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映画「ポビーとディンガン」をみて





 映画「ポビーとディンガン」は、オーストラリアの田舎町を舞台に、空想の友達をつくりあげて遊んでいる末娘をかかえる一家の直面する困難と家族愛を描いた作品だ。



 オパールの採掘地として名高いオーストラリアの田舎町ライトニングリッジには、世界中から一攫千金を夢見る者たちがやってくる。メルボルンからその町に移住して一年ほどになるレックス・ウィリアムスンとその一家もそんな人々の典型のような暮らし向きだった。夫のレックスは毎日採掘場にでむき、自分で掘り抜いた穴の中でオパールを見つけようと削岩をくりかえし、妻のアニーは、スーパーのレジ係をして生計を支えている。夫婦には、小学校に通う11歳のアシュモルと9歳のケリーアンという二人の子供がいるが、内気な末娘ケリーアンは周囲の環境になじめず、“ポビー”と“ディンガン”という友達を空想でつくりあげて、いつも彼らと遊んでいる、というのが両親の日頃の気がかりのたねだった。ある日、ケリーアンの空想癖を案じた父親レックスは、ケリーアンと彼ら(“ポビー”と“ディンガン”)とをひととき離ればなれにして、その状態になれさせようと思いつき、実行にうつす。彼は“ポビー”と“ディンガン”を家からはなれた採掘場に車に乗せて連れていく(ふりをする)のだが、この出来事がきっかけで、ケリーアンには、彼ら(“ポビー”と“ディンガン”)の姿が見えなくなってしまう。ほどなく、行方不明になった“ポビー”と“ディンガン”を心配するあまり、ケリーアンは病気になってしまい、そのうえケリーアンに懇願された父親レックスが、夜中に“ポビー”と“ディンガン”を探しに採掘場に行ったことで、採掘仲間から盗掘容疑で訴えられる事件も起きて、一家は村八分状態におかれてしまう。そんななかで兄のアシュモルはケリーアンのために、けんめいに“ポビー”と“ディンガン”のゆくえを探しはじめる。

 アシュモルは、手製の「尋ね人」のポスターを街中に貼って回るなどをするのだが、「空想の友達」がみつかるあてもなく、ケリーアンはしだいに衰弱していく。とうとう病院に入ることになったケリーアンが直前にアシュモルに頼んだのは、“ポビー”と“ディンガン”は、坑道で死んでいるにちがいないから、その死体を探してほしい、ということだった。いわれるままにアシュモルが坑道に降りていくと、落盤事故の瓦礫の下から“ディンガン”がおへそに埋め込んでいたというオパールをみつける。アシュモルが帰宅して“ポビー”と“ディンガン”の死体があったとケリーアンに報告してオパールをみせると、ケリーアンはそのオパールを代金にして、“ポビー”と“ディンガン”のために、ちゃんとした人間と同じようなお葬式をしてほしい、それが“ディンガン”の望みだったという。父親レックスの盗掘容疑の裁判は、レックスが真夜中に他人の採掘場に行ったのは、ケリーアンに乞われて彼女の空想の友達を捜すためだった、という主張が認められて無罪放免となり、その法廷でアシュモルは、集まっていた人々に、数日後に“ポビー”と“ディンガン”の葬式をするのできてほしい、と訴える。葬式の当日には町中から多くの参列者があり、病院から連れ出されたケリーアンもその場に立ち会うことができて、ケリーアンが兄のアシュモルに嬉しそうな顔で感謝する、というシーンで映画は終わる。

 とてもテンポよく、緊密につくられている作品で、ストーリーにも起伏があり、いろいろな味わい方ができる秀作映画だと思う。子供が、空想上で人格(友人)をつくりあげて、のべつ、といっていいくらいその友人と遊びはじめる。そういうことを、どう理解すればいいのだろうか。映画は、そんな子供のふるまいに、困惑しながらもなんとか対処しようとしているウィリアムスン一家の人々の心の動きを、さりげなく、とてもリアルに描いている。

