「観光でない沖縄見聞旅行」への想い
実行委員会事務局長 臼井勝重
2009.8.15
出会いは活動の始まり
東京都、青梅線小作駅近くの線路沿いにアイム第二ビルという建物があります。そこの1階に「海人」(ウミンチュ) という沖縄郷土料理の店があるのです。ごく親しい友人でさえ、「ここの店、私が出資した店だよ。」と冗談半分に言っても本気にしてしまことがあります。退職協の総会に顔を出した時でさえ、ほんの軽いジョークで皆さんに語ってみたら「嘘でしょ!」とは誰も言ってくれませんでした。本当です????
過去26回の「観光でない沖縄見聞旅行」で参加された方々の人数は延べ461名。都道府県別に、北海道・福島県・茨城県・群馬県・埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県・山梨県・静岡県・愛知県・岐阜県。今回遂に関西圏の大阪府・京都府・奈良県から参加者があり、ついに15都道府県になりました。
80年代当初は、青年教職員を中心としたツアーで、各地の教職員組合や自治労・市役所職員組合、さまざまな労働組合や生協団体、平和団体が平和学習として沖縄ツアーに取り組んでいました。飛行機に搭乗すると、その団体の窓口幹事と思われる人たちが腕章を着けていたので、集団の一行が「平和学習に参加するのだな」と一目瞭然でした。観光バスも行くところ行くところ先を争うようにして戦跡めぐりをしていたのを思い出します。そのころから思い返せば、今はほとんどといっていいほど飛行機の中や、戦跡でそのような団体にめぐり合うことはできなくなってきました。その代わり、修学旅行の学生達が増えたのも事実です。ところが、「『戦争は必要ならしても仕方がない。』と言う学生達が増えてきた。」と嘆く、語り部の方がいたことが特に印象的に残りました。
沖縄は、今や新婚や家族、友人で訪れるがメインの観光地なのです。格安のツアーは、西海岸の豪華ホテルとレンタカー付き、青い空とエメラルドグリーンの海、そして、沖縄料理づくしグルメの旅が企画されているのです。金網に囲まれたのは基地ではなく、県民の居住地や観光地が金網に囲まれているのを実感できずに帰路に着く皆さんをある意味幸せに感じることさえあります。戦闘機の轟音、爆音は一瞬ですが、そこに住む人々には四六時中の出来事なのです。
敗戦後64年経った現在、60歳定年制の職場では、戦争体験者は皆無になりました。少なくとも労働組合が戦後の平和運動の一翼を担ってきたことは紛れもない事実なわけで、組織率の低下と組合離れは運動の衰退を意味しているといえます。
90年代に入り、組合員に限らず、一般市民の方々を公募する形でツアーの企画を始めたところ、年々参加者が多彩になり、その職種や出身地、経歴なども教職員組合時代のツアーでは考えられない運動の広がりを見ることになりました。3歳の幼児から、小学生・中学生・高校生・大学生。学校関係者、新聞記者、雑誌記者、カメラマン、音楽家、舞踊家、医師、看護士、鍼灸師、議員、保育関係、介護職、自動車設計、学者、建築士、デザイナー、元外務官僚、芸能プロダクション関係者、絵本作家など様々な方にめぐり合えるようになりました。その中に、戦争体験者も少なからずあり、一度は沖縄へとの気持ちから参加される方もいらっしゃいました。昨年、北海道からの参加が2名あり、今年は、いっぺんに3人、大阪・京都・奈良からの参加者には驚きを感じました。
募集の記事は、週刊金曜日という雑誌からの応募が圧倒的に多いので、参加者も「週刊金曜日に掲載されていたのだから……。」という安心感も手伝ってのことだと思いますが、私自身は、毎年の出会いが楽しみでもあり、出会うまではちょっぴり不安でもあります。人と人とが様々な地域から、様々な職種や経歴を持ち、沖縄を通して交流し合えることは、「元気」と「勇気」をもらえるなんともいえぬ「旅の喜び」があるのです。
さて、今回のツアーが終わって間もなく、衆議院選挙で自民党政権が民主党政権へと変わることになりました。4年前の郵政民営化を声高に叫んだ小泉選挙の反動かもしれませんが、これほどまでに、民意とは変わるものかと驚いています。
沖縄でも同じことが言えると思います。自治体の首長は、保守系、革新系とその選挙の度ごとに変わっています。一時期は保守系が多かったのですが、今は革新系の市長や村長が多くなっています。観光立県の沖縄でも、その利潤のほとんどは本土の資本がさらっていきます。日本国内の失業率は昨年からうなぎのぼりですが、沖縄はその中で、常にワースト1です。振り子の振幅のように、猫の目のように住民の意識は揺れています。基地を抱え、仕事にあぶれ、生活の基盤がままならぬ沖縄の世論は本土以上に変わる機会を持っているのです。 基地に依存して生きなければならない地主や労働者の姿がそこにあります。
そのような中で、今回の旅でお世話になった、沖縄の反戦・反基地の闘いをしている方々は、根気強くしたたかに、しかも明るく、決して希望を捨てることなく確実に一歩を歩んでいます。毎年、そのことを確認し、自分自身がその生き様に共感して少しでもその助けになればと思いツアーを企画してきました。沖縄戦を語る人々の高齢化も避けがたい事実です。次の世代に語り継ぐ人材と活動を継続する若者の出現が望まれます。
最後に、「観光でない沖縄見聞旅行」に参加された皆さん、ご多忙の中、ご協力していただいた沖縄現地の皆さん、そして、アイム'89・東京教育労働者組合の組合員の皆さん、また、関係者の方々に御礼を申し述べ、これからの取り組みに微力なから力を注ぎたいと思っています。みなさん、ありがとうございました。
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2007.9
怒りを形に変える「観光でない沖縄見聞旅行」へ
第24回「観光でない沖縄見聞旅行」は7/29に初日を迎えた。参議院選挙投票日当日である。ツアー初日が投票日というのは過去23回のツアーではなかった。年金問題や格差拡大とからんだ、時代の反動化と政権の歴史観に辟易していた国民の怒りと行動は、自民党の敗北へと追い込むことになった。民意が動いていることを痛感していたのは私だけではないであろう。結果はツアー2日目に「吉」と出た。
長年お世話になっている山内徳信・平和憲法・地方自治問題研究所所長の当選はまさに吉報であった。憲法改悪への秒読みが停止した瞬間であった。あれから二ヶ月、臨時国会が開会されて間もなく、所信表明演説の直後に安倍首相は機を逸した退陣をし、自民党の総裁選は福田氏の圧勝で決まった。文部科学省が高校歴史教科書の沖縄戦における「集団自決(強制集団死)」について、日本軍の強制をめぐる記述を2006年度の検定で削除した問題は、沖縄において県民総ぐるみの怒りとして爆発している。9/29には、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が宜野湾海浜公園で開かれ、抗議に集まった人々は11万人にも及んだ。それに先立ち、6/22には沖縄県議会の全会一致で教科書検定に関する意見書を可決した。また、県内41市町村の議会においても同様の教科書検定意見の撤回と「集団自決」に関する記述の回復等を求める意見書が相次いで可決された。一方、本土でも、神奈川県(座間市)、国立市・東久留米市、千葉県(船橋市)、高知県(高知市・香南市・土佐清水市・いの市)、宮崎県(美郷町)など沖縄以外の各議会で検定意見の撤回を求める意見書が相次いで可決されている。文部科学省は、「教科用図書検定調査会議が決定することであり、理解していただきたい」との回答に終始し、検定意見の撤回と「集団自決」に関する記述の回復を拒否しているが、沖縄では、今後は大規模な要請団を結成し10月中旬に上京、あらためて文科省に撤回を迫るという。“島ぐるみ”の抗議表明に、参議院選挙の結果もあり、新しい渡海紀三朗文部科学大臣や政府も何らかの対応を迫られることになりそうである。
1995年10月21日、米兵による女子暴行事件に抗議する県民大会が先の宜野湾海浜公園で開かれ、八万五千人が参加した。今回はその規模を遥か超えてしまった。残念ながら、本土マスコミでは、沖縄での一連の動きは報道される頻度は低いが、私たちの組合でできることを模索しながら、今後も「怒りを形に変えた」=「抵抗の意思表示」を追及していきたい。
参考:「沖縄戦の真実と歪曲」(高文研)大城将保著1800円・新刊本2007.9.10 第一刷発行
[文部科学省は、なぜ教科書検定で「集団自決」の真実を歪めるのか!? 沖縄は、なぜ島ぐるみでそれに抗議するのか!?
