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清水鱗造詩集『ボブ・ディランの干物』について



               あなたは
               自分で標識をみつけてくる
               たぶん
               苦い標識で
               道なりに気弱に歩いて
               辿るのだけれども

                   (「髪の砒素」より)


1 重層的な佇まい

 清水鱗造さんの詩集『ボブ・ディランの干物』を読むときに感じる不思議な緊張感のある楽しさの秘密はなんだろう。作者は、心と世界のつながりから生じるねじれ、というものを、ことば同士の意味のねじれに、置き換える。心と世界のつながりのねじれを、書き言葉で表白しなくてはいられない、というのが、詩を書くことの根底にあるこだわりの端緒だとすれば、清水さんは、そのときの切迫感を意識的に言葉同士の意味のねじれがつくりあげる緊張感に置き換えるということで昇華する、という詩の方法をつくりあげたのだと思う。

 この方法はとても理知的なものだから、言葉のねじれの背後に、いつも切迫した心の起伏があるのか、それともただ言葉同士のねじれが現象的に切迫を演出しているだけなのか、よくわからない時もある。けれどそのわからなさが大きな魅力にもなっている。読者がそこにシュールな言葉の組み替え遊びを読みとっても、関係意識と自己意識の間のねじれや、存在することの違和感の表明を読みとっても、たぶん清水さんは黙って微笑んでいるだろう。というより、清水さんはマグリットの「これはパイプではない」と書かれたパイプの絵のように、そういう解釈もまた自己言及的な作品を書くことですりぬけてゆく。そうすることで、たぶん分類化したりレッテルを貼って片づけてしまいたい欲求にかられているような現在の詩の理解にとって大切なことが実現されているのだ。

 作者にとって、この『ボブ・ディランの干物』は第4詩集にあたる。わたしの感じでは、テーマ的にいえば処女詩集『点点とおちてゆく掌の絵』のひめていた自由な資質の可能性の世界に、第二詩集以降の言葉の意識的な「凝集」実験の世界の成果をとけあわせて、おおきくぐるりと螺旋的に旋回して立ち戻ってきたという感じがする。それは清水さんの越えてきた歳月ということを考えれば、ひとりの持続的な詩の書き手としての成熟ということなのかもしれないのだが、その旋回はテーマの解体や喪失ということがテーマのような時代の表現の現在に照準がぴたりとあっている。

 この詩集を編むに当たって、作者がどこまで、そういうことに意識的だったのかわからない。でもこれは私の推測だが、インターネットに1996年から2001年までの間に毎週発表した作品を、横書きの表記を縦にしたということを除けば、ほとんど手を加えないまま発表順序どうりに収録した、という驚くべき無・編集によってこの詩集ができていることを思えば、そこに確信犯的なある意図があったようにも思える。その意図というのは、ある時期(詩が書かれた時期)の自分の生活と詩的表現との関わりを、日記をまとめるように一つの全体として示してみるということだ。変な言い方をするが、言葉の表記とは逆に、縦に矢のように流れていた時間が、横に延ばされているのだ。

 そのことで、この詩集は、ひとりの詩の書き手の生活と観念の運動を複雑に織り込んだ重層的な佇まいとでもいいたいような趣を実現することになった。この『ボブ・ディランの干物』には、ことば同士の意味のねじれの生む様々な効果を核とするような作品が沢山収録されている。それらは時に謎めいていて意味がわからなかったり、雰囲気だけが漂ってくるようなものもある。けれど一方で、日常に見聞きした出来事や情景の印象をスケッチしたような作品も何編も収録されている。そしてそうした手法の違うどちらの傾向の作品にも、たぶん同じ比重がかけられていて、作者のこだわりのイメージが横断的に散りばめられている。

 極端に手法の違う作品(註1)が混在していながら、作品相互がイメージや語彙の共通性で結び合っているので、読者は平明な詩を読んだときに感じるすっとした印象と、わけのわからない詩を読んだときの異物を飲んだような印象を、立て続けに味わうことになるのだが、そこでは、難解さも平明さもその一方から牽引されて了解が宙づりにされる。そのときにそうしたイメージの振幅そのものを生きている作者の顔があらわれるのだが、その顔、というより作者の形姿は、特異なイメージへの偏愛と、地についた感度のいい生活感性(註2)を併せ持っている重層的な言葉の構成する人影なのだ。


