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 相沢正一郎詩集『パルナッソスへの旅』ノート



1 言葉の場所


 『パルナッソスへの旅』は、24篇の詩(うち1篇は連作詩)からなる詩集だ。詩集でまず目をひくのは、作品に沢山の書物の書名や一節がおりこまれていることだろう。内容から類推されるもの、書名だけあげてあるものなどもふくめると、『ランボー詩集』、『古事記』、『アレクサンドロス大王』、シェイクスピアの『夏の夜の夢』、『リア王』、『テンペスト』、『ハムレット』、『マクベス』、『枕草子』、『平家物語』、『徒然草』、『オイディプース』、『ロビンソン・クルーソー』、『虫めづる姫君』、『源氏物語』、『ギリシャ神話』、『ホメーロスの諸神讃歌』、『我輩は猫である』、『東海道中膝栗毛』、『オデュッセイア』、『フランシス・ジャム詩集』、ほかに江戸川乱歩、庄野潤三の小説。。。

 こんなふうに書き出していくと、ちょっと圧倒されるような感じになるかもしれないが、詩を読んでいて、古典や歴史好きで読書家の作者が自らの博覧強記ぶりを作品に託して開陳している、というような印象はまったく感じない。詩作品のなかで、これらの書物のほとんどが、「わたし」の家の台所のテーブルの周辺で読まれ、読みかけのその本の印象が、実際にキッチンにいる(作品内の現実の側の)「わたし」の感慨といりまじる、という微妙な設定で多くの作品が書かれている。この微妙な設定には様々なバリエーションがあって、それぞれが作品固有の文体と溶け合っているので、いざ概括的に説明しようとするとむつかしいが、多くの個所で読むと思わず微苦笑を誘われるような効果をうみだしている。典型的な作品をひとつあげてみよう。


23  壇ノ浦の合戦とスパゲティ・ヴォンゴレ


 吹き鳴らされる法螺貝も、連打される鉦も、山々にこだます
る鬨の声も、蹄のいかずちも、射かわす矢の雨の音も今は消え、
......テーブルにとじた本の近く、わたしは深鍋の湯に塩をひと
つかみ。東から西にながれる潮の流れが決め手だな----お鍋の
パスタをかきまぜながら、そんなことをつぶやいたのは、耳の
奥で、まだ壇ノ浦の潮騒がひびいているから。
 平知盛----きみは《見るべき程の事は見つ。いまは自害せ
ん》と、鎧をふたつ身にまとって海に入る。《海上には赤旗、
赤印、投げすてかなぐりすてたりければ、龍田河の紅葉葉を嵐
の吹きちらしたるがごとし。きぎはに寄する白浪も薄紅にぞな
りにける》。おもわず、あたりを見まわした。壁が透きとおっ
て消え、海の水がキッチンに流れ込んでくる----ふと、そんな
気がして。


 もういいかな、しろく泡立ち沸騰するお鍋の海に身をくねら
せているパスタを一本すくって食べてみる。しょっぱい中に微
かな甘み。......でも、まだかたい。わたしは見た----きみの子
息知章が、助け船にのろうと海岸へむかう途中、きみの目の前
で討たれるのを。わたしは見た----きみの母の二位の尼が、三
種の神器のうち、曲玉を腋にはさみ、宝剣を腰にさし、おさな
い安徳帝をいだいて水底ふかく沈んでいくのを。
 わたしは見た----二四三ページ目にさりげなく挟まっていた
蚊の赤い押し花を。わたしは見た----空地を走りまわる犬、陽
光の中をゆっくり這ってゆく銀色の蜥蜴、ギィーと音たてて開
くドアを。わたしは見た----くさむらによこたわる自転車、道
端にころがるスプライトの空缶、シロツメクサの葉をゆらす風
を。わたしは聞いた----雨の中で鳴く仔猫の声、いつのまにか
口ずさんでいた古い歌、なにかがとびあがって水のはねる音を。


