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 人形詩逍遙





1、うごく人形

 人が寝ていたり、ちょっと目をはなしたすきに人形は動く。人形たちは実は生きていて、ふだんは人形のふりをしているだけだからだ。。。というのは、おとぎ話のなかのことだけれど、人が人形を身の回りにおくようになって、こういう楽しいエピソードは何度もくりかえし語られてきた。まさに「♪みんなすやすや眠る頃、玩具は箱を抜け出して、そして踊るよチャチャッチャ♪」(野坂昭如作詞「おもちゃのチャチャチャ」)なのだ。

 動かないはずのものが動く、という不可思議さでいえば、人形ばかりが動くわけではない。最近読んだ本でいうと、村上春樹の『東京奇譚集』には、動く石のエピソードが作中小説として登場する「日々移動する腎臓のかたちをした石」という作品が収録されている。もっとも、この種の怪異譚なら古来から枚挙にいとまのないほど残されていて、村上の作品は、そういう物語の元型をどんなふうにアレンジして語るか、というところに工夫があったといえるだろう。

 人形が動く、というのは、そういう、いかめしいいいかたをすれば、超常現象としての物品移動、というのとはちがって、それを、みたひとの、この人形なら動きかねない、という想いがどこか先にあるような気がする(^^)。


人形と子供

(人形)
  一、二ィ、三、
  嬢ちやんがいま瞬きするよ、
  この間にすばやく伸びをしよう。

(子供)
  あら、あら、あら、
  お行儀のわるいお人形ね、
  たつた今、すわらせてあげたのに。


 これは、金子みすずの短い作品だ。金子みすずは、童謡作家と呼ばれているが、童謡とはとても呼べないような、こんな作品も書きのこしている。寸劇のセリフのような構成から、ほほえましい情景が目に浮かぶようだ。ひとがまたたきする間の時間。その一瞬のなかに人形たちの別世界がある。その世界はまた、みすずの想像力が飛翔する世界なのだが、そこからもれるひかりがすっとさしこんでくる。あ、そんなことがあったら面白い、と読者がおもったとき、扉のむこうでやさしく人形たちが手招きしている。


航海人形


嘗て横帆船に乗って
航海に出るとき
或る女友達が私に
可愛い西洋人形を呉れた

私は五十日間 大洋の上で
その人形といつしょに暮し
屈託して話しに行きたくなると
彼女を棚床に臥かして
船室を出た

後檣主帆(クロヂヤツキ)の蔭で
チンチンチンと六点鐘が鳴り
給仕が忙しくお八つを運び始める

部屋に戻つてみると
卓には菓子皿と紅茶々碗がのつていて
いつのまに起き上つたのか
向ひ合つた椅子の一つに
ちやんと彼女が坐つていた

私は彼女を鞄に入れて
無事に陸に上つてきたが
あれから それをどうしたらう

日本は戦争に敗れて
海洋を失ひ
こんな話も思ひ出となつた


 これは、丸山薫の詩。詩集『花の芯』(昭和二十三年)に収録されている(現代詩文庫より転載)。50日の航海の孤独を慰めてくれたこの人形は、棚に寝かせておいたはずなのに、部屋にもどってみると、椅子の上に鎮座していたという。さっとよむと怪異譚のようにみえるが、改めてよむと、お八を運ぶ給仕のいたずらだったのではないか、というふうな種明かしの理路も風とおしよく整えられている。一連目の、或る女友達から貰った人形、という前置きが作品としてはとても効果的で、人形を「彼女」と親しく呼ぶところと、うまくとけあっている。女友達の分身のように愛された人形が、お礼にちょっと挨拶してみせた、というところだろうか。

 この詩をよむと、人形関連の本にはよくでてくる哲学者ルネ・デカルトと彼の愛したフランシーヌという人形のエピソードを思い出す。デカルトは幼くして死んでしまった娘の身がわりのように、精巧につくらせた人形にフランシーヌという名前をつけていつも手元においていた。デカルトは旅行するときもこの人形をカバンにいれて持ち歩いていたのだが、あるとき、航海中に海が荒れ、船員たちが、嵐になったのはこの不審な人形のせいだと騒ぎ出して海に投げ捨ててしまったという。人形が嵐の原因だというのは、いくら海の男たちが迷信深くても大人げない。たぶん、フランシーヌは当時としては、本物の人間の少女とみまがうくらい精巧につくられていたのではないだろうか。デカルトは自室の椅子のうえにフランシーヌを座らせて、むきあってお八を食べていたのかもしれない。


雛人形の眼の光


家の人が寝静まった隙に雛人形は動き回る
夜中にのぞきにくる人がいると
一瞬にして元の位置に戻る

雛祭りが終わって
片づけられた雛人形は箱の中で動かない
飾られているときだけ人知れず眼が輝く

人の心が肉体の枠を超えて出す気
通りすぎたあとにも僅かながら残っている
それに触れて雛人形は生命を得たように動きだす

人の心の気は空気の流れのようにある
感じた者は多いが
見た者は少ない
それで雛人形の動きは見つからない

夜中に明かりをつけてみる
突然のことに元の位置に戻りきれずに
慌て者が
冠を付け忘れたり
手に持つ台を間違えたりするが
子どものいたずらではない

古びた雛人形にはいろいろな人の心の気が
ほこりのようにまとわりついて
くすんで見える

雪洞の明かりの陰に
嫁に行った娘の溜息が潜んでいる
その横のお姫様の黒く澄んだ眼は
見る者を悲しい気分にさせる
雛人形の眼は
人の心の気を光に変える


 これは、殿岡秀秋の詩集『水の底』(2004年 あざみ書房)に収録されている作品。人が寝ている間に動く人形、というテーマ(があるとすれば(^^;)、そのものが正面からとりあげられている。夜中に明かりをつけてみると、突然のことに元の位置に戻りきれない人形がいる、というのが、なんともリアルでおかしい。こうして人形族は、現代でもときどき、人目をしのんでそっと背伸びをしていたりするのだった。



