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古谷実の長編漫画『ヒミズ 1〜4』ノート   





 古谷実の長編漫画『ヒミズ』(1〜4)は「ヤングマガジン」誌に2001年9号から2002年15号にかけて連載された作品で単行本は全4巻からなる。

 漫画の舞台は現代の日本。主人公は住田という中学三年生の少年で、物語の冒頭からこの住田少年が「自分が特別だと思いこんでいる(普通の)人間」が許せない、という観念にとりつかれていることが明かされる。

 住田少年(以下住田と記載)が彼のクラスメートで親友の夜野正造に語るセリフによると、


「ほとんどの人間は、極端な幸不幸にあうことなく一生を終える」のに、自分が「特別な人間」だと思いこんでいる」、「(そういう)「普通」の連中のずーずーしいふるまいがどうしても許せん、ぶっ殺してやりたくなる」


ということになる。

 こういう住田の思いは、ひょんなきっかけで知り合った同学年で漫画家志望の赤田健一や、赤田の従兄弟でやはり漫画家志望のきいちへの強弁ともとれるような非難として吐露される。才能もないくせに漫画家(特別な人間)になりたいという「夢」を追いかけるのは、まわりに迷惑をかけるだけだ、というのだ。

 物語でしだいに明かされていくのは、住田の家庭が、どうやらギャンブルで身を持ち崩した父親のせいで崩壊寸前であるというような事情だ。住田は川縁で質素な貸しボート屋を営みながらパートで働いている母親とふたりで暮らしていて、父親はたまに金をせびりに家にたちよる。住田は、父親のことを「生きてると人に迷惑ばかりかけるクズ」と呼ぶが、このギャンブルにいれこんで自分の家庭をかえりみない父親への憎悪が、住田の「夢を追う人間」や「自分が特別だと思いこんでいる人間」に対する過敏な嫌悪感の根底にあることがみやすい構図になっているとはいえよう。

 また、住田が友人のきいちに、自分は中学をでて高校に進学せず、家業である貸しボート屋をつぐのだ、とうち明けるシーンがある。


「オレはここでのんびりボートを貸す。たぶん一生。。ここには大きな幸福はないが、きっと大きな災いもないだろう。オレはそれで大満足だ。」


 だが、このちょっと大人びた人生設計の宣言は、本音のところでは苦労して家を支えている母親の手助けをするために高校進学を断念した自分の決意の合理化であり、そう言明することで、自分の未来を理想化したいというような願いでもあったように思える。

 実際のところ住田は、人々を楽しませる(社会に貢献する)ために漫画家になりたいというきいちの夢を、その動機の純粋さゆえに立派だと思い、そのことを夜野に告げもする。しかし一方内心で「オレは勝負しない」、「オレは一生誰にも迷惑をかけないと誓う!だから頼む!誰もオレに迷惑をかけるな!」と独白する。

 ここまできて、住田という14歳の少年の口にする人生哲学のようなものが、かなり複雑な個人的環境ゆえに生まれてきたことがわかる(註1)。そこには、ある種の刻印がきざまれているのだ。たぶん、この物語のはじまる前に、その刻印は住田の胸に深く穿たれていて、すべてを決定している。物語ははじまったばかりだが、あとは定められた刻印のうながすままに進行するばかりなのだった。




 ここからは、文章の展開上、漫画のストーリーの顛末を書いてしまうので、いわゆるネタバレになることをお断りしておきます。

 物語は、住田の母親が、家業である貸しボート屋の常連の釣り客だった男と懇意になり、住田をおいて蒸発してしまうところから大きな展開をみせる。ひとり残された住田は、生活のため学校にいくのをやめて、新聞配達をはじめ、家業である貸しボート屋をひきつぐ。

 「こんな事はな、、、前からウスウス考えていたことだ、、、、、特にたいしたことじゃねえよ」と住田は夜野に言うが、母の失踪によって中学を卒業したら貸しボート屋をつぐ、という唯一思い描いていた自身の未来像の、たぶん口にはださなかった大きな根拠(母親を助けること)が失われたわけで、この突然の母親の蒸発は、これまで住田がよりどころにしていた足場がなくなったような事態を意味していただろう。またその事態は、住田にとって観念的には「誰にも迷惑をかけたくないし、またかけられたくもない」という未来の夢の早すぎる実現であると同時に、現実的には、一般的な社会人としてたどるべきルートから排除され、社会からはしかるべき施設や親族に保護されるべき孤児とみなされ、「誰かに迷惑をかけ、またかけられる」ような不安定な境遇におかれたことを意味していた。