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2006.9
流れは変わるもの? それとも、変えるもの?
「いつかは流れが変わるだろう。」と思いながら一向に変わらない社会情勢。むしろ、知らぬ間に……というか、わかってはいてもどんどん悪い方向にシフトしていると何となく感じている皆さんは多いのではないでしょうか?
年金問題、インターネットカフェ難民などといわれる若年層の失業問題、コムスンなどによる介護ビジネスの破綻。数え上げれば枚挙に暇がありません。
憲法を変えるのは当たり前のような風潮が作られています。何故変えるのか、なぜ変えなければならないのでしょうか……。
経済の行き詰まりの最大の解決法は、普通は誰もが嫌がる戦争をすることなのです。
沖縄の伊江島に居られた、故・阿波根昌鴻さんは、生前様々な名言を残された活動家です。
「世の中に、善人がどんなに増えても、資本家が権力を握っている間は、戦争はなくならない。それは人類の5千年の歴史が証明しているのであります。」
「そこで私たちは、戦争に反対して平和運動に立ち上がらなければいかないと思いました。ただし口先だけでいくら叫んだところで強い権力の座にある戦争屋に勝つことはむつかしい。戦争反対は生活の中から始めなければならない。彼らは私たちの分裂、ケンカを喜ぶでしょう。『消費は美徳』に踊らされて貧乏するのも喜ぶでしょう。不規則な生活をして病弱になるのも喜ぶでしょう。時間を無駄にして勉強しないで無知になるのも喜ぶでしょう。私たちは、戦争屋(悪魔)を喜ばさない生活をする事も大事な平和運動であると考えてその実行に努めております。」
「わしらは心が正しくても国の政治に無知では、人類が住みやすい、平和で幸福な社会をつくることはむつかしい。また、広い知識があっても、心が正しくないと、真の平和の実現はないと考えたのであります。」
阿波根昌鴻さんの真理を裏付ける体験は稀有のものといえますが、氏の寛容さと社会科学的な洞察力、そして愚直なまでの生き様は哲学者の領域を超えているかもしれません。
しかし、まさに戦争屋が戦争を仕掛けるための準備を着々と整えようとしています。
冒頭の憲法改悪問題を筆頭に、沖縄県名護市の辺野古・大浦湾に、新たな米軍基地が自衛隊の掃海母艦「ぶんご」の登場によって作られようとしています。
このツアーがはじまって、四半世紀にもなろうとしていますが、過去に沖縄は幾度も平和を希求する声を発し、全国へ、そして、全世界へ発信してきました。
その声も虚しく、日常生活に忙殺される私たち一人一人によって、消されてきているのです。
「観光でない沖縄見聞旅行」は、まず見聞することによってしか感じられるものはない。感じなければ行動にならないと考え継続されてきました。今回も、根底に平和とは何かを訴え続けたいと思っています。是非、参加される皆さんの応募を歓迎いたします。
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2005.9
「風が吹けば桶屋が儲かる」
2005年8月30日午後2時ごろ、横田基地周辺上空を普段は滅多に目にしない戦闘機が2機、耳をつんざく爆音を上げて演習をしていた。車輪を出したままなので、タッチアンドゴー(航空母艦の離発着訓練)と思われる。尾翼の特徴からFA18ホーネットであることがわかる。周辺の自治体は瑞穂・青梅・羽村・武蔵村山・昭島・福生・あきる野が騒音の該当する地区だ。
今日から第44回衆議院総選挙が公示された。郵政民営化の是非を問う自民・公明の両党と、政権選択選挙を位置づける民主党。年金改革や子育て支援、税金や財政、外交も争点化し党勢回復をめざす共産や社民への評価も問われることになる。
昨日、韓国の映画俳優ペ・ヨンジュンが映画『四月の雪』のキャンペーンで4回目の来日したニュースが話題となった。
“世界の権力者になるためには、金融と石油と情報の三つを手中にしなければならない。”
28日、アメリカ・メキシコ湾沿岸のルイジアナ州ニューオリンズではハリケーン「カトリーナ」の影響で100万人が避難したという。最大風速が80メートルというから日本の台風とは比べ物にならない。このため、石油の生産・精製施設が稼動中止になり、供給の減少懸念が強まり、ニューヨーク商業取引所の原油市場で価格が1バーレルあたり、70ドルに跳ね上がったという。この影響でかまぼこメーカーの「紀文」がちくわや、はんぺんの価格をあげることになったそうだ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」とはよく言ったものだ。この原稿が印刷されるころは衆議院選挙の結果が出ていると思う。
権力者は先に触れた金融・石油・情報を手中にするために極めつけの戦術を組む。それは、果てしなく自国民または民衆を徹底的に愚民に仕上げる事である。
戦闘機、選挙、ペ・ヨンジュン、ハリケーン「カトリーナ」、紀文の「はんぺん」。これらをばらばらに情報として読み取ってはいけないのだと思う。すべてに連動し、儲けを考える一部の権力者エリートたちが巧妙に仕組んでいると考える事ができるかどうかが大事だ。
情報といえばマスコミだが、かつて大本営発表の情報に戦中の国民はだまされ続けてきた。
今、新聞もテレビも小泉自民党に諸手を挙げて応援している。
