[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]



 小網恵子詩集『浅い緑、深い緑』について

           「朝」、「傘」、「ゆたかなはたのくも」を読む



 小網さんの詩は、たいてい日常生活からきりとられたような、さりげない場面が舞台になっている。作者が実際にどんな暮らしぶりをされているのか存じあげないのだが、お子さんのいるご家庭の主婦といったイメージが、いろんな作品の行間からたちあがってくる。けれど作品を読んでいて、いつも楽しく驚かされるのは、日常の気づき、という作品の舞台から、思いもよらぬ方向に飛躍していく言葉やイメージの柔軟さだ。あるていどの間隔をおいて、小網さんの詩にふれる、という機会に何度かめぐまれているうちに、作品の中に次はどんな仕掛けがされていて、どんなことが起こるだろう、と期待している自分に気づかされる、ということがあった。ただ面白い言葉や、ときにはトリッキーなイメージが作品に折り込まれているというだけではない。そうしたイメージの出所が、いつも作者のたしかな生活感性に根をもっていること、そのことがわかってくると、作品はさらに深みをもってたちあらわれてくる。「主婦」といい、「日常」といっても、ひとつのレッテルにすぎない。うまくいえないが、やはり身体性と外界のはざまにあるひとつの柔軟な心が、言葉という装置をとおしてこの世界にはたらきかけてくる、そんな透明な軌跡にふれている感じがする、といえば、抽象的にすぎるものいいにきこえるだろうか。





パンパン パンパーン
シーツを叩く音が朝の空気を渡っていく
四角四面の張りきった音だ
干し終えるとシーツは庭の景色を分断する

楕円形の木々の実や
物干し竿にもたれかかるようにカーブした枝を
きっぱりと遮って
広々とした領土ができる

最近 濯いでも濯いでも真っ白にならない
筋を通しているのに
真正面からぶつかっているのに
四面楚歌が洗濯機の中をぐるぐる回る

風に翻るシーツ
四角は疲れているのかも
身体を傾けて 三角ならどうだろうと思うのだ


 朝の庭にでて、洗いたてのシーツを干している。干し終えたシーツはいつもの見慣れた風景を四角い白色で遮って、その場にモダンアートみたいな光景を出現させる。この風景が鮮やかに変貌することへの視線の気付きが、前段で描かれている。この風景をみていて、つぎにやってくるのは、シーツが真っ白に漂泊されていない、という最近たびたび思う気がかりだ。洗濯手順に手抜きはないはずなのに。。そうして、これは四角いシーツが疲れているせいかもしれないので、三角に干したらどうだろう、という奇抜でユーモラスな着想が吐露されて、この作品はおわっている、といってもよさそうに思う。

 けれどもうすこしよみこむと、この作品には、そうした作品としての面白さ以上のものが、みえてくるところがある。ちょっとした言葉あそび、「四角四面」とか「四面楚歌」といった言葉が、意図的に使用されていることで、作品全体のユーモラスな印象がたかめられているが、なんどかたちもどって読んでいると、このユーモア感覚の底には、話者のある種の生活感情が裏打ちされているように思えてくる。洗いたてのシーツをパンパンと叩いて物干しに干す。このいかにも晴れた日の朝にふさわしいような光景は、実は漂白剤のコマーシャルのようには終わらない。最近なんど濯いでもシーツが真っ白にならない、という気がかりは、日々に堆積する話者の生活感情のようなものに接続されていく。「筋をとおしているのに」「真正面からぶつかっているのに」「四面楚歌」だ、という形容は、洗濯機のなかのシーツの状態をしめす形容というよりも、むしろ、真っ白にならないシーツに託して話者の生活の中での他者との関係についてのわだかまりを吐露している、とみたほうがわかりやすいし、その結果として(わたしは)「疲れているのかも」という言葉が導かれるように作品は書かれている。そんなふうに読むと、四角に干してあるシーツを三角に干せば、シーツの疲れがなくなるかもしれない、という、ユーモラスで奇抜な着想と思えたイメージが、そのままある種の生き方(他者との向き合い方)の発想の転換(生真面目に筋をとおして、正面から他者にむきあうのを、これからはちょっと柔軟にかえてみよう、というような思い)を暗示している、とさえよむことができるように思われるのだった。





