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 金子みすゞ断想 1




 大正7年、鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』が創刊。大正8年には『金の船』(のちに『金の星』と改名)、翌9年には島木赤彦主宰の『童話』が創刊され、これらの児童文学雑誌を中心にした童謡運動の活動が興隆期を迎える。大正7年に、金子てるは、郡立大津高等女学校の3年生で15歳。ちょうど彼女の10代後半がこの童謡運動の全盛期に重なることになる。仙崎の金子家では、てるが3歳のときから書店を営んでいたから(*1)、10代後半のてるが、こうした雑誌を創刊号から目にしていた可能性は大いにあり得ると思う。推測だが、詩集や童謡集を読んだり、詩の習作ということも、この時期にはじめられていたのではないだろうか(*2)。

 大正12年6月頃、金子てる(以下、みすゞと表記)は、ペンネーム「みすゞ」で童謡を書き、雑誌に投稿をはじめる。なぜ、詩ではなくて童謡だったのか、という疑問(*3)が起こるが、これも推測でいうと、当時複数の雑誌の投稿欄の選者をしていた西條八十への私淑(深い思い入れ)ということがあったのではないだろうか(*4)。もちろん、それまでの読書体験から、当時全盛をむかえていた童謡という表現形式に惹かれたという要素も、多大であったに違いないが、そのことの意味は、たぶん、詩人が自らの詩想を盛り込む器としての童謡という形式に惹かれた、というニュアンスに近かったのではないか。これは、西條八十自身の持論(*5)でもあり、広い意味では童謡運動のもっていた理念でもあったと考えられる(*6)。子供の心象世界のひろがりを詩の言葉として創造すること。その理念のはらんでいた多様な可能性を全的に追求したのが、金子みすゞの詩の世界だった(*7)。

   『西條八十童謡全集』(*8)は、大正十三年5月に刊行されている。この頃には、たぶん創作童謡というジャンルが一般に定着していたと思われるのだが、この童謡全集をそのまま、金子みすゞ全集に読みかさねてみると、多くの共通点がみいだせる。そして同時に、このジャンルとしての共通性のイメージを、「詩としての童謡」のほうに微妙に押し進めている、金子みすゞのいくつもの作品の印象が鮮やかに残る。この印象をうまく言えないのだが、八十や雨情や白秋といったそれぞれ個性的な創始者たちのつくりあげた創作童謡の世界が、全体としてある種の規範性を獲得しはじめたとき、その規範性を前提にして、そこに自己表現としての詩想を自然にもりこむことが可能になった、第二世代、の出現とでもいう感じだろうか。しかしそう言ってみてどこか空しいのは、この第二世代の可能性は、当時金子みすゞそのひとだけの突出した個性としてしか残されなかったのではないか、という思いがぬぐえないからだ。昭和期に入る前後、創作童謡童話の主要雑誌はあいついで休刊や終刊に追い込まれ、かわってより商業的色彩の濃い子供むけ雑誌が全盛をむかえることになる(*9)。



補記) 金子みすゞの童謡詩を意識的に読んでみたのはつい最近のことだ。たいていの書店の詩書の棚にいくと、何冊も作品集や関連書が置かれているし、もう十年以上、持続的なブームと呼んでいいほどの規模で広く読まれているらしいことなどは、ぼんやりと知っていった。ネットで知り合った人たちとの語らいの場で話題になることもあったのを覚えている。また木村恭子さんの詩集『十二月』(渓水社)所収の金子みすゞについて書かれた「仙崎」という詩の印象も、気持ちのどこかにひっかかっていたように思う。

 去年の暮れ頃、近代の文学者の評伝に興味を持って図書館から借りて読むということを繰り返していたときに、矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』(JULA出版局)という本に出会った。そこにはみすゞの短い生涯の克明な記録とともに、彼女の童謡詩が何作も収録されていた。これはどうしても作品をまとめて読んでみたい、という思いにかられて、さっそくネットで『金子みすゞ全集』(JULA出版局)を求めた。

 この時からはじまった「みすゞ熱」は、まだ醒めそうにもない。大正期の童謡運動のひろがりのなかに、その作品を一度かえして振り返ってみたい、という欲求にかられているときに、「リタ」の締め切りが迫ってきた。ほかのことをあまりやっていないので、掲載する文書がない。覚え書きみたいな文章を急遽こしらえて「断想 1」とした。内容はぶっきらぼうで、これまでいろんな方が指摘されていることを、私なりに確かめただけのようなものだが、わが「みすゞ熱」の初期症状が伝わる文章になったと思う。


註)

(*1)この文章の、金子みすゞに関する伝記的な記述に関しては、矢崎節夫『童謡詩人 金子みすゞの生涯』(JULA出版局)や、『金子みすゞ全集』(JULA出版局)の一冊である矢崎節夫『金子みすゞノート』収録の略伝や、年譜の記載を参照しました。

