[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]




関富士子「キョウコ 1−5」ノート   



 関富士子さんの新詩集『女-友-達』(2003年6月16日発行・開扇堂)を読んだ。前詩集『ピクニック』(2000年8月10日発行・あざみ書房)以来3年ぶりの詩集だが、収録作品は、10年ほどの間に書かれた作品から選ばれていて、ある意味では、『ピクニック』の姉妹編といえると思う。

 関さんはいろいろなタイプの作品を書かれているけれど、この二冊の詩集では、エロスというテーマを考えてみることができそうだ。おおまかにいうと、男女間のエロスをうたった詩集が『ピクニック』だとすると、『女-友-達』は、女性や女性同士のエロスが主にうたわれている。エロスという言葉でここでいいたいのは、性愛という感情も含めた、人の情念の領域のようなものなのだが、そうした他者にむけられる感情は、深いところで本能的な衝動と繋がりながら、表層では、相互的な関係心理の甚大な影響をこうむる。つまり社会的な様々な関係やイメージが、エロス(情念)の自然な発露を遮断したり、逆に赤裸々な記号のように拡散したりしている世界に現代は久しく前から入り込んでいるのだと思う。

 このあまりに自然から分離されたり、またあまりに関係を削いで即物的に性の欲動と結びつくだけになってしまった言葉やイメージの世界を、ある種、自分で納得できるような(というのは何度も反芻できるような、というような意味だが)形で回復しようとする試みを、かりに「物語」と呼んでみるなら、現代では、そうした「自分」の「物語」が様々な形で求められているといえるのかもしれない。

**

 『女-友-達』には「キョウコ 1−5」というとても印象的な連作の散文詩が収録されている。小学校4年のときに「わたし」(ふーちゃん)は、同級生たちから陰湿ないじめを受ける。ふーちゃんの体には一兆ボルトの電気が流れていて、触れると感電死する、ということを誰かがいいだし、男の子たちがわざと仲間を「わたし」のほうにつきとばし、つきとばされた子は大袈裟に苦しがって身もだえしてみせる。このゲームは執拗に長期にわたって続けられ、「わたし」は「ほんとうに死にたいと願った」とある。

 このエピソードが語られている「キョウコ 1−5」の「4」の部分は何度読んでも胸にせまってくるところがあるが、この悪夢のような出来事の描写がやりきれないのは、簡潔に言葉をきりつめたテンポのある文体がリアルに出来事を再現していると同時に、事態の推移の本質が一種逃れようのない不可避な流れとして、いじめの被害者の側から的確に把握されているところからくるように思える。「初めはちょっとした遊びだった。」しかし、ゲームは続けられ、やめようとした者も、容赦ない仲間はずれにされてしまい、「しまいには義務的に嫌悪や憎しみやあきらめととも演じられる。」やがて、「中学生になって、、、彼らは魔法を解かれて、ふつうのはにかみがちな少年に戻っていった。」と、いうように。

 「キョウコ 1−5」は、このなんともやるせない、とはいえ現代の小学校ではありふれているといえるのかもしれない集団的ないじめ(特定の子をバイキンよばわるするような)のエピソードを中核にしながら、中学生になって、(触れると感電死するはずの)「わたし」を、男の子たちをしりめに最初に抱きしめてくれた(魔法を解いてくれた)キョウコという女友達の「謎」についての詩であるといっていい。

 集団催眠にかかったような小学校のいじめ体験、そこには本当は「謎」も「魔法」もない。遊びではじまったゲームが、ゲーム自体のもつ排除の規則によって延々と続けられただけで、ゲームの参加者たちが信じているのは「一兆ボルトの電気が流れている体もつふーちゃんの実在」ではなく、ただ触れたら倒れるふりをしなくては排除されるというルールのほうなのだ。その力学には集団としての(大袈裟に言えば類としての)人間のふるまいかたの原型のようなものさえみることができるだろう。けれど「キョウコ」は違っている。