 事情を知った友人の夜野や、以前から住田に好意を持っていた同級生の茶沢景子は、当然のことのように、学校に来なくなった住田を気遣う。たとえば夜野はスリをしてつくった金を住田に渡そうとしてつっぱねられたり、茶沢は強引に貸しボート屋の手伝いを申し出て住田の家に通いはじめる。夜野はまた、住田の父親が六百万円の借金を取り立てられているのを知り、その金を工面しようと仲間と強盗に押し入った家ではずみで起きた殺人の共犯になってしまう。

 夜野が自らのおかした罪の意識に怯えているとき、住田にとって第二の決定的な転換が起こる。雨で客のこないボート屋でひまをもてあましている時(その前夜、住田は頭痛とともに父親を思い浮かべ「わかるか!お前はオレの悪の権化だ!死ね!死んで責任をとれ!」という内面の声に苛まれている)、母が蒸発したことを知らずに金をせびりにやってきた父親を、ブロックで撲殺してしまうのだ。

「冷静だ、、、実に冷静だ、、、罪悪感はない、、、ただ何より残念だ、、、よりよい未来のタメに今までがんばってきた日々や守りとおしてきたモノを、、、、、、今日すべてなくしてしまった、、、」「、、、、オレが普通じゃないからこんな事になるのか?、、、ちがうだろ?、、、オレじゃなくたって、、、、」 というのが住田の犯行直後の独白だ。

 ここまでが第二巻の後半で、以後第三巻、第四巻では、住田が一年間と期限をきめ、父を殺した後のオマケ人生として、「社会のタメになること」(人間のクズのような犯罪者を探し出して殺すこと)を実行しようとさすらい、そこで遭遇する様々な出来事が描かれるという流れになる。

 平然と店長の可愛がっている飼い猫を殺したり、自分がひそかに慕っている女性の恋人を襲って殺そうとするスーパーの店員野上や、貸しボート屋に一時住み込んだ痴漢常習者のホームレスの中年男塚本、監禁されているらしき若い女性とそれを助けようとするピザ宅配便の青年のエピソードや、神社の境内で首を吊ろうとする自殺志願の男。住田は「人間のクズ」を殺そうと都会を彷徨して、そうした人々に遭遇するが、殺す機縁が訪れないまま一年の猶予が過ぎていく。パチンコ屋で住田が働いているとき、従業員の女彫り師に刺青を入れて貰うストーリーや、道端に座り込んでいる若者たちと住田のいかにもありそうないさかいのエピソードなども含め、物語の後半を占めるこの部分が、絵柄も油ののっている感じでストーリーもゆるみがなく、いろんな意味で二十一世紀初頭の現在を呼吸している感じがするのだが、住田当人にとっては、殺伐した焦燥感にかられながらの徒労な日々のくりかえしで、現代の都市風俗がらみの犯罪現場めぐり、という様相がリアルに描かれている。

 物語が最後に盛り上がりをみせるのは、住田が自分で決めた一年間の期限が尽きて、放浪生活から(死ぬために)ボート屋に戻ってきた場面だ。そこでは茶沢景子が待ち受けていて、住田の父親殺しを警察に通報したことをうちあける。やってきた警官に住田は出頭まで一晩の猶予を乞い、その夜は景子に説得されたふうに装って、出所後のふたりの未来のことなど楽しく語らいながら眠るが、その明け方自殺してしまう、というところで物語は終わっている。




