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 関富士子詩集『音の梯子』ノート

            喉の形の井戸に降りていき木の葉の浮いた水を汲み上げた
              無言の身体から言葉が惜しげなく零れている
              木の葉には断崖から落ちていく人の瞬時の物語が刻まれている
              (詩集『音の梯子』所収「反射光」より)






 関富士子さんの詩集『音の梯子』には22編の多彩な詩作品が収録されているけれど、麗らかな春の日に墓地を訪れた子供たちの額に「死すべきもの」の印が刻印されるという冒頭の「絵暦さくら印の日に」からはじまって、苦しげな声で発声練習を繰り返す男を描いた末尾の「音の梯子」に至るまで、全体の印象は、死や別離や孤独、寂寥感といった暗い翳りのあるテーマへの傾斜をしめす作品が多く収録されているように思われる。付記には詩集収録作品について、「2000年以降に書いたものが中心となった。」とあるのだが、この印象をめぐって最初に注意しておきたいのは、必ずしもこの詩集の収録作が作者の2000年以降の詩作の傾向全般を象徴するものではないということだ。

 この2000年という日付にこだわってみると、詩集『ピクニック』がその年に発行されている(2000年8月10日)。ついで詩集『女-友-達』(2003年6月16日)、詩集『植物地誌』(2004年9月30日)が発行されている。この『音の梯子』という詩集の収録作は、おおまかにいってみれば、詩集『ピクニック』以降に発行されたこれら二冊の詩集の収録作品と同時期的に書き継がれたものであり、作者の2000年以降の詩作における傾向というものは、それら三冊の詩集全体を通して受け止められるべきだと思う。

 これら三冊の詩集を読み比べてみて、かりに詩作することを発声にたとえるなら、作者の(詩意識の)ふだんの語りくちにちかいのが『女友達』、意識的に注意ぶかく語っているのが『植物地誌』の声、さらに高音域や低音域の限界をたしかめるように語っているのが『音の梯子』というふうにいえるかもしれない。もちろんこれは思いつきの大雑把なたとえとして受け取ってほしいのだが、ただこういう言い方で言ってみてあらためて感じることは、やはり作者の音域の広さというようなことだ。多くの詩の作者は、ある音域で作品をつくることで、自らのスタイルをつくり、他の音域では語ろうとはしない。もちろんそれは個々の作品の価値やできばえとは無関係のことなのだが、その理由のひとつは、詩がうまれるという信憑の場所を、作者が自分の声のどんな音域に求めているか、ということがあるような気がする。

 言葉のうえで難解な作品があり、またすっとふにおちるような作品もある。そういう「意味」的な理解のほかに、また別のことがある。それは、その作品の声が、どこから発声されているか、というような「あたり」の感じである。この「あたり」の感じは、体験的なものだから(そういう了解装置は自分という受け手の側にしかないのだから)、それを客観的な尺度のようにつかうことはできない。けれどたいていだれもが自分なりに無意識のその「あたり」の感じを、「意味」的な理解につけくわえて作品を判断しているのだと思う。

 たとえついでにいえば作者の作品は「音の梯子」に登場するふたりの男のうち、どちらかといえば、「よく鍛えられて正確な深々とした足取りで」発声する「背を伸ばしていかにも熱心」な男の声に似ている。それには同時期に書かれた優れた連作詩集『植物詩誌』のような作品を思い浮かべればいいだろう。では、なぜもう一人の男が注目されるのか。彼が苦しげなのは、自分の地声や音域をこえて発声することが強いられているからだ。二人の男はほとんど分身同士なのだが(たとえば先導する男にとっても彼の音域の限界が試されればつらい試練になるだろうとは想像されることだ)、だそうとする声の出どころがちがっている。苦しげな男のおかれた位置は、この詩集『音の梯子』のいくつかの収録作で試みられた発声の場をよく象徴しているように思われる。




 なくなった詩友を悼む作品や自律して親元を離れていくご子息をテーマにした作品に挟まれて詩集の中間部を造っているひとつの系列と呼びたいような幾つかの作品群がある。「午後の光」「水門を閉める男」「梅を見に」「燃えあがる森」「河の風景」と一連になって続き、後半には「燃やす人」がある。河原や山野や丘陵、といったいわば自然を残す景観のなかに紛れるように歩み入って、木々や草花と親しむ。そういった現実の出来事や体験をベースにして、そこに密度の高い幻想や心象風景がもりこまれる。あるいみでこれらの作品も、そうした創作の手順を踏んで生まれた作品のように思われるが、これらの作品では詩集『ピクニック』所収の幾つかの作品でみられたような親密な植物と語り手との交感というような情感が消されている。景物が即物的に描かれることでよそよそしく殺伐なものになっている。「さっきまで沈黙の幸福にいた者が、無理に連れてこられたよう」(「音の梯子」)な、どこか意にそわない調子がかくされている。