2、売られている人形

 ふつうの、たとえば地方の小都市に人形を売る玩具屋ができたのはいつごろのことだろう。本格的に主にドイツ製の西欧人形が輸入されはじめたのは明治末年頃といわれる。その当初、女の子にとって(もちろん男の子にとっても)、ハイカラな西欧人形は珍しく、憧れのまとだったにちがいない。明治四十四年、『尋常小学校唱歌(一)』のなかに「わたしの人形はよい人形」(作詞作曲不詳)がとりいれられる(低学年児童一般向けの人形のうたとしては「おきやがりこぼし」も同年の『尋常小学唱歌 第一学年用』として発表されている)。


わたしの人形はよい人形。
目はぱっちりといろじろで、
小さい口もと愛(あい)らしい。
わたしの人形はよい人形。

わたしの人形はよい人形。
うたをうたえばねんねして、
ひとりでおいても泣きません。
わたしの人形はよい人形。


 こういう歌を幼くしてうたうことを要請された女の子たちが、ますます人形をほしくなって親にねだったということはいかにもありそうなことに思える。うたをうたえばねんねして、ひとりでおいてもなきません、というところに、人形だから至極もっともなことながら、「てのかからない、ききわけのよいこ」の育成という教育指導的メッセージが、そこはかとなくかくされているような気がするが、そういう国民人形化計画があったかどうかは別にして、いわゆる国民の文化生活の向上、という路線のなかで、女の子の愛玩用の人形(人形と遊ぶ女の子というイメージ)もまた、その象徴のようにとりあげられた、ということではあるだろう。

 まちのどこかに人形屋さんが開店して、子供達は棚にかざられためずらしい西欧人形を買いにでかける。買えなくてもひがな眺めていて飽きないのだ。もちろんそれは人形に限ったことではないのだが、現代でも、人形やペットなどを、店先でずっとほしそうに眺めて、ぽつんと佇んでいる小さな子供、という風情には、なにか気持ちをあつくするものがある。売られている人形、それを見ている子供、そういうなんでもない情景が、詩歌にうたわれるようになったのは、この時期以降のことだった。


お留守の玩具屋


お留守の
お留守の
玩具屋さん

玻璃戸(がらすど)
締まって
青柳

お馬も
人形も
さみしそう

妹と
二度来て
またかへる

春の
田舎の
玩具屋さん


 これは西条八十の童謡集(大正十二年刊)のなかの、「子供の生活」という章に掲載されている童謡だ。玩具屋に兄妹がふたりこぞってでかけていく。けれど店は閉まっている。ガラス戸のなかに人形はみえるのだから、二度も通ったということは、目当ての玩具があって、それを買うという目的があったのだろうか。それとも、閉まっているのが気になって、もういちど二人してのぞいてみた、ということなのだろうか。季節は春で、風にのどかに揺れている青柳の影が、ガラス戸にうつっている。子供達も春そのものの季節をいきている感じで、道中、お馬や人形のはなしをふたりが夢中でしているのがきこえてきそうな感じだ。。


白い鳥の消えた場所


飾り窓に
きみは 凩(こがらし)のように 額をくっつけています

玩具店では
化粧する人形の手鏡はひび割れ
機械仕掛けの 蝶を追う少女は
おもわず 綱を離してしまいます

きみは
廃墟に立って
果てしなく青い空を凝視めていました

後姿を 踏切で 見失ってしまうまで
きみは かけだして行くでしょう

白い鳥の巣箱だけ
雨あがりの竹藪に 懸っています

飾り窓に
きみは 凩のように 額をくっつけています


 これは、『吉行里恵詩集』(晶文社)の『詩篇』に所収されている作品。吉行里恵は、他にも「希望」(詩集『幻影』所収)や「梨の花の揺れた時」(同)といった人形のでてくる印象的な詩を書いていて、このひとは本当に少女期に人形が大好きだったんだろうな、と思わせる詩人だ。玩具店のショーウィンドウをくいいるように覗き込んでいる「きみ」。この「きみ」も人形に憧れる子供達のひとりだった。けれどここでは、なにか別のことがおきている。たぶん、「人形」も「機械じかけ」の「少女」が追っていた「蝶」も、タイトルの「白い鳥」も、同じ象徴の水準であつかわれている。その象徴にまつわるひとつの少女期の喪失という出来事がうたわれているのだと思う。「額をくっつけ」という幼い調子の表現は、たぶん当時の詩としては新鮮なことばの響きをもったにちがいない。


3、みつめられる人形

 3月の桃の節句に雛人形を飾る、という風習が定着したのは江戸時代のことといわれる。むかしは人形全般のことを、雛といったらしいが、それほどに、人形と雛人形の結びつきはつよく、明治期後半に西欧人形が本格的に輸入される以前は、人形がよまれる詩歌の大半が、雛人形や雛祭りを題材にしていたのではないだろうか。



雛祭


青磁(せいじ)に乱るる糸柳の
若芽をきざめる片枝(かたえ)がくれ、
かざれる雛(ひいな)の玉の殿を
誰が子か見入りて独り笑むは、
玉(ぎょく)をちりばむる金の冠
龍頭(りゅうず)を彫(ゑ)りたる剣太刀(つるぎだち)の
花いろ衣(ごろも)を透きて見ゆる
あてなる姿を君や恋ふる、
春知りそめつる糸柳の
嫋(しな)えて見ゆるも哀れなるに、
緋桃(ひもも)を浮けつる瓶子(へいし)とりて、
沈める思に注(つ)ぎてみまし、
弥生(やよひ)のみ空と若き命、
いづれか白日(まひる)の夢に似ざる、


 これは、薄田泣菫の新体詩で、『暮笛集』(明治三十二年)の収録作(「泣菫詩抄」岩波文庫より)。女の子が、飾られた雛人形にみとれている。金の冠をかぶり、剣太刀をつけ、花いろ衣で身を身に纏っている人形の姿に、「恋ふる」というのだから、人形はりりしい若武者みたいな感じがするが、この作品でも「春知りそめる糸柳」の時節と年頃の女の子の異性へのあこがれの情緒がよくとけあっている。瓶子から注がれる酒のかもす、心地よい酩酊に似た、ひとときの白昼夢のような気分が、リリカルにうたわれている。