 この漫画「ヒミズ」は現代の都市近郊を舞台に、ひとりの少年の父親殺しの顛末を扱っている。主人公の少年の犯行に至る心理的な過程は必然のように設定されている。ギャンブル好きで身を持ち崩しほとんど家に寄りつかなくなった父親がいて、母親が働いてかろうじて家を支えている。中学三年の主人公の少年は当然ながら、そういう環境に自分たちを追い込んだ父親を憎んでいるが、その憎悪のうちけしのように、身勝手な父親像を一般化して「自分が特別だと思いこんでいる人間」を憎む、という観念(信念)を生み出す。この観念は、学校社会の優劣主義のようなもの、めだちたがりや、おべっかつかい、など、少年の身近にある関係からそのエッセンスを補強されていて、倫理的な骨格をもっている。人に迷惑をかけたり(父親のように)、逆に人から迷惑をかけられたり(自分たち母子のように)して生きているのは嫌だ。人間がそんなふうになるのは、才能もないのに夢や野心をもつからだ。自分はそうした人間にだけはなりたくないから、人生を降りることに決めたのだ、というように。

 少年がうみだしたこの観念は、その芯の部分がいわば切実な実体験からくる関係への否定性でぬりこめられている。そしてその分だけ過剰なものをかかえこんでいるといってもいい。人は「特別」であろうとなかろうと、多かれ少なかれ互いに迷惑をかけたりかけられたりするような存在としてしか生きていけないのだが、その度合いというものがうまく測れないのだ。

 もっともこれは観念の中だけで可能なイメージだといってもいい。実際に少年は彼を慰めたり力になろうとする友人たちと積極的に関係をたつわけではないし、そういう他人とのコミュニケーション能力(常識)を失うことはない。彼が望んでいるのは、結局のところ、関係をコントロールできる力(なにが迷惑でなにが迷惑でないかを自分で決定する意志)のようなものなのだ。

 このような観念をつくりあげることで、幼いとはいえ理論武装した少年は、現実にはもし「夢」をもって努力すれば高校も進学できたであろう環境にありながら、進学を断念することで、母を助け(迷惑をかけられている人を助け)「夢」などをいだかない立派な大人になることを願う。しかし、そういう思いは、母親の蒸発(男との失踪)によって無惨にも砕かれてしまう。

 少年は中学校への通学をやめて新聞配達をはじめ、昼間は貸しボート屋の仕事にうちこむ。そうして忙しく立ち働くことが、事態の深刻さに思い悩まなくてすむ唯一の方途であるかのように。このとき、少年は突然生きる目的を失った空虚感のうえで、忙しさと「観念」にすがってかろうじて生きていたように思えるが、父親がしたという六百万円の借金の取り立てにやってきたやくざとのいさかいで、このバランスが微妙に崩れはじめる。問題はまたしても父親なのだ。というより、もとはといえば、少年の抱く「ひとに迷惑をかけたくない」という観念も、父親への憎悪からはじまったものだった。観念のさけめから、その由来の本当の姿が顔をのぞかせる。「ひとに迷惑をかける男は殺されて当然だ」というように。

 この時、というのは少年が父親を撲殺したときのことだが、少年のいままで抱いていた観念が、憎悪している父を殺したい、という衝動を抑えるためにつくりあげられたものだったのだということが明かになる。と同時に、その観念の核の部分は破綻してしまい、別の奇妙な想念が姿をあらわす。それは実現されてしまった当のこと、つまり「(ひとに迷惑をかける男を)殺してしまった」そのことの合理化(父親殺しの否認)のために、新たに「ひとに迷惑をかけている男を(ひとりだけ)殺す」(殺さなければならない)という想念だ。そのことがなしえて、はじめて自分にとっての父親という特異な存在を殺したことの正当性が「観念」として一般化されるのだ、と。

 しかしこれはいかにも奇妙な要請ではないか。物語では、少年は自分が父を殺してしまったことで「特別」な存在になってしまったと感じ、世の中のどこかにいる「ダメな人間」をひとりだけ殺すことを自分で自分に課すことになる。しかし、ここにあるのは、本当は根拠を喪失した観念の抜け殻でしかない。少年の父親殺しには、ある種の内的な必然性(機縁)が確かに荷担していたが、世の中のどこかにいる「ダメな人間」を殺すことには、その根拠ともいうべき核の部分が欠けている。その想念の内実はせいぜい社会正義というような社会通念でしかなく、言い方をかえれば少年がいちばん嫌っていたはずの「自分を特別な人間だと思いこんでいる普通の人間」のものでしかないからだ。