 おおきな枠組みでいうと、これは夢と現実がきしみをあげている物語だといえる。ケリーアンの夢は、どこで現実との接点をもつのだろうか。たぶん、夢を否定する力でなく、夢を支える力、夢を肯定する力が、夢と現実を宥和させる、というのが映画の大きなメッセージのように思われる。この思いはもうすこし先までいく。なぜそのようでしかありえないのか。それは夢みる力、ということが、人が生きているそのことの必然に根ざしているからだ。なぜケリーアンは夢をみはじめたのか。そのこと自体の原因には映画は直接ふれていない。ただいくつもの現実が、ケリーアンの夢をそだてたように描かれている。

 もともと内向的な性格だった少女が、一家の田舎町への移住によって、環境の激変を味わう。新しい環境になじめず、友人もつくれず、両親も共働きで忙しい。そんななかで、ケリーアンは、“ポビー”と“ディンガン”という空想上の友達をつくりあげ、彼らに話しかけ共に遊ぶことで、心の安定をはかる。“ポビー”は雷に撃たれて倒れているところを見つけて助けたのがきっかけで友達になったという少年で、いつも(いじめられないように)赤いマントをきていて、片足が木でできているので走れない。“ディンガン”は、美しい少女で、おへそに綺麗なオパールをはめこんでいる。こういうケリーアンの語る言葉から、この二人の出現が、一家がこの土地に越してきてから以降のことであることが想像される。またこの二人が男女のペアであることからは、そのまま不在がちな両親の代理のような意味をもたされているような感じもうけとれる。

 映画では、そんなケリーアンのふるまいに対処する両親や兄アシュモルの反応はまちまちだ。レックスははじめ否定的(理性的)で、そんな存在は空想上のものだ、もっと大人になりなさいと、かんでふくめるようにケリーアンに諭そうとする。母親アニーは、逆に同情的で、食事時には、“ポビー”と“ディンガン”用の皿や料理までだしてやる。兄のアシュモルは、まったく拒否反応をしめし、目に見えない“ポビー”と“ディンガン”を殴る仕草をして、ケリーアンに嫌がられている。こういうことから、母親アニーが、(たぶん自分がふだんケリーアンの世話ができない代償のように)理解者としてふるまおうとしていること、また兄のアシュモルのはげしい拒否(内面では妹を見えない友達にとられてしまう嫉妬のような感情がありそうだ)が、かえってケリーアンの夢を強固にしたりかたくなにさせている面があるように思える。またみのがしてならないのが、スーパーの女主人が、このケリーアンの見えない友人たちのために、それぞれが好物のキャンデーをあげたりしているところだ。これはケリーアンのため、というより、そういう風変わりな少女のふるまいを、(本人は善意のつもりで)おもしろがっているだけのようなところがある。もし、子供が見えない友達をつくりあげて、彼らと遊ぶ白日夢のような世界に閉じこもっていたとして、そういう世界からいつか現実にもどらなくてはならない。現実の方が生きやすいから、というのでない。その世界がいつも現実にたいしてのかたくなな否認によって成り立っている限り、心がその緊張にたえかねていつか全く現実との接点をうしなってしまうか、心じたいが破れてしまう、そんなふうに心自体のしくみがなっているからだ。たぶんそのことにケリーアンの内心も気付いている。けれど一方で空想をあたまごなしに否定し、一方で空想を無責任に助長するような、ちぐはぐな大人達の反応の中で、その出口となる契機がみいだせない。そんな時期に、必然のように事件が起きる。

 それは父親レックスがケリーアンの空想の友達を半日ほど彼女からひきはなすことを試みるからだ。父親レックスはある日突然、ケリーアンの空想の友達の存在を認めはじめ、彼ら“ポビー”と“ディンガン”をアシュモルと一緒に車に乗せて採掘場を見せに連れていく、ということを、まだ半信半疑のケリーアンに納得させるのに成功する。ところが採掘場で発破をかけていて生じたおもわぬ落盤事故で負傷し、帰りがけにパブによってすっかり“ポビー”と“ディンガン”の存在を忘れていたレックスたちが車で帰宅すると、自宅で半日彼らの帰りをまちわびていたケリーアンには、空想の友達がみえなくなっている。