 雛人形は、いわゆる観賞用の人形で、洒落ではないが、自然を観照する、という伝統的な芸術観に適合するような対象だった。そういうところからは、「わたしの人形はよい人形」のように、人がダイレクトに人形と心を通わせるような動的な表現は、なかなかうまれてこない。もちろん、そういう気持ちを昔の人々が抱かなかったというわけではない。話がどんどんそれていきそうだが、江戸中期の元禄年間(1688〜1704)に活躍した俳人来山は当時一体の人形を愛したことで有名で、その逸話が清元初期の名作といわれる「保名」にとりいれられている。その一節に、

  わっけもない、アレ、あれを今宮の、来山翠が筆ずさみ、土人形の仇名草、
  高根の花や折ることも、泣いた顔せず腹立てず、
  悋気もせねばおとなしゅう、アラうつゝなの妹背中、主は忘れてござんしょう、

というところがある。これは来山が愛する人形のことをよんだといわれる句「折事も高根の花や見たばかり」をふまえていると思えるけれど、人形は、高根の花のように、手折ること(妻にすること)はできない(けれど)、人間のように泣くことも怒ることも、嫉妬することもなく、おとなしい、というような形容がでてくる。これは「わたしの人形はよい人形」の二番の歌詞に酷似した表現だと思う(^^)。

 もっともここでは「土人形」とあるように、来山が愛したのは、伊万里柿右衛門様式の陶磁製の人形だったようで、雛人形ではなかった。

 観賞用の人形と、愛玩用の人形という区別は、おおまかにいうとき便利なので、ついつかってしまうが、実際に即して言えば、人の接し方の問題で、観賞する、ということのなかに、すでに愛玩するという気持ちがはいりこんでいるし、愛玩という行為のなかに、美術品のように観賞する視線もはいりこんでいる。ただあまりに様式化され完成された観賞用の人形というものは、手をふれられることさえ拒むようなところがある。そういう土壌のなかでこそ、逆にその禁を破ることがきわだった表現のように思われることがあるような感じがするが、それはまた別のテーマになるだろう。


箱を出づる顔忘れめや雛二對


 蕪村の句。桃の節句になって、雛人形を箱から取りだしたときに、脳裏にうかぶ様々な感慨。この句については、折口信夫が、いたれりつくせりといった感じの克明な感想を書いている。かなり長くなるのだが全文を紹介したいので、以下に引用してみる。


「雛祭りが近づくと、去年の春からちようどまる一年、棚の上に堆い埃をかづいてゐた箱をおろしえ来て、雛段へ据ゑようとする。此が女の子らい出来ることではないので、成長した婦人が、手を貸してやらねばならぬ。箱の蓋をとる時、軽く起るあるためらひ。厳重に守られて来た貴重なものを見ようとする時、起る気持ちと、おなじものだらう。古い雛が、去年のままの姿でゐるだらうかと言ふ、ちよつとした不安が、心を掠めるのだ。箱の蓋をとつて、絹や、薄絹をめくると共に、あらはれて来る雛の顔----。物心づいて依頼、馴れ馴染(ナジ)んだ親しい顔である。まざまざと印象してゐるとほりの雛の顔だ。だが、あまり馴染んでゐる為に、見ないでゐる間の印象は、実際今見る雛の顔容よりは、平凡化してゐる。はつとして見る此親しみ深い顔は、記憶を超えて、懐かしい昔顔である。常日頃繰り返す近代の生活----。其日々に見ることのない優雅な昔を夢みるやうな顔、どう努めて見ても、想像には浮かんで来ない静かな美しさ。去年とり出す時も、こんな気がしたやうに思ふ。をとししもさうであつたやうな気がする。記憶に持ってゐた顔よりも、目に見れば、更に優雅な雛の容貌----。
此國の女性の年毎の『春の思ひ』の幽けさは、かう言ふ心持ちに深く根ざしてゐるのであらう。日本のをとめの心を譬へにとつて、言つて見よう。胸の渚に寄せる感情の波皺が、淡い記憶の痕を残して行く。をとめ子は、やがて叔母となり、母となつて、遙かな想像の青海を心に描くやうになるのである。嘗て自身がさうだつたやうに、ただ喜んでばかり居て、何もえうせぬ小い女の子の為に、雛段の飾りつけから、種種小道具の出し入れ、節供の眼目なる飲食の世話まで、一々心をくばるのである。
昔の母様がしたやうに、雛の箱のあけたてに、男雛、女雛の顔を、そのうちけぶる眉のにほひ、つるつるとした塗り地の、やや灰ばんだ頬のあたりの幽かなよごれまで、記憶のままの俤で、箱の中から現れて来る。悲しみと言ふには、あまりに穏やかに、喜びと言ふよりは、静か過ぎた思ひ----、母の伝へた祖母の愁ひ、祖母よりも更に遠い曾祖母の願ひ----

 我(ワレ)見ても久しくなりぬ。住(スミ)の江(エ)の岸の姫松 幾代経ぬらむ

と言ふ歌がある....その住の江の松ではないが、かう言ふ心の底の幽かなる思ひも、家々の女性の間に、消えることなく、伝つて来たのである。子なり、孫なり、曾孫なる今後の日本婦人たちもこの伝来の静かなる思ひは、うけついで行つてくれることだらう。何時からとなく、男の子は雛祭りの傍観者となつてしまつてゐた。だが其だけに、家族のうちの女性の動静を、ぢつと観察してゐた訣である。

 箱を出づる顔忘れめや。雛二對

ああこの顔----覚えてゐたとほりの雛の顔----。懐しい昔顔の女夫(メヲ)の雛。幾代の若い母たちの感動を、脇から見てゐた、代々(ヨヨ)の男の子の、人間としての同感が、歌はれてゐるのである。」
(折口信夫「雛節供の夕に」(全集十七巻)より)



 短い俳句から喚起される情景を、ここまで想像豊かにふくらませて読み解くことができる、という好例で、もって瞑すべしといいたくなるような美文だと思う。手にとって、着せ替えたりして遊ぶという人形ではなくても、くりかえし見ることのなかに、おりおりの記憶の時間がいつのまにか宿るようになる。それは「ひとがた」をした、遠い記憶の鏡なのだ。