 「わたし」がクラス集団から執拗ないやがらせを受けていたとき、キョウコはどんなふるまいをしていたのだろう。仲間を「わたし」の方につきとばすようないやがらせは男の子が主体だったから、それをとがめることができずに傍観していた(と思える)同じクラスの女の子たちの中にいたのだろうか。作品では、そのことはふれられていないが、中学校時代のことと思える「めかくし」のエピソードが、詩の「1」の部分に描かれている。「わたし」が教室でぼんやりしていると、ふいに忍び寄ってきたキョウコに背後から目隠しをされる。それはゲームだとわかっているのだが、「わたし」はそうされることがぞっとするほど嫌いで、目隠しされるたびに「わたし」は「深い孤独」につきおとされ、「キョウコをころしたい。」とさえ思う。しかし「だあれだ」と問われ、「わたし」がするのは元気で楽しげに「キョウコ」と答えることだけだ。

 「わたし」にとってキョウコは、かって自分に触れると感電するといいあっていた男の子たちの前で、平然と自分を抱きしめてくれた女の子で、その時、「この幸福を一生忘れない」と「わたし」に思わしめた存在だ。そういう友達だけに「わたし」はキョウコに嫌われるのが恐くて、キョウコに強いられる「目隠し」ゲームを拒めない。一見そういう心理的構図が描かれているように思える。それにしてもこの「目隠し」ゲームには、小学校のときの集団いじめを裏返して延長したようなところがある。

 「わたし(ふーちゃん)」には「けがれた1兆ボルトの電気が流れている」から触られると感電してしまう。ということは、「男の子たち」にとっての「わたし」の身体は、禁忌の対象である。ところが、キョウコは、「わたし」の身体に接触することで、その禁忌を解いてくれた存在なのだが、そのことで、新たに「わたし」に特権的に目隠しする(触るもの)、として「わたし」の前にあらわれる。しかし「わたし」は目隠しされるのが「ぞっとするほど嫌い」なのだ。こんな形でなく、「明るい教室でキョウコと向かい合いたい。」と「わたし」は願っている。ここで、そんなことをくりかえすキョウコを「ころしたい」とさえ「わたし」が思うのは、不本意な(というのは「わたし」自身の承認をうけないような)身体的な接触に対する「わたし」の深い体験的な嫌悪感や恐れからくるのだと思えるが、長いいじめの時期を通じて、自然な他者との「接触」行為そのものは、逆に「わたし」の潜在化された願望となっていて、そのことが望むかたちで唯一成就されたキョウコに向けて「わたし」の感情が大きく傾いていったことには注意しておいていいように思える。

**

 「キョウコ 1−5」は、小学校4年から中学にかけての年齢の時期に、ある契機で「わたし」と仲良くなった「キョウコ」という女友達との関係を、いつくかのエピソードを集めて綴った物語的な散文詩だ。その中でキョウコは、小学校時代のいじめに苦しめられ絶望しきって中学に入学した「わたし」の前に救い主のように現れ、急速に親しくなるが、どこか謎めいたふるまいをする少女として描かれている。この謎は、「わたし」には、「わたし」がキョウコを好きになる理由は明白なのに、なぜ「わたし」がキョウコに好かれる(好かれた)のかわからない、という根源的な(あるいは関係心理のもつ普遍的な)不安からきているように思える。物語としていえば、そういう場所におかれた「わたし」が、自分の中に肥大化したキョウコの像(イメージ)からさまざまな過剰な幻想をつむぎだす、という体裁をとっている。「わたし」の顔が、キョウコの顔とうり二つだという挿話にみられる、「わたし」とキョウコの同一視の願望や、夢に見たキョウコの顔が、「わたし」のかかえる精神的な負の部分全体を象徴するようだったという、いわばユングのいう元型のような夢の挿話や、自分の書いた詩の言外の意味をキョウコが即座に汲み取ってくれて幸福感を感じた、という美しい最後の挿話は、物語的な詩の言葉の水準で統一されて、全体として幻想的なまとまりを感じさせられる作品をつくっている。そしてその幻想的な物語のしたに、たぶん「作者」にとっての原「キョウコ」がいて、この「キョウコ」という少女が、詩を書くことの故郷のようなところに今も立っているのではないか。「キョウコ 1−5」は、そういうことを、よくここまでと言う感じで掘り下げてみせてくれた作品のように思える。この詩を教科書の副読本や教材に採用するような小学校の先生はいないだろうか。