(*2) 全集の『金子みすゞノート』の年譜によると、金子みすゞが、童謡を書き始めたのは二十歳のとき。十代後半の頃から詩作を試みていたのではないか、という推測を否定するように思えるのは、彼女自身が、投稿作品が掲載されてほどなく雑誌『童話』の通信欄によせた「童謡と申すものをつくりはじめましてから一ヶ月、おづおづと出しましたもの。、、、」という言葉なのだが、そこでは意識的に「童謡」ということに限って言われている、という感じがぬぐえない。手帳に残された彼女の童謡作品の完成度を考え併せた上で、本好きの女子学生が十代後半の多感な時期に、家に沢山届く売り物の童謡童話雑誌などを目にしていて、自分でも習作めいた作品を書いてみたくならない、ということのほうが考えにくい、というのがこの推測の根拠といえば根拠なのだが、みすゞが十代の頃から詩を書いていた、という証言や記述は未見。

(*3)「文藝別冊 総特集 金子みすゞ 没後70年」(河出書房新社)所収の座談会「金子みすゞとその時代」(出席 関英雄、上笙一郎、武鹿悦子、浜野卓也氏)の中で、上笙一郎氏がこの疑問をとりあげている。「生きていた当時の金子みすゞは、最後は自分で自分の命を絶ったんだから、大変な問題もかかえていたんだろうし人生どん底のさびしさも感じていたでしょうが、そこで私なんかが感じるのは、そんなどたん場の内面問題をかかえていながら、なぜ自分を表現するものが童謡だったか、という疑問なんですよ。どうしてまっすぐに詩に行かなかったのか。、、、」この問いに対して、みすゞより八歳年少で、当時『童話』に童話を投稿していた少年だったという関英雄氏は、大正期後半の「赤い鳥」創刊以来の童謡ブームの時代の盛り上がり方は、ちょっと今想像できないくらいだった、と語り、白秋、雨情、八十といった、代表的な童謡詩人達のなかでの、八十とのみすゞの近縁性を指摘している。「トップは白秋だと思うけれど、八十はやっぱり童謡で自己表現した、数少ない童謡詩人であって、決してお子様ランチじゃない。特に私の好きな「古い港」「つくしんぼ」なんかは武鹿さんの言ったさびしさの深みのようなものを表現しているんですね。だから時代の華である童謡と八十とのめぐりあいですかね。八十が、みすゞ自身と共通する何かをもっている、それと自分の少女時代からもって来た子どものたましいみたいなもの、そういうもので童謡が一番彼女にぴったりしていたと思うんですね。」

(*4)年譜によると、大正八年、西條八十27歳のときに自費出版された第一詩集『砂金』は、「好評でたちまち十八版を重ね、若き天才詩人として、詩壇から注目された。」とある。みすゞの十代後半期に重なる、その後の数年間の八十の旺盛な著作活動を追ってみると、大正九年一月、訳詩集『白孔雀』刊、六月、『静かなる眉』刊。大正十年一月、童謡集『鸚鵡と時計』刊。十月、童話集『不思議な窓』刊。大正十一年二月、第二詩集『見知らぬ愛人』刊、五月、詩集『蝋人形』刊、七月、抒情小曲集『海辺の墓』刊。大正十二年『新しい詩の味わい方』刊、六月、抒情小曲集『哀唱』刊、七月、『アイアンの島廻り』刊。(森一也編「年譜」より抜粋(西條嫩子編『西條八十詩集』(角川文庫)所収)。

 森一也編「年譜」と、西條嫩子『父 西條八十』(中公文庫)を参照しながら、この時期の活動をすこし肉付けしてみると、八十は大正七年に創刊された童話童謡雑誌『赤い鳥』に同年から寄稿、十一月号に「かなりあ」を発表する。この童謡は評判を呼び、大正八年に帝国劇場で「かなりあの歌」発表会が開催されたという。後にみすゞの投稿詩の中心舞台となる島木赤彦主宰の雑誌『童話』には、大正十年から『赤い鳥』寄稿をやめて本格的に移ったようで、「父はほとんど毎号巻頭詩を受け持ち「つくしんぼ」「遅れ時計」「巨きな帽子」「活動写真」「蝋人形」「燕のおじさん」などを発表し、、、」という記載がある。

 こうした記載からうかがわれるのは、一般には一世を風靡した童謡「かなりあ」の作詞家として著名であり、詩壇では処女詩集『砂金』の作者としてその「繊細華麗な詩風によって注目」(『新潮日本文学辞典』(新潮社))され、その後訳詩、童謡集、童話集、詩集の出版と精力的に活動していた若手詩人の姿だ。童謡の投稿をはじめたみすゞが、最初に『婦人倶楽部』『婦人画報』『童話』といった当時西條八十が選者をしている雑誌を中心(例外は野口雨情選の『金の星』)に、その投稿先を選んだらしいことを思い合わせると、この結びつきには、童謡を書き始めたばかりの女性と高名な投稿欄選者、という以上の、童謡というよりも詩の作家としての八十に対する、みすゞの、詩書の読み解きを介した見えない理解の時間の堆積があったことを想像したくなってしまう。