《ウォール街の欲深いファンドは、舌なめずりしながら、小泉の勝利を待っている。彼らは、日本の広告独占企業を通じてテレビと大新聞を動かし、小泉を勝利させようと大宣伝活動を展開している。一度は目の前にぶら下がった郵貯・簡保の3兆ドル(340兆円)が、参議院の郵政法案否決で目の前から消えたが、小泉が総選挙で勝って秋の特別国会で成立させるというので、しばらく待つことにしたのだ。だが、欲しくて仕方がない3兆ドル(340兆円)をなんとしてもいただこうと、莫大な広告費を注ぎ込んで、テレビと大新聞に「小泉は正しい」「民営化は正しい」「小泉はすばらしい」との大宣伝をさせている。日本人オールマインドコントロール作戦だ。日本のテレビ局と大新聞は、米国主導のこの広告戦略に乗って、小泉を勝たせようとしている。このウォール街の日本へのテコ入れを、ホワイトハウスがバックアップしている。ホワイトハウスは、小泉勝利・小泉独裁体制の成立を望んでいる。
ただ、米国の心ある人間は、日本の政界、官界、マスコミ、経済界が日本の国益を顧みず米国に気に入られようとしていることに、「日本はこれで大丈夫なのか」と心配し始めている。 首相をはじめ自民党・公明党の指導的政治家、テレビ局・大新聞の幹部や記者までが、オール“売国奴”になってしまったが、「日本国民はそれでも小泉が好きなのか。日本人はバカなのか」と米国の心ある友人からよく言われる。》(以上政治評論家・森田実氏の「時代を斬る」から引用)
沖縄で闘う人々とお付き合いする中で感じた事は、だまされない訓練を日々に積み重ねているということである。闘いは思想であり人生でもある。選挙の一票も闘いの一つであり権利の行使だ。9.11が別の意味で歴史上の転換点になる事を祈っている。
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2004.9
日本が再び戦争の時代に突入するカウントダウンは止められるか?
「辺野古への海上基地・ボーリング調査を許さない」座り込みが開始されて、101日目に私たち「観光でない沖縄見聞旅行」の20名は辺野古を訪れた。現地の実行委員の1人に牧師の平良夏芽さんという40代前半の男性がいた。ひげ面の精悍な顔に優しい眼の持ち主であったが、「辺野古は激励の場所でも支援の場所でもない、闘争の場である。」と一喝され私たちはひるんでしまった。防衛施設庁の官僚や職員たちはそこに座り込みで阻止する人がいなければいつでも基地作りのためのボーリング調査を実施できるのである。後日、伊江島の謝花悦子さんから聞いた話ではあるが、ひげ面の平良氏は戦火のイラクに医薬品などを届けに昨年現地を訪れていたのだそうだ。そこで、傷ついた多くの子どもやお年寄りたちが大きな体育館のような建物の中でほとんど治療も受けられずうめき声をあげている現状を目の当たりにして「殺意……」が芽生えたという。牧師に殺意など無縁のものでなければと思うのだが、「傷つけられた彼らが何をしたというのか、彼らを無差別に攻撃する軍隊及び、アメリカという国家権力」に明らかに「殺意」を抱いたというのである。
私たちが辺野古の現地を訪れた7月29日から15日後の8月13日、普天間基地(宜野湾市の中心部にある)のヘリが沖縄国際大学の敷地内に墜落炎上した。日米地位協定により現場検証も事故調査も警察や消防は手が出せないというのだ。イラクに出撃しているヘリには劣化ウラン弾が搭載してあるのだから放射能もれの危険もある。これが沖縄の日常である。
今年の春、卒・入学式で君が代斉唱時の不起立やピアノ伴奏拒否で戒告処分された教職員は248名。指導力不足で校長・教頭を含む67人に厳重注意が言い渡された。300名を越える被処分者には8月2日、9日の二日「服務事故再発防止研修」という名の思想転向研修が実施された。その内容も、講義をする講師は一方的に下を向いて法律の条文を読み上げるというもので、何のための研修でどういう目的があるのかなどの研修者の質問には一切答えないという乱暴なものであったという。さらに、減給の処分者3名には「非行」に対する「反省」の追加研修が課せられ、そこには校長も同席させるという徹底ぶりである。また、被処分者の中で、4月に異動した者は異動先の学校の職員全員に「服務事故再発防止」のための校内研修が課せられたという報告も聞いている。江戸時代の五人組制度を髣髴とさせる。さらに、在任した高校の元教員が卒業式に招待された際に、日の丸・君が代強制の記事の掲載されている「サンデー毎日」の写しを保護者に配布した事により警察の家宅捜査を受けるという事態にまで発展している。
8月26日、東京都教育委員会は、来春開校する台東地区中高一貫校(都立白鴎高校)の中学歴史教科書に、所謂「つくる会」が推し進める扶桑社の教科書を採択した。「つくる会」の教科書は皇国史観で、戦争を美化し、歴史を歪曲しているという指摘がなされて久しい。
教育基本法の改悪を目論む超党派議員連盟「教育基本法改正促進委員会」では、「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。」といって憚らない議員が多数いる。
今後の政治の動向を見てみると、05年に憲法調査会の改憲答申と国民投票法、06年には自民・民主両党から改憲案が発表される。早ければ07年には改憲発議という流れができている。自民党の改憲草案は前文で、国を守り次世代に受け継ぐ事を規定し、憲法9条2項を放棄して、「国防と戦争協力を国民の義務とする」ことを謳っている。また、民主党は「和の文化など日本の伝統的価値観(天皇制)を生かし、日本国民の精神を謳う」としている。
沖縄は7月の参議院選挙で革新統一候補を擁立し見事勝利した。自治体選挙へのうねりも発生してきている。宜野湾市の伊波洋一市長も市民の先頭に立って、日米地位協定の植民地的支配内容に声を大きく上げている。保守県政の稲嶺知事でさえ、小泉首相にものを言わざるを得ない状況である。「ウチリ火」(火種)は、燃えているのだ。普天間基地の辺野古への移設を許せば事故の頻発を許し、ジュゴンのいる海を汚染し、次の戦争への準備が着々と進められる。次は、北朝鮮か、また、中東の石油地帯か?