 もう一本、アルデンテ......芯を、ほんの少しだけ残すのがコ
ツ。もういいだろう。お鍋の麺をザルにあけ、水を切る。わた
しは見た----流しに立ち上る湯気のむこう、一の谷のうしろに
そびえるあの山のたかみ鵯越に、源義経のひきいる三千騎が姿
をあらわすのを。そして、鵯越の急坂を坂おとしにおそいかか
ってきた騎馬集団を。わたしは見た----火炎に追いたてられ、
煙につつまれ、先をあらそって船に乗りこみ、船は転覆。船の
上の侍たちが、船べりにとりつく味方の腕やひじを太刀や長刀
ではらいおとすのを。
 オリーブオイルをいれたフライパンを火に、すりおろしたニ
ンニクと、輪切りのとうがらしで香りづけ。......わたしは見た
----主人のいない舟が、潮にひかれ、風にしたがって、いずこ
ともなく漂ってゆくのを。


 わたしは見た----テーブルの表面から消えてゆくティーカッ
プの丸い湯気のあと、空をひっかく飛行機雲、ひらべったい小
石の水切りを。わたしは見た----床に落ちていたコルクの栓、
行方不明だったスリッパのかたっぽ、しまい忘れたうちわを。
わたしは見た----電話のメモ、バスの時刻表、ベンチに刻まれ
た名前を。わたしは見た----ふちの欠けた湯飲み、柄のとれた
如雨露、蝉のむけがらを。わたしは見た----ふきでもの、壁の
しみ、オリオンの馬頭星雲を。
 知盛----きみが三十年の生涯をとじたのは十一巻目。(わた
しは今、何巻目にいるんだろう)。やがて、ニンニクと赤唐辛
子の香るフライパンの中、わたしは見た----ジュージュー熱く
うずまくワインに溺れたアサリが殻をひらくのを。


   沸騰した湯の中に麺をなげいれて茹であがったらフライパンでアサリを炒め、といった調理時の所作や手順と、平家一族が壇ノ浦の合戦で敗れ入水したり炎や煙にまかれて死んでいく有様が重ねられている。このふたつの場からたちあがってくるイメージの落差とみかけの類似が、言葉の流れとしての異化効果のようなものをうみだしていて、ここでは、ただそれらのイメージの断片の奔流を、「わたしは見た----」という、たたみかけるようなリズムとともに楽しめばいいのだとおもう。でもここでは、もうすこし別のこともいってみよう。

 「私は見た----」という言い方で、書かれていることには、いくつも違いがある。ひとつは、本を読んでその情景描写から、想像した(想像可能な)イメージを「見た」といっている部分。ひとつは、「わたし」が、過去のいつかどこかで実際に見た情景の記憶像を再現している部分。もうひとつは、作品のなかでの現在として、調理をしながら見た、とされている部分。これらの「見た」は、現実には混同されることはない。だから、この作品の中の「わたし」の体験は、一見ひとつの現実(本をよみかけのまま、調理をしていたら、耳の奥で「まだ壇ノ浦の潮騒がひび」いていたり、「壁が透きとおって消え、海の水がキッチンに流れ込んでくる」、そんな気がして「おもわず、あたりを見まわした。」というようなこと)を生起した事実のように、基底においているが、これは舞台のようにしつらえられた、虚構の「幻聴・幻視体験」だといっていいのだと思う。ではどうして、そのような虚構をつくりあげては変奏することが、くりかえし要請されたのだろうか。

 唐突かもしれないが、ここでひとつ思うことは、自分が、今、ここに、生きて在る、というような生存の感覚を確かめるために、作品を書く、と、いうような、ひとつの書くことにむきあう姿勢が、作者にはあるのではないか、というようなことだ。 いまここに生きている、ということ。この不確かな状態をつなぎとめるために、さまざまなひとが、ものを書き物語をつむぎだす。たとえばこの詩集の作者は、こんなふうに書いている。


