[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]




影を踏む



女は見知らないものを前に、いくばくかの書物、いつも落としてし まうのだった。壁のないタテモノを造れと、影が折れる。ちいさく、 とても色の濃いものになり、街のむこう、たいてい後ずさりして転 がった。払われたほこり。ゆくえの先々で、問いにむせる。あばら だったか、背の骨の、かけらぶんだけ、華奢になった男をさがして います。窓のささえすらふりほどき、影はますます無口になる。ひ らかれた、彼は摺り足のようでした。ゆっくり、はやく。読めなく なった文をたどる。唾液を飲み込むと、いつもしまったと思うので す。見知らぬ老人の眼のなかで、ちいさな濃さがはぜていた。見つ めるうち、結ばれたはずの像のしたたる。やわらかな瞼が、燃え殻 をしのばせる。ふりむくな、とあの人は言った。ヒールから抜けだ しては、すこしの傷をもとめて帰ってくる。そうではなかったかも しれないが。陽射しをかかえたので、骨のしなう。痩せた女を探し ています。

男は見知ったことにより、彼らの消化、わずかにとりかこまれてい るのだった。タテモノに曲がった気配のなさは、折り重なったこと による。じぐざぐした踏まれかたにより、たとえば街、川、橋、ゆ っくり、たいていひりひりと。早すぎる回遊のねり歩く、肩甲骨の すきまの物語。男は見知らぬ色に、ささくれたものを溶かしたかっ た。ふりむくな、と行のやぶける。まだ、まだだ。浸された空。川 風に潮がまじったと、いつも思う。カーテンの裏、二人、一人。私 はかぎりなく隣人でありたかった。風下で、むしられた影のよりそ う場所で、彼らの黙祷がおこなわれる。言われなかった、言われた こと、手向けたあとで握られる両の手は、おのおのの細さを持ちこ たえていた。二人になる、なってしまう、窓の合わせ目。花ざかり の終焉に、骨のような月が面をあげる。私たちは影を持たぬことに 慣れていない。かつての血脈がざわめきだす。あばらにそって、ま だしびれる指を当てたい。薄いあの人を探しています。

私は見知らないことを咀嚼する。足底から、たくさんの嘘がもたげ ていた。今日の曲がりかたが橋にむかう。無言の列の、川下にほぐ れる。海草のような音が、壁のないタテモノから立ちあらわれた。 ぬるむ街。ちぎれかたを記述したいと、誰かのたたむ頁があった。 いつか、会えますか。誤りと書き加えられたのち、捧げられるペン。 窓はいつも筋でできていると思う。私は彼女に、小さな固まりを追 っている、二つのあいだで惑っている、一人の女に会いたくなる。 踏まれている、踏んだものに触れること。祈りの断片が、しずかに 背筋をもちあげる。あわい色、差しだすように混ぜてみる。物語に 生が逃げると、聞いたことがあるように思うのです。私は読みおえ た書物をもどす。美しい老婆の顎を上向きにする、老紳士の眼のな かで、濃いものが、行為の数だけ吸いとられる。失われないちいさ な。藍と言ってもいいかもしれない。透けてゆく、私たちの再会は どんなであったか。



■追記:『影を踏む』は、今年の一月に書いたものです。ヴィム・ヴェンダー スの『ことの次第』(1981年)という映画のなかに、映画と現実の乖離の問題 として、物語を現実にすること、あるいは現実に食い込ませることは、壁のな い建物を作るに等しい、といったやりとりがありました。それが頭に残り、私 に触れました。そして関富士子さんの詩集『ピクニック』にでてくる、男、と 女。私には、かれらは現実で、年月を経てきたように映ります。私はこの詩集 を読んで、その現実世界を詩ににじませながら、圧倒的なまでにうつくしい、 としかいいようがない詩を、詩のなかの物語(通常の意味の「物語」ではもち ろんありません)を、確かに造っていると痛切に感じました。そこには壁のな い建物がありました。現実が詩に投影している…、同時に詩のなかの男、女が、 壁のない建物として、現実に投影している…、一年近く前の話ですし、詩作時 の心の動きを追うことは難しいことなのですが、『影を踏む』を書いていると き、これらのことに触発され、それにさらに触れたい、そんなふるえがあった と思います。ここにでてくる男、女は、『ピクニック』のなかの男たち、女た ちの影をひきずっています。あるいは映画や詩集という枠をこえ、現実にいる 私に、壁のない建物がたち現れた、私に見えた、ということを、手紙にしたか ったのかもしれません。この手紙は、受け取る相手を想定していません−−丁 度、一篇の詩、一つの映画が、特定の人に向けられた手紙として書かれるわけ ではないように。長くなりました。オマージュをこめて。  海埜今日子




[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]