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 須永紀子詩集『至上の愛』ノート




 須永さんの詩には、確かな場所がある。いろんな幻想的な設定で、ひとくみの男女(それはたいてい「わたし」と「あなた」なのだけれど)についての物語的な詩を書いても、須永さんの内面の声のようなものが、その場所から聞こえてくるように思えるからだ。声は、須永さんの内面の確かな場所のなかで、もうひとつの、いつも変わらない「わたし」と「あなた」の物語を生きている。この物語は、たぶん須永さんの固有なライフストーリーと強く結びついているのだが、須永さんのなかには、その変えることができない刻印のような世界を、やはりひとつの物語として相対化してみつめる醒めた視線がある。その視線が、詩を書く意識に重なるとき、須永さんの詩は、この原-物語から、自由に羽ばたいて逃れようとする動きと、魂の故郷のようなその場所に帰りつきたいという動きの振幅のなかで、さまざまな物語を生きることになるのだと思う。

 確かな場所、詩のうまれる場所、それは実体ではない。詩をかくときにそのつど姿をかえてたちあがってきては逃れさるような場所だ。詩にむかうその時の気持ちもち方、たとえばその場所にむかうときの角度のようなものによってその場所は姿をかえる。ただその場所をくぐりぬけて言葉を産み出すということが、自分が生きていて世界と関係をとりむすぶときの大事な価値である、ということだけは確かなように思われている。その場所には、いつももうひとりの自分であるような他者=「あなた」がいるからだ。この「あなた」がいつもそこにいるということが、須永さんの詩の大きな特徴のように思える。

 須永さんは、「あなた」からのがれようとしても、詩の言葉が不在の「あなた」にいつもみつめられているということからは逃れられない。このことは、たぶん、「倫理」とはなにか、ということについて考えるヒントをあたえてくれる。なぜなら、須永さんの内面の場所で生じている「わたし」と「あなた」の関係は、「わたし」と「世界」の関係の基点のようなものとして、誰の心の中にも構造のようにあるように思えるからだ。須永さんは、ある原-物語をひとりの女性として生きたこと、生きていることを手放さずに、その原-物語を変奏して詩としてくりかえし生きなおすことで、「わたし」と「あなた」という問題をさまざまな角度から掘り下げようと試みているように思える。透明感のある明晰な文体や、詩のなかに屹立する印象的なフレーズや、場面の思いがけない転換、男女のファンタジックで謎めいたショートストーリーとして展開する魅力的な構成、そういった要素で読者を詩を読む喜びに導きながら、その行間からとどいてくるもうひとつの声の物語が生きているのと同じ場所が、私たちの心のなかにもあることを教えてくれる。

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「少年ケニア」子供の頃にテレビでみて憧れた「少年ケニア」の主人公ワタル。「わたし」はかってワタルの面影を「あなた」に見出して一緒に暮らしはじめたのに、やることなすこと大違い、という「わたし」の夫に対する不満や幻滅感をうたった作品で、一見どんな夫婦でも互いに感じるような理想と現実の落差を、すこし誇張するのを楽しんで描いたような作品のように思える。けれど、この作品の感興を深いところでつくっているのは、表層の幻滅して弱りはてている「わたし」の身振りというより、比喩としてはとっぴな感じで伝えられるワタル少年の「走る」という属性にこめられた「わたし(作者)」の思いなのだと思う。たぶん「走る男」とは、「走るわたし」というあるべき自己像の投影であり、それゆえに「わたしによってまもられる/わたしの夢の続き」でしかないこと、しかもそうであることの静かな確認において、この作品が書かれている。

前詩集との関連)「走り続ける」自分というイメージへの作者の愛着やこだわりは、著者の前詩集『わたしにできること』にも見受けられて、持続した読者にはなじみふかいものになっているといえよう。この詩集では、前詩集の「ビッグ・エックス」「ナイトメア」にあった感覚的で弾むようなイメージは抑制されて、詩「そして今も」のなかで、「走り続ける」自分(たち)として同世代的な広がりをもったモチーフとして扱われているのが印象的だ。

