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カンデラに照らされ、場所が明日に降り注ぐ
        金堀則夫詩集『神出来 かんでら』(砂子屋書房、2009年7月)


 初めて金堀さん主宰の詩誌『交野が原』を手にした時、「言葉を通じて、野の原で他者が交わる場所…拡がりと凝縮がある名前だなあ」と、地名に明るくない私は詩誌名を造語だと思ってしまった。だが発行所の場所が交野市星田とある。現実にある名前(しかも星田も美しい)だと知り、更にその名前に惹かれた。現実の場と言葉の場が交じり合う原に星が降り注ぐ…以後、そんな映像が詩誌を手にする度によぎるようになる。
 そして新詩集『神出来』。かんでらと読む。こちらも不思議な響きだが、「「神出来」は、大字(おおあざ)星田にある小字(こあざ)の地名」とあとがきにあるように、金堀さんが住む現実の場所の名。更にあとがきには「交野(かたの)・星田は、「天孫降臨(てんそんこうりん)」の地である」とあり、「乾」では、「わが星田(ほしだ)を〈乾田〉/乾(天)の田/「ほした」という/(中略)/乾田(かんでん)じゃない/カンデンは〈神出来(かんでら)〉となる」とある。『神出来』は、現実を通して、過去、そして現時、音を通して詩的な現在とも密接に関係し、共鳴しあうのだ。

  哮(たける)が峰 ニギハヤヒノミコト
  このむこうの そのむこうの空から
  はるか遠い葦原中国(あしはらなかつくに)から
  やってきた
  天のいただきだ
  (中略)
  壊してきたものの壁は
  ロッククライミングではないぞ    (「天(あま)降(くだ)る」部分)

 地名が現実の場、現時と密接に関わっているが、それは世界を狭めるものでは決してない。『交野が原』が地名に端を発しながら、広大な逆三角形を詩的空間(そこで言葉たちが交わるのだ)として形成するように、『神出来』もまた地名を内包しつつ、詩的空間を現時に向けて拡大する。出自に関わる探求、起点への探求、それが真摯である故のその拡大は、私のようにその土地にいないものを、自由にそこに呼び寄せ、拡がりの語りかけとして存在する。例えば「鐘鋳谷(かねだん)」。

  北斗七星
  柄杓の形は、人の恨みをおおぐまに
  北極星は こぐまを象り
  思い込みは解けないで
  そのまま永遠に貼り付けられている

 とあり、「妙見坂」「鐘鋳谷」などの地名と交錯しつつ、宇宙的拡がりをもって迫ってくるが、あとがきの、「弘法大師が(…)秘法をとなえると、天上から七曜の星(北斗七星)が降り、星田の三ヶ所に流れて落ちた」という記述とも密接に繋がる。だがそれは、ギリシャ神話(大熊になった母を狩で殺させないように小熊にさせられた息子…彼らは罰せられ、水平線に沈むことがない)等とも、空を、神話を介して交わるのでは…と、土地にいない私は読む。それは決して間違いではないはずだ。詩とは、根をもちながら、拡がりをふくんで止まないものだから。

  はるかな土には
  これから蘇る千古の深さがある
  遠くの宙に 植えつける
  憶える土にも それを覆う土にも
  わたしのもっている
  今がある              (「乾田」部分)

 実は『交野が原』で勘違いした私は、つい、『神出来』の音をも光度の単位であるカンデラ(cd)と結び付けてしまいたくなる。こちらはカンテラやキャンドルと同じ語源のラテン語の“獣脂蝋燭”が由来だが、この蝋燭の明かりが、『神出来』の中の天の明かり、あるいは地の明かりと密接に結びついているような気がしてならないのだ。「星鉄」では、「鉄の重みもなく」浮く「妙見岩」が、「天も地も離れている」さまが語られる。

  大きな石は 星を見失って
  浮世に漂っている

 漂う姿が、カンテラにほのかに照らされてあるようなのだ。同時にそれは夜に切り開かれた現代への共鳴の明かりとなる。
 或いは前詩集『かななのほいさ』が、その星田という場所と金堀衆、詩人自らの姓と血脈を重ね合わせ、現時という大地から、水平に過去へ(あるいはそれを通して未来へ)、詩的に広がってゆくのだとしたら、姉妹篇ともいえるこの詩集では、現時という場から、過去との繋がりを保ちつつ、垂直方向、天と地をも詩行にこめたものだということもできるだろう。「「かななのほいさ」を漢字で書けば「鉄穴の星田」である」と『かななのほいさ』のあとがきにある。この鉄穴は鉄砂だそうで、このことからも「大字星田にある小字」の“神出来”は、磁石のように私自身を鉄砂、いや星の鉄として引き寄せるのだった。

  川砂鉄が星なのだ
  星は限りなく堆積している        (「星」部分)

 そして音たちの引き寄せる場所。星田に天降(あまくだ)った饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫は物部(もののべ)氏だという。「もののふ」では、「もののべが/かかわる/呪文」として、「おおものの ものを/うけついだものの」、「ものいう/手のふるえが」ほか、“もの”たちが“もののべ”と“もののふ”を繋ぎ、交錯させ、私というものを誘う。「脱皮」では「わたしの/カラを破らないかぎり」、「うまれかわれないわたしが/巳さんにからまれている」、「カラは またカラをつくって」と、私たちを、、からめとろうとする。音の織り成す共鳴が、拡がりつつ流れるのだ。

  ほし田は憮然として
  草むらで覆い
  吸い込んできた土のまま
  未来に水耕の跡を遺してゆく   (「水が……」最終部分)

 過去と現在をつらぬき、カンデラは、明日を照らしている。

※初出:「交野が原」67号


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金堀則夫詩集『神出来 かんでら』(砂子屋書房、2009年7月)







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