 母の思い、祖母の愁い、曾祖母の願い、と雛人形の顔だちに想いをこらすとき、そこに人形の不死性とでもいうべきテーマが隣り合っていることに気づかされることがある。





綺麗な着物に包まれて
並んで倒れた三人娘
市松人形は
空(くう)を見詰めている。

娘人形だから
つつましく
賑やかである。
私などより
長生きしそうだ。

彼女らが持たないのは
死のみである。
それだけが
彼女らを赦さない。
それだけが
彼女らを隔てている。

持ち主である私の祖母を
人形はつま先で飛び越えた。
私に散々もの思わせた
百年生きた祖母の死は
人形の顔すら変えられなかった。

私を人間たらしめるのは
死あることのみである。
市松人形
三人娘は
私の死を
羨むでもなく
蔑むでもない。

死を待つ者の姿にのみ
美は宿るのだと言うけれど
すると市松人形の
死のない首から香り立つのは
なんなのか。
自らの死に囚われるように
私はその美に囚われる。

人の死と
人形の不死は
繋がっている。
見れば強い糸である。


 これは、小川三郎の詩集『永遠へと続く午後の直中』(思潮社)の収録作。美や醜の意識は空間(みかけ)からやってくる。ただみつめていると時間の意識がぼんやりと奥行きをつくりはじめる。あまり瞬間への囚われがきわだつことで、ふだんの意識の流れが変成されて無時間的な永遠の感覚にひたされる、といったらいいのだろうか。そこでは美が永遠にたゆたっているように見える。たぶん作者の死の想念は作品では明かされていない別のところからやってきているのだが、このたゆたゆような永遠の感覚をたちきりたい想いのようなものとして、美の観念と拮抗している。伝統的な無常観に独自の感覚からきりこみを入れている作品、といえるかもしれない。




4、人形とあそぶ子供


 幼い子供が人形であそぶ。ものの本をよむと、人形はむかしは宗教的な祭具として使われたというようなことが書いてあって、流し雛の風習や、雛壇に飾られる雛人形という連想からも、あらためて人形の歴史を考えようとすると、なんとなくそういう儀式ばったイメージが付随するところがあるのだが、そういう「大人」たちの歴史とは別に、幼い子供はずっと昔から人形と遊んでいたに違いなく、そのことはもうすこし強調されてもいいことだとは思う。たとえば、『源氏物語』には、こんなくだりがある。


  「紫の君はもう雛(ひな)を出して遊びに夢中であった、三尺の据棚(すえだな)二つにいろいろな小道具を置いて、またそのほかに小さく作った家などを幾つも源氏が与えてあったのを、それらを座敷じゅうに並べて遊んでいるのである。
「儺追(なやら)いをするといって犬君(いぬき)がこれをこわしましたから、私よくしていますの」
と姫君は言って、一所懸命になって小さい家を繕おうとしている。
「ほんとうにそそっかしい人ですね。すぐ直させてあげますよ。今日は縁起を祝う日ですからね。泣いてはいけませんよ」

言い残して出て行く源氏の春の新装を女房たちは縁に近く出て見送っていた。紫の君も同じように見に立ってから、雛人形の中の源氏の君をきれいに装束させて真似(まね)の参内をさせたりしているのだった」
(与謝野晶子訳『源氏物語』「紅葉賀」より )



 若紫が雛あそびをしているのが、正月の元旦だということ。これをどう解釈していいのかわからないが、元旦ということにあまり特別な意味はこめられていないように思う。つまり、当時、貴族の子供が雛あそび(人形遊び)をするということは、すでに特別な風習や儀式を離れたものとして、日常化していたのではないか、というふうに思える(若紫は10歳くらいの少女。源氏は彼女をさらうように強引に育て親のもとから連れ出して、自分の住まいの一画に囲いもののようにして(ゆくゆくは未来の妻にしようと)育てる。源氏は若紫をなんとか自分の家に誘おうとするとき、「ねえ、いらっしゃいよ、おもしろい絵がたくさんある家で、お雛様遊びなんかのよくできる私の家(うち)へね」(「若紫」)と、誘惑の声をかけるし、「雛なども屋根のある家などもたくさんに作らせて、若紫の女王と遊ぶことは源氏の物思いを紛らすのに最もよい方法のようだった」(若紫)という記述もある。これらは、雛あそびが、いってみれば宗教的な祭祀や儀礼から離れた、いわば日常化した貴族の子供の遊びとして定着していたことをうかがわせるように思う。)

 もちろん、厄払いのために川や海に人形を流すことや、特定の日に儀礼として雛の調度を飾ったりすることは行われていて、そうした記述は同じ『源氏物語』の「須磨」や、『紫式部日記』などにもうかがえるのだが、この記述をみるかぎり、若紫の所作にも源氏の対応にも、まったく儀式ばったところはみられない。

 またこの記述で興味深いのは、「雛の家」なるものが登場することだ。つまり、若紫が与えられた雛人形のセットは、人形専用の家や調度品つきのもので、いってみれば彼女はドールハウスつきの人形遊びをしているということになる。人形の家を遊び相手の犬君が壊してしまった、といって、若紫は嘆きながら、なんとか家を修繕しようとしている。それを聞いた源氏は、すぐ修理させるから元気をだして、と慰めている。この風景は少女がリカちゃん人形の家がこわれたといって周囲の大人に甘えている現代の家庭の風景とほとんどかわらないのではないだろうか。さらに興味深いのは、機嫌をなおした若紫は、参内におもむく源氏を見送ったあとに、遊んでいた雛人形を綺麗な装束に着せ替え!て、源氏の参内の所作のまねごとをさせることに熱中していることだ。つまりここで雛と呼ばれている人形は、衣裳が本体と一体化したような後代の観賞用のものではなく、自由に着せ替えのできる、裸人形のようなものだったのではないか、と想像されるのだった。

 思わず力をいれて書いてしまったが(^^;、1000年前の若紫のような子供は、大袈裟にいうと人類が農耕をはじめ特定の土地に定着した生活を送りはじめた早い時期から、どんな時代にもいた、というふうに考えると面白いのではないだろうか。そういう記録はあまり残っていないとしても、若紫が「わたしの人形はよい人形」とうたい、清元「保名」のように、「泣いた顔せず腹立てず、悋気もせねばおとなしゅう」と思ったとしても(子供だから、悋気もしないとは思わないかもしれないが(^^;)、おかしくはなよいように思えるのではあった。