「かきまぜられた場所」どこへ出かけようとしてもそこに行き着いてしまうような、夢にでてくるような場所。そんな場所で、「わたし」は「そのひと」に出会う。そのひとが歌う歌に「わたし」は引き寄せられ恋をし、二人してその場所から「別の星に住もうと約束して」出ていこうとするが、またたちかえってくることが「わたし」には、わかっている。「すでに組みこまれているのだ」という印象的な行で作品は終わる。
「自分は特別だと思っている人々が巡礼の姿でやってくる」という行や、「そのひと」が、「ぼくにはここにとどまる理由がないような気がする/ぼくは規則正しい生活を愛する平凡な人間です」と語ったり、「敵意にぶつかると/どんなに微量であっても/たちまち身体を閉ざし移動した/そうやって一人になっていった」という自己表白的な記述から、この不思議な場所に作者が与えている性格づけが朧気にうかがい知れる。その場所を、芸術表現の産み出される場所とか、自己意識の世界の視覚化(物語化)された場所、というふうにいえば言えるような気もする。そういう場所が現実に私たちに共有されてあるというより、その世界をつくっているのは、むしろ作者の細部描写の肉付けであり、疎外感に裏打ちされたような強い思いこみなのだが、そういう肉付けを通してしか表現できない世界の様相を、現実の感受からそのまま切り取ってきたような緊迫した表現が支えている。

「その朝」「わたし」は、刈り入れ時の農作業に従事していて、男達に「なにをされてもしかたがない」ような粗末な小屋で寝起きしている。そんな情況のなかで「わたし」は「この不快な事態を切り抜け」るために、自分の「望む結末」を強く想像する。想像するうちに寝入ってしまい(あるいは死んでしまい)、目覚めると「破格の再生」をしたかのような「新しい幸福の気配」にみちた朝が「わたし」に訪れている。
 不思議な味わいのある作品だ。悪夢からまた別の幸福な夢に転じる、という夢の体験からつくりだされたような感じがするが、そういうことより、ここで「わたし」は、様々な人の肉体に移り住み漂うような「魂」といった位相で描かれているという印象をうける。この「魂」は、意識の底に眠っている切実な願いの呼び起こすものだ。再生したとき「わたし」は自分の名を呼ぶ「知らないひとのあたたかな声」を聞く。「わたし」は呼ばれているのが「わたしの名」だと知っているが、生まれたばかりの「わたし」は、まだそのひとのことを知らない。このどこか終わりのない夢の世界に生きて転生を繰り返している、とても古代的な感じのする「魂」の物語をかりて、ひとが切実に「願う」ことの意味を問いかける作品といえるだろうか。

「秋のちから」季節との親和。とても心地よく的確で美しい行がならぶ。「きみをまもるために、とは言わないけれど/わたしを脅かさないように」という性格づけが作者らしい。ここには、ほとんど気付かれないかもしれないが、敵対的なもの、疎遠なものが関係の世界の属性のようにそれとなく暗示されている。それだからこそ、秋がおおきな手のひらのように「わたし(たち)」をつつみこんでくれることが喜びなのだ。

「夫の記憶」もう若くない「わたし」が、新しい若い夫と結婚する、という設定。そういう想像をしてみて、自分の中でどんな心理的な変化が起こるか、という思考実験のようでそうではない。読者は、「わたし」がむしろその世界設定自体の理不尽さに悩まされるという変調につきあわされるのだ。ちょうど醒めかけた夢のなかでなかば意識が立ち上がってきたときように。
 「どのように出会いこのようになったか/はっきりと思い出せないまま」「正確に記憶しようとする/こんなに全力を傾けている理由がよくわからないまま」「どんなできごとがあって何を共有したのか/ひとつも思い出せない」こうした記憶の失調や逆の意味での記憶へのこだわりがこの作品のメッセージのように響く。たぶんこの「夫の記憶」という作品がリアルに届いてくるのは、私たちのもつ他者の記憶の曖昧さ(それを現代的な兆候のひとつと言ってもいいが)を、うまく象徴しているところがあるからだと思う。過去に共に暮らしたことのある沢山の男たち。しかし、その記憶の内実はすっかり忘れてしまっている、ということはふつうにはありそうもないが、そういう記憶喪失にかられた「わたし」(あるいは詩「ある朝」に登場するような「魂の状態」)を想定することで、作者は私たちがないがしろにしている他者の記憶というものに光を当てる。すこし分析的にいうと、作者の現在についての不安や不満が、「わたし」に夫や他者の記憶へのこだわりを招きよせようとしている、とも言えるかもしれない。

