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柴田千晶詩集『空室』について
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詩集『空室』は、作者がある時期社会的に話題になった殺人事件の被害者女性を自らの分身のように思いなす場所に立って書き継いだ連作詩篇を中心にして編まれているという意味で、とても特色のある詩集だが、もうひとつ他にあまり例をみない際だった特色がある。それはこの詩集全体の流れが、ひとつの起伏をもった劇(ドラマ)として緻密に構成されているように思えることだ。これは、直接には著者がシナリオ作家としての創作技術を詩集の構成に応用したのだといえるかもしれないが、この詩集で達成されていると感じられることは、そういういい方ではとても尽くせないところがある。もしかしたらこの詩集は、ひとつの私的な記録映画のように構想されたのではないだろうか。そう考えたとき、この詩集を読み終えたときの、ちょっと名状しがたい複雑な量感の秘密の一端がとけるような気もするのだが。
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詩集『空室』の表紙には、タイトルに続いて、収録作品の制作時期を示す1991-2000という文字が小さく記されている。けれど目次をみると、詩集の収録作品の配列は、制作順にはなっていなくて、全体がそれぞれの制作年をタイトル示した4つのパートと、ラストの詩一編にわけられているのがわかる。以下に目次の順序を記してみる。
1997(「空室」「赤い鋲」の2編)
1991(「空地」「恋びと」「品川駅」「夜の洪水」「夜明けの海月」「ふゆのさくら」の6編)
1998(「金色の龍」「骨なら愛せる」「冬の観覧車」「深夜バス」の4編)
1999-2000(「一九九九年秋、ヴィーナスフォートの空」「Happy 99」「Tower」の3編)
詩「マティーニに浮かぶ男」
この順序、とくに制作時期がタイトルになっている4つのパートは、たぶん詩集全体のドラマとしての流れの起承転結にみごとに対応している。殺人事件が起きて、その被害者の女性の経歴が話題になり、マスコミでさかんに取り上げられたのが1997年のこと。冒頭の詩「空室」のなかで、そうした時期に「私」は、同じ職場のアルバイトの女性のひとりが、その事件の被害者の(売春をしていた)気持ちがわかるような気がすると呟いているのを聞く。そして「私」もわかる、と思う。これがドラマの導入部だ。
アルバイトの女の子たちはアパートの空室で殺されていたOLの
話をしている。「わかるような気がする」だれかがポツリと言う。
<彼女>が売春した気持ち。
霊岸橋を渡る。橋の名の由来はわからない。向こう岸に、死んだ
人の魂がすだいているのかもしれない。
<わかるような気がする。私も----->。
(「空室」より)
なぜ、わかるような気がするのか。どのように、わかるような気がするのか。という問いの答えのように置かれているのが、パート2の「1991」というタイトルに置かれた諸編の作品だ。この部分は、ここで設定している仮想のドラマの観客の視線からすれば、主人公「私」の過去の想起にあたっている。そこに描かれているのは、ひとりの既婚男性と「私」の不倫の物語だ。この物語のトーンは、「私」の罪責感や、男との関係のよるべなさからくる不安や孤独感を象徴するように暗く沈み込んだ色調で描かれている。
花園神社の近くのホテルで月に一度逢う男には、妻がいて恋人が
いて私がいる。まだ他にもいるのかもしれない。嫉妬したり悲し
んだりすることはない。愛がないというわけでもない。自分も他
人なのだ私にとっては。男は性交の時、いつも張りつめた乳頭に
ピアスを付ける。乳頭はもっと張りつめる。他の相手にもきっと
同じことをするのだろう。性交しながら私は空地の男のことを思
ってみる。
燃やすものが何もなくなれば、空地の男は寝床のダンボールを毛
布を燃やすのだろうか、着ている服も燃やすだろうか。食べるも
のが何もなくなれば、男は自分の足を燃やすだろうか。足首、脛、
大腿、男は順番に焼き、順番に食べてゆくに違いない。自分の足
を食べることはたったひとりで充足すること、たったひとりでも
充足することだ。