 もっとも、幼児が人形と遊んでいるとき、どんな感覚で人形を時に我が身の分身のようにみなしているか、ということを、ふにおちるかたちで再現することはむつかしいことに思う。それは人類の意識の揺籃期や、個人の意識の初源のかたちを想像するときの困難さと共通している。人形をむかしは「ひとがた」と呼んだように、そこにはいわゆる偶像に心が宿るという素朴で主客未分化な信仰ににた想いがあったように思える。あるときは人であり、あるときはモノであるような人形は、主客という則をやすやすこえてしまう。というより、私たちが他者という名でひとを呼ぶとき、あるときは理解の通う心情をもった人として、あるときは疎遠で理解しがたい者(モノ)としての意味をこめる、その判断の根源に、幼年期にであう人形的なものの存在は、大きく関わっているのかもしれない。

 ここでは、どんな人形のでてくる詩が好きかときかれて、まっさきにあげたくなるような八木重吉の詩をあげておこう。子供は自分のかわりに人形をおいていく。そのからだの重みは、やがて訪れるまどろみのなかで、ふっと子供そのものといれかわることがあるかもしれない。


人形


ねころんでいたらば
うまのりになっていた桃子が
そっとせなかへ人形をのせていってしまった
うたをうたいながらあっちへいってしまった
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばいになったまま
胸をふくらませてみたりつぼめたりしていた


 『改訂普及版 定本 八木重吉詩集』(弥生書房)所収『貧しき信徒』より




5、人形愛的なもの


 人形が、どちらかといえば大人によって観賞される静的な対象として登場して、さまざまな美的感興をもたらす、といった構図からはなれて、人形をめぐる詩歌が内容的に多様な展開をするのは、明治末期以降のことだが、そのはやい時期に、ちょっと特異で表現としても突出した作品が書かれている。この時期には、西欧人形の輸入と流行ということから、日本でもそれに呼応して人形産業が勃興しはじめた時期にあたり、人形をつくる工場というのが、たとえば子供の目にふれるということがあったのだった。


人形つくり


長崎の、長崎の
人形つくりはおもしろや
色硝子(いろガラス)........青い光線(ひすぢ)の射(さ)すなかで
白い粘土(ねばつち)こねまはし、糊(のり)で溶(とか)して、砥(と)の粉(こ)を交(ま)ぜて、
ついととろりと轆轤(ろくろ)にかけて、
伏せてかへせば頭(あたま)が出来る。

その頭(あたま)は空虚(うつろ)の頭(あたま)、
白いお面(めん)がころころと、ころころと
ころころと転(ころ)ぶお面(めん)を
わかい男が待ち受けて
青髯(あおひげ)の、銀のナイフを待ち受けて、
瞼(まぶた)、瞼(まぶた)、薄(うす)う瞑(つぶ)つた瞼(まぶた)を突いて、
きゅつと抉(えぐ)って両眼(りやうがん)あける。
昼の日なかにいそがしく、
いそがしく。

長崎の、長崎の
人形つくりはおそろしや。
色硝子(いろガラス)........黄色い光線(ひすぢ)の射(さ)すなかで
肥満女(ふとっちょ)の回教徒(フイフイけうと)の紅頭巾(あかづきん)、唖(おし)か、聾(つんぼ)か、むつつりと、
そこらここらと選んで分けて、撮(つま)む眼玉は何々ぞ。
青と黒、金と鳶色(とびいろ)、魚眼(うおめ)の硝子が百ばかり。
その眼玉も空虚(うつろ)の眼玉よ、
ちょいとつまんで、瞼(まぶた)へ当てて、
面(おもて)よく見て、後(うしろ)をつけて、合はぬ眼玉はちょと弾(はじ)き、
ちょと弾(はじ)き、
嵌(はめ)た、嵌めたよ、両眼嵌(りやうがんは)めた.......
阿蘭陀(オランダ)お医者が、医者が義眼(いれめ)をはめるよに、
凄(すご)や、をかしや、白粉刷毛(おしろいばけ)でさつと洗つて、にたにたと。
外(そと)ぢゃ五月の燕(つばくらめ)ついついひらりと飛び翔(かけ)る。

長崎の、長崎の
人形つくりはおもしろや。
色硝子........紅(あか)い血のよな日のかげで、
白髪(しらが)あたまの魔法爺(まはふおやぢ)が真面目顔(まじめがお)、
ぢつと睨(にら)んで、手足を寄せて、
胴に針金(はりがね)、お面(めん)に鬘(かつら)、寄せて集めて児が出来る、
児が出来る。
酷(むご)や可哀(かはい)や、お人形人形、
泣くにゃ泣かれず、裸(はだか)の人形、
赤く膨(ふく)れた小股(こまた)を出して、髪毛(かみげ)みだして、踵(かかと)を見せて、
鮭(さけ)の卵か、海豚(いるか)の腹か、猫子(ねこご)、犬子(いぬご)を見るがよに、
見るがよに、
床(ゆか)に積(つも)れて、瞳(ひとみ)をあけて、赤い夕日にくわと噎(むせ)ぶ。
くわと噎ぶ。

人形、人形、口なし人形、
みんな寒かろ、母御(ははご)も無けりゃ、かはいかはいの父者(ててじや)もないか。
白痴(ばか)か、不具(かたは)聾か、唖か、
口がきけぬか、きけぬか、口が......
みんな黙(だま)つて、しんと黙つて、顫(ふる)へてゐやる。
傍(そば)ぢゃ、ちんから目ざまし時計、
ほんに、ちんから目ざまし時計、
春の小歌をうたひ出す、
仏蘭西(フランス)の銀のマーチを歌ひ出す。