「約束」<月のようでいてください>と男にいわれ、その言葉にほだされて、男と暮らすようになった「わたし」だったが、その言葉は心を砕いて捧げろ、ということも含意していた。畑仕事の生活苦が重なって男は「わたし」に見向きもしなくなった。砕いた心を「わたし」は、通りすがりのひとに手渡したい。持っていても肌を傷つけるばかり心の破片は、誰かが手にして初めて光るものかもしれないからだ。そのために男に殺されるかもしれないが、それでもいいと思う。
 イメージが美しくすっきりした作品で、「心の破片」を「詩」の比喩と読むと、古典的な感じさえする童話的な象徴詩といえそうだ。

「最後の記憶」学生時代、好意をもっていた英語の教師に、授業中に「あなたはおおきなかたまりの一部になることができますか」と質問され、「わたし」は(「好きですという代わりに心をこめて」)「できます」と答えた。教師は安心したようにちょっと笑い、「わたし」はうれしくてしかたがなかった、という、個人的な情景の記憶。
 この忘れられない記憶の現在について作者はいう。「わたしは身動きができず何も見えないのに/身体がどこかにつながり/それが別の何かにつながっていることを知っている/大きなかたまりのパーツになっているわたしの/意識だけがそこを離れ/着床の場所をさがしてさまよっている/匂いも音もない暗黒のなか/灰色の教室の記憶をリピートしながら」大きなかたまりの一部になること。それは他人と協調性をもって生きることの比喩、という意味をはなれて、暗黒の世界で着床の場所を探して彷徨っている意識(魂)としてイメージされている。「着床の場所をさがして」という言葉が、詩「その朝」の願いによる意識の再生(転生)というテーマに遠く結びついて、たぶんこのイメージをとても魅力的なものにしている。

「早春の風」若い頃自分に好意をもってくれた男性がいたけれど、そのときは自分のことでせいいっぱいだった。そのうちにその人とは自然に疎遠になってしまい、そういう思い出も、いま思えば砕けた夢の粒のようになってしまった。
 短い作品だが、情景描写が鮮やかで、とても完成度がたかいように思える。若い頃に公園でみた線路沿いの疎林も、その言葉の音も美しく、誰かに伝えたかった、というエピソードが、作者のひととなりまで伝えるようで秀逸。

「骨をまく夜」公園のベンチに座っていたら、知らない女に「ちょっと殴らせて」といわれ、殴られたあとに、女から謝礼を受け取ってしまう。そんな関係を繰り返すうち、やがて女はアパートにくるようになり、殴り方もしだいに粗暴さをましてくる。あるとき痛みに耐えかねて「わたし」ははげしい憎悪にかられる。そのあとのことは覚えていないけれど、気がつくと「わたし」はビニール袋をさげて夜の高速道路を歩いている。なぜか深い後悔の念があって、持っていた袋をさかさにすると、骨が転がりおちる。そういう悪夢のような世界からもどってくると、「わたし」は無傷だが、憎悪や痛みの記憶が残っている。
 作者の被害感覚をうつしこんだような不条理な悪夢をそのまま詩にしたような作品だ。あるいは社会的な犯罪事件の報道に想を得たものかもしれないが、別の見方をすれば独特の被害感覚が作者のかなり意識の深いところにあって、ときおり作品に顔をだすようにも思える。たとえば前詩集の「ガーゴイル」。