(男と抱き合っても充足できない、私は、誰とも充足できない。
充足したい、充足したい、たったひとりで)
(「空地」より)
ここででてくる「空地の男」とは、作品の前段に登場する、「私」が通勤中に横切った「空地」に数日前からすみついていて、その日はドラム缶で拾ってきた靴を燃やして暖をとっていたという、浮浪者のような男のことだ。月に一度逢うという男との性愛の関係に、「私」は満たされるということがない。男に抱かれながら浮浪者のことを思い浮かべ、男とつながることによって満ち足りたいはずの思いがいつのまにか絶えて、「私」の想念の「空地」の中で、「たったひとりで、充足したい」という自己完結したエロスへの渇望につながっていく様子が描かれている。
男と、もつれた不倫の関係にある「私」の、「嫉妬したり悲しんだりすることがない。愛がないというわけでもない。」「自分も他人なのだ私にとっては。」という心情の吐露は、「私」のエロスについての微妙な親和と打ち消しのゆらぎからきているように思える。一見、不倫の関係故に無意識に罪責感や嫉妬の感情に苛まれている「私」が、その打ち消しのように表層の言葉をつむいでいるようで、自分が他人のように感じられるという非現実感は別の根拠をもっている、というように作者はいいたげだ。むしろ「私」をこの不毛な関係に導いたものこそ、「自分も他人」だと感じられるような疎外感やその打ち消しとしてのエロスへの渇望ではなかったか、と。
----わかりやすい関係でいたいから。
水の濁った川に浮かぶ歪んだ半月を見つめながら、お金をくださ
いとつぶやいた、泥の底にはホテルも沈んでいる。そこから引き
返してきたばかりのわたしたちは口数がすくない。
----いくらでもいいから。
白い息が魂の固まりみたいに口から抜けていった。何も言わなか
ったけれどその人の口からも魂の固まりが抜けていくのを見た。
ような気がした。古びた革の札入れから一枚、ためらってもう一
枚、差し出された二枚の紙幣の一枚だけを抜き取ってポケットに
しまった。
(「夜明けの海月」より)
この詩に登場する「男」が「空き地」に登場する不倫相手の男と同一人物なのかどうかはわからないが、ここで試みているドラマの観客の視線からすれば、同じ人物とみなされるし、そういううながしのなかに作品が置かれているように思える。ある時期続いた「わたし」と妻帯者との関係は、ここでひとつの転換点をむかえる。「わかりやすい関係でいたいから」お金がほしい、と口にしたとき、「わたし」はたぶん男にむかって、無意識かもしれないようなひとつの決意のもとで、自分たちの関係の変化をせまっているのだ。しかしその答えが表層の受諾としての沈黙(変化の拒絶)であるということが、当然のことのように描かれる。と同時に、この要求が、もうもとにもどることが不可能な一線を越える問いかけでもあったということが、この暗い情景の描写のなかに象徴的に描かれている。男の魂は、ぬけでてしまった、と。
ふいにポケットの中身が重たく感じられた。わたしと男との間に
うすい壁を仕切るための紙幣が、男とわたしが閥を越える手形の
ように思えてきた。(同)
このように手渡された紙幣は、なにを象徴しているのだろう。「わかりやすい関係でいたいから」という言葉には、どこか方便のようなニュアンスがある。紙幣によって「薄い壁」をつくるのは、「わたし」が男との関係のまとう様々な負のイメージの侵入から身をまもるための手だてだ。しかしそのことで、「閥を越える手形」を手にした「わたし」と「男」が、より自由になり、より開かれた関係を結べるようになるとはとても思えない。けれど、紙幣を得ることは少なくとも「わたし」にとってだけは、とぎほぐせないエロスにまつわる負の観念の迷路からの出口のように思えた。
「1991」のパートの末尾におかれた「ふゆのさくら」という詩は、夫を失った女ともだちと「私」が、並んで冬の火葬場に佇んでいる情景を描いた作品だ。この女ともだちの死んだ夫が、「1991」の一連の作品にでてくる「男」と同じ人物であることはどこにもあかされていないが、やはり作品はそういううながしのもとに置かれているという感じがする。そのように読むことでこの作品が「私」の過去の不倫の恋をめぐるひとつの物語の終結部にあたることがみえてくる。「1991」というパートには、92年から94年にかけて書き継がれた6編の詩が収録されているが、このタイトルが、なぜ作品の雑誌初出時をあらわす「1992-94」とされていないのかという理由も、こうした読み方にそうものの気がする。
