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 樋口えみこ詩集『生まれて』ノート



1.

 樋口さんの書く詩の多くは、世代や性別をこえた多くのひとの心にすっと受けとめられるような魅力をそなえている詩だと思う。なぜそんなふうに感じられるのだろう、と考えると、たぶん作者が実際の生活場面で自分のなかで生じた感情の原質を、できるだけそこなわないまま言葉にすることが作品として実現されているからのように思える。もうすこしいえば、その感情の原質が、多くの場合、かなり身近な(身近だった)他者との関係性から汲み取られている、ということが特徴だろうか。ほとんどの作品には作者のヒト(肉親や恋人(あなた)、友人、)に向けられた様々な思いが綴られている。もちろん人は他者との関係を離れて生きていけないのだけれど、この作者の場合、そうした他者との関係にまつわる感情の記憶が、詩を書きだすとき、また書いている間に自然に呼び寄せられる、というようなことが起きているのではないか、と、いってみたいようなところがある。自然に呼び寄せられる、という言い方でいいたいのは、そういうプロセスにはふつうは詩の修辞の意識による微細な整序(言葉の置換)がみられることが一般的なように思えるからだ。内面の書きたい(書かれたい)思いの強さがそうした思考の検閲を踏み破る流れをつくっている、といえばいいのだろうか。これは無意識に実現される、ということではなく、その流れをそこなわずに作品化するために別のコントロール回路が働いていて詩の構成意識をつくりあげているのだと思う。これはたぶん技法の問題ではなくて、作者にとって生理的といっていいような感覚と結びついた、詩を書く、ということの意味の問題なのだ。


愛したいよ


ときどき、夢みるんだ
死んだ人たちが集まって
立食パーティを開いているの
みな、楽しそうなの
私もいつかそこへ行けるのかな

誰も答えてはくれない
ただ私の頭の中で笑っているばかり
恨んでいるのか、
わかってくれているのか、
生きてる時より賢くなるとは思えないけれど
死んだ人たちは死んだ時から私のとても近くに
住んでいる

ねえ、死んだ人たち、
もう死んでしまったのなら
この目の前にあるやりきれなさを
どうすればいいのか教えてよ

生きている妹に、
私は向き合うことができないんだよ
生きている恋人に、
生きている友だちに、
生きている父親や現実に、

生きている人に向きあうと
痛かったり
憎んだり
自分を嫌いになったり
するからだ
生きている人の荷物は
とても重たい

テレビのコードも
パソコンのケーブルも電話線も
ハサミでチョキチョキ切ってしまいたくなるよ
実際は
そんなふうに切断できるものは
少ないから

ねえ、死んだ人たち
今どこにいるの
笑ってる?
哀しいの
私の思う卑劣なことや
恥ずかしい踊りも
今のあなたたちにはお見通しだね
生きていれば何とかなるって
ほんとうですか

死んだ人たちを友として
生きている人を愛することができるのかな

愛したいよ、妹を
愛したいよ、血のつながった人
つながらない人
善良な人
かたくなな人
ただそこに生きている
薄曇りの目の前も
愛したいよ
不完全さを
愛したい
うんざりするような
過去も自分も
これからも
愛したいのに

ねえ、死んだ人たち、
どうしてこうなってしまうんだろ

子どもの頃、眠るまで見てた
走馬燈のようにパーティの絵が回るよ
意地悪な人もノウタリンな人も
不運な人も不器用な人も
そこでは仲良くやっていける
誰と傷つけあうこともなく
もう病むこともない
緩やかに回るパーティ
いつか、そこでいっしょに
桃やバナナを食べたい

それは夢
そんなのは幻想
死んだ人たちはもうどこにもいないんだ
すべて後悔が生んだつじつまあわせの映像

ねえ、死んだ人たち、
どこにもいないんだよね

生きている人たちは
まだここにいるのに
なぜ私は呼びかけることができないんだろ

誰も答えてはくれないね


 死んだ人たちが幸福そうに団欒している情景の出てくる夢。そんな夢を時をおいていくどかみたことが、ひとつの書き出しのさわりになって、その夢の記憶に触発された想念が紡ぎ出されていく。人と人が傷つけ合うことのない場所。自分もあんな場所にいければいいとふと思ったことが、その願望のうちけしのような現実感覚を呼び起こして、表出したい情念の力動的な流れをつくっていく。夢の団欒の場は、また子供の頃に憧れた走馬燈の世界の追憶に重ねられ、そのことで人間の普遍的な想念につながる実在を印象ずけられている。つまりはひとつの神話的な象徴性を獲得しているといっていい。若い頃に読んだドストエフスキーの小説に、人は不幸な状態にあるときに幸福な夢をみて、幸福な状態にあるとき不幸な夢をみる、というような心理について語った一節があったのを思い出したけれど、たぶんこの作品で問われている問いの流出している言葉の空間は、身の不幸を訴えるヨブにたいする「神の沈黙」といったテーマにもつうじている。聖書世界を現実と区別して書棚の奥に大事にしまいこんでおきたいような人にはおおげさにきこえるかもしれないのだが。。


2.