長崎の、長崎の、
人形つくりはいぢらしや、
いぢらしや。


 この作品は、『白秋抒情詩抄』(岩波文庫)所収「骨牌の女王」にあるもの。こうした作品がはやい時期にかかれたことの意味は大きい。工房で西欧人形が生産されるということ自体、社会にとって新奇な出来事だった時期に、その制作工程をつぶさにたどって、独特のグロテスク趣味のような比喩を多用して染め上げている。本来工場のなかは、なんの幻想味もない散文的世界(労働現場)にすぎないのに、まるで見世物小屋をのぞくような感覚で子供のみた「人間(のようなもの)ができてゆく」過程のおどろきをつたえている、といえるだろう。白秋にはまた、当時の「人形屋」のある路地の情景をうたった印象深い短い作品がある。


足くび


ふらふらと酒に酔うてさ、
人形屋の路地(ろじ)を通れば、
小さな足くびが百あまり、
薄桃いろにふくれてね、
可哀想に蹠(あしのうら)には日があたる。
馬みちの昼の明るさよ、
浅艸(あさくさ)の馬道(うまみち)。


 作品は「北原白秋童謡詩歌集 赤い鳥小鳥」(岩崎書店)より。人形の桃色の足首が百あまり積まれていて、そこにまぶしい日射しがなげかけられている。現代の路上のスナップ写真でもみるかような印象的な光景がきりとられているが、子供がみたり感じたりする人形の世界ということでいうと、こうした系列の作品、とりわけ「人形つくり」のような作品は、大正期の童謡運動のなかでは影をひそめてしまうことになる。

 けれど、人形のモノとしての即物性に照明をあてたり、即物性と擬人化されるような愛着との二面性の振幅のなかに独特の情緒を求める「人形愛」とでもいえそうな系譜は、途絶えることはなく、むしろ江戸川乱歩(人形を恋人のように溺愛する男の登場する『人でなしの恋』は大正十五年頃に執筆されている)や、谷崎潤一郎といった小説作家たちに受け継がれていったという感じがする。また、詩歌でいえば、おどろおどろしさのなかに、「おもしろく」「おそろしく」「いじらしい」ものをみいだすという感性の傾斜は、萩原朔太郎(江戸川乱歩と親しかったことが知られている)や、その作品に大きな影響を与えたといわれる大手拓二の詩に似たものを感じる。人形は直接はうたわれていなくても、その「人形愛的」な情緒は、ひとつの系譜となって現代にも遠くつながっているように思う。


仏蘭西人形


たまらなくたのしい四月のひろい野原だ
物倦くだまつて一匹の牛が青いろの草をたべてゐる
空にはおよいでゐる白い雲 入道雲
柔らかな曲線をすべつて小鳥たちは微笑しながら
ああ なんと気持ちのいい のびのびした静けさだろう

若い女達のはなやかな言葉も退屈なので
もの言わぬ 仏蘭西からきた娘の人形を抱きながら
私はひとりで しづかな情慾をたのしんでいた
そつと唇に胸さきに鼻に足くびにからまつてくる
あかるいたんぽぽ すみれの匂ひ
匂ひはかろく仏蘭西人形を夢にいざなひ
ゆれる微風に薫つて小鳥たちをすこし酔はせながら
ああ ひろい四月の野原は微笑でいつぱいだ


 これは掘辰雄の作品(『堀辰雄全集第四巻』(筑摩書房)より)。朔太郎の詩風ににたところが感じられるが、もうすこし淡彩でかかれている感じだ。希釈されたナルシズムのようなものが全編にただよっていても、特異な生理的感覚を表出したいといった自意識は感じられない。うららかな春の野原のなかで抱かれている人形もまた幸福そうだ(^^)。

 時代はずっと今に近づくが、人形愛、ということでいえばやはり欠かせない作品が、1985年に書かれている。


○人形愛宣言



僕等の人形愛はどこから来るか
ピュグマリオーンよ
蝙蝠傘の黄色い父は路地で荷車を押し
ミシン踏む蒼白な母は玄関で姦される
姦す者はひとつの人格ではない
手術着を着た 多毛の汗くさい体制
その背中の暗い容積を 隣部屋で感じる
無気力な父を憎む 無抵抗な母を憎む
僕等を齎した父と母の無感動な媾合を憎む
僕等はうつむいて まるまって
畳の上の分娩の擬態をとるほかない
遠くの声のチリ紙交換が通りすぎる
それは 表通りまで便所の匂ってくる
春の遅い午前



僕等の性別なら 男でも女でもない
ましていわんや 中性などではさらにない
少年 第三でも 第四でもない つねに零(ゼロ)番の性
だから 僕等はミドリムシやミズクラゲのように
透明な単性生殖を きりもなくおこなう
きりもなく殖えていく僕等のコピーは
狭い部屋にあふれ 畳の隙から床下に
窓硝子の罅から外にこぼれて 風に吹かれる
想像妊娠という言葉があるのなら
イマジネーションは存在のひとつの様式
というのは ほんとうだ
ピュグマリオーンよ
僕等は産みすぎた妊婦のように若くして老い
目の下を黝(くろず)ませて たえずけいれんする



人形 それはひとつの物体である前にひとつの観念
物体よりもっと確実に質量の詰まった思想
その質量は細胞より分子より精妙だから
壁や障子を通りぬけて 僕等の前に立つ
頭皮を潜り入って 僕等の脳にうずくまる
僕等の頭蓋はかぎりなく子宮に似てくる
人形を産むこと 二つの瞳孔と十の指先から産み出すこと
ピュグマリオーンよ
その中には僕等にあるような内臓や魂がない
いや 内臓や魂のかわりにそれらの不在が詰まっている
不在という質量を覆った輝く体表は物質ですらない
彼なのか? 彼女なのか? 僕等の性別が少年なら
その性別は人形 僕等が零(ゼロ)番なら それは無限番の性



ナイフ のこぎり ペンチ ハンマー 鑢(やすり)
ピンセット 鋏 万力(まんりき) ドリル ノギス
ゴム紐 ゴム手袋 脱脂綿 乾燥器......
これら 人形を作り出す道具の
なんと人間を殺す道具に似ていること
ピュグマリオーンよ
僕等は人形を僕等に似せるのではない
僕等をかぎりなく人形に似せるのだ
父はつくりかえられよ 母はつくりかえられよ
父と母から出てくる畸形の肉はつくりかえられよ
もはやつくりかえられないなら 抹殺されよ
頭と胴 脚と腕 目玉と舌 頭髪(かみのけ)と陰毛
ばらすことと繋(つな)げること----逆に言えば
殺すことは産むこと