 かくして、少年の殺人者志願の旅は、不備に終わる。そしてその結末もその過程の描写も「倫理」としての物語の要請にとてもかなうものになっている。少年が最後に、茶沢景子の愛情をふりきって自死するのは、「人にめいわくをかけたものは死ななくてはならない」という幼い自己倫理をまっとうしたものだった。




 この物語には時折、奇妙なひとつ目のモンスターがでてくる。このモンスターは少年の目だけに見える幻覚のようでもあるが、友人夜野が強盗仲間に殺されそうになるとき、その仲間の目に一瞬あらわれて夜野を救う働きもする。

 またラストちかくの場面では、主人公の住田少年と短い言葉を交わすシーンもある。このモンスターが何者なのか、と考えるといろいろなことが言えそうな気がするが、いわゆる「死の想念」(死に神)とでも言っておくのが無難な感じだ(註2)。たとえば三巻の96〜97ページには住田が中学校時代に、自分はめだたず、静かにやり過ごそうとしていたのに、それでも「死に神」と目があった、という短い挿話(過去の想起)が、モンスターの絵入りで描かれている。この死に神は三目で鬼のような顔をして長い乳房を垂らした女性だが、たぶん時折住田の目に映る異様な存在感をもったひとつ目のモンスター(こちらは物語の現在形にしかでてこない)の前身のように思える。

 死に神は、この世とあの世の媒介者で、住田の意識の間隙をつくように現れる。いわば死を司る存在で、住田が「死に神」と目があったときから、彼の運命は決定づけられていた、ということになる。これは、一応理屈の支配する現実の世界を舞台に描いたこの物語のなかで、ホラー漫画のようなミステリアスな効果をあげているが、それはたぶん、この物語全体を、ひとりの少年の「観念」と意志の死への傾斜を描いたものととらえると、その物語の展開の道筋を「宿命」(不可避性)としてファンタジックに補強しているというような意味あいになるだろう。

 物語には住田や夜野の夢のなかで、たとえば殺された血だらけの住田の父親や、夜野たちに殺された男などがでてくるシーンがあったりするのだが、そういう直接的な悪夢の中の亡霊たちと、この死に神は明らかに異なっている。いちばんあり得そうな解釈は、この死に神が、逆説的だが、住田の守護神(霊)のような役目を持っているということだ。この場合守護神の役目というのは、彼を死から守るというのでなく、彼の宿命(父親を殺してその後、特別な人間として他人を殺そうとするが殺せず、自殺する)をまっとうして生きさせるように働く、というようなことである。

 作品で描かれる住田の宿命とは、住田自身にてらせば、自殺(この世界の否認)への根深い願望だったということもできる。そういう見方をすれば、モンスター(死に神)は住田自身が生み出した自己意識の投影ということもできそうだ。モンスターが異形なのは、その本当の顔(住田自身の顔)を覆い隠すと同時に、この世に場所をもたない生(人間)というイメージの造形志向がもたらしたものではないだろうか。

 住田が父親を撲殺するのに使われるブロックは、ほとんどありえないことのように、貸しボートの船着き場の桟橋の棒杭のうえに出現する。ブロックをそこに置いたのは誰か。そう問うよりも、ほとんどありえないことのように、そこにブロックが置かれていたということ、そういう仕方でモンスターもまた住田の生に関わっているのだ。




古谷実『ヒミズ』1〜4(第一巻2001年7月23日発行・講談社 各巻504~515円)

註1)宮台真司と宮崎哲也の対談集『ニッポン問題。』(インフォバーン)の中で、宮崎氏は住田少年の家庭環境の貧困さに注目し、そうした環境にあるにもかかわらず住田が「毎日、大量の人間が死んでいるのに、『自分も死ぬ』と真剣に悩まないのは何故か」とか「宇宙の存在に意味があるか」といった「抽象的で実存的」な悩みももつ点に注目している。

「こうした底なしの絶望と諦念は、高等遊民など生存条件から自由な人間の悩みであって、貧者には無縁のハズだったんです。ところが、『ヒミズ』では底辺といっていい貧困層の中学生がそんな苦悩に呻吟している。これはエラい時代やなあ、と。」「『ヒミズ』が告知するのは、もはや高等遊民的な心の空虚が、とうとう最底辺にまで浸透したということなんです。」