「美しい週末」週末に息抜きにドライブする「わたし」たち。その自然は美しくしるしにみちている。しかし家に帰り着いて互いの身にあびたはずのそのしるしを眺めていると感興がさめてしまう。
 「博物館の食堂で暖かいだけの食事をとり」とか、「誰にも止められないものは信じることができる」といった、魅力的な詩行が印象に残る軽快な作品。

「森の長い足」子供のころに家の庭にあったカシの木に守られるように育った。そこで本を読んだり、自分に誰かが気付いてくれるのをまっていた。長じて町にでて気持ちがすりきれるようないろんな経験をしたが、それでも心にのこっていた子供の頃の森(カシの木)のような男と出会い暮らすようになった。今でも森にまもられながら、子供の頃と同じように、またもっと深いきもちで、奇跡をまっている。

前詩集との関連)「森」という言葉は、前詩集『わたしにできること』では「森へ行く」という作品に印象的に登場する。そこでは「森」は「ドロップアウトするものが逃げる場所」であり、夫は「森を感じることができないひと」なので「わたしは許されている」のに対し、この「森の長い足」では「森」を体現するような「男」に「わたしはまもまれている」。作者があてはめたイメージの違いは興味をひくが、どちらの場合も「わたし」にとっての「森」が一種の「聖域」のイメージとして扱われているといえるだろう。それは「かきまぜられた場所」のもつ、別の側面だといってもいいかもしれない。

「西日のあたる部屋」西日のあたる知らない男の部屋で、音楽を聞き、そのひとに恋をした。そのひとの楽譜をみているが、自分が椅子に固定されていることに気がつく。部屋のドアがあき、そのひとたちが入ってくるが、そこで記憶がとぎれてしまい、西日の部屋にもどされてしまう。
 記憶の情景を描いた作品。視線が椅子の背もたれに固定されてしまう、という設定がシュールで、楽譜を書く「そのひと」と金管楽器を吹く「そのひと」が不分明にまじりあうということがあって、難解な作品になっているが、たぶん素材のなまなましさに対する一種の抑制が、この作品の晦渋さをつくっているのではないだろうか。

「ザクロ」「わたし」は夕食の買い物をすませた後、スーパーの買い物袋をさげたまま電車にのり、男の部屋にむかう。部屋につくと男はまだ帰っていない。そこで「わたし」は若い頃の恋人のことを思い出す。もしわたしがここで積極的にふるまえば、今の男と新しい生活にはいることができる、そう確信しながら男をまっている「わたし」なのだが、手にもつビニール袋が重い。
 家庭をもつ主婦が一時のエロス的な感情に揺れる心を描いた短編小説のような作品だが、具体的な描写が効果的で心の動きにじかにふれるような臨場感がある。

「生きる力」ずっと「わたし」と共に暮らし、「わたし」にさまざまな生きる知恵をさずけたあなた、今では老いて白くひからびてしまったあなたをおいて、「わたし」は今家をでてゆく。これから遠い外国でくらし、いろんな経験をしたすえに、またここにもどってくるのだと思う。そのときあなたはもういないかもしれないけれど、「わたし」はもどってきたそのことに感動しすこし哀しいと思うだろう。
 やむにやまれぬ内的な衝動にかられて、住み慣れた環境からでていく。この作品の「あなた」は自分をつちかった家庭や、父性を象徴しているようにも読めるが、そういう限定をこえた、愛し続けながらもそこに留まることのできない過去の世界の象徴といったほうがこのイメージのもつ象徴性にかなっているかもしれない。その世界を捨てた傷みをかかえながら生き、そうしてまた戻ってくるようなしかたでしか愛せない心の場所の所在というものを、旅立つ冬の朝の具体的な情景(心象)にからめて印象的に定着した作品。

