[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]




木村恭子詩集『ノースカロライナの帽子』について





 木村恭子さんの詩に「球根」という印象的な短い散文詩(詩集『十二月』所収)がある。


 海に住む馬はひとりぼっちだった。どこか
らやって来て、どこへ去って行くのか誰も知
らなかった。波が押し寄せて来ると、海馬の
白い頭は隠れてしまい、いななきだけが岸辺
に伝わった。波が引いたほんの短い時間に、
海に埋めた球根を彼が悲しい眼をして捜すの
が見えた。


 この詩には「海馬=大脳の古い皮質に含まれる一部分の名称。記憶を保存。」という注がついているから、読者は作品に登場する海に住む馬というイメージが、直接「海馬」という言葉から連想されたものように受け取ることができる。一読して、岸辺間際の海中に白い馬がいて、波間に見え隠れしている、という鮮やかな情景が浮かぶ作品だが、この馬の描写には不思議な味わいがある。

  たぶんここに描かれていることは、海馬という記憶の保存に関与しているといわれる脳の部位で起きていることを、イメージとして詩的に再現してみた描写ではないかと思う。海に住む馬をこちらから見ているのは作者であると同時に、その馬自身の所作も作者の心の働きの比喩になっている。ひとりぼっちの馬がなぜ悲しい眼をして海に埋めた球根(記憶の出来事)を捜すのか、その理由は書かれていない。自分(作者)と馬の間には由来のわからない距離のようなものがあって、自分(作者)は馬がその不思議な所作を繰り返すのを見ていることができるだけなのだ。この馬の所作には、ただ過去の記憶(球根)を思い出そうとしている、というより、どこか無くしてしまった大切ななにかを懸命に捜しているような切迫した感じがある。この切迫した、いつくしむような感じを、記憶を素材にした作品の情景に負荷してしまう心の傾きのようなものが、木村さんの詩作品の多くから感じとれる魅力的な特質のように思う。

 詩集『ノースカロライナの帽子』のあとがきで、作者は「私は高い山に登ったこともありませんし、深い海にもぐった事もありません。できないことや知らないことばかりです。でも自分が経験したことや想ったことを書く事はできると分かった時、元気がでました。」と書いている。「自分が経験したこと」と書かれているそのことは、たとえば過去に出会った人にまつわる思い出や出来事を素材にするという形で、実にいろいろな作品に登場する。多くの場合、日常生活の折々にちょっとした機縁で知り合ったり、見聞きして印象に残った人が登場するというのが特徴だ。

 それは外国語教室に通った時の生徒仲間(「折り畳み椅子」)だったり、よろず相談事を聞いてくれる人(「九月のおばーさん」)だったり、図書館で何度も見かけた老紳士(「十一月のおばーさん」)だったり、インターネットで知り合った人(メール」)だったり、学生時代のN先生(「長月又は学校の新聞」)だったり、町の仕立屋の主人(「釦」)だったり、共同浴場に居合わせた人(「満ち潮」)だったりする。また、遠い子供時代の記憶の少年(「貝殻骨」)がそっと顔を覗かせることもあれば、通りすがりに覗いた理髪店の主人と偶然目があったというようなエピソード(「卒業」)が描かれることもある。つまりその登場人物と作者との距離というのは実にさまざまなのだが、人間(他人)関係にまつわるエピソードが中心に描かれるという作品の構図は共通している。

 どうかすると「高い山」や「深い海」にばかり関心が行きがちな私たちが、ふだん日常の中に見過ごしているような、人が生活の局面でみせるさりげない表情やたたずまいが、的確な観察と平易な言葉でさらりと描写されている。なぜいつもこんなふうに詩が書けるのだろうか、と想像すると、詩の技術云々というよりも、結局は木村さんのふだんの生き方みたいなことから言葉がたちあがってきている、というような言い方のほうが説得力がありそうな気がする。つまり平常の注意力や人と相対する状況を状況として受け止め許容する度合いが、やはり一味ちがうとしか思えないというようなことだ。そのうえで、そうした素材を掘り下げ、物語として仮構するという言葉としての修練をつむことで、ある種の技法的な自在さを作者は手中にされたのではないだろうか。詩集『ノースカロライナの帽子』に収録されている諸編は、海馬の捜しだした「球根」が育って見事な花を咲かせはじめた成果という気がする。


 記憶のなかに登場する人というのは、現実(現在)には不在であることの影、というようなところがある。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」ではないが、季節は繰り返しても過去の人は蘇らない。それは記憶に限ったことではないのに、書かれた人の記憶は現在との対照でその事実をときに痛切に浮かび上がらせる。もし「自分が経験したことや想ったこと」という記憶の領域を掘り下げていくと、楽しかったことや面白かったことばかりでなく、この冷厳な事実に向かい合うことも避けられないだろう。原爆投下前の広島を舞台にした「八月のおばーさん」や、「メール」、「長月又は学校の新聞」、「釦」といった作品には、死や関係の喪失ということもうたいこまれている。だが、そのことに過剰な意味がつけられるのではない。たぶん作者は、「死」や関係の喪失とともにあるからこそ、ありふれた生のひとときがかけがえのない地上の思い出のようにきらめくのだ、という理(ことわり)をふところにしまいこんで詩を書かれているのだと思う。ときに「海に住む馬」のように「悲しい目をしながら」。

 最後に詩集末尾におかれた「更地」という詩を全編引用しておきたい。「更地」になって跡形もなくなった我が家に、いつか立ち寄ってください、と呼びかける、ちょっとユーモラスで機知にとんだ設定がよくきいている詩だが、生の記憶ということ、死や喪失ということ、それらを作者がどんなふうに含みこんで詩を書いておられるかがとてもよく伝わってくる素敵な作品だと思う。


更地


何かのついでに
こちらに還られた時にでも
立ち寄って下さい
玄関の合鍵を埋めておきますから
向かって右側の
犬走りを通って裏に回り
湿った風を確かめてから
脚の欠けた椅子をのけて
地面を掘ってみてください

いつかある日
私がいなくなり
窓がとりこわされ
地が堀り返されて
更地に還る時にも
あなたが困らないように
深く埋めておきます

その時にも
私はずっとここにいますから
どうぞ立ち寄ってください

ひとこと
お礼が言いたいのです




ARCH

詩集『ノースカロライナの帽子』(2001年11月10日発行・詩学社)
詩集『十二月』(97年11月1日発行・渓水社刊)

 




[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]