 この見方は興味深く、ある意味でこの作品のもつ同時代性をうまくいいあてている感じがするが、宮崎氏のいいたいのは、作者が貧困家庭に育った中学生である少年住田の肉付けをするにあたって、そうした「抽象的で実存的」な悩みをもつ存在として描いたということが、逆に読者にとってほとんど不自然に感じられなくなっている、といった事態を示しているのだと思う。私の感じでは、住田の頭を占めているひとつの中心観念(父親に対する憎悪から生まれ育ってきた)が作品の冒頭から示されていて、その中心観念が招き寄せるように、中学生の思い描きがちな「抽象的で実存的」な悩みも吐露されているように思える。つまり、むしろ「底辺といっていい貧困層」という環境とその家庭内の事情ゆえに、住田は幼い頃から、「抽象的で実存的」な悩みをいだくような思念への道をつけられていたように思えるということだ。

 どうしたら人は人に迷惑をかけないで生きられるのだろう。なぜ人は人に迷惑をかけてしまうのだろう。父親の身を持ち崩した生き方をめぐる住田のそういう端緒の疑問が、夢をもつ人間、自分を特別だと思いこんでいる人間に対する憎悪に転化していったことは最初に書いた。夢ということで住田が考えていたことには、良い夢(きいちのように漫画家になって人に楽しんでもらうことで社会に役立ちたいといった理想の実現)も悪い夢(他者に及ぼす迷惑を顧みない利己的な欲望の実現)も同時に含まれていて、唯一それが許されるのは「特別な人間」だけだというものだった。同時にまた良い夢であろうと悪い夢であろうと、自分のおかれた境遇(現実)に照らして、そうした人間たちの夢につかれた営為を全否定できるような観念の住処を無意識に模索していたといっていい。そういう意味では住田少年の脳裏に宿ったこの観念は、むしろドストエフスキーの『罪と罰』に登場する貧乏学生ラスコーリニコフの脳裏に宿った奇妙な選民思想に似ているといえるのではないだろうか。

 もちろんラスコーリニコフは、自分が暗黙のうちに「選ばれた人間」(社会にとって有用な人間)であり、金貸しの老婆は、殺されても当然の「ダメな人間」だと考えていた点で思考の質はずいぶん違っている。住田少年の観念には、そうした上昇志向そのものが欠けているし、ラスコルニコフのように明晰な意志の力で殺人をおかすわけではない。しかし「ダメな人間」のせいで自分の世界や普通の人々が無限の被害を受けていると感じ、そのことに耐えているが、ある契機によって一線をこえてしまうという青年のいだく観念のドラマが描かれているという意味で、ふたつの作品は似通っているという印象をうける。

 ラスコーリニコフは、予審判事から、では「選ばれた人間であることを決めるのは誰か」、と問われる(「ところでひとつお聞きしたいんですが、その非凡人と凡人をいったい何で見分けるんです?生まれたときから何かしるしでもついているんですか?」(『罪と罰』)。この義(の観念)の裏側からたちのぼってくるような問いかけはあからさまなかたちで『ヒミズ』には登場しないが、あるいはモンスターの存在に象徴されるようにして作品の底に通奏音のように流れているのが読みとれると思う。


註2)前述の対談集『ニッポン問題。』で宮台氏がとくに注目しているのは、漫画に登場するのモンスターのもつ意味だ。興味深い指摘があるので、以下長くなるが氏の発言をいくつか引用してみる。


「おそらくモンスターは”人間のどうにもならなさ”仏教でいえば”無明”の表象なんだと思います。モンスターは「無明(世界の欠落)」を象徴するがゆえに、「外部(世界の境位=意味の地平線)」を思わせる。この作品は絶望的な内閉を描いているように見えながら、救いのない内閉を描き尽くすことで、むしろ「外部」の存在性を意識させる構造になっている。これが『ヒミズ』という文学作品の救済の構造です。」

「『ヒミズ』のモンスターが、これまたいつも微妙なところで出現するよね。分かりやすいところで出てこない。でも、読了すればモンスターが”不可能性の表象”だとわかる。「住田君がいい人?んなわけネエだろ」「善行を積めば救われる?んなわけネエだろ」「”ここではないどこか”がある?んなわけネエだろ」という具合に。」