8月30日、東京では都教委の暴走を止めようとする、都教委包囲のデモが実施された。都庁及び新宿副都心のデモである。正直言ってたいしたデモにはならないだろうと高を括っていたが、どうしてどうして都庁第二庁舎を人垣が囲み、デモンストレーションの隊列は横5列で数百メートルも続いていた。1000人は遥かに越えていただろう。久しぶりの参加であったが、メーデーなどとはまったく違う沿道の人たちのリアクションにおどろいた。デモ隊の旗やプラカードをじっくりと見入る人、対向車の中から手を振る人、同じく車の中から携帯電話で写真を撮る人。ビラに手を差し延べて受け取る人、デモの中に加わって一緒に歩く人にはびっくり。伊勢丹の前では、年配の女性が涙を流しながら拍手をし、その口の動きから「ガンバッテ」と励ます人。久しぶりにデモに参加している自分が誇らしかった。
帰りに紀伊国屋で本を眺めていると、9.11に絡む本から、戦争を美化する本、戦争反対を訴える本のコーナーがかなりのスペースをとっていた。
何よりも印象的だったのは、都庁の周りにいた警備員とのやり取りである。ゼッケンや労働団体などの旗を都庁の敷地内で身につけたり、掲げたりする事は規則で禁止されているのだそうだ。だから、「はずして欲しい」と。
「あなたたちも労働者なら私たちも労働者なのです。」と警備員。
「規則に従ってはずしてください。」と警備員。
「はずしたいのはやまやまだけど、都教委が暴走して処分を乱発しているから、憲法に保障された抗議の意思表示である。」と参加者。
「私たちがはずさせないと、私が首を切られるんです。上から見られているんです。」と警備員。
「いっしょに並んで抗議しましょう。」「私たちの仲間は首を切られるかもしれないけど、おかしい事には、おかしいと意思表示をしているだけなのです。」
そういうと、私たちの場所からいつの間にかいなくなってしまった・・・・・・。
かつて、日の出町のゴミ処分場のトラストの森が土地収用法により強制撤去される時、アルバイトで都側の警備をしていた青年が、地権者たちの抗議や涙の訴えに共感し、ヘルメットを脱ぎ捨てて、私たちの輪の中にいっしょに加わった感動がふと頭をよぎった。
戦争はすぐそこまで来ている。カウントダウンは始まっているのだ。沖縄の基地建設と事故。教育の危機。根っこは同じ。
「イチャリバチョーデー」沖縄の言葉で好きな言葉の一つ。一度出会えばみんな兄弟のように友達になれる。ウチリ火が連帯を産む、だれとでも手をつなぐ事によりカウントダウンは止められる。あきらめた時が平和への道が閉ざされる時。私たちにあきらめはない。
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2003.9
「9.11事件」を「同時多発テロ」と言わせることの落とし穴 七不思議を暴く
【2001.9/11の事実経過】
07:58 ユナイティド航空175便(UA175) 、ボストン・ローガン国際空港を出発
07:59 アメリカン航空11便(AA11)、ボストン・ローガン国際空港を出発
08:01 ユナイティド航空93便(UA93)、ニューアーク国際空港を出発
08:10 アメリカン航空77便(AA77)、ワシントン・ダレス国際空港を出発
08:45 アメリカン航空11便(AA11)、ニューヨーク世界貿易センタービル北棟に衝突(フランスの映像作家
ノーデ兄弟が、ニューヨークで消防士のドキュメントフィルムを撮影・市内のガス漏れの通報で現場
へ向かう途中に偶然衝突の撮影をした。)
09:03 ユナイティド航空175便(UA175) 、ニューヨーク世界貿易センタービル南棟に衝突
09:40 アメリカン航空77便(AA77)、国防総省に激突
10:00 ニューヨーク世界貿易センタービル南棟崩落
10:06〜10:10ユナイティド航空93便(UA93)、ピッツバーク南東に墜落
10:29 ニューヨーク世界貿易センタービル北棟倒壊(12秒間)
17:21 世界貿易センタービル7号ビル(47階)が倒壊
9/12夜 世界貿易センター地区ホテル(21階)が倒壊
世界貿易センター地区オフィスビル(9階)が倒壊
【ブッシュの初動は早すぎた】
9/11、大統領ジョージ・ブッシュは、フロリダ州のホテルから朝九時前に出できた。待っていた報道陣から「ニューヨークで起きた事件をご存知ですか」と聞かれ、「知っている。そのことについては後でコメントする」という趣旨の返事をした。その日の大統領の最初の日程は、ホテル近くの小学校で授業参観をして教育問題について話すことになっていた。(ABCテレビによる)
ブッシュが小学校に着き、テレビ局のカメラも入っている教室内で小学校二年生の授業を参観している間に、補佐官が大統領に耳打ちした。時刻は9:05で、二機目のハイジャック機が衝突した二分後だった。9:30から大統領が予定通りスピーチを始めたが、その冒頭で「世界貿易センタービルがテロリストによると見られる攻撃を受けた。」と言い、その発言だけでブッシュはスピーチを終え、学校を出て大統領専用機(エアーフォース・ワン)に向かった。(AP通信による)
【犯人と証拠の曖昧さ】
事件発生三日後に19人の実行犯の名簿が発表されたが、その直後に何人かは人違いであることが判明した。その上、事件から三ヵ月後の12/11、実行犯の仲間だったとされるモロッコ系フランス人が起訴されたとき、起訴状に記載された19人の実行犯のリストは三ヶ月前と同じものだった。このテロリストたちが空港に乗り捨てた車の中から飛行機操縦のマニュアル本が出てきたという発表はいかにも怪しい。
日本政府もテロの証拠はアメリカから説明を受けていると小泉首相は述べている。しかし、公表されていない主なデータの中に、
(1) レーダーによる事故機の航跡
(2) ブラックボックス
(3) 乗客者名簿 など通常公表されるものがいまだに公表されていないのである。
【乗っ取りには緊急発進するはずの戦闘機】
ワシントンD.Cを守備するのはワシントンから15キロしか離れていないアンドリュー空軍基地で、先の大統領専用機の母港になっている。空軍と海兵隊が戦闘機軍を配備しているにも関わらず、当日の国防総省に旅客機が突っ込む9:40までこの基地からスクランブルをかけた戦闘機は一機も飛び立っていない。
【なぜ、ビルの従事者が休暇を取っていたのか】
