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心の場所
           
----白井明大詩集『くさまくら』ノート



 以前白井さんの前詩集『心を縫う』についての感想を書いたとき、とくに根拠もあげずに感じたまま恋愛詩集と書いた。この詩集『くさまくら』では、その恋愛が成就したかのように、作品にしばしば登場する「ぼく」と「きみ」(「焦点距離」では「連れ」と呼ばれている)は、同じ屋根の下で共同生活をしている。背景となっている事情が直接説明されているわけではないのだが、前詩集を読んだ人は、この流れに恋愛から結婚にいたるひと組の男女のドラマを自然に想像することができるように思う。もちろん詩集『くさまくら』を味わうのに、そうした経緯の理解が必要というわけではない。帯には「男のひとと、女のひとのふつうのくらしから編まれるおいしい日本のことばをあじわえます」というセキユリヲ氏の言葉が書かれていて、現代の都会で暮らす若い男女の日常生活の情景のひとこまひとこまが、「ぼく」の視点から、平明な、しかしかなり工夫された言葉遣いできりとられている。


そでのなか


一人で日曜
のんで帰ってきて
みるときみが
ふつうにしている

テレビみてたのを
やめてこっちに来て
サラダやごはんを
よそってくれる
キムチ食べる?
、てもってきてくれる

なんか今日いいな
わりとしっかり動いている頭で
おもったすこしあとで
みせてあげようか
なんて
言ってる

気づかなかった
部屋の背にしていたほうの
壁のところに
紙袋がおいてあったのを

着がえてくるね

紺の襟もとに
ふたつよけいに
そでがリボンみたいに
巻きつけられてる
ブラウスだった
玄関入ってきてからの
なんかいいな な感じは
紙袋からもれていたのかと

あまってる
ふたつのそでに
手をつっこんで
きみの肩のうえにのせた


 一見、どこの家庭でおきたとしてもおかしくないような、ほほえましいエピソードをそのまま写し取ったような作品のように思える。冒頭、せっかくの日曜日だというのに、自分ひとりで酒をのんで帰宅したので、「きみ」は、ちょっと不機嫌になっているかもしれない。そう思っているので、作中の自分(この作品では明示されていないが、以下「ぼく」と呼ぶ)の目には、「きみ」が「ふつう」であることが、かえって意外なことに思われる(この「ふつう」という言葉遣いは面白い)。そればかりか、テレビを見るのをやめて、いそいそと食事の世話をしてくれるのをみていると、なぜか機嫌がいいようで、その雰囲気が「ぼく」に、今日は「いいな」と感じさせる。とおもっていると、後半で、そのちょっとした謎のような理由があかされる。「なんかいいな な感じ」の正体が、「きみ」が買ってあったブラウスをいれた紙袋のせいだった、というところで、それまでの、「いいな」の感じにまとわりついていた、かすかな、どうしたわけだろうという気がかりも霧散して、「ぼく」の気持ちはいっそう親密な充足感に満たされる。
 この作品は、今ふうの平易な言葉遣いで、さりげなく書かれているが、「きみ」という他者に対する「ぼく」の繊細な関係心理の動きや特徴がとてもよくとらえられているように思う。書き手には、共に暮らす相手にたいしての、ある種濃密な気遣いというものがあって、その気遣いゆえに生じる自分の感覚をそのまま表白しているところがある。帰宅して「ふつう」と感じたり、丁寧に世話を焼かれて「いいな」と感じたりした、ということは、「ぼく」のなかで生じたことで、相手には伝わっていない。その後で紙袋の存在に気がついた、ということも、「ぼく」の心の中で起きたことで、「きみ」にはこの気づきの順序によって生じた心の起伏は伝わっていない。「きみ」にとっては、この日はただ気に入ったブラウスが買えて嬉しかったので、機嫌がよくて、それを着て見せてくれた、というだけのことだったかもしれない。そうした「きみ」の上機嫌さにたいして、書き手(仮想の「ぼく」)は、沈黙の抱擁で応えている。「玄関入ってきてからの/なんかいいな な感じは/紙袋からもれていたのかと」感じたというのは、とても微妙な言い方だ。それは、紙袋の中のブラウスに、いってみれば「きみ」の喜びがのりうつって、そこからもれる幸福感のようなものが部屋の空気をかえていた(ように思えた)、というような感じかたをしめしている。これはこれまでいくつかの作品を読んできた限りで言うと、この作者に特徴的な感じかたのように思える。この作品では、たぶんそうした感じ方が、沈黙を呼び込んでいる、というように読めそうに思う。ある場所をみたしているように思われる空気感や雰囲気というもの、その微妙な言葉以前の体感を感受している心の場所から、作者はいつも詩の言葉をさしだそうとしているように思える。


