[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]




     詩の朗読会の感想   


      「ポエトリー・リーディング 現代詩に声を取り戻そう」第二回を聴いて



 1月25日に明治学院大学構内の「アートホール」で行われた詩の朗読会「ポエトリー・リーディング 現代詩に声を取り戻そう」に行った。去年に引き続いての第二回というこの朗読会は明治学院大学の言語文化研究所の主催。世話人で同研究所の所長の四方田犬彦教授が、司会進行役をつとめ、朗読者は、石井辰彦、岡井隆、小池昌代、須永紀子、福間健二、守中高明、ロイド・ロブソン、天沢退二郎、高貝弘也という顔ぶれだった(実際には守中氏が所用で欠席されたため、代わって四方田氏が朗読した)。

 現代詩の朗読会には、ここ数年、年に何度か出かけている。そういう朗読会で短歌の朗読を併せて聞けることは滅多にないので、石井辰彦、岡井隆氏といった歌人の朗読を含むこの催しは、現代詩と短歌の朗読の違い、ということをすこし考えるいい機会になった(岡井隆氏も、その違いを感じとってもらえるといいと言うようなことを朗読前におっしゃっていた)。

 現代詩と短歌の朗読がどこが違うかというと、聞いているほうの疲れ方が違う(^^;。短歌の朗読は、詩形が短いので意味がとりやすく、次の一首を読むまでの間合いが、そのつど一首の流れを頭の中で辿り直して、その全体を納得したり、聞くことに集中した意識をリセットして、新たにリフレッシュする時間的猶予をもたらすから、あまり疲れない。聞く者にとって、ある種の余韻にみちた余白や「ゆとり」のようなものがあるのだ。

 現代詩の朗読の場合、この間合いは千差万別だが、作品の意味内容からくる「ゆとり」をもたらす詩はあっても、短歌の朗読ように表現形式からおのずと生み出されるような「ゆとり」ということとはちがう。そこで言葉の意味の流れを聞きとろうとすると、ある程度息の長い持続的な集中を要求される。次々に打ち上げられる煌びやかな言葉は花火のように脳裏に炸裂するが、たちまち消えていき、残像にみとれていたり、ふっと息をついてあらぬことを考えたら、もうその世界に帰れない、ということがよくあるので、妙に疲れるのだ。

 ちょっと大袈裟に言ってみたこの違いは、岡井隆氏の朗読でよく特徴がきわだっていた(たぶん意識的に様式的な読み方を例示されたのだと思う)。時に同じ歌を二度読みするというのも、この「ゆとり」のぶぶんを補足する。そこでは一度読まれて意味として納得したうたを、話者の身振りや声音も含めてゆっくり味わう感じで聞きなおすことが出来る。それに比して石井辰彦氏の短歌の朗読は、歌と歌の間合いをつめて、ぐっと現代詩の読み方に近い感じになっていた。それでも一首一首が相対的に歌として独立しているので、もし一首を聞き逃したとしても(^^;、すぐ立ち直って相互に意味的な関連の強い連作短歌の世界に復帰できるのは、現代詩とちょっと違うところだと思った。

 この妙に気疲れする現代詩の朗読を、フォローするのはどんな手だてだろうか。内容に即したテンポを考えたり、区切りの個所に間合いをおおきめにとったり、明瞭な発音で朗読する、という工夫はそれぞれされていると思うが、あたりまえかもしれないが、まえもって作品をプリントしたテキストを配布するというのが、ひとつの手だてだと思う。この朗読会では、天沢退二郎氏の作品だけが前もって受付で配布されていたが(1)、朗読会でこういう配慮をされる朗読者も企画者もまだまだ少ないというのが現状のようだ。

 もっとも、受付では石井辰彦、小池昌代、四方田犬彦氏がメンバーの『三蔵2』という同人誌が売られていた。終わるまで気がつかなかったのだが、石井氏も小池氏のその詩誌に掲載された自作を朗読されたので、前もってそれを買った人は、テキストに目をやりながら詩の朗読を聞くことができたのだと思う。また偶然ながら欠席された守中高明氏に代わって急遽詩を朗読された四方田犬彦氏もその『三蔵2』(2)掲載の作品を読まれたのだった。