ところで、こうした「1991」の作品群が書かれた1992-94年の時点で、作者は殺人事件被害者の女性のことを知らない。しかし、作者は自分が自分にとって他人のように感じられる「私」のエロスへの渇望や精神的な充足への願望と、その不可能性の苦しみを書きつづり、男との関係に「うすい壁を仕切るための紙幣」を介在させることで「わかりやすい関係」を望む「私」の姿を書いていた。その連作は、冒頭の詩篇「空室」の中の、売春行為をくりかえしていた殺人事件被害者の女性の気持ちが「わかるような気がする」という「私」の思いのかけねなしの内実というべきものであったように布置されている。
3
この詩集の全体の流れのなかで、大きなピークは、3番目のパート「1998」に収録された4編の作品が形成していて、これまでの見方からすれば、この部分はドラマの起承転結の転の部分に相当する。そこで「私」は、冒頭の「1997」のパートを含めた1997-1998年の現在(殺人事件が社会的に話題になっている時期)にたちもどる。ここで、「私」は殺人事件のあった現場ちかくの被害者の女性の足跡をたどり、資料などでえた情報から彼女の生前の言動を再認し、あたかも被害者女性が「私」の分身であったかのような想念に囚われた濃密な時間を生きる。この同一化(「私」が彼女の幻覚をみたり、おりにふれて彼女の生前のイメージや言動を想起してしまうというかたちで)が感動を呼ぶのは、こうした他者との遭遇を契機に「私」の内面が流出してくるという稀有な場面が描かれていることだ。
資料によって殺人事件被害者の女性の気持ちをたぐると、その一見不可解な二重生活の動機に、深く両親(10代で亡くした父親と、存命の母親)との関係が関わっていることがみえてくる。その彼女のコンプレックス(複合観念)の投射された光が、逆に彼女の物語を読みとる「私」の闇の部分を照らし出す。かって「私」を叱る前意識の影のような存在だった母のイメージ(「夜の洪水」(92))を、「私」の中に浸透してきた物語の殺人事件被害者とその母親の関係が変貌させ、「私」をうつつのなかで「母」に正面から向き合わせるようなことが起こった、といったらいいだろうか(「骨なら愛せる」)。この向き合いは一方で激しい否認と共感をはらんだ心理劇として定着されている。
もうすこし、このプロセスの端緒を掘り下げてみよう。詩集の全体のドラマの流れの中で、ここでいう起承転結の転に到る部分の時期(「1998」)と、承の部分(「1991」と題され、実際には92〜94年に書かれた作品群)の間には、その創作時期に3年ほどの空白がある。この空白の時期に、作者は父君を亡くされている。あえてそういうことを記したのは、「1998」のパートの冒頭に収録されている「金色の龍」という詩が、「私」の切実な亡き父への思いをうたった作品だからだ。
金色の龍
海辺に建つK国立病院の産婦人科の廊下から私は中庭を見ている。
風に運ばれた砂が降り積もった白っぽい土に、夏草が渦を巻くよ
うに根を伸ばしている。その中心に、公民館のダンベル体操教室
で顔を合わせる、ヘルパーの大竹さんが、半裸の男に付き添うよ
うに立っている。男の背中には鮮やかな昇り龍の刺青がある。男
は、黙々と天突き体操をしている。懸命に天を押し上げている。
大竹さんも男も汗だくになって陽射しのきつい中庭に立ち続けて
いる。向かいのアルコール病棟の窓には、烏瓜のような若い男の
患者の顔がある。
《一日じゅう世界が揺れている。この部屋が揺れている》
男が、必死に押し上げているものは何なのか、いや、男は何かを
押し上げているのではなく抜け出そうとしてるのかもしれない。
アルコール漬けの身体から。
長椅子に坐って子宮癌検診の順番を待っていると、いつの間にか
〈彼女〉が私の隣に腰を降ろしていた。
〈彼女〉と並んで坐っていると、
病院の長椅子が電車の座席のように思えてくる。
井の頭線の電車に乗って
私たち、
揺れながら
神泉駅に向かっている。
*
《怖くなりだすと、なんでも怖いんです》
自動改札も、幼稚園バスを見送る若い母親たちも
湯沸かしの室の窓も
電車に乗ることも
座席に坐って居眠りしていると、
ふいに何かとてもいやらしいことを叫んでしまいそうで、
何度も何度も電車を乗り換えて、どろどろに疲れ果て、