人形を死に到らしめることは可能か
これが僕等の人形愛の究極のテーマだ
脳も心臓もない人形の死亡時刻を
いかにして医学的に決定するか
胴体から引き抜かれた頭部は
眼窩から刳(く)り抜かれた眼球は
無表情に僕等の手を見つめている
ハンマーをとって 振りおろしても
叩きつぶしても 打ちくだいても
眼球の残像が見つめつづけるだろう
頭部だけではない 眼球だけではない
臍も 股間も てのひらも あしのうらも
あらゆる部分が僕等を見つめている
産む前にすでに生きていたのなら
どうして殺すことが可能だろうか
ピュグマリオーンよ
僕等は殺される前に死んでいる


 これは、高橋睦郎の詩で、詩集『分光器』(思潮社)に収録されている。観賞される人形、というところから、愛玩される人形、さらにはつくられ、解体される人形というところまで、詩のテーマはひろがってきた。近年の人形ブーム、球体関節人形や、フィギアブームへの射程は、この作品にすっぽりおさまっている、といえそうな感じがする。「3、みつめられる人形」の項であげた、人形の不死というテーマにも言及されている。記念すべき人形詩の達成といえるだろう。

 この項では最後に、広義の人形愛ということで、吉岡実の作品を紹介しておきたい(詩集『ムーンドロップ』所収)。ここでは、人形の具体性やそこから喚起される観念的な思考というより、人形をめぐる言葉のもうすこし抽象的なイメージが詩の文体そのものと自在にとけあって独特の世界をつくりあげている。


薄荷
        (人形は爆発する)----四谷シモン



夏が過ぎ
    秋が過ぎ
        「造花の桜に
雪が降り
    灯影がボーとにじんでいる」
                 池之端の(大禍時(おおまがとき))
振袖乙女の幾重もの裾の間から
              わたくしは生まれた
(半月(はにわり))の美しい子孫か
                 「神は急に出てくるんだよ」
(非・器官的な生命)を超え
             (這子(はうこ))ひとがた
人形は人に抱かれる
         (衣更忌(きさらぎ))の夜を



母親の印象は
      裸電球の下で
            白塗りの女戦士のようだ
赤い乳房が造り物に見える
            「カミソリでサーとなでると
中からまた肌色の乳房が
           殻をやぶって生まれてくる」
それに噛みつくから
         わたくしは消化不良の子供
(唐子(からこ))の三つ折れ
              人形を背負って
                     鈴虫の音色に聴きほれる
父親は冷酒をあおっては
           (毒婦高橋お伝)をたたえ
ヴァイオリンを弾く
         キー・キー・ギー
         「天国がどんどん遠くなる」



窓まで届かない月の光
          ニーナ・シモンの唄が好き
          縫いぐるみの(稲羽(いなば)の白兎(しろうさぎ))が好き
「固い真鍮のベッドで
          わたくしは紗のような
          薄い布を身にまとって寝る」
薄荷の花のように
        「ゆるやかな酸素に囲まれる」
        少女の輝く腹部を回転させよ
                     アー・アー・アァー
(官能的な生命)
        「人形にだって
               衣食住が必要である」



揚げ物を食べた後は淋しい
     この部屋の外は
            「巨大な蓮池の静寂を思わせる」
水音 羽音
     「何のおしらせもなく
               (土星)が近づく」




6、からくり・あやつり人形


 人が人形を操作して、生きているかのように芝居をしてみせる。日本だと浄瑠璃(文楽)が典型的な芸能だが、西欧ではピノキオで有名なあやつり人形の伝統があり、近代には日本にも紹介された。人形の体の内部や台座に機械的なしかけをほどこして動かすからくり人形も、洋の東西で古くからつくられている。そういう人形をみていて、逆に自分たち人間もああして人形のようにあやつられているのではないか、という連想をいだくというのはいかにもありそうなことだ。


踊る人形


みなさん。
このがらすばりの箱の中の
いかにも
ひからびて
やせこけた
哀れな人形の踊りをみて下さい
この人形はいつも
をんなじ服をきて
ぴよんぴよん。ぴよんぴよん
をんなじ踊りを
おどつて居ります
ああなやましい
みじめな人形はわたしです。


  これは、小熊秀雄の作品。『小熊秀雄全集2 詩集(1)』(創樹社)に「初期詩篇」として収録されている。いつも同じ服をきて、同じ踊りを踊っている人形、というところに、制度的なしがらみから自由になれずに暮らしているいわゆる「労働者階級」の不満を訴えるプロテストソング的な意味が込められている感じもするが、確かなことはわからない(小熊がプロレタリア詩人会に入会したのは、昭和6年のこと。)。ただそういう思潮も新しい時代のものだといえば、たぶんゼンマイ仕掛けでガラス箱のなかで踊るこの人形も、当時としては珍しくモダンなものだったのではないだろうか。大正時代の終わり頃、金子みすずは、やはり、同じような人形を描いている。


をどり人形


をどり人形は、箱の上、
けふもちりから、くるくると。

前にや夜店の瓦斯(ガス)の灯(ひ)に、
欲しそな顔が七つ八つ。

くるり廻れば暗い海、
お船の灯がちらちらと。

をどり人形は、越えて来た、
とほい海路をおもひ出し、

眼にはなみだが湧いてても、
足はやすまず、くるくると。

またもまはれば、瓦斯の灯に、
更けて浴衣の子がふたり。


 この「をどり人形」のあわれさは、遠い外国から売られてきて故郷を恋しがっている、という身の上の人形の、その「気持ち」を仮想しているところからきているが、もうひとつ注目したいのは、なみだが湧いても、足のほうは(自分の意志とは無関係に)くるくると回ってしまう、という心と身体の「うらはら」さを、人形のしくみ自体から読みとって「あわれさ」を表現しているところだろう。同じことを際限もなく再現させられるから「なやまし」く「みじめ」だと小熊はうたったけれど、金子はそのみじめさを感じる動機を外的なシステムというより、より生理的なしくみに求めている。その差は微妙だけれど、ここにみすずの詩の対象に感情移入する主観の深さのようなものが感じとることがきると思う。