 たとえば「午後の光」にはテーブルをまえに椅子にすわっている「わたし」に出来事らしい出来事はおこらない。視線は簡潔に周囲で起きていることを観察しているが、その観察は「わたし」とは無関係に過ぎていく。ただ無関係に過ぎていくことの描写だけで、「わたし」の心が何かに封圧されているような、流出したい感情を堪えているような寂寥感が描かれている。

 「水門を閉める男」では、雨で増水した川の水位があがっていき、雨宿りする語り手の立ち位置をしだいに追いつめていく、という描写で、故のしれない切迫感のようなものが喩化されている。語り手の視線は鮮明に川岸の情景を観察しているが、それも情感がそぎおとされているために膜をへだてたような隔絶感がある。そこで語り手はスクリーンのなかに内面のカタルシスに届くような一瞬の幻想を育む。

 「梅を見に」では梅園を見に行った半日の出来事の経緯が淡々と語られているが、そこに花の名前はあっても負荷されるような情緒が禁じられていて、ただ視線だけが動いていて見たものが即物的に書き留められている。ふつう何かの意味(感情)を出来事の記憶はまとうはずなのに、それが隠されているところから、なにか不穏な緊張感のようなものが持続されていて意味は作品の最後にちょっとした救いのようにあらわれる。

 「燃えあがる森」も「水門を閉める男」のように感情を禁じられた視線が封じられた内面のカタルシスのように一瞬思い描く、「森全体」の火事、焚き火する男の「全身」が燃える、といった凶事の幻想が描かれている。

 「河の風景」では河川敷で木製の水車をみて、それを一瞬「観覧車」と見誤った幻想的な体験が描かれている。観覧車に「びしょぬれの恋人たち」が乗っているという異界をかいまみたような幻想はいかにも特異だが、その幻想は物語化されることなく、視線は巨大な水車がまわる即物的な描写にむかい意味づけを封じられたまま終息する。

 「燃やす人」は空き地で燃やされているベッドを見つけた「わたし」が、誰がどんな理由で燃やしたかを想像する、という作品だ。この作品は、やはり語り手が川原を散歩した帰りに異様な光景にであう、というところや、特に初連や最終連の即物的な景観の描写は前記の作品群と似ているけれど、燃えるベッドについての「わたし」の想像が解放される(書かれる)ことで、その部分の「語り手」の詩意識のようなものがずっと異なる地声のような場所からでているのがわかると思う。

 こうした系列の作品の中で「河の風景」はとくに構成的な緻密さが印象にのこる作品だが、この作品の最終連のような余韻をのこす終わり方(そこでは「目の前いっぱいに」広がってたえまなく動く水車の描像の中に、意味づけようもなく主体の声が消されている)は、ちょっと類をみないのではないか、と思ったことだった。

 こうした作品群は、たぶん作者の親密な植物や自然との交感というイメージの裏側にあたっているのだと思う。風景はみえているのに、なにも情感がともなわないような感じ、内面が得体のしれない切迫感や閉塞感におおわれている感じが情景に重ねるようにしてあわられていて、わたしたちを囲繞する殺伐とした「現在」的なものの受感によく届いているように思えた。




庭園設計


まだどこにも存在しないわたしの庭の
植物を育てたことのない土
そこに初めて植えられる樹木の名を記すとき
一枚の紙の上に光が差し風が吹き雨が降り
種がこぼれる
わたしの庭に現れる初めての双葉は
ある方角に少しかたむいて
南を向いているのだとわかる
方位記号を記すうちに春になるので
わたしは大急ぎで
知るかぎりの草木の名を書く
それらはたちまち芽を出し
根を張り茎を伸ばし花を咲かせる
湿りを好む草の名を書くと
土は窪んで湿地をつくる
日向に茂る草の上は
みるみる隆起して丘になる
まだどこにも存在しないわたしの庭に
広がっていくはるかな起伏
わたしが記す名のとおりに
植物はきりもなく繁茂して
形づくられる海と河と山と野原
そのどこか
だれも知らない隅っこに
一人の庭師が住んでいる
彼の人生を想像してみるが
なにも思い浮かばない
生まれたときからわたしの庭に住み
ひたいを緑に染めたまま
草のあいだにしゃがんでいる
葉を広げ実をつけ種を散らして枯れる
ことの成りゆきを見ているうちに
たくさんの季節が過ぎていく
そのどこにも存在しないわたしの庭に
植えられるだろう一本の木の
名を書き始め書き終える
そのあいだにも時間はめぐって
双葉はすでに枝を伸ばし
彼の上に大きな影をつくっている