降りる駅がわからなくなって、
ある日、私は、ふいに立ち上がって叫んでしまった----。
「亡き父の名を汚さぬように頑張ります」
《このまま転げるように生き終えてしまいたい》
レギュラー缶2本とロング缶1本
イカの燻製1袋をつまみに
ビール3本呑み干し
見知らぬ男にまたがられるたび
あなたも誰かを殺してきたような気がしたでしょう
*
《できれば、絶え間なく、自分を呆れかえっていたい》
アルコール病棟の中庭で
刺青の男が天突き体操をしている
男の背中で輝く金色の龍
(わたしたちの父よ)
西日に塞がれた中庭で
大竹さんも
私も
烏瓜のような若い男も
殺された女も
横一列に並んで
天突き体操をしている
高く高く上げた両手から〈私〉が抜けて行く
(いつの日か、私たち、龍の尻尾を掴んで-----)
*《》内は色川武大『狂人日記』からの引用
「亡き父の----」は「新潮45」97年7月号、佐野眞一氏の「ドキュメント『堕落論』
東電OL殺人事件の深層2」より引用
ある種の不安神経症のような症状に苦しんでいる「私」が、子宮癌検診のために訪れた病院の廊下の窓から、中庭で天突き体操をしている半裸の男の背中に彫られた昇り龍の刺青に目を射すくめられる。男(たち)の動きに何処にも変わったところはないのに、「私」は注意をひきつけられ、そこにひとつの象徴的な意味(アルコール漬けの体(「自分」)から懸命に抜け出そうする動作)を重ねて読みとろうとする。そんなふうにしている「私」がふいに幻覚におそわれる。自分の隣に殺人事件の被害者の女(<彼女>)が座っている、という幻覚だ。坐っている長椅子は、電車のシートに変貌する。この転換はとても映像的な「仮構」の描写になっている。なぜそこが電車の中なのか、なぜ電車が「井の頭線」で「神泉駅」に向かっているのか、ということは、殺された女性について書かれた報道(末尾に記述があり、後に単行本化された佐野眞一氏の「ドキュメント『堕落論』東電OL殺人事件の深層2」など)の文章を読んでいないと判りにくいかもしれない。作者はそうした文章の記述から、<彼女>の生前の行動(夜毎渋谷で売春行為を繰り返して、終電車で帰宅する情景)を再現している。「亡き父の名を汚さぬように頑張ります」という言葉は、被害者の女性が、かって生前父親が勤めていた東京電力に入社したときに言ったとされる言葉だ。
精神病院の入院患者の手記という体裁をとった色川武大の小説『狂人日記』の引用や、「私」(あるいは想像上の<彼女>)の精神科の医師に向けた告白のような部分、あるいは<彼女>が売春時に、いつも缶ビールを買い求めて飲んでいたという報道文章による証言から引用構成された部分、こうした表現の断片をちりばめて、この作品の「私」の幻覚が綴られているのだが、それらは、<彼女>と「私」を繋ぐ、ひとつの想像の線で貫かれているように思える。それは失われた「父」という主題だ。
半裸の男の背中の刺青の昇り龍が象徴するのは、たぶん男性の生命力や、もっと言ってしまえば男性のシンボルといっていいかもしれない。「私」がその男の天突き体操の動きに目を向け続けたとき、そこに「ふいに何かとてもいやらしいことを叫んでしまいそう」になるような、「私」の無意識のエロス的な情動も含まれていたかもしれない。同時にこの男は、リハビリをして懸命に「健康」になろうとしているアルコール依存症の患者であり、そのことが、辛い不安神経症のような症状から回復したいと願っている「私」の分身のような意味も与えれている。もちろんこの「私」は作者ではなく、この作品の作者は、そうした重ね合わせを作り上げることで、自分の分身のように生々しく感じられる<彼女>の生き方の核心の部分に、「失われた「父」への思い」というテーマがあったことを見抜き、それを「私」たちの物語として浮かび上がらせようとしているのだ。
愛していた父親の突然の喪失体験が、その娘にとって父親と自分の同一視として作用して自分も理想化された父親のように生きたいと望む端緒になったり、そういう女性にとって異性との性行為が、一種の内なる父殺しのような罪責感をともなうといった心の機制について、ここで何かを語るような知識も用意もないが、作者は「私」に、<彼女>と「私」の心のこうした機制の共通性について確信をもって語らせているように思える。「(わたしたちの父よ)」という言葉は、とても深いところからでている。そして、この言葉の「わたしたち」の像が、ひとつの鮮明なイメージとして結ばれたとき、そこからあるゆるやかなひろがり、共苦の感覚とそこから抜け出るための希求の力への親和の感情のようなものが訪れる。この作品の最後の連の「「私」たち」の造形は、ある種の宗教画のような美しさと、迫力に満ちている。
