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目の民、そしてヤヌスの均衡。
         佐伯多美子『睡眠の軌跡』(思潮社、2009年2月)


 私は作者の実生活や実体験に殆ど興味を覚えたことがない。作品が全てだと思っているからだ。それは一面では正しいし、一面では間違えている。孫引きになってしまうが、ピカソの言葉をここに掲げる。「芸術は、本能や知性が、規範とは関係なしに感知することのできるものだ。(…)大切なのは、芸術家のつくったものではなく、芸術家の人間なのだ。(…)われわれの心をひくのは、セザンヌの不安である。セザンヌのほんとうの教え、ゴッホの苦悩、それはまさしく人間のドラマだ。それ以外はうそっぱちさ」(大岡信『抽象絵画への招待』岩波新書))。前者の一面は、ほぼこれにつきる。実体験のなかの本質的なもの、人間は、作品に昇華されてか、複雑に絡み合ってそこに確かに存在している。
 佐伯さんの新詩集『睡眠の軌跡』が出た。ここには実体験がかなり投影されているだろう。自身の幼少の頃の体験、精神病院での見聞と体験、それらが深く関わっている。私はこの本を読み進めるうち、今までの他者に対するばかりでなく、自身の実生活への接し方にも反省を促されてしまうのだった。こちらが後者の一面だ。ピカソのいう芸術的な“人間”を追うあまり、体験を軽んじてはいなかったか…。体験に対する興味を野次馬的な虚ろなものと避けていたが、実体験と想像はもっと緊密に接しあっていると私は心した方がいい。多分こういったことも均衡が必要なのだ。
 均衡。野村喜和夫氏の栞に「魂のドキュメント」とある。佐伯さん本人のあとがきに「背骨で感覚し、臓器で思考され」たものであると同時に、「ある精神病者の贖罪の独白でもあるかもしれない」とある。ここでは実生活と言葉が、体験と架空が、複雑に混ざりあい、見るものを圧倒させる。背骨や臓器という肉と魂が、相反しつつ、ぐるぐるまきに癒着されて姿をさらけ出す。それは痛ましいほど肉を持った詩の言葉たちだ。ヤヌスというローマの神が思い出される。出口と入口の神、前と後ろを両方見つめる二つ顔の神だ。初めを見つつ終わりを見つめる、背反しつつ繋がっているもの(一月Januaryの語源でもある)。エピグラフに引いているブルトンの言葉も、想像力と退行、精神の安全と危険についての言及でもあるだろう。その均衡でこの詩たちは書かれている、その均衡に人間が置かれているといえる。「内にむかった/目線の先には/なく非在したすがた、を、凝視する、/めしい盲た、/目、が、/ある」(序章より)。
 あるいはこれは“ししょうせつ”だといいたくなってしまう。視章節、詩小説、私小説…、紙詳説、死小節、詩章節…。私は言葉遊びをしているのではない。言葉で視ることの章節、詩の作る小説、そして私小説を含んで、紙のうえで詳説される、死と生の均衡の詩の奏でる小節…。多重の意味たちが、『睡眠の軌跡』をつむぐ。この“ししょうせつ”の、大部分を占める散文詩(と、章ごとに挟まれた行わけ詩もまた、互いに均衡を取り合っているようなのだが)は、姉のとく讀と、妹で現在精神病院にいるみん民の視点でほぼ語られる。この二人もおそらく均衡だ。讀は、背骨の言葉を聞き取り、詩の言葉にする作者に近いだろう。民(“たみ”とも読めて、作者の名を彷彿とさせるが、“みん”であることで、距離をとっているといえる)は、「人間であらねばならないという観念から完全に解き放された自由といえる瞬間」に立つもの、獣性、「ジャガーと棲む」作者の体験に近しいものだろう。民の体験の瞬間と、讀というそれを見つめる存在がなければ、瞬間を作品にすることはできないのだ。それは芸術でなければ、この場合は、それは詩の言葉でなければできないものだ。それは生まれ、終わる瞬間の感知だから。
 そう、ここには距離がある。体験を観察するとてつもない意思がある。ジャガーという獣の顔と、讀むという字を持つ人間の、ヤヌス、二つの顔。そして讀だけが、民を「いい子」と呼ぶことができるということ。それは民の「産むという想念がまったく思い浮かばなかった」母性の欠如を補完するものだ。「幼児をなだめるような、/讀の、/(余白のための)白い、言葉、/を、聴く。/(いい子)」。かつヤヌスとして、個人と他者を、背骨と思考を別々にまとっているのだ。或いは一文字の名前たちの多さ。父は梅、母はいそ石、民のすぐ上の姉が礼、生まれてすぐに死んだ兄の榮、戦死の清、結核で亡くなった久、精神病院の愛想のいい泥棒の前科がある富、賛美歌を歌うしき色…。この一文字は、熟語を結ばない一文字であることによって、独りであることを投影しているようにも思った。だが一文字であることで、共通項をもち、孤独でありつつ共有しているとも思った。とくに“石”は、母であると同時に、最後に置かれた行わけ詩に、「石、である。/中に死産した胎児を抱く石である。」「石は、晒されて黙する。」とあるように、生と死をはらむものとして多重な意味を帯びる(栞ではイシという音にあるシ(詩)について連想を拡げていた。)。一字のなかに絡まり合った二つの顔。「無機質にえいえんを語るのが石の資質であった」。
 こうしたヤヌス、二つの顔の場所、出口であり、入口である場こそが、詩のありかなのだと、『睡眠の軌跡』は辿り、私たちに突きつけてくる。では“睡眠の軌跡”とは何か。「半分は眠っていた」とあとがきにある。眠りつつ起きていること、こうした均衡と背反こそが、詩の軌跡ではなかったか。或いは眠の字もまた切り離してみたくなる。“目の民”。「深い眠り、「睡眠」、これこそ民に課された追究するべきテーマだった。限りなく無に近づき得る、そして、自然に還る、姿だったのである」。それは獣性そのものの激しさだが、一方で、眠りは母、石の「死顔は静かな眠り」としてもそこにある。讀も「最期は壮絶であった」が、「輝くような笑顔をのこして逝った。たましいの最期の清らかな輝きであった」。これも眠りだ。二つの顔の接点を生きること。「無罪という終身刑」。

※初出:「すぴんくす」8号


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佐伯多美子『睡眠の軌跡』(思潮社、2009年2月)







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