 キーボードを打つ手がとまった。しばらく考えてから〈まよ
なかの電話のベルはいやだ〉を削除する。こんな風に、いやな
記憶をすべて消すことができたらどんなにいいだろう。いまこ
こは、隠遁と俗世のほどよい距離。冷蔵庫のひんやりした青い
光に顔をむらしながら中身を点検するようにして、液晶画面の
ことばの星を読んでいるわたしもまた、移りゆく時間の中----
〈書く〉ということは、時のながれに抗い爪をたてたときの引
っかき傷。
  (『パルナッソスへの旅』所収「13 徒然草 2004」より)


 パソコンにむかって、詩行を書きくわえたり削除したりしながら作品をかいている。そんな「わたし」の「いまここ」(現在)が、「隠遁と俗世」のほどよい距離の中にある、という。この言葉は、直接は「徒然草」の著者の境遇についての思いと響き合っているのかもしれないが、たぶん、そんなふうに感じられるのは、「こんな風に、いやな記憶をすべて消すことができたらどんなにいいだろう」という、ものを書くという行為のまとう自在感が、いわしめているところがありそうに思える。書くということにおいて、もしそう望むなら、「いやな記憶をすべて消すこと」ができる。このことをもうすこしつきつめれば、要するに作者が書くことに求めているのは、「事実」をそのまま核にする、ということよりも、むしろ「いやな記憶を消」したり、逆に「よい記憶」を付け加えたりといった、物語的な「虚構」(仮構性)の場の構築といったことではないだろうか。むしろ作品的「事実=現実」さえ、そのフィクションをリアルにみせかけるために、つくりだされているように思えるところさえあるのだが、そのほころびをも含めた作品の自己劇は、そういってよければ、いま、ここに生きてある、という「移りゆく時間の中」での生存感覚を、ひとときその場にとどめ、時代の他者に伸びやかに届かせるために構築された効果的な装置になっている、という感じがする。引用個所の重複を厭わず、「13 徒然草 2004」全編をあげてみよう。


13 徒然草 2004

 どうやら風邪をひいたらしい。----こんなときには、はやく
柔らかなふとんに溶けこむのがいちばんだが、なまぬるい汗に
ぬれ、心臓も妙につよく打ち、ざわざわした気分が剥がれない。
おまけに、鼻がつまって呼吸ができない。眠りから追放された
わたしは、手足の先を冷たくしたまま椅子に腰をおろして、テ
ーブルでノート・パソコンを立ちあげる。


 あかない瓶のふたはいやだ、割り箸が清潔くわれなかったとき
も、お弁当をひらいたときに箸がはいっていなかったときも、
くずれた豆腐も。ごはんの中から金冠を噛みあてたときはいや
だ。おみおつけの実を刻む包丁のひびきはいい、自転車のダイ
ナモのふるえる音も。郵便受けからひっぱったら破れてしまっ
た新聞はいやだ。風に舞う新聞紙はいい、地下鉄の通気孔にひ
っかかった新聞紙も。地下鉄の階段はいやだ。錆だらけの外階
段はいい。


 ぶるぶるっと馬みたいに身をふるわせる。......からでゃ熱っ
ぽくてだるいのに、こころの底はしんしんと冷たく冴えてくる。
----青みをおびた夜の街で、皓々と輝く二十四時間営業のコン
ビニの強烈な白い明るさの中に入りこむような覚醒と、ほんの
微かに鳴り続けている電子音の催眠効果がまじりあい、しだい
に《あやしうこそものぐるほし》い気分になってくる。《諸縁
方下》を気どって、つれずれなるままにこころに浮かぶ《よし
なし事》をとめどなくワープロに打ち込んでいると、いつのま
にかゴミ箱は、鼻をかんだあとのティッシュの山。


 本から、ふと頭を上げたときに去来するあれこれはいい。本
のページのあいだにさりげなく挟まっている紙切れも。なまぬ
るい息の残った電話ボックスはいやだ、まだあたたかい受話器
も。まだあたたかいスリッパはいい。医院の待合室の湿ったス
リッパはいやだ。まよなかの電話のベルはいやだ。ジャング
ル・ジムの影の檻はいやだ。橋のまんなかで、川のひかりをの
ぞきこんでいるひとの疲れた顔はいい。