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「誰とも充足できない」「私」は、まさにそのことにおいて苦しみ、そのことから逃れようもなく生きて自壊するように果てたひとりの他者の像を、ある時期自らの内面で生きたことによって「私」たちを発見する。それがこの詩集の静かな終結部の描く緩やかな曲線だ。
かっては、作品のなかに、およそ負のイメージとしてしか登場しなかった「他者」たち(「空地」(94)の中に登場する浮浪者のような男や、「恋びと」(94)に登場する顔をできもので腫らした女、「品川駅」(94)の「私」が感じる視線恐怖に象徴される強い被害感など)が、この時期の作品では、ある意味で相対化され、共苦をわかちあうような存在としても描かれている(「深夜バス」(99)の後半、「Happy 99」(2000)の前半のさまざまな境遇にある女性達の記述」など)。<彼女>もまた、「私」にとって特別な存在でなく、多くの「他者」たちのひとりとして、登場するようになる。
首都高から見える
赤く、赤く電飾された東京タワーは
皮膚を剥がされた人体のようだ
ひりひりと感じている
この夜の孤独を(なんて陳腐な言葉!)
けれど陳腐な言葉でしかもう私たちは
誰とも繋がることはできないのではないかと
ときおり底知れぬ無力感に襲われてしまう
----元気ですか?
----今どこにいますか?
----特に用事はないけれど......
スカイメールが飛び交う
2000年の東京にはぼたん雪が降っている
(私はあなたと繋がりたい)
事故渋滞八Hの環状線
列に並ぶ車のボディーを頭の中で消してみる
同じ姿勢で前方を見ているあなたも私も
透明な椅子に腰掛けている
支えるものが何もないことに気づけば
たちまちここから崩れ落ちてしまう
誰かの尻の重みを膝に感じている
誰かの膝の堅さを知りに感じてる
上空から見れば私たちは寡黙な
冬の首都高に連なる環状の人間椅子
(私はあなたと繋がりたい)
真夜中の東京タワーには
死者たちの霊が集まってくるという
アパートの空室で殺されていた
東電OLの霊も
今夜はぼたん雪に濡れている
赤く、赤く燃え続けるTowerに
この世紀の終わりの雪が殺到する
----元気です。
----私はここにいます。
----あなたを愛しています。
(「Toewr」より)、
「私」の「孤独」が癒されたわけではない。スカイメールに象徴される表層の言葉は賑やかに都市の上空をとびかっているけれど、相変わらず思いを伝えるような言葉の届かない無力感に「私」はときおり襲われる。赤いネオンに浮かび上がる東京タワーが「皮膚を剥がされた人体」のように見えてしまう感受性の呪縛から解放されてもいない。それでも、たぶん「私」はひとつの苦しい「私」と<彼女>の「物語」を書き終えたことで、すこしだけ「わたしたち」の方向に抜け出た場所にたち、新しい視座に静かに向き合っている。
付記)
2002年の春に東京都写真美術館で、映画「ひとりね」(原作 馬場當・脚本 馬場當、柴田千晶(共同執筆)・監督 すずきじゅんいち・主演 榊原るみ 米倉斎加年)を見て以来、柴田さんの詩集『空室』はいつか読んでみたいと思っていた。ネットのブックウェブで注文したが品切れということがあり、これでなかば諦めかけていたが、幸いなことに、今年の3月はじめに、ミッドナイト・プレス社主催の詩の朗読イベント「midnightpress LIVE Vol.1 柴田千晶、『空室』を読む」の会場で、著者から直接購入することができた。
そういう経緯で、私がこの2000年10月に発行された詩集『空室』を読んだのはつい最近のことに属する。『空室』を一読して、この詩集の収録の連作詩のテーマに深く関わっている東電OL殺人事件の詳細を知りたいと思った。ちょうど97年の事件の発生後ほどなくして「新潮45」に掲載され、長期連載されたルポを、3年後にまとめた佐野眞一『東電OL殺人事件』という本があることを知り、さっそく入手したところ、15刷を数えているロングセラーになっていることに驚いた。
