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 ミツバチ幻想


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 ミツバチは「社会性動物」といわれるが、それは人がそう呼んでいるだけで、当のミツバチ自身にとっては、社会という概念は存在しない。もっとも、生物学的にいえば、ミツバチの一匹一匹は独立した個体ともいえないらしい。

「ミツバチは何千匹という大群を形成して巣わかれをやる。その何千匹という大群の構成員である女王蜂も、雄蜂も、働き蜂も、それぞれ個体では独立に存続することはできない。どの個体も生物学的にいえば個体失格なのである。ミツバチはコロニーを形成してはじめて一個体としての資格を得て増殖していく事ができるので、このコロニーのことを超個体的な個体という。」(桑原万寿太郎『動物の本能』)

 先日ニホンミツバチの生態を撮影したテレビ番組を見て、この引用文で「超個体的な個体」と呼ばれているような、巨大ないきもののイメージを思い浮かべた。でもそれは、ここでいわれているような「コロニー」自体のことでなく、彼らのテリトリーいっぱいに広がった空間を身体内部としてもつような、透明な空想上のいきもののイメージだ。

 巨大な透明な身体をもつ単細胞生物のようないきものたちが、彼らのテリトリーの境界を隔てて大地の草原や林のうえに立体的に吸着してひしめきあっている。彼らの巨大な身体の中を飛び回る働き蜂たちが中空に描く軌跡は、食物を運ぶ消化管や血管に似ている。巣をつくるハチ、巣を掃除するハチ、ひたすら卵を産みつづける女王蜂、といったコロニー内部での個々のハチの行動は、この巨大ないきものの恒常的な臓器の働きのようにみえてくる。。。テレビをみながら、なんとなくそんな空想にひたっていたのだが、なぜそんなイメージを思い浮かべたのかと考えてみたら、どうもその数日前に読んだ前野隆司氏の『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか』という本の影響のように思えてきた。この人間の意識について書かれた本の中で、著者は意識とは脳のニューラルネットワーク(神経回路網)が生みだした受動的(ボトムアップ的)な幻想である、という立場から、自ら「受動意識仮説」と呼ぶ考え方を披瀝している。

「私たち人間は、自分の意志で現在の自分の行方を選択し続けているように感じているが、本当は「何ものからも自由な意志」は虚構であり、意識とは、無意識のうちに自分のサブモジュールが決定した情報処理結果を追認し、あたかも自分がやったことであるかのように勘違いし続けているシステムであると考えるのである。」

「それぞれのニューラルネットワークを小びとに例えるとわかりやすい。脳の中にはたくさん小びとがいて、それぞれの小びとは役割分担をしている。形状知覚の小びとは、物の形を知覚する作業に専念する。色彩知覚の小びとは、ものの色を知覚する作業に専念する。ニューラルネットワークを小びとに例えると、ではその小びとは意識を持つのか、とか、小びとの脳の中はどうなっているのか、という方がおられるが、そのような意味ではない。もっと単純で、単一の作業に専念する機能の総体だと考えていただきたい。」(前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか』)

 というように、著者の説は、人間の自由意志や意識の主体性、という概念に否定的に踏み込んでいるところがあって、とても刺激的なのだが、そこでいわれているニューラルネットワークを構成する「小びとたち」と、その活動の結果として生み出される幻想(人間の意識)の関係が、分業化された個々のミツバチの活動と、その結果生じているシステム全体の維持、ということに、よく符合するように思えたのだ。もっとも、著者は、人間の意識とは、エピソード記憶(自分の記憶をエピソードとして記憶するもので、意味の記憶ではない)のために生じたとされていて、エピソード記憶をもたない昆虫(人間以外の生物)には意識の機能を認めていない。

「生まれつきエピソード記憶ができない生物種は、時間とともに展開する複雑な言語ではなく、「うれしい」とか「食べ物」といった単純な言語しか持たず、腹が減ったら食事をする、腹が立ったら喧嘩をするといった単純な行動をする生物でしかあり得ないであろう。誰が自分の親で、誰は自分の友達で、誰は自分を好きで誰は嫌い、といった意味は記憶できるものの、誰といつどこで何をした、という記憶はできないため、個体間の関係は複雑になり得ない。そのような行動は、昆虫のような反射(無意識の小びとたちの自律分散演算)と簡単な意味記憶さえあればできる。つまり、昆虫同様、意識の機能はなくてもよい。エピソード記憶をしないならば意識の機能はなくてもよい。」(同書 P66)

 ここでいわれていることは、エピソード記憶をもたない生物種についてのことなのだが、なんだか、めさきの情報に気をとられて、個人的なエピソード記憶の減退した現代人についていわれているようでおかしい。そういう冗談はともあれ、興味深いことに、ここでは昆虫の行動(反射)が、「無意識の小びとたちの自律分散演算」というように、脳のニューラルネットワークになぞらえられているのではある。