(*5)「父は童謡には信念があった。大正十年一月三十日、赤い鳥社発行第一童謡集『鸚鵡と時計』について父はこんな所感を早大講堂でのべている。「私は単に市井の児童によき謡を与へると云ふ普通の動機以外、更に大人に謡を与へることによって、彼等の胸に昔の子供時代の純な情緒を呼び覚ましたいと云ふ希望からも童謡を書いた。私がかなり難解の詞句と想はれるものをも顧みず用ゐたのはその為である。かうした範疇の作は、一面児童には解せられずとも、ただその響きだけ彼等に伝はれば充分であると私は考へた。
 大人の夢と子供の夢、その顆珠の色こそ違へ、これと同じに繋ぐひとつの糸のあることを私は信じてゐる。それはひとしく『未知の土』(ラ・テール・アンコニュ)に対するあこがれである。
 童謡詩人としての現在の私の使命は静かな情熱の歌謡によって高貴なる幻想、即ち叡智想像(インテレクチュアル・イマジネーション)を世の児童の胸に植ゑつけることである。
 形而してそれによって爾後、更に激甚なるべき『生存競争』裡に於ける彼らのためにせめてもの緑地を備へると共に、延いては、その耳目に感知しうる世界を絶しての宏なる真の世界に彼等を導く機縁を作ることに外ならぬ。」(西條嫩子『父 西條八十』(中公文庫))

 「童謡の制作は二つの条件を必要とする。その一つはそれが詩としての香気を持つこと。そうしてもう一つは幼き者等の愛誦に適すると云ふことである。童謡の制作が或場合通常の詩の制作より困難であると云はれるのは、この二つの条件を立備せねばならぬからである。衝秤の一端が執れかに多く傾くとき、その謡は全く芸術的香気を失ひ、或は児童にとって無関心のものとなり終わる。」(「西條八十童謡全集の後に」(『西條八十童謡全集』(新潮社)所収))


(*6)雑誌『赤い鳥』発刊の半年ほどまえに、主宰者鈴木三重吉が「童話と童謡を創作する最初の文学運動」という発刊の趣旨と宣伝を兼ねたような、長文のパンフレットを配布したという。その中の一節。
 「実際どなたも、お子さん方の読み物には随分困っておいでになるやうです。私たちも只今、世間に行われてゐる、少年少女の読物や雑誌の大部分は、その俗悪な表紙を見たばかりでも、決して子供に買って与える気になれません。かういふ本や雑誌の内容は飽くまで功利とセンセイショナルな刺激と変な哀傷とに充ちた下品なものだらけである上に、その書き表し方もまことに、にがにがしい感じがいたします。西洋人とちがって、われわれ日本人は哀れにも未だ嘗て、ただ一人も子供のための芸術家を持ったことがありません。私どもは自分たちが子供のときに、どんなものを読んで来たかを回想しただけでも、われわれの子供のためには、立派な読物を作ってやりたくなります。又現在の子供が歌っている唱歌なぞも、芸術家の目から見ると、実に低級な愚なものばかりです。次には単に作文のお手本としてのみでも、この『赤い鳥』全体を提示したいと祈ってをります。何卒この運動に対して、みなさんから御高教と御助成をいただきたく、折入ってお願ひ申します。」「、、、巻末の募集作文は、これも私の雑誌の著しい特徴の一つにしたいと思ひます。世間の少年少女雑誌の投書欄の多くは厭にこましやくれた、虫ずの走るやうな人工的な文章ばかり埋つてゐます。私たちは、こんな文章を見るくらゐ厭なことはありません。私は、少しも虚飾のない、真の意味で無邪気な純朴な文章ばかりを載せたいと思ひます。その材料はすべて会員及至会員のお子さま方の作文又は会員が御推薦下さる作文(いづれも尋常小学から中学一年迄のもの)を私が選定補修して、一方に小さい人の文章の標準を与へると共に、一面では会員のお方全体の大きな家族的の楽しみを提供したいと存じます。どうか文章の長短に拘わらず、空想で作ったものでなく、ただ見た儘、聞いた儘、考へた儘を、素直に書いた文章を、続々お寄せ下さいますやうお願ひ致します。」(巖谷大四『懐しき文士たち 大正編』(文春文庫)より)


