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音楽、『音楽』、桐の花もほろほろほろと……*1)



去る2月17日(日)、支倉隆子さんの「音楽を読み語る会.vol.2」に行ってきました。支倉さんの第二詩集『音楽』(1975年/黄土社)を、支倉さん自身が文字通り、読み、語る、会です。
と、以下、拙いながらもレポートさせて頂きたく思います。なぜレポートを書きたくなったのか、自分でもわかりません。例えば『音楽』は、私にとって大事な詩集であること。そう、なぜ大事なのか、自分でもまだ言えずにいるのです。たとえば支倉さんが仰っていたのですが「この詩集は自分の出した詩集のなかでいちばん淋しい詩集である」からかもしれません。その淋しさがたゆたっていることが、哀しみとしてつたわってくる。ではなぜ? 「そもそも私は何を感じるにしても、信じられぬほどの後知恵しか持ち合わせない」とパスカル・キニャール*2)は言っています。私にとってもまったくそうで、それは数日、あるいは何十年、かかってやってきます。まず、その後知恵を、引き寄せるために、反芻として書いてみようと。
ですが、詩集『音楽』を抜きにしても(という設問は、会の趣旨上、不可能かもしれませんが)、たとえ読んでいなかったとしても、詩論として、こちらに(私たちに)語りかけるものがあったことも事実です。この会で語られたことをなぞることで、この詩論を私に、私たちに、何とか提示することができたら、あるいはこの会の一端を紹介できたら、そんなことも漠然と考えています。
レポートというのは、なにかの端緒をつかむ糸口、入門書のようなものかもしれません。あるいはここで紹介するということもまた、これ読んで下さる方々に、会の一端、糸口を指し示す、ということにもなるでしょう。こちらは責任重大です。私の紹介ではなく、支倉隆子という一人の詩人が絡んでくることですから。
前置きが長くなりました。以下、なんとか連ねてみます。ふうっ。



会場は喫茶店*3)の二階。中央に楕円状に十何人か座れる大きなテーブルがあり、その端に支倉隆子さん。私たちもそのテーブル。つまり、演者と観者の間に、見える形では差がないのです。観客は、支倉さんが主宰する銀座詩話会のメンバーを中心に、画廊関係の方(支倉さんは、ヴィジュアル・ポエトリーなども数多く描かれています、例『詩学』掲載中)、飛び入りの方など、総勢十数名。ひらかれた親密性、というのでしょうか。会場(喫茶店)のオーナーでもある林みちよさんが焼いたというオブジェのような砂糖壺、いびつなお皿、などもその雰囲気を醸し出します。そして林さんが出してくれたコーヒー、などなど。

さて、たぶん、はじめに。
自分の詩集について話すのは難しいのですが、支倉さん曰く、なぜか『音楽』だけは話せるとのこと。刊行からの年月、もあるでしょう。あるいは支倉さんにとってのイトコ(《雨期》という詩の中に出てくるのですが、後で触れます)のような距離が『音楽』にはあるのかもしれません。自分のなかでもはや違った自分として距離をおいて見つめられる、といいつつも、書いた人は全くの他人ではない−−継子ならば、一緒に暮らしてきた歳月によって、イトコならば、身内として−−、また、語ってゆくことにより、かつての自分に再会することができる、そういうことも含まれるかもしれません。あるいは『音楽』を書いた当時の支倉さんと、今の支倉さんがなす、おしゃべりのようなもの。「[『音楽』さん]とだけは、いくらでも話せる」、そう言っているようにも思えました。

たとえば。
「この頃は、遠野物語とか読んでいたので、たとえば〈白いきものに着かえてみても/彼女の咳はとまらない〉(タイトルポエム《音楽》)、〈雪まみれの男が/敷居に卵をひとつ置いて/楕円の世界を語っていた〉(《牧歌のように》)、〈誰にも言えないことを言ってしまえば/柱が乾きはじめるという伝説は〉(《雨期》)に書かれているような言い伝え−−ありそうでなさそうな−−ただ自分だけの神話、詩人の伝承を作り上げていたのでしょう」。
その作り上げていた彼女は誰?、と私は支倉さんと共に、『音楽』の彼女に会いに行くような感触をもちました。おずおずと、支倉さんの背中をみながら。「(やはりこの頃読んでいた)ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『アレフ』という小説の中には、水晶のなかに世界が込められているという箇所があったけれども、《音楽》のなかの〈言葉がほしい雫がほしい/しずくの意味にかさなりたい〉、そういった世界のことも考えていたと思う」など、その頃読んでいたもの、読んでいた自分たち、彼女たちとの再会。おしゃべり。
その彼女たちは、丁度いまの私の年齢に近いものでもあるかもしれません。背中ごしに、私と交わしたかもしれない、支倉さんの言葉たち、再会のおしゃべりを通して、私もまた、私のなかの私、私のなかのイトコを[『音楽』さん]に重ねているのかもしれません。