「庭園設計」はとても魅力的な作品だ。植物園をつくるために、「わたし」が紙のうえに植物の名を書くと、そこに二重写しのホログラムのように名を書かれた植物の実像が浮かび上がり、その立体像は背景の自然現象の変化とともに生き生きと育ちはじめる。植物の名を書きつける「わたし」の所作と競うように、その情景の中では早回し映画のように時間が過ぎてゆき、やがてその点景は空間的にも自在にひろがって、ついには海と緑の原生林に覆われた処女地ような俯瞰的な情景を現出させる。ちょっと創世神話のようなイメージさえ連想させるこうした詩の前段の進行の結果、そこにはとても「庭園」という枠におさまりそうにもない広大な世界が出現してしまうのだが、その世界の「隅っこ」に「庭師」が登場する後段で、視野いっぱいに拡張された世界像は再度収縮していき、詩の最初に書かれた植物の巨樹への生長という時間のなかに全体がすっぽりと収まっている。読者は適度に刈り込まれた言葉で、およそ詩の言葉でしか体験できそうにもない時空をこえる旅をジェットコースターに乗るように味わい、その世界にひめられたもう一つの「庭師」をめぐる物語の謎についてすこし足をとめたりするだろう。

 この作品の中で「わたし」の行為として、「植物の名を記す」「方位記号を記す」「知る限りの草木の名前を書く」「湿りを好む草の名を書く」というふうに、「記す(書く)」という言葉が執拗にくりかえされて、リズムをつくっているのに注意してみよう。文字を書くことと、そこに現出するホログラムのようなイメージの対応は、すぐに書字(詩作)行為に伴う連想作用を思わせる。してみれば、この作品は、(作者の)詩作行為のプロセスそのものを、作品にしたてたものなのではないのだろうか(*)。連想される過剰なイメージの到来に、追い立てられるようにして「わたし」は文字を書き継ぐ。そこに現出するのはたぶん(作者の)様々な無意識の諸層から言葉(植物の名)をきっかけにして意識の岸辺ちかくに打ちあげられてきた内なる自然のつくりだすイメージの数々だ。イメージはイメージ同士で結びあい、また退けあって、あたらしい複合イメージを生みまた消滅をくりかえす。植物が気象の影響を受けて育ち繁茂しやがて枯れていくように。ここで描かれていることは、たぶん詩を書く行為の背景に、たとえば脳裏でおきているとらえどころのない現象を時空の中の物語のようにうつしたもののように思える。

 その植物の名前によってもたらされた内的な自然世界は、まだ手のくわえられていない原初の地球のような世界だ。その世界のどこかのすみにひそんでいる森の精霊ともいうべき「庭師」だけがたぶん、その世界を「わたし」の設計図どうりに「庭園」(詩)へと整備することができる。ここで、この「庭師」(的な存在)に与えられた役割を、詩集『ピクニック』の中の「森で」に登場する姿のみえない存在や、「冬の庭師」に登場する庭師の仕草にあてはめて考えてみるのもいいかもしれない。彼等は、語り手のつぶやく「植物の名」を復唱したり時に植物の名を教えたりするし、葉にしるされたたどたどしい沢山の言葉を、麻袋につめて「反古」として燃やしたりもする。森にひそむグリーンマンのような精霊も、庭師も、みな植物と詩の言葉との関連とその制御を暗示する役割が与えられているのだ。ただこの作品の庭師は何かの役割が明示されているわけではなく、森のどこかにひっそりとけれど確かに存在している、という信憑のように登場するだけだ。

(*)「植物の名」を書くことと、そこから喚起されるイメージの世界、その世界をひとつの詩作品(庭園)にまで構築すること。その身近な例をわたしたちは同時期に書かれた『植物詩誌』の連作にみないだろうか。その詩集では、収録作品のタイトルはすべて植物の名前として記されているのである。



付記)  自らにいろいろなルールを課して詩を書くこと。そのみえないルールが、この詩集『音の梯子』のとくに「2」であげたような幾つかの作品のなかで、様々なかたちで試されているのではないか、というのが、とりあえずの読後の感触だった。そのルールというのは、自己感情の質に関わるもので、作者の自己感情の吐露でありながら、同時に自己から分離されて作品として仮構されたものという二重性を強く帯びている。そのために、作品から、ある情感の強さは確実に伝わってくるのに、その由来や理由はわからない、という不安のゆらぎのようなものをまとっている。そういう感じは、「蟹を売る男」の怒りのようなものや、「橋の下の家族」の悪意のようなものに、かえって典型的かもしれない。これらの作品は、由来のかくされた人の怒りや悪意そのものに対面させられるような異様な力をもっている。けれどそのことの実現とひきかえに、作者の本当の自己感情は、たぶんルールによってその発露を禁じられているのだ。これは作者がひそかに企てた詩の人体実験のようなことではないだろうか。もちろんこういう読み方はずべてあてがはずれているのかもしれない。ただ文中でつかったたとえでいえばその苦しげな発声の練習とひきかえにめざされているのが、まだだれも意識的に踏み込んだことのない詩の与える感情の質の拡張というようなことではないだろうか、とはいえるような気がする。



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関富士子詩集『音の梯子』(七月堂 2005年6月20日発行 1000円+税)






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