ナイフ


顔が一文字のナイフになっている
ほんとうのことを話しだした人の顔

顔がナイフになるときは
守ろうとしている

わたしは踏み込んでしまったんだね
あなたの領域に

避けるか

つかむか
切っ先を

翻して突き立てる?

ううん。突き立てようのない闇が
深いよ

わたしを
つなぎ留めていたのは

親しい笑顔でもなく
にぎやかな言葉でも
刺激的な接触でも
フィーリングとかいうものでもなく
このひとりのひとの闇の深さ

つめたい空洞に感情がぶつかって
顔つきが激しく変わる

わたしは
ただ見ていることがあった
光を変える装置みたいに

ナイフは
すべて話し終わった顔から消えていき

あなたは力の抜けたひとになる

ナイフをわたしにくれたのだ

あなたの孤独と
わたしの孤独の
境界線をナイフで引いた


 自分とついさっきまでなごやかに話をしていた人の顔つきが、なにかの言葉をきっかけに激しく変わる。そういう変化をまのあたりにしたときの印象深い体験がふりかえられている。この作品が興味深いのは、話者がそうした体験を反芻して、話者にとっての、ひとつの象徴的な意味世界を開示しているように思えることだ。顔つきの突然の変化をうむきっかけになった原因についてはふれられていない。ただなにかがきっかけで自分が「あなたの領域」に踏み込んでしまった、と暗示されているだけだ。そのことで、相手はその踏み込まれた領域を「守ろう」として、「ほんとうのこと」を口にする。このとき、痛いところをつかれて相手が真顔で弁明をし、その結果一端途切れたようなコミュニケーションが恢復した、というような、現実にはありえそうな推移が描かれているのではもちろんない。話者の関心はむしろこのときの顔つきの変化によって一瞬顕わにされる人の存在のありかたに向いている。とつぜん部屋の空気が変わるような、激しい了解の拒絶、そこから話者が看取するのは、人は他人には安直に踏み込めないような「闇の深さ」をかかえて生きているという、了解不可能性自体への体感のようなものだ。

 なぜ「わたし」は「あなたの領域」に踏み込んでしまったのか。そのでだしでは直接には語られない動機が、「わたしを/繋ぎとめていたのは」以下の連で明かされている。「親しい笑顔」や「にぎやかな言葉」、身体を触れ合わす「刺激的な接触」や、なんとなく気が合う「フィーリング」といった感覚、そういう他者とのつきあいのなかで他者と自分を親密に結びつけている原因のように思われるもの、関係をとおして他者がわたしに与えてくれるもの、そういうものを私は心底から他者に求めていたわけではなく、そのひとがかかえている「ひとりのひと」としての「闇の深さ」の感触こそ、わたしが求め、(私たちの)関係を繋ぎとめているものではなかったか。そんなふうに語られている。もちろんこの「闇の深さ」の感触への気づきは、ひとりに立ち帰ったときの話者自らの内省(自己意識)と呼応している。ナイフのような顔からうかがいしれる「ひとりのひとの闇の深さ」は、なによりも話者自身の孤独の鏡なのだ。

 もうひとつ興味をひく気づきがある。それは自分の言葉によって引き起こされた相手の顔つきの変化、というプロセスの一部始終を、自分が「光を変える装置みたいに」見ている、というところだ。この気づきは、微妙だけれど、緊迫したふたり(自分と相手)が対面している情景を中空から眺めている別の視線を示しているようで、ちょっと特異な感覚のようにおもえる。そこでなにがおきたのか。ナイフのような顔つきになったひとは、話をおえると、「力の抜けた顔」になる。この推移を話者は「ナイフをわたしにくれたのだ」と書いている。感情はここで、不思議に物質化されている。自分の領域を守るために、思いのたけを語ることで、なにかが癒された。手渡されたナイフで、あらたに孤独の線が引き直される。


3.