その人が手招きをした
ひょいと私との垣根をまたいで
親しげに話しかけてくる
あいまいな返事をして外に出ると
後から追ってくる

雨が降りはじめている
今朝から肩のあたりに漂っていたものが
堅くスクラム組んでいる

傘をさす
雨粒の音がして
守られた円形の下
肩が少しほぐれてくる

傘を並べて歩く
その距離がいい
雨が降り続いていればいい


 たぶん「その人」に悪気があるわけではない。それ以前に、他人との距離感ということが測れないひとなのだ。そういう人につきまとわれたときの不愉快さと、その人との距離を物理的に遠ざけてくれた「傘」のありがたみが、テーマになっている。そういう意味では平明な作品だが、人間関係にまつわる不快感を、あっけなくモノとしての傘が防御してくれた、という生活体験的な気づきを表現したこの作品は、個人的なできごとを描いているようで、現実にはどこまでも相互規定的でしかありえないがゆえに、「傘」を必要とせざるをえない人間関係の普遍にとどいているところがある。ある「みなし」に支配されると、相手の気持ちに考えが及ばない、ということは誰でもありうる。そういういみでも、ちょっとほろ苦いような余韻ののこる作品だとおもう。


ゆたかなはたのくも


夕暮れに姉の部屋を覗くと、膝の上に本をのせたまま窓辺に座りこ
んでいる。窓いっぱいに幾筋もの雲が一点をめがけて集まってきて
いる。きれいだね。空に広げた扇みたい、と声をかける。雲から視
線を外さない姉。扇の要の場所はちょうど家々の屋根が密集してい
るあたりで、ここからは見えない。姉は今日もわずかな家事を手伝
って、家に閉じこもっていたらしい。億劫がって予定していた外出
を取りやめにすることが多い。私が仕事から帰ってくると母は溜め
息をついて、様子を見てきて、と頼むのだ。

姉はゆっくりとこちらに顔を向ける。ゆたかなはたのくも、って書
いて豊旗雲(とよはたぐも)って言うらしいよ。姉は美しいものの名前をよく知って
いる。

雲はゆるやかに動いている。要の場所から離れ、外へ外へと広がっ
ていく。外側へ出ようとする力と内へ向く力が引き合って、あそこ
ではごうごうと強い風が吹いているのだろう。扇は次第に崩れてい
く。昏い青の空に滲みながら。


 この作品の「姉」は、いわゆる「ひきこもり」状態で暮らしていて、同居している母が、たいていふだんは自室にこもって本など読んでいるこの姉の様子をいつも気にかけている、というように描かれている。「姉」がみつめている西空の夕映えを「私」もみて、「空に広げた扇みたい」と声をかけると、「豊旗雲っていうらしいよ」という返事がかえってくる。このさりげない姉妹の会話をふくむこの作品は、とてもリアルな情感にあふれている。ちょっとみると静止して美しく扇に描かれた絵のようにみえるこの夕焼けの雲は、よくみると「ゆるやかに動いて」いて、「私」を「外側へ出ようとする力と内へ向く力が引き合って、あそこではごうごうと強い風が吹いているのだろう。」という感慨にみちびく。この感慨が、「億劫がって予定していた外出を取りやめにすることが多い」という、ひきこもりがちな姉の内面の葛藤ににた心象を、そのまま「妹」の側から推し量った言葉として語られているとは、留意していいことだと思う。さらにいえば、ものごとのみかけの穏やかな静けさの中に、強風の乱流をみる、という視点は、そのまま作者の詩の遠近法に届いているのだ、といっていいのかもしれない。





ARCH

小網恵子詩集『浅い緑、深い緑』(水仁舎、発行2006年4月22日)






[ NEXT ][ BACK ][ HOME ][ INDEX ]