 またこの作品では、そうした人形の思いとはうらはらに、お祭りにくりだしてきた子供達がものめずらしげに、興味しんしんという感じで人形のおどりにみいっている。この対比にも、世間(人間たち)にとっての「大漁」は、魚たちにとっては「お葬式」だと書いた詩人ならではの観念の遠近法が、そっと顔をのぞかせている、という感じがする。


黒衣


文楽の人形たちは白い足や時には赤い足をして
空を飛んでいるので
わたしたちは安心して惨劇を眺められる
観客の背はやがて
それぞれの黒子(くろご)を背負い劇場から
日の差す街へ歩きだす 自分に
歩いている音が聞こえているから
わたしたちは操り人形ではないと思うが
風景は書き割りのように動かないので
用もなく路地を曲る者もある


 この作品は高橋順子の詩(詩集『花まいらせず』より・現代詩文庫『高橋順子詩集』参照)。それぞれの観客は、みなそれぞれの黒子を背負っている、という表現が、ちょっときわだっている。このファンタジックな視覚的な像が、そのまま明快なひとの思いと身体の喩として重なってくるからだ。幻想を語りながら、たぶん作者の現実感覚のほうがまさっていて、人が人形のように「あやつられる」ということには、さして深刻な意味が求められているわけではなく、ユーモラスで知的な距離感のようなものが作品の調子を軽快につつんでいる。


人形


瞳をとり出して
宝石箱へしまふ
耳もはづして 掌(て)にはりつける

空がぶら下げた あやつりにんぎょう
そんなにして 侵すものを おそれるけれど
おまへは 砂に侵されすぎて
どんな色にも 音にも
もう侵されようがない

おまへの唇を こぢあけて
砂をつめこんだのは だれ

きびしくなって 叫ばなくなって
あまりまづいので 噛まなくなって
箱のなかで瞳孔はみひらいたきり
どんなシャベルも 死体を掘れない

何がおまへを
つかんでも ゆすぶっても おまへは
ガラスのやうに 首をふる


これは吉原幸子の作品(詩集『夏の墓』所収。現代詩文庫『吉原幸子詩集』(思潮社)より)。だれかによって、砂をつめこまれたあやつり人形。この人形は箱のなかで目をみひらいたまま死体同然に横たわっている。けれどそれは同時に「空がぶらさげた あやつり人形」である自分と同一視されて、とけあっている。なんらかの現実的な理由からくる被害感の表白という強い感情によって書かれたのかもしれないが、言葉はととのっていて、自虐的な自己劇を作品として定着している姿勢に、むしろナルシズムさえ感じられるところがある。人形に手がもげ、首がもげるようなことがおきても、そこに人の痛みの感情が関与しないかぎり、なにも惨劇は成立しない。着せ替え人形は、手や首がもげないと、着せ替えがうまくできなかったりする(^^;。そういう意味で、この作品の感覚世界は、人形に仮託されているからこそ、ある意味ちょっと忘れがたい甘美な訴求力があるのだと思う。


《あやつり人形劇場》1923


あやつられていることをしっているから
きみはそんなにふざけるのだ

いとはたるみ
いとははり
いとはもつれ

あやつるわたしのゆびさきへと
いとをつたっておくられてくる
きみのいのち

あやつられているとしっているから
きみはよるそんなにもふかくねむる


 これは、谷川俊太郎の作品(詩集『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』所収))で、「ポール・クレーの絵による「絵本」のために」の中の一編。題材になっている絵画をみながら読むと、細部の描写がさらにふにおちてくるように思えそうなところがあるが、そういうことをはなれても、印象深い作品だと思う。この作品では、あやつり人形の芝居をみる観客ではなく、人形をあやつるものの視点から人形がとらえられている。あやつっても思いのままにならない人形に通わせる人形師の屈折した愛情。それが最後の連で、別の次元にすっと移行する。人形は人形のままで、深い信のためにピノキオのように人間になってやすらいでいる。


ともだち


夏休みの宿題に
ともだちを作ることにした
粘土をこねて
それにネジやバネを入れ
最後に電池をいれてできあがり
手も足も口も
本物そっくりによく動く
誰もそれがぼくの作ったものだとは気づかない
ぼくらは朝から晩までいっしょに過ごし
隣の町を探検したり
セミやザリガニをとりに行ったり
川で泳いだり
宝さがしをしたりした
そうして夏休みはあっというまにおわり
新学期
ぼくはそのともだちを学校に出した
みんなが寄ってきてぼくに聞く
これ動くの?
もちろん
ぼくは彼のネジを巻く
けれど彼は動かない
体をたたいてもまるで反応しない
腹が立ち 頭を思いきりなぐる と彼は
ギイー、ギイーとにぶい音をたて
体をゆらし
口からいっぱいネジやバネをはき あっけなく
つぶれてしまった
ぼくは彼を家へ持って帰り
庭の木の根元にうめた
それ以来
何回も夏は来たけれど
もう二度とぼくに
ともだちは作れなくなった


 これは、高階杞一の作品(『空への質問』現代詩文庫高階杞一詩集(砂子屋書房)より)。人形に人間のような命をふきこみたい、という古来からの人々の夢は、あやつり人形や、からくり人形、やがては、いわゆる自動人形や人造人間、ロボットの創造へと続く人間の想像力の歴史をつくりあげてきた。

 この詩は、こわれた人形ロボットに託して、万能だった少年期の自己愛の世界の喪失がうたわれている、というふうに読んだ方が作品に即しているのかもしれないが、最後の行の「ともだち」を、こわれた人形の呼び名というだけでなく、今に至る「ぼく」の、なまみの人間としての「ともだち」全般という意味あいに拡げてよむとき、自分でつくりあげた人形だけが、ひとりきりの「ともだち」だったというこの作品の寓意は、ある意味、球体関節人形やフィギアの制作や蒐集に熱中する現代の若い人たちの気持ちに通い合うところがあるように思える。

(文中敬称略)




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