 このとき、空想の友達が帰ってきていない、と主張するのがケリーアン本人(だけ)であることは、とても象徴的だ。もし、この見えない友達への固着がまだ彼女自身のなかで続いていたならば、彼女の無意識は、空想の友人たちが無事に帰宅した姿を彼女にみせたに違いない。採石場に連れて行った父親レックスも同伴した兄アシュモルも、“ポビー”と“ディンガン”は一緒に車にのって帰ってきたと口を揃えていうのだが、ケリーアンには彼らの気配が感じられない。あたかも、みえないものが見えていた魔法の力が突然彼女の目から消え失せてしまったかのように。この原因が、たぶんケリーアン自身の無意識にしかないことを、映画はよくすくいあげている。そういう言い方をするならば、ケリーアン自身の無意識が彼女の魂を成長させようと、ひとつの現実の出来事(それは、象徴的にいうなら、父親や兄への信頼が裏切られたことへの、はげしい絶望の感情といってもいい)を利用してショック療法を施したのだ、というように。ただこの荒療治にたえられるほど、ケリーアンの意識は強く育っていなかった。彼女はパニックをおこして、その日以来、あちこちに空想の友達をさがしまわるようになる。どこにもみつからないと、次第にものが食べられなくなり、拒食症のような心身の不調に苛まれ、しだいに衰弱していってしまう。

 それまで“ポビー”と“ディンガン”なんて存在しない、といっていた兄のアシュモルは、ケリーアンの様子をみるにみかねて、彼女の見えない友達探しを手伝うことになる。しかし見えない友達を、どうやって捜すのか。アシュモルは、尋ね人のチラシをつくり、ケリーアンの描いた“ポビー”と“ディンガン”の似顔絵をそえてコピーして、街中に貼ってまわることを思いつく。この不信から信へと変わっていくアシュモルの気持ちの変化の描写も、この作品のすぐれたところのように思える。なぜ信にかわることができたのか。この時点で、父親は盗掘容疑で訴えられ、一家は村八分の状態におかれ(ケリーアンが遊び小屋として使っていた廃車が焼かれるという事件もおきる)、母親もスーパーのレジ係の仕事を辞めさせられ、アシュモルも学校で「泥棒の子供」として、さまざまな嫌がらせをうけている。一家にもアシュモル自身にとっても、否認したいような現実が重くのしかかってきているのだ。そんなとき、アシュモルの内面には、はじめて9歳の妹であるケリーアンがそれまで空想にすがって生きていたことの意味が、自分のことのようにわかる道筋がついた、というようなことが起こったのだとおもえる。アシュモルにとって、ケリーアンをすくうために、空想の友達をさがすことは、自分をすくうこと(幸福だった過去を再現すること)と、ほとんど同義だった、といってもいい。

 アシュモルが、症状が悪化して入院直前のケリーアンからきかされるのは、一見意外な内容だ。“ポビー”と“ディンガン”は、落盤事故の起きた坑道の中で死んでいると思うので、確かめにいってほしい、とケリーアンはいう。実際にアシュモルが坑道におりてみると、“ポビー”と“ディンガン”たちの好きだったキャンデーの包み紙や、キャンデーの棒を発見する。やがて落盤事故で崩れおちた瓦礫のなかに、オパールを発見する。映画ではさらにアシュモルが夢中で瓦礫をかきわけるシーンが大写しでうつしだされる。アシュモルが実際にそこによこたわる“ポビー”と“ディンガン”の死体を発見したのかどうかの説明はないのだが、ここはとてもスリリングなシーンだ。帰宅した彼がケリーアンに報告するのは、たしかにそこに二人の死体があった、ということだ。