『東電OL殺人事件』は、97年の3月に渋谷円山町のアパートの空室で起きた殺人事件について、事件の発端からネパール人容疑者の逮捕、裁判の過程を経て無罪判決に到るまでを追ったルポルタージュだ。「新潮45」に97年6 月号から99年11月号まで10回にわたり断続的に長期連載された「ドキュメント『堕落論』東電OL殺人事件」をベースに大幅に加筆した稿(第一部〜第三部)と、裁判の論告求刑、最終弁論、新たに書き下ろしの第四部からなっていると、あとがきにある。本の骨子は殺人事件で逮捕されたネパール人容疑者を冤罪とみなす立場から、容疑者や事件関係者や現場の取材を重ね、著者なりの推論を組み立てて展開しながら、無罪判決が下されるまでの公判を傍聴した記録を綴るといったものだが、同時に殺人事件の被害者女性の経歴や生前の行動の取材にも多くのページがさかれている。帯の言葉を借りれば「エリートOLは、なぜ娼婦として殺されたのか?逮捕されたネパール人は真犯人なのか?」という二つの問いが提起されている本ということになるのだが、前者の部分こそ、この事件についての著者の関心の的であったことが、あとがきに記されていて、書き下ろしの第四部「黒いヒロイン」の後半部がそのまま「東電OL転落の軌跡をあらためて追った」稿として加えられていることからもわかる。第四部「黒いヒロイン」の第七章「対話」では著者と精神科医の斎藤学氏との対話が収録されていて、そこで斎藤氏は、被害者女性の行動を精神科医の立場からひとつの症例のように読み解いた解釈を示している(斎藤氏はこの対談の後に、自著『家族の闇をさぐる』(小学館 2001年3月20日発行)の「第10章 母を蔑む女たち」の後半で、Eという女性の名前で、この被害者女性についての分析をされている(後述)。)
また、その後も「新潮45」に断続的に掲載されたルポ6回分を骨子に、書き下ろしといっていいほどの大幅の加筆をして単行本化された続編の佐野眞一『東電OL症候群』(新潮社・2001年12月発行)は、この連載ルポのひとつの柱である殺人事件の容疑者をめぐる裁判過程の推移(後に一転して有罪判決が下された)の取材報告であるとともに、前書『東電OL殺人事件』の読者の反響を紹介する部分にも多くのページがさかれている。医療機関主催のシンポジウムで佐野氏が、読者の反響に著者自身も驚かれたと話されている個所があり、印象に残ったので、すこし長くなるが引用してみたい。
「ところで、今日はみなさんにぜひお話ししたいと思ったことがあります。いま出版不況といわれている状況のなかで、この五百頁近くある分厚い本が売れていることは、それ自体驚異だとよくいわれます。それよりも私が一番驚いたのは、ものすごい数の読者カードが寄せられてきたことです。ここに一部持ってきましたが、ほとんど全員が女性です。
きちんとした統計をとったわけではありませんが、この本の読者の七割から八割は女性だと思います。渡辺泰子さんがいま生きていれば四十三歳になりますが、三十代後半からの、つまり渡辺泰子さんと大体同世代の方が、非常に熟読しているんです。その世代の女性にとって、もちろん男性にとってもですが、いまは非常に厳しいというか、きつい世の中なんですね。男女雇用機会均等法なんていうことがいわれてもう十五年近く経ちますが、その嘘なんかも全部わかってきちゃった。そういう職場で働く女性がいま相当にきついんだという思いを、殺された渡辺泰子さんに仮託して手紙を寄せているような気がします。
この手紙をここで読みたいんですが、非常に多いので全部紹介するわけにはいきません。とにかくみなさん、たたきつけるようにして書いている。特徴的なのは、自分の人生を実に詳しく書いていることです。私はこれこれこういう者です。いまこういう年齢を迎えました。自分にはこういうことがありました。たとえば泰子さんと同じように、私は拒食症にかかりました。あるいはアルコール依存症にかかりました等々いろんなことが書いてあるんです。そして最終的には家族の問題、特に父親との関係をかなり赤裸々に書いてくるんです。
私は、渡辺泰子さんというのは、現代の巫女だと思っているんです。彼女はもうこの世にいないわけですけれど、この本を通じて彼女と対話すると、自分の内面の闇を語りたくなってしまうような、そういう女性じゃないかと思うんです。