 ところで、前もってテキストを配っておくのも、ひとつの手だてのように思う、と書いたが、前もって、朗読される人の作品を読んで知っていれば、あたりまえのことながら、同様に妙な気疲れも緩和されて、「声」を味わうゆとりもでてくる。私の場合、須永紀子さんの詩集『至上の愛』と岡井隆氏の歌集『<テロリズム>以後の感想/草の雨』は前もって読んでいたので、そのぶんゆとりをもって朗読を味わうことができた。お二人とも偶然というべきか、9.11のテロ事件をテーマにした作品を詩集、歌集の中から(3)選んで読んでおられた。会のトップバッターとして登場した須永さんの朗読については、微妙だが、もうすこしだけテンポを遅くしてほしい、という気持ちを聞いていてもった。これは、須永さんの詩行のもつ一種緊張感にあふれた味わいが、すっと消えていくことに対する、なんというか、ああもったいないというような感じで、事前に作品を読んでいたからこそでてきた感慨かもしれない。

 最初に、作品を文字で読んでも音声で聞いても、了解する意味としては同じ、というようなことを、短歌と詩の朗読の違いの共通する前提のようにして書いてみたのだが、朗読の声のもつ抑揚や音楽性、さらには朗読者の表情や身振りから受ける印象といった肝心のというか独自の領域のことは、ややこしいので考慮の外においておいた。こういうことを考えはじめると、事前にテキストはないほうがいいとか、先入観なしで白紙の状態できいてほしい、という考え方も当然あっておかしくないように思えるからだ。

 福間健二氏のビートのきいた作品朗読や英国のパンク詩人(福間氏の解説パンフによる)というロイド・ロブソン氏のこれまた迫力のある英詩の朗読、福間氏とロブソン氏による、原詩と翻訳詩の節ごとに交代するかけあい朗読の試み、高貝弘也氏の自作のメロディをつけた詩「そのこどこのこ」の朗読の試みなど、それぞれ興味深く聞いた。いずれも手元にテキストがなくて、きいた作品の意味内容を辿りなおすことができないのだが、いずれも声のもつ抑揚や音楽性の効果をとりこんで、朗読という行為の現場性が生み出す独自の表現領域を重視されているように思えた。

 関心からいうと、黙読した場合と、朗読を耳できいた場合の違いが、あくまで意味としての作品のイメージの変貌につながる体験(驚き)というのが興味があるのだが、それは節をつけたり叫んだりということによって生じる印象の変貌ということとはすこし違っている。どう違っているかよく言えないのだが、このあたりが私にとって朗読をきく楽しみのひとつというところだろうか。



付記)短い印象記を書くつもりだったのだが、感想をつらつら書いて、また書き足したりして、いつもながらの雑然とした文章になってしまった。詩の朗読を聞いて感じる様々な思いというのはまだ自分の中で消化も整理もできていないテーマだ。文字で書かれた言葉を、自分の肉声でつたえるというとき、情感をこめたり、緩急に口調をかえたりして、文字で伝えたかったニュアンスを強調して伝えることができる。けれど漢字カタカナひらがな外国語などの混じり合った日本語の文字の字面が生む視覚的な効果や、文字のレイアウトなどは損なわれてしまう。ただそういうことは、朗読された作品と、書かれた作品を対照することで、それぞれの持ち味を吟味できると思う。朗読を再生装置できくのは、いろんな気疲れから解放されて声そのものを楽しめるということがある。たぶん詩行にたちどまったり、聞き返したりできるので、作品を受容する側が、はじめて作品を黙読するのに似た自在感をもてるのだ。環境は整っているのだから、「現代詩に声を取り戻そう」という場合、声としての現代詩を聴くことに集中できる前提のことも、いろいろ考えられてもいいと思う。

註) (1)プリントに掲載してあった天沢氏の作品のひとつ「アンネリタ」という詩の冒頭の「四角ごときが何を言うか/八角定規が卓を叩いてどなり出した/三角は上目づかいに静観の構えだ」という文字の踊るような字面を見た瞬間、筒井康隆の『虚構軍団』を連想して思わずにんまりしたのは活字の力かもしれない。前もってプリントを配布することには、この詩がどんなふうに朗読されるのだろう、という予想や期待を抱かせるという効用もある。