 キーボードを打つ手がとまった。しばらく考えてから〈まよ
なかの電話のベルはいやだ〉を削除する。こんな風に、いやな
記憶をすべて消すことができたらどんなにいいだろう。いまこ
こは、隠遁と俗世のほどよい距離。冷蔵庫のひんやりした青い
光に顔をむらしながら中身を点検するようにして、液晶画面の
ことばの星を読んでいるわたしもまた、移りゆく時間の中----
〈書く〉ということは、時のながれに抗い爪をたてたときの引
っかき傷。


 まだなにも書き込まれていない、まっさらなノートはいい。
壁に懸かっている十二月のカレンダーはいやだ。知らないうち
に口ずさんでいる歌はいい。のどもとまで出かかっているのに
思い出せないことばはいやだ。雨に濡れたズボンはいやだ、折
り返した裾からのぞく青白い脛も。靴に入った小石はいやだ。
エレベーターに残っていた樟脳の香りはいい。朝のコーヒーの
香りと新聞のインクの匂いがいい、穂を落とした稲穂の束の乾
いた匂いも。


 おもわず、そうそうとあいずちをうちたくなるような、誰にでも覚えがあるようないい感じといやな感じのイメージが豊富にもりこまれているが、この作品も、風邪をひいて熱っぽいのに眠れない状態でパソコンにむかった、という話者の現実そのものをなぞったようでいて、そういう状況設定もたぶん、《あやしうこそものぐるほし》けれ、という言葉を効果的にいかすために、仮構されている、という感じがする。書かれていることは、たしかに「つれずれなるままにこころに浮かぶ《よしなし事》をとめどなくワープロに打ち込ん」だといえばいえそうだが、「徒然草」というより「枕草子」のパロディというか、あるいみでの現代版のようになっているからだ。ただどちらの古典にもでてくる他者のひととなりや所作や言動についての関心はほとんどみられなくて、外界から自分の感覚器官につたわってくる事象の質感の記憶像のようなものを、あるいみ生理的であるだけ普遍的でもあるような快苦原則にそって確かめなおしたとでもいいたいような、また自分の生理身体性とひっそりとむきあうような親密な情緒が選ばれている、とはいえるかもしれない。




2「幻をみる父と子」


詩集の冒頭におかれている「1 (果樹園、荒野、河......)」は、ちょっと謎めいた作品だ。


1 (果樹園、荒野、河......)


 まよなかの台所で、父はわたしに言った。わたしがまだ子
どもだったころ、父が旅に出るまえの話だ。
 おまえが生まれたとき----オルテーズの果樹園で、風がリラ
の木をゆすって、こがね虫を振り落とした。サルデーニャ島の
荒野で、羊飼いの胸から逃れた仔羊が、母羊にかけよって乳房
にしがみついた。丘の上で、三人の少女がアルゼンチン中央鉄
道のどこまでも続いている線路や、ミルクコーヒーのような色
をした一対岸の河をながめていた。
 キルヒベルクの高等中学の寄宿舎で、学生が両親から届けら
れた手紙の封を切った。ブルックリンの街角で、少年が若い女
のバックをひったくった。エスタンシアの大草原のユーカリの
木のこかげで、草を食べていた馬がうしろをふり向いた。
 ほんの数時間前の話し声や笑い声、食器のふれあう音やもの
を食べる音は遠のいて----いま、テーブルのまわりは果樹園、
荒野、河......。目をとじた天使がわたしによりそって耳をすま
している。
 そうそう、ろばが鳴いた----と、父が続けた。
 .................................................................................
 ろばが鳴いたって。いったいなんなんだい、わたしが生まれ
たところは。それに「オルテーズの果樹園で、風がリラの木
をゆすって、こがね虫を振り落とした」とき、「エスタンシア
の大草原のユーカリの木のこかげで、草を食べていた馬がうし
ろをふり向いた」って、一体どうしてわかるんだ。
 わたしが生まれたとき、----ほんとうは、ムラサキシキブに
とまっていた四十雀が飛びたって、枝がかすかに揺れたぐらい
のことなんじゃないの。池にマツボックリが落ちて、水面に波
紋がひろがった程度のことなんじゃないの。壁にかかっていた
コートが落ちて、床に影みたいに蹲っただけのことなんじゃな
いの。