たとえば三十代から四十代の女性たちは、親との愛情の葛藤、早すぎる結婚、結婚後のみだらな性関係、拒食症による劇やせ、アルコール依存症等、いずれも泰子さんと似たような所を歩いていると、版でついたように告白してくる。これほどおびただしい人たちが渡辺泰子さんと似た状況、もちろん泰子さんと違って彼女たちは売春婦として街頭には立っていませんが、それとすれすれの状況にいるということに私はあらためて気づかされた。これはまったく予想もしなかった反響でした。」
(『東電OL症候群』の第二章「分析」より)
『東電OL殺人事件』は、先に書いたように内容的にいうと30回に及ぶ公判の傍聴取材を骨子にした冤罪の疑いの濃い殺人事件裁判のルポルタージュであるにも関わらず、その感想を書き送ってきたのがほとんど女性だったということには、著者ならずとも驚かされる。そのうえで私の注意をひいたのは、「自分の人生を実に詳しく書いている」という特徴があるという、読者たちの手紙のもつ表現としての意味あいだ。著者が殺人事件被害者の女性を「彼女と対話すると、自分の内面の闇を語りたくなってしまうような」「現代の巫女」と考えるのはそれなりに理解できるが、その像は、生身の彼女自身というよりも『東電OL殺人事件』という本の中で作り上げられた言葉としての像であるだろう。言葉としての像が、読者に言葉としての自己イメージを語らせるつよい喚起力をもつ。そのとき、たぶん著者が『東電OL殺人事件』のあとがきで書いているような表現の方法の問題が関わっている。
「私にとって殺された渡辺泰子は、謎という水を満々とたたえて決壊寸前にある巨大ダムのような存在だった。それを決壊させずに、謎は謎として読者の前にそのまま運ぶことはできないか。私はそのことに、もっといってしまえば、そのことだけに腐心した。事実という升のなかに謎を汲みあげる。事実だけで謎の喫水線を示しだす。もしそれができたら、ややもすると事実だけにとらわれて痩せていくノンフィクションの地平は大きく広がる。私にはそんな不遜といってもいい思いもあった。」
読者の手紙を表現としてとらえたとき、それが痛切な叫びにちかいような自己表現であることが想像されるが、その赤裸々な生の声は「ややもすると事実だけにとらわれて痩せていく」という側面をもってしまう。もちろん書く人は、優れたノンフィクションなどを書こうとしているのではないだろう。しかしここですこしだけ注意を留めておきたいのは、他者に届けられる言葉としての表現の「仮構性」ということだ。そのことは、やはり佐野氏の連載ルポルタージュの真摯な読者のひとりであったと思われる柴田さんの詩集『空室』が、ひとつの仮構の劇(ドラマ)の展開という方法で編まれていることに目をとめてみた、この稿の動機と無縁というわけではない。
***
『東電OL症候群』には、詩集『空室』を柴田さんから贈られたことの記載や好意的な詩集評と共に、著者の柴田千晶さんへのインタヴューも記載されている。その一部を、以下に引用させてもらうことにする。
「----「<彼女>は私の言葉だったのかもしれない/いいえ<彼女>は私の叫びだったのかもしれない」こういうフレーズが出てくる詩がありますが、柴田さんにとって泰子さんはどういう女性なんでしょう。
「私は詩を書くことで他者や世界を理解してきました。詩を書くことで自己と現実世界との距離、違和感を自分自身のなかで修復し再生してきました。そのとき手がかりになったのは『性』でした。『性愛』を通して他者との関係を修復する、世界との関係を修復するということをずっとやってきました。それを泰子さんはいきなり自分の肉体でやってしまった。そんな気がしています。
私たちはリアルな身体を感じることができずに、漠然とした不安、漠然とした不幸を感じて日々生きています。けれど泰子さんは漠然とした不幸というぬるま湯につかっていることを嫌った......。自分自身の孤独をぎりぎりまで突きつめて、自分の肉体を生ききろうとした。そこに私は圧倒されました。そこまでしなくても人は生きていけます。しかし、本当にそうだろうか?漠然とした不幸をかかえたままで本当に人は生き生きとした自分を生きることができるのだろうか。そういう疑問を『東電OL』は私に突きつけてきました。」
(佐野眞一『東電OL症候群』(新潮社)より)