「そして今も」は学生時代の友情讃歌。かって学生時代に男友達二人(かれとあなた)と連れだって北国にドライブ旅行した思い出をからめて、20数年後の今も持続している友情や連帯の気持ちを宣言しているかのような作品。
 「〜した」、という行末の言いきり方の頻用がたたみかけるような疾走感をつくっていて、ちょっと眩しいくらい覇気の感じられる作品だ。作者の「走り続ける」ことへのこだわりの内実が肯定的に絵解きされている感じがする。こういう作品が眩しく感じられるのは、私たちは、本当は教室で「顔をふせてしまった」「静かな人たち」の中から詩が生まれるのではないか、というような思いに傾きがちのせいかもしれない。ただ作者はそういう心の機制を知り抜いたうえで(たとえば「最後の記憶」の「記憶」のまばゆさと現在の対比を参照)、あえてこういう作品を提示したのだと思う。

「街への手紙」ある光景にであい、その光景が「わたし」の目に焼き付く。その光景が失われたら闘うだろうと「わたし」は思う。2001年9月11日のテロでは街が消えた。そのことの対比のように、「わたし」はこの光景をみている。こちらに歩いてくる男とニレの木と図書館。その男とは知り合っていないが、この光景はまもるべき未来図なのだ、と作者はいう。
 この作品が一種難解な感じを与えるのは、テロ事件に対比されるようにして「わたし」がまもるべき光景と言われているのが、「男とニレの木と図書館」が映っている一見恣意的な街角の風景だというところにありそうな気がする。たとえばそれが愛する家族の肖像写真だとすればすっとふに落ちる感じだろう。しかし逆にそうした分かりやすい了解の経路を切断しているところで、たぶん読者を立ち止まらせ考えさせるように作品は構想されているように思える。図書館が象徴するのはさまざまな文化的な現在の価値であり、ニレの木が象徴するのは、「森の長い足」のカシの木のような自然や過去の価値、そしてまだ知らない青い服の男が象徴するのは他者との出会いを含めた人間の営為そのもののはらむ未来の価値をあらわしている、といってみても、どこかすわりの悪い感じがするのはいなめない。ただそれらが一体となって鮮明な像を結ぶというとき、風景は風景でなくなにか別の抽象性を帯びた価値概念に変わっている。その守るべきなにかが、「わたし」のなかで事件のもたらした風圧と拮抗している。その名を呼べば「詩」そのものである、ということになろうか。

前詩集との関連)男の着ている「青いシャツ」の「青」は、前詩集『わたしにできること』の詩「あの青い冬」にでてくる長いこと会わなかった友人の着ている「見覚えのある青い上着」、詩「町の記憶」で冒頭に登場してわたしを「夢みる者でいっぱいの」町に誘う「青い楽隊」、詩「よみがえる力」でわたしの追い求める「半身は明るい紫」の青年などを連想させる。作者はここにある凍り付いた記憶の光景をさりげなくひそめている、というふうな読み方も可能かもしれない。




 書かずもがなの付記)うえの文章の個別作品の感想の部分は、詩集を手にして一週間くらいのあいだに収録作品を読んで思いのままに(ある種の疾走感とともに(^^;)、とはいえ私なりに懸命に書いてみた覚え書きノートのようなものだ。こういうふうにひとつの詩集に収録された全作品に即してという感想の書き方をしたのははじめてで、思い違いや誤読もたくさんあるに違いないし、改めて読むと別のことを感じるかもしれない。ただ読後の印象がホットなうちに書いたというとりえはあるかとも思う。こんな解釈もあるのだなあ、ということを、この素敵な詩集の作者や未知の読者に楽しんでもらえればいいと思う。この詩集には全体としてもうすこし明るいところや須永さんの詩法の成熟した余裕のようなところもでているように感じたけれど、それに触れられなかったのは私の暗さや成熟のおよばなかったところだと思う。いつもながら。

ARCH

詩集『至上の愛』(2002年7月27日発行・ミッドナイト・プレス刊)
詩集『わたしにできること』(1998年3月17日発行・ミッドナイト・プレス刊)

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