2 街とハンカチ

 この『ボブ・ディランの干物』には、作者のこだわりのイメージとでもいいたい言葉が、いくつか繰り返し登場する。「砂」、「ガラス瓶」、「虫ピン」、「菌」、などがそうだが(「耳からでる煙」というのもある)、そうしたなかで「街」という言葉も、いくつもの作品に登場する。「僕を旅している街」、「金・新市街」、「旧市街」、「あぶな街」、「白い街」、「正方形の街」などタイトルにもつかわれているが、この言葉が、多くの場合、現実に作者が暮らしている街を意味するのでなく、詩を書く時間の中で現れるイメージとしての「街」であることが特徴的だ(註3)。

 たとえば「あぶな街」という作品は、たぶん作者のなかで街の記憶の原型のひとつみたいになっている。電信柱や広告のビラや電信柱にひっかかったぼろ布、川の中で鯉が泳いでいる、というような風景は、それが実際のものかどうかに関わりなく、著者の第二詩集『白蟻電車』収録の作品中にも類似のイメージが見いだせるからだ。だが、ここでは、「正方形の街」という作品をとりあげてみたい。その街は平凡な顔をした人々が平凡な言葉を交わしあい、路地からは焼き魚の臭いが漂ってくるような平穏な都市下町といった感じで描写されている。そこで、事件ともいえない事件のように物干から一枚のハンカチがおちるという出来事が語られる。全編を引用してみよう。


正方形の青空に
雲が動いている
路地では
魚が相変わらず焼かれている
コンクリートの電柱に登って工事した人は
夕食でみそ汁を啜っていたが
もう当分この電柱には来ないだろう

街には
とても平凡な顔がある
とても平凡な言葉が
走り書きされている
ごく単純に彼らは
交わしあっている
焼き魚のにおいに
気まぐれに買った花のにおいを少しだけ交ぜて

僕は正方形の街を知っている
そこでは誰もが夕食の野菜を買う
ペットボトルの水を買う

小さなハンカチが
落ちた
物干しから
落ちた

そのとき昼の喫茶室で
無駄話をしたのが
四角い街に生きた証しだと知る
粉々に正方形の空に沈殿していくのを
見ているのが
証しなのだと
ゆっくりひらひらと
落ちてゆく
青い正方形のハンカチは
知っている


 この詩では、「僕」が物干しから落下するハンカチを見たことが、自分がこの街で平穏な人々と共に生きているという「気付き」に向かわせるきっかけになり、またその日常性自体を対象化するようにもうながされている、ということが書かれているようで、それだけではないと思う。たぶんここには、作者にとっての詩の表現自体のことが書かれているのだ。「四角い街」とは、先の言葉でいえば、すでに詩を書く時間の中にいる作者の目に映る「街」のイメージに他ならない。そうして、その街でおしゃべりしたり、そこで生起しているように思える事象を、「見ること」とは、すなわち、それらのイメージについて「ハンカチの視点から」、「詩」として書き留めることを意味するのだと思う。

 しかもそれは「粉々に正方形の空に沈殿していく」イメージの様態として、と、作者の目(ハンカチの視点)には映っている。ここで「粉々」、とか「沈殿」という言葉が使われているのは偶然ではなく、他の収録作品にも何度か登場する「砂」というキーワード(註4)にも深く関連している。つまり、ここではイメージとしての「街」の組成がざらついた砂の粒子(仮構された世界)であることが強調されている。そして、最後の数行で、この作者の視線が仮託されている「ハンカチ」(註4)が、「青い正方形」であること、要するに街を見下ろしている四角い空そのものであることが明かされている。  作者がこの作品のなかで「無駄話をした」のが「生きた証し」だと書いているのは、たぶん作者がふだん詩を書くという行為にひそめている倫理性を、珍しく強い調子で表明している個所のように思える。「詩を書くこと」は日常の視点からみれば、軽い調子の「無駄話」のように見えたり、砂の流れのように街を仮構したりする、観念的な営為に過ぎないことだと言えるかもしれない。しかし、そのように一見平穏な街の記憶を、さりげなく風景と共振するハンカチの視点や、平穏な人々の情念の底に潜む微細な運動を見逃さない青空の視点から書き継ぐこと、そのこと自体が名付けようのない「生きた証し」であるという断言は、この詩集にこめられた作者の持続的で重層的な表現営為の意味を、いちばん低い場所から鮮明に対象化しているように思えるのだった。