 誰にみせるというあてもなく、ただ自分の慰めのために、日頃感じている思いや、その時々の感覚的な気分をノートに書き付けること。詩をかく、ということもそういうことからはじまるのかもしれない。こうした誰にでもありうるような初源の営みは、多くの場合持続する機縁をもたないまま途切れてしまう。たぶんいくつもの偶然がはたらいて(当人には必然のように思えるのかもしれないのだが)、あるひとは意志的に詩を書くひとになる。なにがひとをして詩をかくことに向かわせるのか、という普遍的な問いのこたえは難しい。いつでもその理由はさまざまな偶然と必然の織り上げた個別的な物語のなかにひそんでいるように思われるからだ。樋口さんは詩集『生まれて』の「あとがき」のなかで、この詩集が編まれた背景を美しい言葉で語っている。


多くの、温厚な人達を、怒らせ、混乱させてきました。

長いあいだ、わたしは、混乱させられてきたことに恨みを抱いていたもの だけれど、最近、思うに、逆だったのです。

さみしくて、
狂うほどにさみしくて、
どうして、そんなにもさみしいのか、長いあいだ、わかりませんでした。

関わる人に、答えを求めて、混乱しました。

さみしいことが恥ずかしく、傷つかないと耐えられなかった。

それで、幾つかの作品が生まれました。

この詩集は、さみしい詩集です。
過去、アンソロジー詩集に収録された作品なども拾い集めて、お墓のように
まとめました。

墓を作って生き延びるとは。

ぬくいのですね。


時がたち、現在、わたしは、占ったり教えたりを仕事にしています。
さみしい人の言葉を、毎日のように聞いています。

さみしさのわけがわからず、
人は、くるしんでいます。

さみしいお墓を立てて、先へ進めるなら、墓を作ればいい、
船の帆のように。

       (「あとがき」より)


 傷つかないと耐えられないほどのさみしさ、そういう自己感情の強さ、というものが、作者の場合、自分を詩に向かわせるおおきな契機になっていることが明かされているように思う。そのことは、作者の作品の多くが、さまざまな他者との関係心理をテーマにして書かれる理由の率直な注解にもなっている。作者にとって、さみしい「墓」と呼ばれるこの詩集は、多くの未知の読者にとって、その生きてあることの孤独も寂寥も、わがことのように共感をさそう生の航跡のように映るに違いない。ときに波間に陽を受けて輝くまぶしい白い帆のように。

 詩集に収録されている21編の作品のうち、拙いコメントをつけてみたくなった作品2編だけをあげたので、この一文が詩集全体の読後の印象をつたえる妥当な紹介になっているかどうかは、いつもながら、はなはだ心許ない。樋口さんの詩では、関係性のなかではたす距離をつめたようなエロスの役割(表現)がひとつの魅力的な特徴になっているのだが、そのことにはふれることができなかった。最後に私的にどれが好きかといわれたらつい一番にあげてしまうような作品を一編紹介しておきたい。


たんじょうび


私はたぶん
腐っていくだろう

このまま
なにもならずに

ちいさな
アスファルトのトラックを囲んで
並んだベンチに
ビルとビルの間から
最後の光がおりてくる
あの人のことが好きだった

手が震えて
ジュースを落としてしまう

とびちる色水

もう
失えない

廃校になった
小学校の校庭に
集まっているのはおとなたち

もう
汚れていくよ

それでも
たんじょうび

誰もいない校舎で
人体標本がダンスをしている

眠りにつく太陽が
この世の色を塗りかえていく

鉄棒の色を
バスケットゴールの色を
いない子どものはずむ息づかいを

赤い
部品のような鳩の脚が
土の上に
はかない影を作っては消していく
ひとつまみの脳味噌で
コクコクと首を振りながら
何を考えて
いるの

隣のベンチで
居眠りするひとの
顔の上の新聞紙に
木もれ日の模様が
揺れて
少しずつ移動して
少しずつ見えなく
なっていく

からっぽなウサギ小屋を
あいまいな色のヴェールがつつみこみ
ちいさなおとなの校庭は
もうじき
何も
残らない

それでも

ビルと
ビルの向こうに
空が
まだ
なんて
広い
痛いんだ

胸を焼く
穏やかな今の色は
がまんした子への
ごほうび

幻の校庭に
下校のチャイムが鳴り響くよ




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樋口えみこ詩集『生まれて』(草原詩社、2007年2月11日発行)






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