 この作品だけを読むと、ちょっと何がいいたいのかわからない、という印象を覚える人も多いとおもう。「おまえが生まれたとき、、、」と、はじまる、「父」の言葉は、同時刻に世界で起きた様々な事象をきりとったという形をかりて、恣意的に思いついた幾つもの情景を、編集した映画の短いショットのように重ねて語っているだけのようにみえるし、それにたいして後段の「わたし」は、そうした読者の思いに同調するように、そんなことわかるわけないし、そういう「事実」なんて、いくらでも同じようにいいかえられるようなことでしょう、といっているのだが、黒板に物語の意味ありげな導入部をすらすらと大書したとおもったら、すばやく作者自ら黒板拭きで消していくような作業を見せられているだけ、といった、ちょっと不条理であっけにとられるような感覚におそわれるところがあるからだ。

 けれど、詩集全体をよみおえて、この作品にたちかえってみると、いくつも気がつくところがある。まずなによりも、この詩集の収録作品の多くが、「まよなかの台所」を舞台にしていること。そこで演出される幻覚体験(と、とりあえず、そういうふうにいってみたい)がテーマになっていること。それはまさに、「ほんの数時間前の話し声や笑い声、食器のふれあう音やもの/を食べる音は遠のいて----いま、テーブルのまわりは果樹園、/荒野、河......。」というような、現実のキッチンテーブルの周辺が、(多くは読んでいた書物の世界からぬけでてきたイメージとしての)果樹園や荒野や河に、想念のなかで重ね合わされたり、変貌するような出来事が描かれている、ということである。

 もうひとつは、この作品の構成にかかわることだが、後段の、成長して子どものころに聞いた話として父の言葉を思い返している「わたし」が、その内容に疑問を呈しながらも、その父の語りと同じレベルにある比喩を、くりかえしていることの意味だ。このことをすこしつきつめてみると、要するにこの作品は、ひとりの幻視者(ここでは、夢想家といっていいかもしれない)としての父親の資質を、そっくり、その息子である「わたし」が受け継いでいる、ということを明かしていることになる。この「わたし」は父の語ったイメージを、否定しているようで、知らずに変奏している、と暗示されているのだと言っていい。そして、その変奏は、詩集全体に及んでいる、と考えるとき、この作品が冒頭におかれている意味が、しっくりとふにおちてくる。

 もうひとつは、「そうそう、ろばがないた」と父がつけくわえたことの意味だ。詩集全体をみると、「ろば」は、「7 プロスペローの手紙」の「a パックに」のなかに「パック、たのむからぼくが眠っているうちにロバの頭をのっけたりしないでくれよ。」という詩行として登場するほか、詩集の半ばに掲載されている「11 ろばのうた」*にタイトルとして登場し、詩集の最後は、「24 (ろばは しずかにあるいていた)」という作品でしめくくられている。また、その作品には、「わたしが生まれた年の翌年に出版されて」いた『ジャム詩集』のページのあいだに挟み込まれていた紙片に、「わたし」が20歳のときに書き付けたという「詩というよりメモのような数行」が書かれていたとして、その内容が、作品内に挿入されている。


ろばは しずかに歩いていた。
みつばちが怖いので
耳をひっきりなしにうごかしながら歩いていた。
ぼくが ひげを剃っているときも
テレビの前にすわって缶ビールを飲んでいるときも、
はだしで車を洗っているときも、
受話器をおとして 顔を両手でおおっているときも、
ぼくのすぐ近くを
ろばは しずかにあるいていた。


そして、この詩「24 (ろばは しずかにあるいていた)」は、次のような連でしめくくられている。


「ろばは しずかにあるいていた」から、この「風が、わたし
のうしろからのぞき込み」が書かれるまでのあいだ----たくさ
んの日々のページがめくられていった。そして、わたしが切り
もないよしなしごとをテーブルで書いている今、うっすらひら
いた台所のドアから、ろばの影がゆっくり通りすぎてゆく。