そうでした。この日は、『音楽』に収められてあるうち、《音楽》、《アンドロメダ》、《雨期》、《石炭記》、《牧歌のように》の朗読とお話でした。朗読については、鼻炎で体調の悪い支倉さんの代わりに、順繰りに私たちで。
朗読の支倉さんを殆ど聞けなかったことが残念といえば残念でした。というのは、支倉さんの朗読は、しずかに、やわらかく、いくぶん低い声で、詩のことばを、詩を照らしてゆく、というのでしょうか。詩のことばをほつほつと(とは、支倉さんが好きそうなことばなのですが)灯してゆく、詩の灯りが声となって満ちてくる、ような感じがするのです。その声が、詩を読み、詩を語る、ということで、なにかがより照射されるかもしれません。ですが、わかりません。今回の場合は観者である私たちが朗読をする、ということで、演者と私たちの距離がほぐれてゆく、私たちが声にだすことで、私たちとその詩の関係が近しくなる、また他の方の読んでいるのを聞くことで、支倉さんの詩を別の入り口から覗き込む、そんな側面もあったでしょうから。

さて、突然ですが、以下、箇条書き風に。(海埜注:慣れてないんですねぇ、力不足。ぶつぶつ、すみません)

まず、繰り返し話されたこと。あるいは私のなかにしこりとして残っているもの。あたためたい、ほぐしてゆきたいもの。

特に『音楽』に収められたものは、一行アケが少ないので、起承転結の転にあたるような箇所が随所にある、と仰っていました。
それは文楽の「かきくどき」のようなものであり、むずかること、敗者であるとか負者の持つ力のようなものでもある、と。たとえば《音楽》。


音楽


白いきものに着かえてみても
彼女の咳はとまらない
いまは耳だけがのこっている
僧侶のひとりごとが聞きたい
松のえだを濡らしている彼の声だ
鶴の耳にもきえているだろう
かれらのしろい耳をほめたたえる
かれらのほそい足をほめたたえる
耳と脚とがふるえて
三月の雪崩をまちうけている
茎という茎はおれるだろう
茎のような女の
春の咳がはじまるだろう
言葉がほしい雫がほしい
しずくの意味にかさなりたい
ふくらんでいく彼女は
松の葉にささえきれない
にんげんのしずくだ
僧侶の声をとじこめてある
鶴のはばたきをとじこめてある
二重三重に身をまげて
鶴もなみだをたくわえよ
涙のちからが鶴を浮かべる
耳のなかにも水をたたえて
彼女のむかしの咳のような
松の風をきいている


と、つい個人的に好きなもので、まるごと一編載せてしまいましたが、この場合ですと、「鶴もなみだをたくわえよ…耳のなかにも水をたたえて」が、それに当たるとのこと。不可能なことをかきくどいてゆく(転)。

そして今回の話の要点は、ふたつだったかと。
ひとつは、たえず既成の映像をこわしてゆくということ。既成の映像をこわすことによって、詩的映像、新たな像がみえてくること、みえるかもしれないこと。

●《音楽》〈しずくの意味にかさなりたい〉「意味」という抽象的な語によって。
●《牧歌のように》〈冬の麒麟も見えてくる〉麒麟という現実にある動物を、冬を置くことで(麒麟といえば夏のような景色が思い出されるから)、現実味をなくしてゆく。
〈自由の草が匂っているその首よ〉自由の草…映像が結べそうで結べない。
●《石炭記》〈海にむかってあるきつづけたひとの言う/死に絶えた鳥の足あとに/にんげんの胸をかさねている〉配置による通常の文脈の逆転。「鳥」と「にんげん」、死に絶えたにんげんの足あとに、鳥の胸をかさねている、ではなく。〈その男から痣が消えると/死に絶えた鳥の肖像になる/まだ生きていて/緑の意味をかんがえている/蜥蜴のみどりと羊歯のみどりと〉、蜥蜴の緑も羊歯の緑も、具体的に色を現すものだが、本来比較するものではない。そのずれによって映像をずらし、あるいは重層効果を生んでゆく。
●《アンドロメダ》〈影のような竜が/水仙を食べている/水仙を信じるように/龍のこころを信じたい/竜のかげにかさなりたくて/自分のかげは折りたたんでいても〉想像上の動物である龍が、さらに影であること。ぼけてゆく映像。また、水仙を信じるという抽象性に、非現実の龍を重ねることの二重に壊れて行くこと。
●《雨期》〈雨だれの音にも飽きた/従兄の告白も聞きあきた〉前の行と後ろの行で、イスカの嘴のように話をくいちがらせることによって。