くさまくら


くさまくら、このくさくさまくら、てこえが奥の部屋からきこえて
きて、綿がほこりをたてて畳に放られているような、そんな音がつ
づいてきて、だまったままでいるのがむつかしくなっていく。机の
うえのコンピューターのキーボードのうえに乗せてある指をとめて、
イスを少しだけ引いて、右ななめうしろをむいたら、いくつかの綿
がまた畳にぼそぼそされているようで、こえが小ごえでつたってく
る。はあぁなんでこん。ドアがあく音がして、部屋を出るあし音が
して、しん、てなる。そのまましばらくそうしていて、イスをもう
少し引いて、スリッパを鳴らさないようにそっちの部屋に入る。奥
にテレビがある。抽き出しがとなりに、ちゃぶ台がとなりのとなり
にある。かけぶとんが押し入れのなかで押しつめられて体育ずわり
させられているというままのかたちで部屋のまんなかの畳のうえに
ある。そのうえに毛布が、折りたたまれていたのがくずれたような
になってある。 枕はみあたらない。空気清浄機のスイッチをいれ
る。かけぶとんをゆっくりのばして、毛布のくせを直して、ふとん
をしく。毛布はかけぶとんのうえから、うちの家ではそうしている。
かける。空気清浄機のスイッチをとめたら音がやんで、部屋がしず
かになる。くさおゆ、このくさくさおゆ、くささら、このくさくさ
さら、てこえがしだいにきこえだして、やがて小ごえじゃぜんぜん
なくなって、くさずぼん、このくさくさずぼん。とどいてくるから、
一緒にいう、くさたおる、このくさくさたおる、くさかみ、このく
さくさかみ、くさしーでぃー、このくさくさしー......。いい重ねな
がら、でもぼくは気づいていない。くさおちゃを捨てられたしかえ
しに、くさびーるをきみが五〇〇ミリ缶二本ぶん流しに捨ててしま
っているのに。あと二本あるのを知っていて、そっちまではきみが
そうしないでいるのに。


 冒頭、隣室から「きみ」の呟くような声がもれてくる。それが「ぼく」にとってしだいに気にさわり「だまったままでいるのがむつかしくなっていく。」のは、その声の主の「きみ」と、ついさっき口論をしたばかりだったからだ。「きみ」のくすぶりつづけている不機嫌さが、布団にむかってやつあたりしているような物音と声の様子からうかがえる。「きみ」が隣室からキッチンに出ていったのを見計らって隣室に行ってみると、案の定、布団が敷きかけのまま部屋の中央におかしな格好で山積みになっている。「ぼく」が空気清浄機をかけて布団を敷きなおすと、キッチンからはまた「きみ」の声が届いてくる。だんだん大声にかわっていくその声に唱和するように「ぼく」も声をだしていってみる。。。
 短い散文詩の形のなかに、夫婦喧嘩のあとの味わいのあるエピソードが印象的に凝集されている。想像でいうと、最初、ささいないさかいがあったのがきっかけで、「きみ」と「ぼく」は別室にいる。隣室からは、「きみ」が布団を敷きながら、なにかやつあたりのことばを呟いているのがきこえる。まだ、ぶつぶついっているのか、と「ぼく」の内心の水圧もだんだんたかくなっていくが、「はあぁなんでこん」という歎息まじりの小声のつぶやきを残して、「きみ」がキッチンに行ってしまったあとのしばらくの静けさが、たかぶっていた「ぼく」の心に落ち着きをとりもどさせる。「ぼく」が「きみ」のでていった隣室にいって部屋の惨状を確認し、落ち着いて空気清浄機をかけて、布団を敷きなおすとき、気分はすでに平静にもどっている。空気清浄機の音や布団を敷き直す音はキッチンにも届いている筈で、それは「ぼく」の「きみ」に対する無言のパフォーマンス(和解の合図)になっている。ところが、布団を敷き終わったのを見計らったかのように「きみ」の声がまたきこえはじめる。ただこの声は、いわば事態の収束をもとめるような「きみ」の側からの和解の合図にかわっている。「ぼく」はそのことを察知して声の高まりに唱和するように声をあげる。これでめでたく一件落着となるはずだった。しかし、「きみ」は「ぼく」が布団を敷き直して和解の合図を送っていることに気がつくまえの、わずかな時間のあいだに、流しに二缶ぶんのビールをすててしまっていたのだった。という楽しげなおちがついて作品はおわっている。。
 よみやすい作品なので、ただ言葉遣いのおもしろさや寸劇のような臨場感を楽しめばいいのかもしれないが、この作品でも「場所」や気遣いということにひきつけてみると、作者の関心が部屋の空気感(雰囲気)の変化ということに向けられているように思えてくる。「きみ」の呟きが充満していた部屋(二人の寝室)に、「ぼく」が「空気清浄機」をかける、というのはとても象徴的だ。そのことでもたらされる新しい静謐が、隣室で聞き耳をたてていた「きみ」の応答をよびさます。次に続く唱和のシーンは、なきかわす虫の音を連想させるところがある。ものの名に「くさ」、「くさくさ」をつけて連呼するこの声は、ものの名の指示的な意味から離れて、それぞれの存在を主張しあいながら共鳴しあう単純な叫びのようになっていく。たぶんそういうレベルで生じた思いがけないような感動の質へのまなざし、ということが、この作品の核にあるのだと思う。
 以心伝心という言葉があるけれど、通俗的にいえば「言わなくてもわかる」ですんでいた時代から、現代では何事も「言わなくてはわからない」、という合理主義の時代になったとはいえよう。そういういみで、この作品も「言わなくてはわからない」時代に属している。ただある繊細な愛情をこめた「気遣い」が、言う必要がない、「言わなくても分かる」を実現している。