 つまりここまで読んできてきがつくのは、詩集冒頭に父の言葉「そうそう、ろばが鳴いた」として登場し、「わたし」に「ろばが鳴いたって。いったいなんなんだい、わたしが生まれたところは。」といわしめた「ろば」は、二〇歳のときに書かれたという断片において、すでに「わたし」の人生の伴走者のようなイメージとして描かれ、最後に作者自身にとって、いまも「ろばの影がゆっくり通りすぎてゆく。」と言明されて詩集が閉じられていることになる。

 この詩集のタイトル『パルナッソスへの旅』は、「わたし」の詩人としての人生の歩みを「旅」とみなして、詩の女神ミューズたちの住むというパルナッソス山にむかう旅に、なぞらえられている、ということはいえるだろう。そのパルナッソスは、たぶん、ろばが鳴いたという、わたしの生まれた故郷=詩の原郷にかさねられ、「ろば」もまたわたしが詩を書きはじめたときから「わたし」とともに、その故郷である詩の国にむかって「しずかにあるいて」いる。どんなときも、たとえば、うまれたときにいたと父が語った「わたしによりそって耳をすましている」「目をとじた天使」のように、といってもいいかもしれない。


*「11 ろばのうた」は、「ろば」という言葉が、作者にとっての「詩作」を象徴している、というように考えると、三つのタイプのことなる詩法(詩への向き合い方)を並列したもののように解することもできると思う。


3 批評性ということ


 『パルナッソスへの旅』に収録されている作品の語り手は、「わたし」や「ぼく」ばかりではない。連作詩「7 プロスペローの手紙」の「b あらしの散歩」では、愛犬!が語り手になっているし、「d ハムレット」では、オフィーリアの乳母(ばあや)が、「17 声の庭」では、(「わたし」の妻と想定されているような)女性のモノローグが主旋律になっている。詩集全体の印象からすると、こうした仮構性の水準を一歩おしすすめたような作品で、逆に作者の心情が伸びやかに吐露されているところがあるような感じがするのは、興味深いところだった。


「d ハムレット」


 あれまあ、《ことば、ことば、ことば》って、ハムレットさ
ま、あなたはいつも悪口ばっかり。まいあさ、老眼鏡を拭きな
がら目を通す、あの新聞のよう。......いつかも、オフィーリア
のお父さま、ポローニアスさまを嘲りました。《その髭白く、
その顔皺だらけにして、目より松脂色の液体流し、知能はおび
ただしく退化し、あわせて膝関節に衰弱を見する》なんて。で
も、ハムレットさま、老いて耳が遠くなったひとは長生きする
って言いますでしょ----つまらない悪口を聞かずにすみますか
ら。
《食って寝るだけに生涯のほとんどをついやすとしたら、人間
とはなんだ》ですって。----ご冗談はおよしあそばせ。木瓜の
淡紅色の八重咲をみて、おもわず口もとに微笑がひろがったこ
と。古いカレンダーをはずして、新しいものに掛け替えたとき
調なくらしのスパイス。......《トゥ・ビー、オァ、ノット・ト
ゥ・ビー》。そうそう、きょうの夕飯のおかずなににしようか
しら。きのうはあっさりわかさかれいの塩焼きだったから、レ
バーのバター焼き......。夏ものも、たまには風を通してやらな
くちゃ。
 ハムレットさま、つぎにあなたはお母さま(ガートルード)
に、両手にもったおふたりのお父さま(実父と義父)の肖像を
お見せして、お母さまを責めました。《太陽神アポロの巻き毛、
主神ジュピターの額、軍神マルスのまなざし、これがあなたの
夫であった人だ。ところが、こちらはどうです。あなたのいま
の夫----かびの生えた麦の穂のようにすこやかなその兄(先
王)までも枯らしたやつだ。そして、脂ぎった汗くさい寝床の
なかで、汚らわしい豚に抱かれ、欲情にただれた日々を送って
いる》とおっしゃって。
 その話を聞いて、わたしゃもう、驚いたのなんの......。王妃
は、《ああ、ハムレット、お前はこの胸をまっぷたつに裂い
てしまった》とお嘆きになりました。......やれやれ、「まっ
ぷたつ」なのは、ハムレットさま、あなたご自身ではないです
か。ペンと剣、本とシャレコウベ、芝居と現実......あなたは、
旅役者に《何もかもタガがはずれてしまった》世界とは、鏡に
写るあなたご自身なのではないですか。......鏡----そう申せば、
たしかに暴いてしまいますわね。----皺やしみ、白く薄くなった
髪を容赦なく。毎朝、櫛に巻きついた抜け毛を惜しそうに眺め
ながら、鏡にむかって----これが、わたしって。
 ハムレットさま、あなたはおふたりのお父さまの絵姿をもち
ました。けれど、とうとうもうひとりのお父さま----オフォー
リアのお父さまをもちませんでした。......《金は借りてもいか
んが貸してもいかん》と忠告してくださるお父さま。気持ちが
荒れているとき、玄関に靴をおっぽりだすお父さま。機嫌のい
いとき、肩車をしてくれたお父さま。二日酔いの顔を朝刊で隠
していたお父さま。
 ハムレットさま。あなたがけっしてもつことがなかったもの
がまだまだございます。鋤や紡錘、じょうろも包丁もしゃもじ
も。それから、あなたがいちばん怖れていた老いも。《名誉が
かかわるとあらば、たとえ藁しべ一本のためにも死を賭して闘
う理由を見いだすことこそ偉大なのだ》ですって。はいはい、
若いってことね。----さあさ、爪を噛むのはおやめなさい。タ
イヤから空気が洩れるような溜息をつくことも。    敬具

