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 死者の書の夢

           夕暮は雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて
                         (古今集・詠み人しらず)

               (* 註1〜10は別窓でご覧下さい)



 川本喜八郎監督による人形アニメーション映画「死者の書」(註1)をみた。原作は折口信夫の同名小説で、映画は原作のストーリーの流れをほぼ時系列にそって再構成したものだった(註2)。人形アニメーション(註3)という特殊な技法で撮影された幻想的なストーリーをおおいに堪能したついでに、久しぶりに原作をよみかえしてみて、いくつか感じたことを書き留めておきたいと思った。

 映画のパンフレットの解説に「原作「死者の書」は、奈良・當麻寺に伝わる、中将姫の蓮糸曼陀羅の伝説(註4)と、大津皇子の史実(註5)をモチーフにしたものである。」と、あるように、原作小説は、奈良二上山にまつわる、このふたつの史実と伝承を融合するところになりたっている。もうすこし踏み込んだ印象を言うと、この作品は中将姫の蓮糸曼陀羅の伝説を母体にして、主人公の中将姫(作品では藤原南家の郎女)が、二上山の麓にある当麻寺に導かれる契機となる出来事に焦点をあて、彼女の出奔が当地二上山に墓のある大津皇子(作品では滋賀津彦)の霊魂(死者の亡霊)が彼女をまねいた結果だった、という、別の解釈を接合することで成立している、ように思えた(註6)。

 この契機となる出来事というのは、作中で何度か描写される、主人公の郎女が、彼岸の中日の夕暮れに、二上山の山越しに貴人の幻をみて、そのまばゆさに心を奪われる、という光景だ。その貴人の幻は、従来の仏教説話的な中将姫の伝説の趣旨からいえば、信仰の厚い娘のかいまみた西方浄土にたつ彌陀の御姿ということになるだろうが、物語に接合された土俗的な解釈からいえば、大津皇子の亡霊が主人公の郎女を妻として呼ばうために、死者として現世に立ち現れた姿ということになる。この解釈の二重性は、物語の最後まで、ひきつがれている(註6)。

 作者はどちらが物語の真であるか、というような設定はしていない。結論めいたことをいってしまえば、主人公の郎女が山越しに幻をみるという印象的な光景があかすのは、そうした二つの意味づけ以前の体験であり、ひとがこの世界で超越的なものをかいまみる原光景(イメージ)のようなことであるように思える。それは貴人の幻が、彌陀の似姿であるとすることにまつわる仏教的な観念の体系や、大津皇子の亡霊であるとすることにまつわる土俗的な伝承の体系が成立する以前の、人が超越的なものにふれる原初的な太陽信仰(心)の姿をうつしているのだといっていい。

 作者折口信夫は作品の解説文「山越の阿彌陀像の畫因」(註7)でこのことに触れている。この一文は、作品の成立に至る事情を、作者として忌憚なく語った部分と、その出来上がった作品を民俗学者として、他人の手になる客観物のように対象化しようとする分析的な視線が混淆していて、独特の難解さと魅力をそなえた文章だが、おおまかにいえば、作者としては、あまり深い構想ももたず、ある朝にみた名状しがたい夢を核にして『死者の書』という小説をかきあげた。しかしできあがったものをあとで見ると、さまざまな民俗学的な連想をさそう意想がそのなかに書かれているのに、自分でも驚いていて、そのことを附説したくなった、というような微妙なスタンスで書かれている。「山越の阿彌陀像」という日本独自の不思議な図像が、なぜ描かれたのか、その背景には、仏教伝来以前の、古代人の太陽信仰の残照とでもいうべき思念の力があった。そうした集合無意識のような力にうながされて、そのような図像=作品はときに歴史の中に孤立した島のようにふいに姿をあらわすことがある。たとえば、自分の書いた『死者の書』もそうした作物のひとつなのだ。折口は文中でそんなふうにいっているように思う。

 ただ著者の披瀝している解説をなぞっただけのようなことかもしれないが、自分としては上記のようなことが書ければ、だいたいこの感想はつきてしまう。それではちょっとものたりないので、同じようなことを別の切り口からいってみたい。それは語り部の存在ということだ。古代、人が歴史(過去のできごと)をしるのは、語り部の口を通してであった。『死者の書』に描かれる奈良時代は、そうした語り部による伝承という伝統がうすらいでいく過渡期にあたっている(註8)。『死者の書』で、郎女に大津皇子の物語を話してきかせるのも、「當麻の語り部の媼」という女性であり、『死者の書』の前身と作者自身のいう未完の短編小説「神の嫁」には、語り部が少年の口をかりて「春日の神」を呼び出す迫真的なシーンがでてくる(註9)。「山越の阿彌陀像の畫因」ではふれられていないが、中将姫伝説のなかから、継母にいじめられる娘の物語という、芸能化された見せ場の部分をすっぱりきりおとした折口が、その舞台を借りて何を語りたかったのかといえば、語り部の告げる言葉の威力がおとろえながらも、まだ生き生きとしていた過渡的な時代に、その神がたり、神懸かりの様相をリアルに再現させてみるということではなかったか、と、思わずにいられない。