世界貿易センタービルには通常勤務しているはずの4000人のユダヤ人が不在だった。9/11事件の「行方不明」数は、翌日の9/12付けのイスラエルの英字紙「エルサレム・ポスト」による数字、イスラエル外務省発表の4000人から、その翌日9/13付けの同紙では、3000人へと減り、18日付けの大手英字紙「ハアレツ」では140人となっている。これらの数字が9/22付けのニューヨークタイムズでは行方不明ではなくて、死者としての確認と変化はしたものの、イスラエルの総領事アロン・ピカンスの言葉として、「たった3人」しかも、その内の2人は飛行機の乗客、1人は仕事で訪問したという「劇的な減少」となったのである。つまり、世界貿易センタービルに職場を持っていたイスラエル人「死者」は1人も確認されていないのである。
【うますぎる話】
世界貿易センタービルの所有者は、ニューヨーク州・ニュージャージー州港湾局だった。その後、世界貿易センタービル群全体の所有権が、港湾局から、すでに7号ビルのオーナーだったラリー・シルバースタインに移った。事件の7週間まえのことである。32億ドルで99年間の契約だった。事件によるビル本体、オフィスの賃貸料はすべて保険で補償されることになっていた。
【飛行機の激突でなく、仕掛けられた爆発による倒壊?】
世界貿易センタービル群は北棟・南棟・7号棟を含めて七つのビルから成っている。南棟・北棟が倒れ、その後7号棟ビルがその日の夕方午後5時21分に崩壊した。引き続き12日夜には21建てのホテル、9階建てのオフィスビルが倒れ、その後54階建てのビルも倒壊した。飛行機がぶつかったのは、南棟と北棟誰なのに、なぜか他のビルも倒壊し、その他半壊したビルも多い。
東大の菅原教授は「地下で何らかの爆発があったのでは」という。「ものの見事に壊れており、衝突だけで起きたとするのは不自然。地下で爆弾テロが起きたと仮定したら説明がつく」「WTC崩壊後、周辺の六つのビルが崩壊したことも敷地全体の地下構造が崩れ、ビルごと引きずり込まれたと見られる。爆破で地下の壁が壊れたと仮定すれば納得がいく」と指摘する。『毎日新聞』(2001年11月1日夕刊10面)
【瓦礫の中に事件の証拠があるはずなのに】
倒壊したビルの瓦礫に三ヶ月もの間、水をかけその証拠となるはずの160万トンもの瓦礫は一切調べず、マンハッタン沖のスタッテン島に運び出した。瓦礫の中にあるはずの遺体、遺品による身元確認をせず、残骸を調べてビルの崩壊原因を探ることもせず運び出し穴に埋めてしまい、そこをフェンスで覆い人を入れなくしてしまった。不思議なのは、この残骸を片づけしている業者がブッシュ関連のコントロール・デモリションという会社である。この業者は、大きなビルの解体専門業者で1995年に爆破されたオクラホマ連邦ビルの解体も請け負っている。
【なぜブッシュはやオニールを警備主任にする必要があったのか】
世界貿易センタービルの警備主任だったのが、元FBI副長官で1993年の同ビル「破壊」以来のビンラディン「捜査」の指揮官でブッシュとも関係が深いジョン・オニールと言う人物である。オニールは、事件で「死亡」と公式発表されていたが、事務所があった階は下のほうだったので、脱出も可能だった。遺体は確認されていない。独立系の疑惑追及報道では「行方不明」になっている。「ラディン捜査主任・双子ビル警備主任・FBI副長官オニール」の生死と行方には、9.11事件最大の謎が潜んでいる。1993年以来のビンラディン捜査の中心、FBI副長官オニールは、9.11前に貿易センタービル警備主任となり、9.11の最中、姿を消した。9.11事件関連疑惑情報の中でも、最も戦慄的な情報である。あの世界貿易センタービルの劇的な崩壊が、飛行機の突入のみによるものではなく、アメリカの『闇の力』による自作自演の謀略で、事前に爆薬を仕掛けた古いビル破壊の技術によるものだと仮定すると、事前に警備主任だったオニールの生死と行方は、この事件の謎をとく最大かつ決定的な鍵となる。

【飛行機は、リモートコントロールの可能性】
公式発表は、アラブ人が飛行機を乗っ取り、そのまま世界貿易センタービルに突っ込んだ。いわゆる自爆テロを行ったというものである。しかし、ジャンボ機を乗っ取るためには、操縦が全自動となっているので、それまで入っていたデータを解除し、新しいデータを入力しなおさなければならない。ところがアメリカの飛行学校で教えるのはセスナ機など小型機である。当のアラブ人はジャンボ機の操縦技術をどこで学んだのだろうか。まさか、前述の飛行機のマニュアル本を駐車場で読んだくらいでわかるはずが無い。まして日航のベテランパイロットが、「急降下しながら60m幅の標的に真中で命中させる技は普通ではない」と言っていて並大抵の技量では出来ないことがうかがえる。南棟・北棟とも幅は63mである。
浜田和幸『アフガン暗黒回廊』(講談社)の記載から、アメリカ陸軍先端技術研究所(SAMS)研究員が、ハイジャックされた飛行機を地上から誘導させるグローバル・ホーク技術を使えば、誰も乗っていなくても、民間機をハイジャックしたように見せかけるような遠隔操縦が出来る。というのである。さらに、浜田氏によれば、ペンタゴンの関係者が「遠隔操縦の特殊コードが盗まれた可能性がある」と驚愕した、と指摘する。ハッカーの技術と携帯電話の技術を組み合わせる可能だというのだ。飛行機をリモートコントロールによって世界貿易センタービルにぶつけた、という可能性は否定できない。
【なぜ、ことごとく証拠が隠滅するのか】
ハイジャックされた飛行機と話している航空管制塔のテープが行方不明となっている。というのもおかしな話である。
「9.11にハイジャックされた飛行機から乗客が携帯電話をかけたというが、請求書に通話の記載がない。」(9.11テロリスト攻撃に関わる不審点の調査を米上院に求める請願)という事実が判明している。
【昨日の敵は今日の友】
最後に、オサマ・ビンラディンという人物が、2001年7月、中東のドバイのアメリカン病院に腎臓の病気を治療するため入院し、入院中にアメリカのCIA要員やサウジ高官などか面会に訪れていたということである。
このニュースは、フランスの新聞「フィガロ」がフランス政府の情報機関からの情報として報じた。ビンラディンの腎臓病はアフガニスタンの隠れ家に携帯用の透析機を持ち込み、主治医をつけているほどの病状で、ビンラディンは主治医と看護士、四人の護衛を連れ、パキスタンのクエッタからドバイ入りし、7月4日から14日まで入院したという。
【20周年を迎えた「観光でない沖縄見聞旅行」は執念だったのかもしれない】