「主人公の住田君が、茶沢さんと楽しい家庭を築いて小市民的な生活を送る可能性は、社会通念的には存在するわけ。”力”を獲得しようとすれば獲得できるはずじゃないですか。それなのに、なぜあのモンスターが最初から「不可能性」の刻印を押すか。答え。刻印は、住田君の”主観性”が押しているんです。そこが『ヒミズ』の興味深いところで、議論に価する部分だよ。みなさんにもないかな?いい学校に入れたり、彼女ができたりして、なんでもいいけど、これから自分が幸せになれそうだっていうとき、「んなわけネエだろ、オマエ」ってファントムの囁き声が聞こえることが。」

「そうなんだよ。モンスターがひょいと覗きこみやがるんだよ、外部から。だから人は外部を目指して彷徨(さまよ)い出て、神懸(がか)りの詐欺師にイカれたりするわけでね。現世(共同体的日常)に自足している加藤典洋や村上春樹がもっとも分からない部分。だからヤツら全共闘世代の連中は、オウムをいつまでも理解できない。」

「このマンガの同時代性もそこにあるのかもね。、、不幸な人間が幸せになろうとして、限られた選択肢からあるものを選べば、確実に以前よりも不幸になる構造があるからね。これが「グローバリゼーションの逆説」。、、かってのぼんやりとした閉塞感じゃない。構造的に出口がないことが「高等遊民」ならずともハッキリ分かってきたんだよ。『ヒミズ』はそれに対応する。だからすべての夢には、必ず「んなわけネエだろ」と囁くモンスターが随伴する。」


 「モンスターは”人間のどうにもならなさ”仏教でいえば”無明”の表象なんだ」という言い方はみごとだと思う。宮台氏の読み解きも宮崎氏同様、作品から同時代性を汲み取るという問題意識に貫かれていて、興味深い視点がいくつも述べられているように思う。

 私は、あらかじめある宿命のすじがきが住田には与えられていて、それをまっとうするように住田に強いたり導いたりする守護神のようなもの、としてモンスターが登場すると書いたのだが、この強いられる、という感じを若い世代の感じる時代の閉塞感に重ねあわせると、宮台氏の指摘のようなことが一般性としてもいえそうな気がする。ただ仏教に重ね合わせていうとすれば、この作品を読んで私がちょっと連想したのは親鸞のことだ。住田少年は、なぜか埠頭の杭の上に都合良く出現したブロックを手にとって、運命のめぐりあわせのように父親を撲殺してしまう。そして次には明確な殺意をもって一年の間街を彷徨するが、犯行を遂げることができない。この物語の構図は、「歎異抄」に登場する親鸞と唯圓房との対話のエピソードによく似ている。

 親鸞が唯圓房に、お前は私のいうことならなんでも信じるかと問い、唯圓が肯うと、それなら人千人を殺してみろ、そうすればお前は往生することができる、という。唯圓は驚ろき畏れ入って、おおせですが、この身の器量ではひとひとりも殺すことはかないません、と答える。それを聞いて、それなら何故私のいうことなら何でも信じるなどといったのか、と親鸞は問いつめる。

「これにてしるべし。なにごとも、こころにまかせたることならば往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また、害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこころのよきをよしとおもひ、あしきことをばあしきとおもひて、本願の不思議にたすけたまふことをしらざることをおほせのさふらひしなり。」(『歎異抄』より)

 人は機縁がなければどれほど殺そうと思っても人を殺すことはできず、逆に殺したいなどと露ほども思わなくても人を殺してしまうこともありえる。それは(ひとが思いがちなように)その人の心が善良だとか性悪だとかいうことのせいによるのではない。「ヒミズ」の作者は住田が「人間のクズ」を殺そうとして殺せないまま一年の間街を彷徨するというエピソードを、思うように生きられない時代の閉塞感や焦燥感の象徴のように描きたかっただけなのかもしれないが、『歎異抄』の親鸞の語ったとされる言葉に符合するところで、その意味合いは時代をこえた人の意志と宿命のストーリーとしても深い倫理的なひろがりをもちえているように思えたのだった。







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