ARCH

清水鱗造詩集『ボブ・ディランの干物』(2001年6月22日発行・開扇堂・定価1200円+税)


註)以下の文中では、作品タイトルに付して、詩集での掲載ページを括弧内に記載しました。

註1)たとえば、過去を回顧した平明で味わいのある作品に「雨の入り江」(65)、「ある駅の陰」(164)、「ちゃぶ台」(182)があり、現在の日常のひとこまの情景をそのまま切り取ったような作品に「つかのまの海」(13)、「ガソリンスタンドで停めて」(30)、「ある無音」(57)、「夜桜はまだ」(72)、「流れ星」(121)、「夜11時に書く日記」(130)、「五月挽歌」(151)などがある。こうした系列の作品だけを選び抜いて編めば、魅力的な叙情詩集がつくれたかもしれない。また「拾得」(21)、「ない蓋を閉める振りをする」(82)「いちごジャムはまぼろし」(83)「蓋がない」(84)、「ネジまわし」(124)、などの系列の作品だけを選べば、これはこれで恐るべき印象の詩集が編めるだろう。

註2)たとえば、赤いスポーツカーより足の取れたががんぼに惹かれる(「いいね」(29))や、バラの花より雑草に惹かれる(「バラ」(64))、というような、さりげない感覚の吐露や、「かたかた」(827)、「野良犬」(63)のようなやや戯画化されたりデフォルメされた自己像にみられる低い視線。

註3)たとえば「僕を旅している街」(33)では、街が自分を旅する、という反転した特異な感覚が、「金・新市街」(92)では、夕焼けの陽射しを浴びて金色に輝いている幻想的な街が、「旧市街」(93)や「あぶな街」(74)では、過去の記憶に由来するような象徴的な街が、「白い街」(155)では、コーヒーの白いクリームのなかに溶け出したような街のイメージが描かれている。

註4)砂のイメージが登場するのは、「砂嵐のようなものから/人の顔を作りはじめると/駅の明かりがそれを砕く」(「車両の世界」(17))、「整理すると/奥まったところに/砂が少しざらついていて/音が耳道にかすかに/通る」(「風のルビ」(41))、「だから/砂は/滑り落ち/何回も旅にでる」(「砂の旅」(112))、「だが/彼らには不可解なのだ/砂が/風紋をないがしろにするとき/じつは風をないがしろにしている」(「風紋」(132))、「砂に満たされた層に/砂の蝉が飛ぶ/夜」(「砂層」(143))、「けだるい砂嵐は/しぼみつつある」「深夜修正すると/砂はさらさらとまた/地球の中心に、向かう」(「脇毛から発生する」(147))、「砂みたいな誕生日」、「耳から砂をこぼして・寝返りをうつ」(「豹」(173))など。中でもきわめつけは「砂層」という作品で、特異な「砂」のイメージが、ちょうど作者が詩を書く時間にはいるきっかけ(覚醒)の合図のようにあらわれることが良くみてとれる。またこれらの「砂」のイメージは、処女詩集『点点とおちてゆく掌の絵』(昧爽社・77年10月刊)に収録されている「砂のドンキホーテ」にまで由来を辿ることができるように思う。

註5)この「ハンカチ」は、「あぶな街」(74)という作品にも、「ぼろ布」というイメージで登場する。「電信柱の上で/ぼろぼろの布に/現れる/あぶな街」(「あぶな街」最終連)。また、求人欄の文面を「釘にうたれるように」凝視していたら、そこに本物の釘が現れ、その釘には「ぼろきれ」がひらひらゆれながらひっかかっていた、という幻想的な作品「ぼろきれ」が、77年刊の処女詩集『点点とおちてゆく掌の絵』に収録されている。ここまで見ていくと、「ハンカチ」あるいは、「ぼろ布」、「ぼろきれ」とは、詩が書かれるべき紙片の形状を喩えた言葉(つまりは自作詩のこと)のように思えてもくるのだが、どうだろうか。





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