昼まの送信


メールを最近してないな
、ておもって
打った 昼ま

なんにも伝えなきゃいけないこと 、てない
、てじつは
しあわせなのかもしんない
なんて
おもえないで

あわてて

いまこうしてたよ
これからこうするとこだよ

打って送信

押す

たまにわがやは電波がとおくて
アンテナがへって

いまもで
送れなかったように
送信スタンバイの
マークが画面に浮かんでて

お湯がわいたやかんの揺れて
ガス台とぶつかる音がしてきて
カップに注ぎに
いくあいだに
送れてる

、てそう
たしかめたのは
食べたあとで
机にもどってみたら着信があって

開いたら返事がかえってきていた

もういちどあわてて
こんどは電波が近くまで来てて
すぐに送れる

こんなことを
なんにも
つたえることないから、てしないとか

なんて
そういうふうからかえってくるように
指を置いていく押していく

いまこうだよ、て
これからこうだよ、て

画面に文字を

安定しない電波に
まかして


 会社の昼休みに、とりたてて用事もないし、帰宅すればまた顔を合わせることができる相手と、携帯電話で交信する。これが人の関係性をめぐる時代の空気が「言わなくてもわかる」から、「言わなくてはわからない」ということに変わってしまったらしいことを、象徴するようなことなのだとしても、もうそうしたことは、たぶんそういう習慣をもたない者にも、特別奇異なことではなくなっている、とはいえそうに思う。この作品では、ふと特定の相手と交信したくなる時の微妙な気持ちの動きが、自然な内省をふくめてとらえかえされている。


なんにも伝えなきゃいけないこと 、てない
、てじつは
しあわせなのかもしんない
なんて
おもえないで


 なにも伝えたなければいけないことがないことが、実はしあわせだ、とは(よくいわれることだけれど)、とても思えないで、「あわてて」電話をしてしまう。といういいかたには、とても微妙なものがふくまれている。伝えなければならないこと、がない、ということ(のもたらす充足感が)が、幸せなのではなくて、自分の所在そのものをすぐに伝えられる、応えてもらえる、ということの(自在感の)ほうが、今の自分を充足させてくれる、なにかなのだ。今の自分がなにかの欠乏感や不安感にうながされている、というわけではない。というより、欠乏感や不安感があったとしても、たぶん意識のうえで別の理由におきかえられて、けして表層にあらわれない。行為そのものの中(「いまこうしてたよ/これからこうするとこだよ」という言葉をうちこむ所作のなかに)に変換されてしまう、というようなことなのかもしれない。


こんなことを
なんにも
つたえることないから、てしないとか

なんて
そういうふうからかえってくるように
指を置いていく押していく

 ここでも、こうした特定の用向きのない電話をかけるときに生じる、ある意識のさわりのような動きがよくとらえられているように思う。その行為が、ある伝えたいことがあって、電話をかける(そういう必要がないのだから電話をしない)、という社会常識的な回路の場所から、「かえってくるように」というふうに(空間的に)、とらえられているのが、とても味わいのあるところだと思う。それは言葉では作品にあるように「指を置いていく押していく」という所作そのものとして表現されるしかない「心の場所」なのかもしれないが、それが「かえってくる」という感覚をまとう(ある打ち消しにおいて成立する)、ということの意味を、とてもよくすくいあげているようにおもう。

 




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白井明大詩集『くさまくら』(2007年8月31日発行・花神社)






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