私が『東電OL症候群』を読んだ印象からすると、男性に互して仕事一途にうちこんでいた女性が、あるとき職場で強いストレスを感じるいくつかの事情が重なったことを契機に、その緊張の糸がきれ、逆方向にやはり一途に走っていったという感じがしている。彼女の示す一途さ、律儀さは、「自分自身の孤独をぎりぎりまで突きつめて、自分の肉体を生ききろうとした」人の自己完結した精神の一貫性を示しているといえるかもしれないし、たぶん精神医療の側からいえば他の多くのケースにみられる症例と共通項をもった「病態」ともみなされうる(斎藤学氏は『東電OL症候群』のなかで晩年の彼女の二重生活ぶりを、てのこんだ「慢性の自殺」だったと記している)。私は「現代の巫女」や死に至る症例としてでなく、ごく普通の人として生きた彼女の日々の哀歓や感情の振幅を思い浮かべたい誘惑にかられるのだが、そのことは語らずにおこう。以下に精神医学者の立場からの斎藤氏の解釈を『家族の闇をさぐる』から引いておくが、便宜上、私の要約をふくめた部分引用(括弧の中の言葉が引用部分)の形にしたので、関心ある方はぜひ原著にあたられたい。
E(被害者女性)は19歳の時父親を失っている。深い父への愛着は、かって愛の対象であった母への裏切りであり、それによって罪悪感をうみ、様々な精神生活の性向(夢、症状、錯誤行為)として取り憑く。「罪悪感が置き換えられて不潔恐怖になるという経路をたどり、異常な潔癖症や確認癖が生じてくる。」こうした潔癖者は、一方で混沌を怖れながら、憧れている。「それをしない、というよりできないのである」。それでも彼等は自らの生の挫折を感じ、絶望した時に、張りつめた糸が切れるように、汚濁のなかに身をさらすことがある。
「佐野氏の言う、Eの「堕落」とは、この種の抑制解除であり、「汚濁癖」であったと思われる。」
「母を捨てて、父と一体化するという無意識な幻想は、母の温もりへの裏切りとなるから、意識にのぼりにくい罪の意識と、それに応じた懲罰願望を生む。」
「合理性を欠いた懲罰願望ほど厄介なものはない。それは神戸の少年Aの場合にも見られたように、多くの人々を奇怪で有害な行動へと導く。Eのような摂食障害によく見られるのは自傷行為(手首、腕、胸や大腿を刃物で切ったり、タバコの火で焼いたり)と万引きだが、売春もそのひとつである。」
「そういうわけで、実際の死の数年前からEは極めて死に近いところにいたと思う。社会や会社はEの思うとおりに動かなかったが、自分の身体なら緻密に管理し、意志の奴隷として奉仕させることができる。自殺を自らに禁じていたかに見えるEにとって、あとは肉体の死をもたらすきっかけを待てばよかった。」
(斎藤学『家族の闇をさぐる』「第10章 母を蔑む女たち」より)
佐野氏も斎藤氏も、著書の中でいちばんショックだったと書いているのは、母親が彼女の売春行為を知っていたということで、その母と妹と同居している家に彼女は毎晩どんなに遅くなっても帰宅した。この母と娘の関係については、斎藤氏は「被害者は私の患者ではないので、彼女と父母の関係はわからない。」「かといって、その先を知ろうと悪あがきをすることは、ご遺族の立場を考えれば許されない。」とされていて、精神的な「いじめ」だったというような推測以上のことは語られていない。柴田さんはたぶんこの事情(亡父を介した娘(「私」)の母に対する葛藤)を「骨なら愛せる」という作品で象徴的に書ききっている。
「(骨なら愛せるというのか)」。この言葉を柴田さんは作品の中で「私」に「私のことをときおり父さんと呼び間違える」母にむかって語らせているが、この微妙な設定は興味をひく。もし被害者女性の母親が彼女のことを父さんと呼び間違えるようになったとしたら、というよりも、そうした想像の力を彼女が引き受けることができていたら、斎藤氏が「慢性の自殺」といい「あとは肉体の死をもたらすきっかけを待てばよかった。」と断じる「彼女」の破滅的な行動も変わっていたかもしれない、とは思ったことだった。だが、「彼女」には、そういう時間は与えられることがなかった。

柴田千晶詩集『空室』(ミッドナイト・プレス 2000年10月25日発行)
参考)佐野眞一『東電OL殺人事件』(新潮社・2000年5月発行)
佐野眞一『東電OL症候群』(新潮社・2001年12月発行)
斎藤学『家族の闇をさぐる』(小学館・2001年3月20日発行)
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