 ケリーアンが、「“ポビー”と“ディンガン”は、もう坑道の中で死んでいると思う」、と言ったことの意味はなんだろう。ケリーアンの無意識からすれば、心身が衰弱するほどの葛藤をへた末にようやく訪れた諦念から下された決断の合図のように思える。アシュモルは、その意味を「死体があった」と語ることで、しっかりとうけとめている。アシュモルが「死体があった、死体をみた」と語ることは、実は、それまで激しく否認してきた“ポビー”と“ディンガン”の実在を、はじめて妹と共有することでの、妹との和解をしめしている。ケリーアンは、“ポビー”と“ディンガン”の死という物語を認知することで、彼らの不在、という現実をうけいれ、アシュモルは、彼らの死体をみた、という物語を認知することで、ケリーアンの夢をうけいれる。たぶんケリーアンの夢の顛末をめぐる物語としては、ここでおわってもよいはずだった。

 ただ映画では、もうひとつ最後の山場が用意されている。それはケリーアンの夢というより、現実の側の変容についてだ。盗掘容疑で裁判にかけられたレックスは、即席弁護人の力もかりて、自分が深夜に他人の採掘場に行ったのは、盗掘目的ではなく、空想癖のある自分の末娘のケリーアンに懇願されて、行方不明になった彼女の空想の友達を捜すためだった、という弁明をして、結局無罪をかちとる。このとき、その弁明がいいのがれでないことを証明するために、証人が呼ばれ、いかにケリーアンが常日頃、“ポビー”と“ディンガン”という空想の友達と遊んでいたか、また事件のあった日を境にして、彼女が、消えてしまった“ポビー”と“ディンガン”を探しつづけていて、日増しに衰弱していき、今は病院に入院していることなどが明かされる。この経緯について、ケリーアンが衰弱していったのは、“ポビー”と“ディンガン”がいなくなった、という哀しみ、というよりも、町中の人々が、流布された噂を信じて、レックスに盗掘の嫌疑をかけ、ウィリアムスン一家をつまはじき状態にしたせいで、そのことが、ケリーアンの症状を悪化させたのだ、と裁判官が断じる、という場面がつくられている。いってみれば、この裁判は、レックスの汚名をはらす、と同時に、ウィリアムスン一家にむけられた町内の人々の白眼視を「ケリーアンという少女の心を怯えさせ、傷つけた」罪としてさばく、という(いささか道徳宗教的な)意味をあたえられている。そこで裁判所に集まった町の人々は、結果としてウィリアムスン一家に「負い目」をおうわけだが、そのあがないが、町の人々が“ポビー”と“ディンガン”の葬儀に参列する、という行為になり、いわば一家と町の人々の間に生じた軋轢もきれいに修復されて映画は終わる。



 この映画は、少女のつくりだしたファンタジーを扱いながら、彼女の家族やその背景にある現実環境をリアルに描くことで、逆にファンタジーのもつはかなさや稀少さ、また、その「夢みるちから」のもつ大切な意味を、きわだたせてくれるところがある。

 映画と原作小説は、まったく別のものだけれど、この映画の場合、ほぼ忠実に原作のエッセンスを伝えているように思える。ただ、形式的にいうと、原作では、すべてが少年アシュモルの視点から、彼の生活に起きた一年前の出来事、として書かれているという違いがある。そのために、原作小説には子供の目からみられ語られた(大人たちの)世界、という、ひとつの安定したトーンが一貫してながれていて、作品としての統一感をつくりだしている。内容的にいうと、決定的なちがいは、原作ではケリーアンが“ポビー”と“ディンガン”の葬儀のあと、結局病から恢復できずにほどなく病没してしまうというところだ。またアシュモルが葬儀の費用として葬儀屋に渡したオパールを、映画では、葬式の当日に、葬儀屋がそっと彼に返してくれるシーンが挿入されているが、原作には、そういう個所はない。つまり原作の意想としては、少年アシュモルが、はじめて自分の力で発見したオパールを、身を切る思いで妹のために手放す、という痛みの感情が、強調され、また妹ののぞみをかなえてやったにもかかわらず、妹が亡くなってしまう、という現実を、主人公の少年がひきうけるところに作品が成立しているにもかかわらず、映画ではそうした個所は削除され、いわば、アシュモルに返された一粒のオパールによってやがて一家が裕福になり、“ポビー”と“ディンガン”の葬儀がとりおこなわれたことによって、ケリーアンの病もやがて治癒するであろうことが暗示されるという、一種の幸福の予感にみちたハッピーエンディングにさしかえられている、ということができる。ただこの変更が、作品全体をみたばあい、さして気にならないのは、原作の本質的なテーマが、ケリーアンの夢を、最初は全く理解できなかったアシュモルが信じるに至る一連の出来事を描く、という一点にあり、映画もその的をいぬいている、ということだと思える。死は誰にもあらがいがたく訪れる。けれどだから生がむなしいのではない。



