京物語』に戻って。原節子が白紙のような表情で去ってゆく。画面を横切る船、水尾を見ることができないのは、屋根のせいだ。50ミリのカメラ、スクリーンを通り越して、私たちは小津のように屋根ごしに船を見つめている。『ことの次第』、カメラを銃のように構えながら死んでゆく男、カメラで現実を撃つこと。倒れゆく視線のために、道路がどんどん近づいてくる、最後は壁、のようなアスファルト。目線になるカメラが痛い。それは小津の手法ではなかったが、小津と重なり、ほとんど人の眼に近しく、厚田を撮ったときのように、ゆらいでいた。こんどは屋根より高い場所からだ。水尾をむすぶ船、ラストは小津の「終」に重なりながら消えてゆく。『東京画』に【何か本当のもの、何か現実のもの】はあらわれたのだろうか。ヴェンダースは自分自身に問いかけている。屋根の下を、乗合バスが見え隠れする。最後は幕、のような壁の闇。ヴ ェンダースの車から見た風景が、私たちの車窓を見る眼に近づいてくる、ほとんど重なって、【最後には固定ショットだけ――畳に座った人の視線と同じ高さで】。水尾がスクリーンに引かれてゆく。「終」という文字を暗がりが包みはじめる。【小津作品に、私の賛辞は不要だ】った。列車と新幹線が暗がりのなかで行き合った。【父へ、母へ、弟へ】、献辞に触れるようにして。【想像の中にだけ存在する聖地】のほうで、「終」という文字が生き延びてゆく。窓が開いても、私たちは一人だった。「さようなら」より「では、また」を好むのは誰であったか。変奏曲は再会を奏でるだろう。最後にやはり、ひとことで。「『東京画』は、誰でもなさへのオマージュだ」。雲がまた形を変えている。





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