*シェイクスピア『ハムレット』(小田島志訳)を織りこみました。


 この作品では、たぶん本を読んで、作者がその感想をしたためる、という、ごくまっとうな(というのもへんかもしれないが)、批評意識の吐露が、「オフィーリアの乳母(ばあや)」という仮想の存在の口をかりる形で行われているのだろうと思う。「移りゆく時間の中」で、自分が、今、ここに、生きて在る、ということ。狂乱の王子ハムレットへの乳母の批評は、そのまま作者の現在意識からする、たぶんかっては自分の影のようでもあった「若さ」のまとうイメージや、「老い」ということの自覚、にたいしての、内省的な批評意識につながっている。「新聞」のある種の論調みたいに、他人の欠点や「悪口」ばかりをならべたてて、それが批評だと思いこんでいること。ごく普通にみえる人の生涯を、「食って寝るだけ」というように形式的にとらえる空疎な視点。名誉のためには死さえも辞さないという自己本位の熱情。そうした青年期にありがちなロマン主義的な思いこみが、ことごとく、やんわりと、やゆされている、といってもいい。「食って寝る」だけの人の平凡な生涯とみえるものには、「木瓜の淡紅色の八重咲をみて、おもわず口もとに微笑がひろがったこと。古いカレンダーをはずして、新しいものに掛け替えたとき調なくらしのスパイス。」といった、日々のささやかな気付きや、「そうそう、きょうの夕飯のおかずなににしようかしら。きのうはあっさりわかさかれいの塩焼きだったから、レバーのバター焼き......。夏ものも、たまには風を通してやらなくちゃ。」といった、日々をいろどる多彩な生活感覚や感情がこめられている。あなたはあるべき父親像を善と悪のふたつに裁断してしまうが、気持ちが荒れているときには、玄関に靴を放りだしたり、機嫌のいいときには、子どもを肩車したり、二日酔いの時には、顔を朝刊で隠すというような、ごく普通の父親像を知らない。あなたは、剣とペンだけで世界があるように思っているが、人が手にする道具には「鋤や紡錘、じょうろも包丁もしゃもじ」だってあるのだ。こんなふうに乳母が語るとき、たぶん作者は、「移りゆく時間の中」で、自分が、今、ここに、生きて在る、ということの確信、別のことばでいえば、ひとつの生活思想を語っているのだ。





ARCH

『パルナッソスへの旅』(書肆山田、2005年8月刊、定価2200円+税)






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