 もうひとつ番組で興味深かったことのひとつに、女王蜂の婚姻(生殖)の儀式ということがあった。ある集団で生まれ次世代の女王蜂になるべくロイヤルゼリーを与えられて育った複数の姉妹ハチの卵は、羽化して生まれてまもなく互いに殺し合いをして、一匹だけ生き残る。このハチが巣立ちする時期にあわせて、巣では色の黒い雄ハチが生まれ、ある日、空に舞いたったこの次世代女王蜂(まだ王女蜂といえばいいか)のあとに群がり、王女蜂は、空中で複数の雄ハチと交尾をおこなう。正確ではないが、だいたいそのような経過を番組で解説していたように思う。

 そのときの交尾が行われる場所というのが、複数のハチ集団のテリトリーの境界にあたる特定の場所の中空の高みにおいてであり、またこの王女蜂に交尾をせまる雄ハチたちは、複数のハチ集団からやってくるのだという。このしくみは、王女蜂が、異なる集団の雄ハチから多様な遺伝子情報を得るためだと、番組では解説されていたが、運良く交尾できた雄ハチはその行為とひきかえに(生殖器を露出するために体が割れてしまうので)死んでしまう、ということも含めて、なんともドラマチックな映像と解説ではあった。

 ここでいいたいのは、ハチたちの集合のいとなむシステムの身体性を、そのテリトリーにまで拡張して空想してみる、ということが、こうした婚姻の儀式が、複数の異なるハチのテリトリーとの境界での接触をつうじて行われる、ということでいくばくかの意味をもつようにも思えたからだ。生命の維持の目的が子孫をのこすことにあるとしたなら、まさにこの婚姻の儀式の成就のために、ハチたちの集団生活はあるといっていい。そのことを個々の「無意識の小びと」たちは知らない。とはいえ、どんなハチの個体にも遺伝子情報としては、その目的は書き込まれているということではあるだろう(あるハチの卵が女王蜂になるのは、ただロイヤルゼリーを与えられて育つかどうかによるだけだという)。傍らには、読み終えてまもない、もう一冊の本があった。

 
 「情報というのは生命が生きていくために必要なものであり、それゆえ生命情報が広義の情報なのですが、その大半をわれわれは認知できません。
 たとえば私の細胞のなかにはDNA遺伝情報がありますし、体内ではホルモンなどの代謝情報、そして脳のなかでは神経繊維がめぐっていますが、そのなかで私の意識にのぼってくるのはほんの一部です。また、身近にいる犬や猫が何を考えているのか、ゴキブリの雄と雌とがどんな恋愛をしているのか、これもよくわからない。生態系のなかには不可視の生命情報があふれているのです。」(西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』)
「犬や猫のなかにあるのは生命情報ですが、動物行動学者が彼らの行動を観察して論文を書くと、それは社会情報に転化します。本来この両者はまったく別ものであって、そこに人間(動物行動学者)という「観察者」が介在していることを忘れてはならない。このことは自分の体内の生命情報も同様です。私が腹痛をおぼえて医者に「どうもお腹がしくしくするんです」と訴えるとき、生命情報から社会情報への転化がおこなわれています。
 社会情報の代表は”言葉”です。」(同)


 著者のいう「生命情報」という概念は、とても興味深い。もっとも広義な情報として「生命情報」(生命が生きる上で「意味のある(識別できる)パターン」)を考えることで、私たちが生命として世界を認識していること(生命の側からしか認識できないこと)や、観察者とその対象の問題をうまく説明しているように思えるところがあるように思えるからだ(著者の論述は、もっとも狭義の情報として「機械情報」(IT機器のなかに記憶されている、変化することのない機械情報のようなもの)をあげ、その氾濫に警鐘をならす、という論旨のなかで語られている。詳しくは同書を。)。

 ミツバチの生態を放映したテレビ番組をみて、そこで紹介されていたミツバチの集団のいとなみが、あるコロニーを核としたテリトリー全体を透明な身体としているような巨大な細胞の活動ように思えた、というわたしの空想体験は、ここまできて、言葉にしえない不可視の生命情報の交換のドラマを、テレビのリアルな映像がかいまみせてくれた、ということのおまけのように、私にたちあらわれたのかもしれない、と、納得できそうな気がする(^^)。

 実際、この群れとしてのミツバチの生活には、その集団の維持のために個体の死を必然のように利用しているとしてしか思えないような、ドラマチックなところがある。このことも私たちの身体のなかで毎日生じている破骨細胞の活動をはじめとする細胞レベルでの生との死のドラマを連想させる。体細胞の死をわたしたちはふつう認識もせず、死とも呼ばないが、その死は一ヶ月の寿命で死んでいくという女王蜂以外のハチたちの、類のために運命づけられた死に、どこか似ているようにも思えるのだった。  




桑原万寿太郎『動物の本能』(1989年2月20日発行・岩波新書)
前野隆司『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか』(2007年9月1日発行・技術評論社)
西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』(2007年5月22日発行・岩波新書)

ミツバチの生態については、「あきた昆虫博物館」のサイト内のページミツバチの生態が詳しい。
ミツバチの画像はEyesPicのフリー画像素材を利用させていただきました。






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