(*7)「金子みすゞの童謡を分析すると、題材では、白秋、雨情、八十の特徴をすべて含んでいるようだ。母、月、海は、言うまでもなく、白秋の特長である、馬、道、石、灯、祭りや、また、どこ、なぜ、何、といった言葉なども多く描かれているし、雨情の<郷土性>、<自然>、<孤独>、<淋しい謡>の要素も見出される。八十が好んだ夕顔なども、みすゞは好んで用いている。色は、やはり赤、白は、圧倒的に多く、青、銀もよく使われている。こうしてみると、みすゞの童謡の特徴と思っていたものが、実は大正期の童謡そのものであること、また白秋や雨情、八十などの影響であることがわかる。もしくは、それらは童謡そのものの特徴なのかもしれない。その他、みすゞの童謡でよく見られる「夕方から、夜、ことに夕焼空から月夜のイメージ」(藤田圭雄『日本童謡史1』)や、お魚、お馬、お鳩といった不必要な「お」の字が多く見られること、それに「さみしい」という言葉の使い方などはいずれも大正期童謡の全般的特色であった。」(苅田郁子「金子みすゞ、母への憧憬」より(「文藝別冊 総特集 金子みすゞ 没後70年」(河出書房新社)所収)


(*8)『西條八十童謡全集』のあとがき「西條八十童謡全集の後に」には、「本集には私が今日まで書いた童謡の殆ど全部を採録した。」とあり、みすゞの童謡に与えた八十の影響を考える時、恰好の一冊だと思う。金子みすゞ略年譜(矢崎節夫編)によると、みすゞの第二童謡集『空のかあさま』は、大正14年から15年にかけて書かれている、とあるから、第二童謡集以降の作品を執筆する以前に、みすゞが大正十三年に八十童謡の集大成として刊行された、この『西條八十童謡全集』を読んでいた可能性もありそうだ。苅田郁子の論文「金子みすゞ、母への憧憬」には、八十の作品とみすずの作品を具体的に比較検討した章があるが、ここでは、私の採取してみた意想的に類似の作品を一例あげてみる(ルビは省略しました)。前者が『西條八十童謡全集』の収録作品で、後者が、第二童謡集『空のかあさま』の末尾近くに置かれているみすゞの作品。ここには模倣というより、第一世代、第二世代と呼びたいような表現の質的な違いがあるように思える。私には、贈呈された手帳でこのオマージュの秘められたような作品を読み、にっこりと微笑む八十の顔が浮かぶ、のだが。


巨きな百合

「湖水のふちへ行かなけりゃ
巨きな百合は採れません」
麓の木樵が言ひました

「お山のてっぺんへ行かなけりゃ
巨きな百合は折れません」
湖水の船頭が言ひました

そこでてっぺんへ行ったれば
懸巣の鳥が言ひました
「青い空まで行かなけりゃ
巨きな百合はありません」


まり

まりを尋ねて町の子は
知らぬ町までゆきました。
塀の上からふと飛んだ、
それはしゃぼん玉、消えました。

まりを尋ねて町の子は
田舎の一軒家へゆきました。
一軒家のお背戸でみつけたが、
それはあぢさゐ、散りました。

まりを尋ねて町の子は
青い空までゆきました。
白いやなぎの雲かげに、
まりはかくれてをりました。


(*9)『童話』は大正十五年七月に終刊。『赤い鳥』は昭和四年三月に休刊(昭和六年一月再刊後昭和十一年八月まで続刊)。

 「どんな雑誌を読んでいるか」という、大正十四年に行われた小学校児童調査(調査対象は東京市十五区、各区三校の尋常小学校四,五,六年の男女(男子12,552名、女子12,181名)では、男子は「少年倶楽部」(35%)、「日本少年」(16,6%)、「少年世界」(8,0%)、が1,2,3位を占め、女子では、「少女世界」(23%)、「少女の友」(19,2%)、「少女倶楽部」(17%)の順になる。男子では19位に「金の星」(1,1%)、20位に「赤い鳥」(1,1%)。女子では十一位に「赤い鳥」(2,3%)、十八位に「金の星」(1,2%)が入っている(出典は、河内紀、小島美子『日本童謡集』(音楽之友社))。

「昭和に入ると、大正期に童謡雑誌を中心に発展してきた童謡運動は下火になっていった。その代わりに、ようやく本格的な活動を開始したレコード会社が、自ら主導権を握って童謡制作に乗り出してきた。童謡雑誌は、童謡運動の中核として、いわば理想主義的な方針をプライド高く打ち出していたが、レコード会社はもちろん文化運動としてでなく、営利目的で童謡に手を出してきたのである。だから当然売れる童謡を作らねばならない。このことはいい意味でも悪い意味でも、レコード童謡の性質に決定的な影響を与えた。」小島美子「「童謡-子どもの歌のルーツ」より(河内紀、小島美子『日本童謡集』(音楽之友社)所収)




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