付記)

 文中でテキストにハイパーリンクをつけさせてもらったように、関富士子さんの新詩集『女-友-達』(2003年6月16日発行・開扇堂)の収録作品は、すべて関さんのホームページ「raintree」で読めるし、その中の関富士子の新詩集『女−友−達』出版のお知らせというページには、ネットで読むのに便利な「目次」も用意されている。これはある意味で画期的なことだと思う。詩集を出版しても部数は限られていてるが、もし入手できなくても読みたければネットで読むことができるし、ダウンロードすることもできる。またホームページで作者の近作も読むことが出来る。すくなくとも、詩を発表する側として望めばそういう手だてができる時代に入っている、ということの、ひとつの明快な筋道をしめす試みのように思えるからだ。

 ところで、今回とりあげた関富士子さんの新詩集『女-友-達』と収録作「キョウコ 1−5」という作品については、今回(リタ9号)からメンバーに参加された倉田良成さんも、ご自分のホームページで書評「キョウコとは誰か――関富士子詩集『女―友―達』」を掲載されている。最初この書評をリタに掲載したいということで倉田さんからお話があり、その後ネット上でテキストの重複を避けたいという私の判断で、倉田さんには急遽他の作品を寄せていただいたという事の経緯があった。倉田さんにはお手数をおかけしたが、結果的には倉田さんの短歌や俳句作品が読めることになって喜ばしいことだったと思う(^^;。私が拙稿を仕上げたのはその後のことで、奇しくも倉田さんの書評と良く似たテーマを扱うことになった。奇しくも、というのは、この時期に自分の感動した詩集を選んで関心のおもむくままに書いたら、という程の意味だが、視点は違うとはいえ、詩集が沢山でている状況でこういう相似も珍しいかもしれない。詩集『女-友-達』の読み解きの試みとして拙稿と併せ読んでいただければと思う。

 時間的な流れでいうと、関さんは前詩集『ピクニック』以降に新しい展開をみせはじめたように思える諸作品(「河の風景」、「水門を閉める男」、「燃え上がる森」や、「燃やす男」の系列)を発表されている(それら作品も関さんのホームページですべて辿ることができる)。私としては、新詩集にそうした系列の作品が掲載されなかったことをちょっと惜しみたい感じもしたのだが、この詩集『女-友-達』の成立事情について、関さんは、「関富士子の閑月忙日」のなかの「7月20日(日) 新詩集『女-友-達』発送作業終了」の項で書かれている。詩集のあとがきとしても、ふさわしい文章のように思えるので、以下に引用させてもらって筆(ではないが)をおきます。


 「今回の詩集は、10年ほどの間に"rain tree"に書いたもの、清水鱗造さんの個人詩誌『Booby Trap』や、同人誌『gui』、三井喬子さんの個人詩誌『部分』、倉橋健一さん編集の文芸誌『イリプス』、北沢十一さんの個人詩誌『地上』、水橋晋さんの個人詩誌『巡』、『現代詩手帖』、インターネットの詩のサイト『蘭の会』に書かせていただいたものから、テーマが共通すると思われるものを集めてまとめた。
とはいっても、この詩集の場合、初めからこのテーマと決めて書いたわけではない。日々の生活の中でそのつど直面する問題があって、生きていく上で、これを書かなければ先に進めないというかなり切迫した動機があった。作品としての完成度は低いかもしれないが、作者としては、書いたときの切実感が甦って捨てられなかった。それらが年月が経つうちに積み重なって、何らかの主張を形作っていく。
結果的に、作者であるわたし自身の性格がかなりはっきり出ていると思う。関富士子ってこういう人ね、と思ってもらってもけっこうである。」

ARCH

関富士子詩集『女-友-達』(2003年6月16日発行・開扇堂)  







[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]