2年前の9.11に私は、「観光でない沖縄見聞旅行」18回目の報告集の編集作業をしていた。午後10時過ぎのニュースステーションに飛び込んできた映像は忘れようが無い。その時の映像には音声があったのだが、その後の報道では肝心の音声が消されていることに気づいた。直感的に映像の事実の裏を連想した。この二年間にそれは現実のものとなり、世界の世論は反テロの大合唱になった。だが、大国の暴力が大手を振って石油資源に突き進む矛盾を世界は見逃していなかった。この原稿は、『仕組まれた9.11』・アメリカは戦争を欲していた(著者: 田中宇・PHP研究所)、『9.11事件の真相と背景』(三浦英明編著・木村愛二共著) 浜田和幸『アフガン暗黒回廊』(講談社)などからの抜粋とその他の情報をインターネットなどで簡略的にまとめたものである。
第20回「観光でない沖縄見聞旅行」がこの夏も様々な方々の協力と努力のおかげで無事成功することが出来た。人の心の優しさを踏みにじるものが戦争である。先人のこころのふるさとをオキナワに見る私は、そこに住む人に魅了され続けて20年が経った。延べ400名を越える現地を訪れた仲間はそれぞれ、学校や職場、地域でオキナワというフィルターを通して物事を見つめていてくれるだろうと信じている。私のような偏屈な考えや、流れに絶えず天邪鬼な態度を持ち続けていると、ある日ある時の現実が平気で胡散臭く見えてくるものだ。
ここで多くを語れないが、そんなに日常の中に、何が真実で何が真実でないかを見つめようとする心構えみたいなものを、オキナワとそこに住む人々に教わったような気がする。
明日も、目の前に迫り来る日常になんとか流されないように蟻のあゆみのごとく心がけたい。
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2003.9
「観光でない沖縄見聞旅行」が20年も続いてしまった訳
教職生活25年目の今年、「観光でない沖縄見聞旅行」は第20回を迎えた。初期の頃(1984年から)は、西多摩教職員組合青年部主催として実施し、予算措置はまったく無く一時金の際のカンパにより事務局費を捻出していた。参加者も圧倒的に20代の青年教職員が多く、青年部意外の参加者も募ることでこのツアーは継続するようになった。
この頃、1970年後半から1980年代前半の東京は主任制度に反対する取り組みが闘争課題の大きな時期で、任命主任に「ならない・機能させない・認めない」といういわゆる三無い運動が職場に繰り広げられていた。職場は活気にあふれ自主的・自発的な教育実践が行われ、職員会議での議論も教育論が主流となり児童・生徒の生きかたをどうするか、日本の未来をどうするかというような夢を膨らませる教職員たちで満ち溢れていた。職場の活性化はみんなで仕事を分担することにより、お互いが助け合い、認め合い相互批判する中で切磋琢磨していった。この主任制度の導入によって職場の意見が「民主的に選ぶ」路線と「一切認めない」という路線の分岐点により闘争体勢が崩れてきたという実感は否めないのだが……。
私は、沖縄にも主任制度に反対し闘う人がいることを知る。
主任に任命された人物が主任手当ての支給を拒否したところ、「主任手当てがいらないのなら本給も支給しない」という措置をとった沖縄県教育委員会に対し、「本給と主任手当てを分離支給する」ように人事委員会に提訴した人物に出会うことになる。1984年の5月のことである。沖縄県の中学校・社会科教師『崎原盛秀』氏である。新任間も無い私にとって氏がそこまでする理由が知りたかった。強行な教育委員会に対してもそうだが、崎原氏が分離支給という方法を考えたのは何故か、主任手当ての意図に隠された裏をどう読んでいたのか知りたかった。好奇心が渦巻いたのである。
おおよその背景や意図については東京でも先輩からの知識や組合からの情報では理解していたつもりではある。しかし、全国的に問題となった主任制度の導入とは何なのだろう。25年後になった今、はっきりわかった。自己申告と業績評価。五段階賃金の導入。教育の自由化という名の競争原理。校長の権限強化と特色ある学校づくり。時を逸にして、教育基本法の改悪、憲法改正、自衛隊の海外派兵。日の丸・君が代の法制化と処分による物言わぬ教師づくり・・・・・・。
崎原氏は初対面の私に、沖縄戦と沖縄戦に至る皇民化教育の歴史を熱く語って下さった。その時も、沖縄は現在と変わらぬ基地被害と戦争の前線基地であった。朝鮮 戦争・ベトナム戦争。湾岸戦争。そして、現在のイラク戦争。沖縄だけに押し付けられた負担と差別。
地上戦としての沖縄の爪あとを垣間見たのは当時、戦後38年を経過していた「チビチリガマ」の洞窟に収集されずにいた遺骨と対面したことである。実は、対面ではなく人骨をポキポキと踏み潰す自分がそこにいたのである。あとにも先にも「戦慄が走る体験」とはこのことを置いて他には無い。
支配者(権力者)による教育の行き着く先が戦争への道であることは、この時私の確信となった。あれから、20年。あの時の確信は「観光でない沖縄見聞旅行」を継続させる火種として消えることは無い。加速度的に振り子を右旋回させているアメリカと日本に警笛を鳴らし続けたいという想いが現在もなお、私を「オキナワ」に駆り立てるのである。
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2003.6
『観光でない沖縄見聞旅行』の20年
1984年5月のゴールデンウィーク、武蔵野市の友人に誘われて初めて沖縄を訪れた。5月でありながら陽射しは強く紫外線の量も半端ではなかった。何の下調べもなく、さして知識もないままでの沖縄のイメージは、青い空と蒼い海、眩いばかりのトロピカルアイランドでしかなかった。旅の始まりは、38年前に太平洋戦争の激戦地であったことなど微塵も理解していない目的の薄いものであった。しかし、沖縄は安易に考える観光地でないことを目の当たりにすることとなる。那覇空港に到着するやいなや、自衛隊の航空機が日の丸をマークに民間空港を我が物顔で占有しているのであった。飛行機を降りてバスに乗り込むと那覇軍港には迷彩色の装甲車がところ狭しと並べられていた。
南部戦跡には、摩文仁の丘に各都道府県の「慰霊の塔」が争うように立ち並び、それとは対照的に(旧)県立平和祈念資料館がひっそりとたたずんでいた。この時は、「平和の礎」も「ひめゆり祈念資料館」もなく赤土の真下にはまだ幾千もの遺骨が眠っていることなど想像すらできなかった。
次の日、国道58号線を北上、中部に移動し嘉手納基地の大きさと戦闘機の爆音に驚愕する。このときはF15イーグルの急上昇する角度と速さに圧倒された。
そして、もっとも衝撃的な出来事は、世にあきらかにされ始めようとした直後のチビチリガマとシムクガマの存在を知ったことである。
生と死をわけた−洞窟チビチリガマとシムクガマ−