話は逸れますが、ここで前述の「イトコ」について。〈従兄〉は、兄妹や母よりもべったりした感じがないので、ほどよい近さの身内として、詩のなかでよく使うという話もでました。また、〈雨だれの音にも飽きた〉、というのは平凡な感じがしますが、いとことの組み合わせにより、面白くなる、そして「映像をこわすばかりのことばだけではなく、平凡な一行というのも、息抜きの一行として必要だ」と仰られたことに、私は個人的にとてもうなずきました。

話が逸れましたところで、二つ目の要点のほうへ。
詩集の題名に『音楽』とつけたことと関連して、詩における音、について。

●《石炭記》〈たましいの領域はさらさらとくずれて/胞子のささやきは聞きとれない〉
●《牧歌のように》〈かしわ手をうてば/桐の花もほろほろほろと〉
さらさら、ほろほろほろ等、聴覚的な音によって、映像をこわしてゆく。

《アンドロメダ》のなかに「霰」ということばが出てくるのですが、これもぱらぱらと降ってくるものなので、そうした言葉による音のイメージも含めて、映像の合間をぬうようにして、音楽的なものが流れてゆく、そのことを無意識にでもとらえ、またつたえるようとして、『音楽』という題名にしたのではないか、と仰ってました。

その他、私が個人的にとてもうなずき、またうなずきながらも、まだ後知恵がめぐってこないまま、しこりとなって残っていることを仰ってました。
「たいてい、すうっとことばが出たときのほうが、後からかんがえてもうまくいったと思うけれど、この詩集の一行一行は、書くときに、なかなか出てこなかった。すうっと出てくる瞬間を待ちながら書いていた。珍しく時間がかかった」
すうっと出てくる一行。そして前述の平凡な一行。これも私の後知恵でしょうか。何となく、どころでなく、私のなかのどこかで強くうなずいているのですが、なぜ、なのか説明することができないでいます。あるいは無意識(先程、詩集の題名のところで、支倉さんがいった無意識です。無意識、無自覚でいながら、じつはどこかで感じているということ)に、試行錯誤をくりかえしてゆくなかで、ふっと浮かぶ、浮かんでは消える、態度としてあるべきことで、語ることが容易ではないことなのかもしれません。

詩集『音楽』の最後には《エンゼル館》という詩が収められています。エンゼル館は支倉さんの故郷である、北海道にあった名画座の名前だったとか。この詩は、『音楽』のなかでは、いちばん救いがある、というか淋しさが薄れている。だから巻末に載せたのだろう、と仰ってました。それを支倉さんご自身で朗読された後、幕となります。詩集の終わり、音楽を読み語る会の、いちおうの閉会。
とはいえ。この会場は1時半から3時半まで借り切っていたのですが、3時半を過ぎても、追い出されることはありません。私たちは文字通り、喫茶店の客となって、なにか終わりのぶれたような感覚のなか、コーヒーをおかわりし、おしゃべりを交わしていました。
だから、閉会という感じがしません。そんな雰囲気にもまた、《エンゼル館》はなじんでいたかもしれません。最後に、この詩を掲載することで、この拙いレポートをくくりたいと思います。支倉隆子さんに感謝をこめて。


注1)『音楽』、《牧歌のように》より
2)『音楽への憎しみ』(青土社)
3) Cafe & gallery Do Well POWWOW(パウワウ)
 東京都新宿区神楽坂2-7 tel.03-3260-8973
  (地下鉄飯田橋駅B3出口、徒歩3分、神楽坂通り登る。
  神楽坂通り沿い、進行方向左、夏目写真館隣)



エンゼル館


  天使よ故郷を見よ
  焼けのこった市場を
  ひとめぐりしてもかわかない
  水の視線をさしむけよ
  魚売りのぬれた舌がある
  憂鬱な子どもにささやいている
  青い魚を追うだろう
  青い映画をみるだろう
  魚のなげきが水を増やして
  フィルムにも水がながれて
  おわることのない
  わが心のものがたりだ
  はるかな父が蘇鉄の実をかじっている
  その歯型を愛した闊葉樹の女がいる
  刺青の似合う祖先たちよ
  孫たちはゆうがおの
  蔓のゆくえを占っている
  水の扉はしめにくいと嘆いている
  だれが蘇鉄の実をかくしているのか
  手から手へとわたされて
  芳ばしい爆弾となるだろう
  かわいた神のからくりがある
  神の背なかが割れて塩があふれる
  夏の話をはじめよう
  忘恩のはなしを繰りかえそう
  あたらしい位牌のように
  市場の垂木はかわきはじめた
  天使の前歯にはさまれて
  青い魚の骨がひかった



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