 みえないものを信じること。
 偶然、テレビの映画専門チャンネルで、この映画をみて、その内容にひきつけられた。ケリーアンが、空想の友達をつくる、というエピソードは、子供が、ある時期に人形遊びに熱中して、その人形を生きた友達のようにみなす、という心のありかたににている。ただ、その対象が人形であれば、関心をよそにうつせば、人形はそのモノとしての物質性をあらわにする。あるいは、他者がその人形をモノとしてあつかえば、いやおうなく、幻想はそこなわれてしまう。だが、みえないもの、存在しないものを、人格化した“ポビー”と“ディンガン”のような対象は、関心をよそにうつしても、ただ身をかくすだけ、ということがいえそうに思う。アシュモルがどれだけひどく殴りつけても、その幻想はそこなわれることがない。

 原作の小説の冒頭は、部屋にそっと入ってきたケリーアンが、「アシュモル!ポビーとディンガン、死んじゃったのかもしれない」と心配そうにいう場面からはじまる。「死んじゃいないよ」「最初っからいないんだもん。最初っからいないやつは死ねない。だろ?」と、アシュモルは答え、ケリーアンは目に涙をためてきいている。この会話には(もしそんなふうに考えてみるなら)、不思議な思いにみちびくところがある。最初から存在しないものは、死ぬことはできない。つまり、生きていた(生きている)ということは、死ぬことによって(死ぬことがありえることによって)はじめて証明される。ケリーアンにとって、“ポビー”と“ディンガン”は、ありありとその容姿や仕草が目にみえる、といういみで、実在の友達だった。だから、彼らが姿をみせなくなったとき、どこかで死んでしまったのではないか、とふつうに考えて心配している。しかし、その死は、失踪や喪失とどこがちがうのか。人形はこわれたり、失われたりする。しかし「死ぬことはできない」、そういう意味で、“ポビー”と“ディンガン”も、行方不明になることはできても、死ぬことはできないのではないか。

 作品では「葬式」をすることが、その死の(私たちが現実的とよぶところの)証明になる。すなわち、“ポビー”と“ディンガン”が、行方不明になったのではなく、町中のみんなで「死んだ」のだとみなすこと。ここでもまた(もしそんなふうに考えてみるなら)、不思議な思いにとらえられることになる。死んだから、もういない。ということが、死んだから(こそ)、生きていた、ということを意味する、ということ。。誰にもみえず、存在しなかった“ポビー”と“ディンガン”は、「死んだ」ことによって、この地上に存在していたことになる。ちょっと得意げで残酷なアシュモルのことばが、意味を反転させてちいさく反響する。「最初っからいないやつは死ねない。だろ?」。。“ポビー”と“ディンガン”、とは誰なのか。。

 小説の原作者は英国の若い作家で、この小説には「みえないものを信じる」という、妖精の国のファンタジー文学の伝統がとてもよく生かされている、という感じもする。小説の方は映画をみてどうしても読んでみたくなって、ネットの古書店に注文して求めた。




参照 「ポビーとディンガン」(監督 ピーター・カッタネオ 出演 クリスチャン・バイヤーズ サファイア・ボイス ヴィンス・コロシモ ジャクリーン・マッケンジー 2005豪=英)
ベン・ライス著 雨海弘美訳「ポビーとディンガン」(2000年12月20日発行 アーティストハウス)
(原作は、Ben・Rice著「POBRY AND DINGAN」) ARCH






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