読谷村波平の南西側にチビチリガマ(尻切れ洞)と呼ばれる洞窟がある。米軍上陸地点の海岸からはおよそ1キロ、谷底に隠れた小さな袋状の避難壕であった。沖縄戦が始まった1945年3月23日以来、ガマ(洞窟)には波平地区の住民が避難していた。4月1日、米軍は読谷・北谷の海岸に激しい砲撃を加えた後上陸作戦を開始、1日のうちに約6万の兵力を無血で上陸させ、第1の目標であった読谷、嘉手納の飛行場をやすやすと占領した。兵力の不足から持久戦に転換した守備軍は、飛行場を放棄して宜野湾から南の線に撤退していた。上陸地には数千の地元住民が放置されていた。チビチリガマは上陸早々に戦車や武装兵で包囲されていた。141人の避難民の中には、竹槍で“武装”した男達がいた。サイパンで集団自決を目撃してきた男達もいた。4月2日、男達は、米軍の投降勧告を拒否して、竹槍をかまえて米軍に突撃していった。たちまち手榴弾と機関銃の攻撃をあびて二人が重症、穴の中はパニック状態に陥った。自決しようという者、動揺と混乱が続いたが、遂に3日目「集団自決」がはじまった。互いに包丁や鎌で首をしめて死ぬ者、元従軍看護婦の注射で絶命する者、さらに、洞口で布団を燃やして、その煙を吸って苦しみながら命を絶っていく者……2時間足らずで84人が絶命、それでも死にきれない人々は米軍に救出された。
一方、これとは対照的にチビチリガマから東に1キロほど離れたところ、ちょうど波平部落の正面に“象の檻”と呼ばれるレーダー基地がそびえている。その近くの地下にシムクガマがある。全長3キロにおよぶ巨大な鍾乳洞には、同じ部落の住民が約1,000人も避難していた。が、この洞窟は上陸一日目に全員が生還している。たまたま、このガマにはハワイ帰りの二人の男がいた。二人は英語が話せるし、アメリカの事情にも精通している。いよいよガマが米軍に包囲されたとき、彼らは壕から出て行って米軍指揮官と交渉した。「中には民間人しかいない、攻撃をしないで欲しい。」と。米軍は了解して、都屋海岸の収容所に向かうように指示した。「自決」の準備をしていた避難民たちは、ガマから出てきて、長い行列を作って収容所に向かった。〈高文研・観光コースでない沖縄(第三版)より〉
チビチリガマの現場には、このとき犠牲者が残した眼鏡、入れ歯、学生服の金ボタン、櫛、鍋、鎌、瓶、毛髪など38年の月日を全く感じさせない異空間があった。そして、焼け焦げた遺骨が散乱しそれを私の足がバキバキと踏み潰していたのである。背中に走った戦慄は例えようのないものであった。
渡嘉敷島に渡った。枝珊瑚の白い浜辺は珊瑚が波に洗われて微かに音を立てている。なんとも例えようのない涼しい音なのだが、そこで脳裏に重なったものは、チビチリガマの遺骨である。累々とした屍の真上を飄々と素足で踏んでいる自分がいる。枝珊瑚と遺骨。この奇妙な感覚こそが、観光でない沖縄見聞旅行の始まりといっても過言ではない。
20年の歩みの中に、戦後から戦前への復活が沖縄を通して透けて見えるような気がする。
海邦国体での「日の丸」の強制。湾岸戦争。劣化ウラン弾による演習。米軍用地特別措置法の改悪、米軍兵士による少女暴行事件。普天間基地返還を隠れ蓑にした新たな海上基地の建設。本土の倍以上の失業率。革新自治体の敗北。自立できない経済と基地依存体質。そして、9/11事件。常に、沖縄は政治的・経済的・軍事的はざまの中で揺れ動き、翻弄されている。沖縄戦とはいったいなんだったのか、その答えも教訓も見出せないまま次の戦争の準備に躍起になるアメリカと日本政府。
『観光でない沖縄見聞旅行』は、その答えと教訓をつぶさに垣間見る短い旅であると断言する。教育の現場を管理し、規制し自由を奪うことからしか戦争は起こせないのである。ものをいう存在を否定して排除する。逆らえば処分。昨今の教育現場の動きと沖縄での反動化の動きは同調している。
しかし、沖縄には厳しい現場で闘う仲間がたくさんいる。沖縄で知り合った人々に励まされ私たちの闘いも時には勝利し、権力に一撃を加えることができた。現在まで、400名以上の仲間が『観光でない沖縄見聞旅行』に参加している。人を信じることと闘いに学ぶこと、そして、闘いの教訓に連帯することなどが大事であることを体感してきた。アイム'89ができる以前から続いているこのツアーも事務局体制を継続して維持してくれる仲間のおかげである。また、現地の協力もなければ成り立たないことは言うまでもない。何よりこのツアーを温かい目で見守っていただいている皆さんのお陰であることに感謝したい。
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2002.9
『観光でない沖縄見聞旅行』の節目
あの日から何が変わったのか。昨年9・11の事件からである。
昨年の7月下旬、4泊5日、私たちのツアーは、30数名の参加で第18回を無事終えた。
文字通り、観光コースをちょっとはずした、基地や戦跡巡りと、沖縄の平和運動家の人々との直接出会える旅である。
南部戦跡より、糸満市のひめゆりの塔、ひめゆり祈念資料館、魂魄の塔、荒崎海岸、摩文仁の丘、平和の礎、県立平和祈念資料館、糸数の壕など。
中部地区は、嘉数高台、普天間基地、佐喜真美術館、読谷村のチビチリガマ、シムクガマ、トリイステーション、象の檻、座喜味城址、嘉手納基地など。
北部地区は、話題の名護市辺野古地区、県道104号線喜瀬武原の実弾演習場など。
そして、離島・伊江島。渡嘉敷島、座間味島、久米島、石垣島、竹富島。
その年の経済や政治状況、米軍の動きや日本政府の方針によりツアーのコースも若干異なりはする。しかし、基本は平和を考える戦跡と基地の見聞は欠かせない。
ひめゆり学徒の生存者・宮城喜久子さん、沖縄軍用地違憲訴訟支援共闘会議(反戦地主会)議長・有銘政夫さん、一坪反戦地主会代表世話人・崎原盛秀さん、読谷村会議員・知花昌一さん、くすぬち平和文化館・真栄城玄徳さん、ヘリポート建設阻止協議会代表・金城祐治さん、ヌチドゥタカラの家・(故)阿波根昌鴻さん、平和と文化について熱く語る(前)・沖縄県出納長の山内徳信さんなど、このツアーに欠かせない現地でお世話になる語り部の方である。
◆同時多発テロと言われるあの事件の直後から、沖縄の観光産業は一変した。
「沖縄もやられる。」
数ヶ月で約25万人が沖縄旅行をキャンセル、観光収入は200億円以上の減収だという。
「危ない沖縄の修学旅行には行かせられない。」
という教師や親の心配や恐怖心の中に、沖縄の人々の姿は想像できないのかも知れない。彼らは、現在もそこに住んでいるのに……。