(2)私はかろうじて会の終了時にこの詩誌を求めたのだが、これはちょっとした収穫だった(最初に買わなくて損をした(^^;)。石井辰彦氏の連作短歌「(踊る男)と(着飾る女)」はルビが多くちりばめられた活字を目で追うのと、耳で聞いたときの印象と随分と違う。こういう見るのと聞くので大違いという、異質の作品に変貌するような詩に出会う体験は私には大きな魅力がある(ネットで聴ける朗読の音声ファイルをつくったので、宣伝みたいにいうと、ちょうど海埜今日子さんの「葡萄小屋」という作品を文字で読むのと、朗読を聞くのから感じられるイメージの差異にも驚いたことを書いておこう)。小池昌代さんの作品「いざべらの秘密」や「こっぷのなか」は、それと逆に朗読で聞いた印象に近い。文字でよむと、透明感があり、朗読できくと、その透明感が弾むような声の甘やかさに代わって聞こえるというようなところがある。四方田犬彦氏の作品「人生の乞食」からは、エリオットの「荒地」を連想した。「荒地」ならぬフィリッピンの有名なゴミの山に現代の荒廃を象徴させている、という感じの魅力的な作品だ。こういう古典的な骨格をもった作品は、最近はなかなかお目にかかれない。そして詩誌の後半には、三氏それぞれの「球根」をテーマにしたエッセイが収録されているのもしゃれている。いずれも味わいのある文章で楽しく読んだ。定期購読しなくては。

(3)須永紀子さんは「街への手紙」、岡井隆氏は歌集末尾の「樋口一葉、ウサマ・ビン・ラディンに会ひにゆく」という連作を読まれた。岡井氏の朗読のとき、氏の歌集の内容が不謹慎だというような批判があり、そういう風潮というか時代の空気について、もう反論する気もしない、と氏が憤懣やるかたないという感じで語っておられたのが印象的だった。この論評については未見なのでどういう論旨かよくわからないのだが、もし樋口一葉がビン・ラディンに会いに行くというような設定で短歌を書くこと自体が「不謹慎」とされたのだとすると、ちょっと言葉がないという他ないだろうと思う。岡井氏の歌集全体を読むと、9.11の事件やアメリカのアフガン侵攻といった時事的問題についてのさまざまな思慮や感慨を重ねた場所から(あとがきに、9.11以降「自発的に機会詩(時事詠)をつくった」とあり、同書の「2」の多くの部分を占める)、時期をおいて歌集末尾におかれた連作「樋口一葉、ウサマ・ビン・ラディンに会ひにゆく」の構想がでてきたのがわかる。また多くの哀切な追悼歌を含む歌集全体の印象は「不謹慎」とはほど遠い。以下は「2」の部分から時事に関わるうたを恣意的に抜き出してみた。


戦争がよくある侵略へ堕ちて行く飽きよとばかりふり注ぐ鉄
テロリズムの一語にくくって言ふなかれどこかきらきらと明治のテロル
怖いもの探しをしてる人間のたまらなく怖い夕暮れである
青年は国に殉ふどの国もどの宗教を信ずる民も
アメリカは負けはしないだらうしかし林檎の芯は腐ちゆくだらう
神聖と暴力の結びつくときのあはれさを日々見せられて生く
にくしみをどこまでやはらげあへるのかふかい哲学が必要だらう
おだやかに此の戦争を思はむに統べてがすみずみまで悲しすぎる
「戦争ではなかった」とすればでは何だしずかにパンが余る卓上
アフガンとは何だと自分に幾度も問ふて答へて答へてぞ問ふ
たくさんの人がそれ<以後>の世に棲めりうるさそうに髭刈つてゐる俺
プラカードかかげ「はんたーい」とだけ叫ぶか細き声に降れ 別れ雪


 須永紀子さんの作品「街への手紙」については、リタ前号に掲載した拙稿「『至上の愛』ノート」でもふれている。とつぜん街が消える、というような出来事に対して、守るべきなにかということを考えたとき、それがある種一般的な価値概念でなく、「私」の個人的な記憶の光景に象徴されるようなものであること、そういう発見におりてゆく思念の佇まいは、一見似ていないように思える岡井氏の時事をテーマにした歌と深いところでつながっているように思える。







[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]