 変な言い方かもしれなが、語り部ということは、「山越の阿彌陀像の畫因」という文章の、作者が自分の書いた「死者の書」という作品を観照する態度の、微妙なスタンスのとりかたにもいえるのだ。「死者の書」そのものが、自分のうちなる「語り部」(夢告)がうんだものだ、というふうにいいたそうにみえるところがある。郎女が萬法蔵院の北の庵室で物忌みをしているとき、當麻の語り部の媼は、彼女がこの地に導かれた理由を、仏縁からでなく、大津皇子の招きによるものだと説明する。郎女は、それを即座に信じる。この描写はとても象徴的だ(註10)。物語の表層では、郎女が語り部の媼の言葉を信じた理由がさまざまに説明されている。しかしその深層では、郎女の心は、ひとつの空の器、無意識と通底するような澄みきった空のような器であることをしめしているように思える。その古代の心に、様々な地方に特有の伝承や、様々な時代の観念の体系が盛られることはあっても、その器は、それらを無限に受容することで、いつまでも澄んだままでいる。それは郎女のみた貴人の幻が、人が超越的なものとまみえる原光景(イメージ)であったという理解と、別のことではないだろう。

 『死者の書』には、人が鶯になったというような語り部の昔語(ムカシガタリ)がでてくるが、そうした伝承を人々が実感として信じられなくなったとき、語り部の昔語(ムカシガタリ)のような神話や伝承は、ひとつの支脈として、いくつものバリエーションをもつ中将姫のような伝説に姿をかえていったように思われる。折口にならって「日本人の精神分析」(「山越の阿彌陀像の畫因」)的ないいかたをすれば、伝説を生む個々の人々の心の深層には同じ力が流れていて、歴史をこえて、「山越の阿彌陀像」のように忽然と姿をあらわすことがある。そういういみでいえば、『死者の書』も、昭和の初期にうまれた、またひとつ別の中将姫伝説だということができるのかもしれない。


よりみち的な付記)

 『死者の書』というタイトルからは、ふつう、エジプトの「死者の書」を思い浮かべるひとが多いと思う。折口自身「山越の阿彌陀像の畫因」のなかで、自作のことを「ゑぢぷともどき」と呼んでいるから、これを意識していたことは確かだ。また雑誌に掲載された初出稿(未見)には、「穆天子伝」の一部が原漢文のまま引用されていたという。このことにふれて折口は書いている。

「はじめは、此書き物の脇役になる滋賀津彦に絡んだ部分が、日本の「死者の書」見たようなところがあるので、これへ、連想を誘う為に、「天子伝」の一部を書き出しに添えて出した。そうして表題を少しひねってつけて見た。かうすると、倭、漢、洋の死者の書の趣が重なって来る様で、自分だけには、気がよかったのである。」(「山越の阿彌陀像の畫因」より)

 エジプトの「死者の書」は、新王朝の時代(紀元前16〜14世紀)に成立したとされる、死者とともに埋葬された経文で、「死後の平安と復活を願って呪文や祈祷文が、パピルスに書かれている」(『大辞林』)。中国の「穆天子伝」は、映画パンフレットの中の平井徹氏の「折口信夫『死者の書』に投影された中国文学」によると、古典小説で、そのなかの「菊慈童」は、能にもなり、700年も眠り続けた少年が主人公であるという。氏は文中で、能の「菊慈童」が折口にインスピレーションをあたえた可能性を示唆されている。
 折口は「表題を少しひねってつけて見た」と書いているが、興味深いことに、エジプトの「死者の書」は、古代エジプト語では「ペレト エム ヘルゥ」と、いう名前で、日本語にすると、日<ラー>の元に出現するための書、または、日<ラー>のように出現するための書、というほどの意味になるという。まさに、郎女が山越しに貴人の幻(阿彌陀像=大津皇子の幻)をみるという設定に、さらなる古代の太陽信仰の残照をとけあわせた作品のタイトルにふさわしいというべきではないだろうか。



 中将姫の伝説は、能や歌舞伎、浄瑠璃などの芸能にひろく採りいれられた。芝居見物が縁遠くなってしまった現代では想像しにくいところがあるけれど、折口が『死者の書』(昭和十四年)や「神の嫁」(大正十年頃)を書いた時代には、まだ多くの人がそのあらすじを知っているような物語として一般に流布されていたように思える。たとえば、以下のような大正期に書かれた金子みすずの詩からも、そういう事情がうかがえるように思う。


お祖母さまと浄瑠璃

縫ひものしながらお祖母さまは、
いつもおはなし、きかせました。
おつる、千松、中将姫......、
みんなかなしい話ばかり。

お話しながらお祖母さまは、
ときどき浄瑠璃をきかせました。
おもひ出しても胸がいたむ、
それはかなしい調子でした。

中将姫をおもふせいか、
そのことはみんなみんな、
雪の夜のようにおもはれます。

それももう遠いむかし、
うたの言葉はわすれました。

ただ、せつない、ひびきばかり、
ああ、いまも、水のように、
かなしくしづかに沁みてきます。

さらさらと、さらさらと、
ふる雪の音さへも......。


 中将姫が、14歳の雪の降る朝、継母・照夜の前に盗みの疑いをかけられ、老松の下で割り竹打ちの折檻を受ける、という場面は、歌舞伎「中将姫雪責」、人形浄瑠璃「ひばり山姫捨ての松」として上演されたという。みすずの祖母の物語りもそういう場面の再現だったのだろう。



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人形アニメーション映画「死者の書」パンフレット


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