私の勤務地のある東京都福生市でも、今年5月に横田基地内で、夜空に閃光と爆発音が鳴り響き、基地の中からサイレンが怒鳴り声をあげた。基地側の説明では、基地がロケット攻撃されたことを想定しての、地上爆発模擬装置やジャイアントボイスという拡声器を使った訓練だったという。
横須賀基地では6月から空母キティホークの修理も始まった。艦載機のFA18ホーネットが横田上空に飛来している。アフガニスタン攻撃に参加した特殊部隊の補給と休養がまさに日本で行われているのだ。
今年、第19回の『観光でない沖縄見聞旅行』がやはり7月下旬に終わった。
1984年に始まったこのツアーも延べ400人の参加者を越えた。教職員を対象にした企画から一般公募するようになって参加者は様々な職業、年齢、経歴の持ち主に広がった。日常の生活において戦争や平和を実感するような時間の経過は持ちにくい、だから改めて平和を実感する旅を……という具合に。
しかし、明確に昨年と今年は違うと実感した人が多いはずだ。「悪の枢軸国だ」「不審船だ」「自爆テロだ」と、日本が戦争そのものに踏み込んでいる情報がプロパガンダされて毎日のように刷り込まれている。
◆お爺が遂に……。【阿波根昌鴻さんの人となりは、著書『米軍と農民』、『命こそ宝』(岩波新書】に記されている。
このツアーで毎年のようにお世話になっていた伊江島の阿波根昌鴻さん(わびあいの里理事長)が今年、3月21日に那覇の病院で亡くなった。朝刊で知ったとき遂にこの日がきてしまったか、というやるせない気持ちでいっぱいになった。この数年入退院を繰り返し、お会いできない年は続いていたが、来るべきものが来たという感じだ。
晩年お会いしたときに、
「戦争屋が喜ぶようなことはしてはいかない。わしが生きていることが、戦争屋を喜ばせないことなのであります。」
という内容のことをおっしゃったことを思い出す。この時、ヌチドゥタカラの家の畳敷きの部屋で床を敷いて私たちを待っていらっしゃった。
「もう、目も見えない、耳もほとんど聞こえない、心臓も弱っている。最近、病院から戻って来たばかりなのです。」
という謝花悦子さんの説明であった。
心苦しいというか、遠慮しようかと思いつつ、資料館だけはのぞかせていただこうと思っていただけなのに、謝花悦子さんが、
「お爺さん、皆さんが見えましたよ。」
という耳元でかなり大きな声で話すと、「そうか、それははるばる東京からきていただいたのでは、ありがたい……。」といって、ムクムクと寝床から起き上がり、
「ごくろうさんです。遠くから沖縄・伊江島まできていただいて感謝するものであります。」
とまさに老骨に鞭打ってのお話がはじまったのです。
キューバやペールへの移民、沖縄戦、息子さんの戦死、戦後の米軍による土地の接収、「銃剣とブルドーザー」での家の破壊と追い出し、沖縄全島に訴える乞食行進、島ぐるみ闘争、軍用地契約の拒否、ヌチドゥタカラの家の建設などおよそ一世紀に及ぶお爺の生き様は初めて訪れたツアーメンバーの度肝をぬいた。とくに小学生に語った次の言葉は、印象的で教訓めいていて忘れられない。
「5本の指はすべて力が違う、形も違う、立場も違う、だがその一つ一つの役割は大きい、5本の指全部が協力し、理解し、団結すれば何事も簡単にできる。だが、出来た時に威張る指はない。」
いつもやんちゃな少年たちがこのときばかりは真剣に、今は眼も見えなくなってしまった老人の話に固唾を飲んで聞き入っていた。
私自身が、このじいさんの真似はできないなぁ、と思った一節がいくつかある。
「世の中に、善人がどんなに増えても、資本家が権力を握っている間は、戦争はなくならない。それは人類の5千年の歴史が証明しているのであります。」
「そこで私たちは、戦争に反対して平和運動に立ち上がらなければいかないと思いました。ただし口先だけでいくら叫んだところで強い権力の座にある戦争屋に勝つことはむつかしい。戦争反対は生活の中から始めなければならない。彼らは私たちの分裂、ケンカを喜ぶでしょう。『消費は美徳』に踊らされて貧乏するのも喜ぶでしょう。不規則な生活をして病弱になるのも喜ぶでしょう。 時間を無駄にして勉強しないで無知になるのも喜ぶでしょう。私たちは、戦争屋(悪魔)を喜ばさない生活をする事も大事な平和運動であると考えてその実行に努めております。」
世界中の人々がこの仙人のような境地に入れば明日からすぐにでも戦争はなくなりそうである。
「わしらは心が正しくても国の政治に無知では、人類が住みやすい、平和で幸福な社会をつくることはむつかしい。また、広い知識があっても、心が正しくないと、真の平和の実現はないと考えたのであります。」
確かに、日常に忙殺されていると政治や経済の動き、社会システムに目を向けようとは考えない。阿波根昌鴻さんの真理を裏付ける体験は稀有のものと考えるが、氏の寛容さと社会科学的な洞察力、そして愚直なまでの生き様は哲学者の領域を超えていると思う。
だが、氏を全く遠くの存在とするのではなく、よくよく考えてみると、まさに戦争屋が戦争を仕掛けるための準備を着々と整え、明日にもイラク攻撃に飛び立つ寸前であることを考えれば、私たち一人一人の認識と行動の甘さが戦争屋を煽り立てているということがわかる。
前述の「5本の指」の大事さが身にしみてきているこの1年であった。
さて、ツアー『20年』を前に、私自身の足元をもう一度見直そうと思う。
大地に種をまく地道な作業のくりかえしだ。
沖縄の言葉で「うちり火」という言葉がある「うちり火」とは「火種」のことだ。火種さえ絶やすことがなければ、やがて燃えるものがそこに存在するとき、風が吹きさえすればまた火種は炎となる。考えてみれば世の中は1年で悪くもなれば良くもなる。
1995年、沖縄の米兵による少女暴行事件に端を発した抗議の県民総決起大会は、8万6000人の人々が集結している。島ぐるみの怒りは爆発したのだ。あの時……。
世界的な世論も日本国内の世論もアメリカ国内の世論に比べれば、当然戦争への道には否定的である。思うことと行動することの違いは天地の違いがあるが、平和を希求する火種はどこにでも散在しているのだ。
阿波根昌鴻さんのような生き様は誰にでもできるものではないと考えるが、「5本の指」の教訓を心にとどめて、やはり一歩をあせらずに、仲間と共に歩んでいきたいものである。
あの時からちょうど1年の9・11に……。
PS.当然のことながら、書けずにいた言葉をここで、崎浜茂さん、伊佐真徳さん、儀間盛徳さん、栄野川活さん、山城盛剛さんたちに贈ります。感謝!
(アイム'89・東京教育労働者組合・『観光でない沖縄見聞旅行』実行委員会事務局)
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